蛇足・あるいは午睡の後に

 初夏の午後。日増しに強くなる日差しが照らす住宅街に響く、ブレーキの金属音。立ち並ぶ一軒家のひとつの庭に自転車を停めた制服姿の女子高校生がひとり。セーラー服の襟をなびかせ、ひらりと飛び降りる。

 自転車の横をすり抜けざまに、篭から鞄とビニール袋を取り出す。鞄は右肩に、ビニール袋は左手に。それぞれ持ち替えながら、空いた右手でポケットから鍵を取り出した。

 鈍く光る鍵を孔に差し込み、回す。解錠された扉を押せば、少女の見慣れた玄関が出迎えた。予想通り土間に靴は並んでいない。両親はこの時間、家の裏手にある町医者で患者の対応にあたっている。両親が町医者を営む少女の家庭において、学校から帰った家に人気ひとけが無いのはごく当たり前のことだった。


 そう、人間の気配は。


「ただいま」

 迎える家族はいないはずなのに、帰宅の挨拶は自然と口を出る。母親が務めて家にいるように心がけてくれた小学生時代の名残か、寂しさからか。つらつらと考えながら、少女は靴を脱いで廊下に上がる。数メートル進み、キッチンへ続く扉の前で立ち止まった。左手の、スーパーのチェーン店のロゴが印刷された袋を軽く揺する。白いビニールから薄く透けるのは数種の野菜と肉、魚が数箱。目線の高さまで持ち上げた袋を見つめて軽く考え、少女はキッチンに鎮座する冷蔵庫の前へ足を進める。

 冷蔵室の扉を開き、中身を整理するついでに袋の中身を分別して置いていく。冷蔵室の扉を閉めるころに少女の手の中にあったのは、空になったビニール袋とよく冷えた一本の瓶。さる有名な酒蔵の作だという日本酒だ。袋は引き出しに入れ、食器棚から小さな御猪口おちょこを取り出す。肩に鞄を掛けたまま、両手にそれぞれ瓶と酒器を携えて。少女は踵を返し、キッチンを出て階段を上っていく。二階の廊下、階段から二つ目の扉。自室の前へ立った少女がドアノブに手をかけた、その瞬間。

 金属製のドアノブから肌に伝わる、不自然な冷気。

 ちらりと外に目をやれば、立夏という暦に恥じぬ強い日差し。昼下がりの烈日と対照的な、刺すように右の掌に染みる冷感。少女は瞼を閉じ、ひとつ溜め息を吐いて。かっと目を開き、一気に扉を押し開けた。


「遅かったな」

『人』の気配は無い筈の家の中、少女のベッドの上に胡坐をかく一人の男がいた。白い髪、白い肌、白い着流し、白い帯、白い手甲、白い足袋。白に包まれた男の色彩の中で、紅玉の色に光る赤い虹彩だけが際立っている。

 明らかに人間ではない、異形の存在。白蛇の化身が、其処にいた。


「言いたいことはたくさんありますが、人の寝床の上に座るのは止めてください」

 男に向かって放たれた少女の第一声は冷淡だった。男を中心に漂う冷気よりもなお冷たい、凍てつくような声音と視線で男を射抜く。

「……ふん。神に向けて指図とは、肝の据わった女よ。高座でなくて何処で私を迎えると?」

「床にでも座っててください。次ベッドに乗ったら蹴落とします」

「はっ、相変わらず不遜な口を利く」

 少女の視線を鼻で笑いつつも、男は大人しくずるりと床へ移る。着流しに胡座のまま移動する器用さは、蛇の本性故か。社の境内で彼に出会うときは羽織に袴姿なのだが、どういう風の吹き回しか少女の部屋に出没するときはこの着流し姿だ。腕を組んでそれを眺めていた少女の足元に、ふと纏わりつくものがあった。少女が下を向くと、紺のハイソックスに身を擦り付ける大蛇が一匹。優に一メートルを超えるであろう、胴に傷のあるアオダイショウが、まるで子犬のように少女の足へ戯れていた。鎌首をもたげ、墨汁のような黒い瞳が少女を見上げる。

「ちょっと待っててね」

 ベッドヘッドの陰、隠すように置かれた小型冷凍庫のもとへ向かい、中から小さな箱を取り出す。霜のおりた箱の中から取り出されたのは、ピンク色の塊が入った袋。親の目を盗んで通販で購入した、冷凍のピンクマウスだ。袋を手に、一度階下に戻る。専用のタッパーに移し替え、電子レンジで解凍した。

 解凍されたピンクマウスを手に、再度部屋へ入る。先ほどの胴に傷のある蛇以外にも、二、三匹の蛇が床にいた。蓋を外したタッパーを床に置いてやれば、すぐに蛇が群がる。餌を飲み込むさまをどこか愛おしげに見つめて、少女は思い出したように床に座る男の方へ向き直った。

「まだか」

「はいはい、ただいま」

 机の上に置きっぱなしだった日本酒の瓶を掴み、透明な酒を御猪口に注ぐ。ふわりと果物を思わせる薫りが溢れた。零さぬよう気をつけて酒器を持ち上げ、床に座る男に差し出す。

「どうぞ。今回のお供えです」

 受け取ろう。低い声で男が応え、御猪口を受け取って一息に飲み干す。酒か米、あるいは肉。男が少女の前に現れるたびに行われる、一種の儀式にも似た手順だった。もっとも少女から望んで供物を差し出しているわけではない。男がしつこく供物を要求するのに少女が折れたかたちだ。先ほどの酒も、少女の父親が飲むはずのものをこっそりと拝借するかたちになっている。今日は男の訪れを予見して酒を持ってきたが、無いときはスーパーで買ってきた適当な肉で済ませている。

 少女が男に酒や肉を差し出すのは、言うなればついで。真の意味で自主的に差し出しているのは、眷属として男に付き従う蛇たちへの餌だ。蛇たちに与える冷凍マウスも、それを保存する冷蔵庫も、少女がバイトで貯めた小遣いで購入したものだった。

 解凍された肉塊を飲み込み、蛇たちは床の上でとぐろを巻く。それを見つめる少女は、ふと男の不機嫌そうな目つきに気がついた。

「何か問題でも?」

「いや。……随分と、眷属を手懐けてくれるな」

「供物を差し出せと言ったのは貴方でしょう? もっとも、平成の現代に人身御供よろしく生贄を差し出す訳にはいきませんし。貴方が昔にしたように、あなたの眷属を傷つけた野良猫を襲ってまわられても困りますので、言われれば用意しますが」

 つれない少女の答えに、男はふんと鼻を鳴らす。

 男が伸ばした腕には、鱗状の模様をあしらったこれまた純白の手甲。蛇のうち一匹を指差す。自室に帰った少女を最初に迎えた、傷のある蛇だ。

「八年前。その蛇が獣に襲われたとき、助けたのはお前だ。お前が六年前の祭りの晩、私の神域に迷い込んだとき助命を乞うたのもその蛇。つくづく縁が深い」

 示された蛇を見つめる。その胴に浮かぶ白い傷跡は、猫に襲われてできた傷だ。八年前、野良猫の集団の中から少女が拾った蛇。

「確かに、私はこの子を助けました。野良猫に襲われてできた怪我が治るまでこの家で保護したのも事実です」

 そして、その翌々年の夏祭り。此岸と彼岸の境界が揺らぐ夜に迷い込んだ神社の境内、鎮守の森の奥深くにて。少女は目の前の男――やしろの主たる白蛇と邂逅した。

「貴方には、感謝しています。神域に立ち入り、二度と戻れなくなるどころかあの場で喰われていてもおかしくなかった私を、現世へ送り返してくださった」

「礼なら、それに言うがよい」

 少女がぽつりと呟けば、足元でとぐろを巻く蛇を再度示される。ぬしの言葉が通じているのか、蛇が少女の足に身をすり寄せる。

「確かに。帰り道まで案内してくれたのはあなただったね」

 しゃがみこみ、その蛇を撫でた。戯れるように腕に絡みついてきた躰を持ち上げてあやしてやれば、他の蛇達も少女の周りへ集まる。確か、ハンドリングといったか。個体にもよるが、アオダイショウは適切に接すれば懐く生き物だ。ましてや神が眷属として従える個体であれば、なおさら。一匹ずつ優しく撫でてやり、最後の一匹までかまってやった少女が顔を上げれば、更に不機嫌さを増した男の顔。

「嫉妬ですか?」

「はっ、馬鹿らしい」

 単刀直入に尋ねた答えは、瞬時に切って捨てられる。こてりと首を傾げた少女はそこでようやく、前から言ってやらねば気が済まなかったことを思い出した。

「貴方がどう思おうと勝手ですが……。そもそも何故、貴方が数週間前から私の部屋に出没するのですか! 供物なら定期的に神社まで持って行っているはずでしょう!」

「言っただろう。最近やしろに立ち入る人間が多く、居心地が悪い。神主に通ずるものらしく、喰ってやるわけにはいかん。だからお前のいるここに来た。それだけだ」

「ああ、確かにここ最近神社の修復工事が行われていますが……ってそうじゃなくて! どうして私なんですか! 神主でも巫女でもない、一介の女子高校生ですよ!」

「貴様とは縁がある。この家は社にも近い。なにより、私の眷属もお前を気に入っている」

 食ってかかった言葉をあっさりと返され、少女は荒い息をつく。忘れていた、この男はああ言えばこう言う神だ。数秒息を整えて、ようやく言葉を紡いだ。

「あのですね。仮にも神様がそんな理由で女子高校生の部屋に出現しないでください!最初に現れた時はよっぽど不審者として通報しようかと思いましたよ!」

「だが、貴様はそうしなかった。それは私を歓迎されるべき神と認めたからであろう?」

「うっ……」

 痛いところを突かれ、少女は再び押し黙る。

 確かに、自室に初めて白蛇の化身が出現したとき。驚きと同時に、この男をかつて出会った神だと認識していた。そして、複数回出現されるうちにすっかり慣れてしまったのか。気が付けばタイミングを予想できるようになった男の来訪に備え、供物をあらかじめ用意しているようになっていた。

 知らず知らず、非日常の神に絆されていた自分を認識して少女は黙り込む。純白の着流しを揺らして立ち上がり。男は宣言した。

「そういうわけだ。幸い、此処は人の域にしては居心地がいい。神棚が無いのは今はこらえてやる、しばらくはここに居てやろう。……貴様、精進すれば私の巫女にしてやらんこともないぞ」

 遠慮します。つか帰れ。そもそも人を喰うなんて物騒なことをしれっと口にするな。言いたいことを言い返す気力もないままに、少女は恨みがましい目線だけを向ける。何かを感じ取ったのか、周囲の蛇たちが嬉しそうに少女に身を擦り寄せた。



げんなりとしながらも、拒絶を示さない少女を見下ろして。小さく小さく、蛇神の薄い唇から言葉が漏れる。



「……いまだ思い出さぬか。魂の記憶を引き継げぬとは、つくづく人の身とは不自由なものよ」

「何か言いました?」

「いいや、何も?」

 嘲笑うかのように、或いは何かを楽しむかのように。口角を釣り上げた蛇の唇を、先端の割れた舌がちろりと舐めた。




 そうして。女子高校生と白蛇の化身の、奇妙な生活が始まる。


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神隠し 蛇隠し 百舌鳥 @Usurai0000

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