後編

『無礼者』


 目を固く瞑った私の前から聞こえる、冷たい冷たい声。氷柱のように固く鋭いそれは、男の足を止めるのに十分だった。

「…っ!どけ!」

 一瞬のためらいの直後、男が突進するのを感じる。おそらく、わたしを脅したあの刃物を構えて。逃げて、危ない。身の危険も忘れてそう叫ぼうとした瞬間、わたしの身体は宙に投げ出された。視界は闇に包まれたままだが、風を切る音と落下する感覚だけははっきりと分かった。やって来るであろう衝撃を予期して、無駄だと分かりながらもう一度目をつぶる。


 しゅるり。


 地を這うような、冷たいものに受け止められた感触。次いで、身体が持ち上げられる。

 恐る恐る目を開けると、爛々と光る真紅の瞳がふたつ。雪のような白い髪。同じく色白の、ぞっとするほど整った顔。赤い眼を持つひとの形が、わたしを抱いて立っていた。到底ひとのものでは有り得ない、異形の瞳はわたしを見ていない。わたしの先、地面を向いている。恐る恐る瞳を動かすが、相変わらずの濃い闇に閉ざされていて何も見えない。わたしを落とさないようにと言うよりも、逃がさないと締め付けるかのように。わたしを抱きあげる腕に力がこもる。

『穢土との境界が揺らぐ神事の日に、神域を土足で穢す人間風情が。しかも刃物まで持ち込むとは、死を持って償うに有り余る大罪よ。……小娘。貴様も、あれの仲間か』

 言っていることは分からないが、肌で感じ取れることがあった。

 自分の指先も見えない程の圧倒的な暗闇の中、はっきりと姿を視認できるこの存在は、人間じゃない。そして、赤い瞳の向いていた方向に感じる気配。地に転がっている男はもう、事切れている。

 客観的に見れば、先ほどとは比べ物にならないほど危険な状況なのだろう。底冷えするような声音も、目つきも酷く恐ろしい。恐ろしい、はずなのに。何故か、このひとの腕の中にいることを。わたしは怖いとは思わなかった。

『一口に呑んでしまおうか。それとも肉を裂いて血を啜ろうか。贄を喰らうのも久方ぶりよ、さて如何にして味わおう』

 わたしを抱き上げたまま。髪も肌も、服すらも白に包んだ男は冷たい冷たい声でわらう。口が裂けるかの様にぱっくりと開き、細長い舌が青白い唇をなめた。抱きすくめられたわたしの身体から、みしりという音。

 ああ、食べられるんだな、わたし。まあ、それもいいか。きっと恐怖は麻痺してしまったのだろう。意識のどこかでそう思いながら、わたしは顔を上げた。わたしの瞳と、男の赤い瞳がぶつかる。


──その瞬間。異形の深紅が大きく見開かれ、揺らいだ気がした。


『何故、お前が………』

 わたしではない誰かへの言葉。直感的にそう思った。

ふと、男の顔が脇へと向く。何事か、地面の方へ注意を向けている。男の白いあごが小さく頷くとふわりとした動きで地面に降ろされた。裸足が冷たい地面を踏む。もう片方の下駄も、知らぬ間に落としてしまったらしい。

 自分の両足で立つのが久しぶりのように感じながら、わたしは男と向き合う。改めて全身を見ると、ずいぶんと古めかしい格好をしていた。近寄りがたい純白で統一された和装。和装だが、祭りで若い男性が着ていたような浴衣とは違う。テレビの時代劇で見るような、羽織にはかま。白一色の中で、目だけがらんらんと赤く光っていた。

『……私の眷属が。忌まわしい獣等の爪牙から、貴様に救われた、と』

 気付けば地面に下ろされた私の隣には、一匹の大蛇がいた。胴に残る、引き攣れたような白い傷跡。最後に見た時よりも一回り二回り大きくなっているが、見間違えようがない。わたしが拾ったあの子だ。

 その蛇は、しゅるしゅるとわたしの足元にすり寄ってくる。懐いた犬が甘えるように、目の前の白装束に赤い眼の男とわたしの間に割って入るように。

『……ふん。ならば、良い。さっさと行け』

 蛇の挙動に、男は完全に私を食べる気を失ったらしい。手甲――というのだろうか。時代劇の中でしか見たことのなかった、手袋のような布で覆われた指で背後を指す。

 振り返ると、背後には不自然に浮かぶ赤い提灯の群れ。いつの間に出現したのだろうか。祭りを照らしていた提灯のように紐に吊り下げられているようには見えず、ふわふわと空中に浮かんでいる。妖しげに光る提灯が照らす道の先、見上げるほどに巨大な鳥居がそびえていた。

 わたしの右足、裸足に絡みつくようにとぐろを巻いていた蛇が、鳥居の方へ這っていく。数メートル進んだところで、わたしを案内するかのように頭をもたげてこちらを振り返る。


『どうした。早く立ち去れ』

 わたしが迷っていると、男が催促してきた。一瞬、ためらって。覚悟を決めて、くるりと向き直る。

「あ、あの、神様っ…助けていただき、有難うございました!」

 ぺこりと深く頭を下げて。鳥居の先、光の導く方へと駆け出す。



「……嗚呼。やはり、お前は……」

 鳥居を抜ける瞬間。真後ろで、何か巨大なものが這いずるような音がした。



 あの後。わたしは、れいちゃんに呼ばれて必死でわたしを捜索していた警察官の一人に、神社の本堂で発見された。本堂の入り口にはわたしの下駄が綺麗に揃えられており、それを見つけて踏み込んだ警官が傷ひとつなく眠っているわたしを見つけたのだという。そして、鎮守の森の中では。ここ最近の不審者情報と特徴が一致する男が倒れていた。死因は心臓発作だと、噂に聞いた。わたしがそれを偶然耳にしたのは、念のためと運ばれた病院でのこと。噂になった原因は、女の子を誘拐したとされる不審者が死体で発見されたことと、もう一つ。その死に顔は、とてつもなく恐ろしいものに睨まれたかのように恐怖に凍り付いていたという。


「ねえママ。あの小さな神社、誰がいらっしゃるの?」

 病室のベッドで、発見以来ずっと寄り添っていてくれたという母に問いかけてみる。

「さあねぇ。この街にずっと住んでるおばあちゃんからは、白蛇の神様をお祀りしていると聞いてるわ。ひょっとしたら千草が無事だったのも、神様が護ってくださったのかもね」

 母の答えに、ああ、やっぱりかと思う。そのまま布団から右手を引き抜き、ずっと握っていた指を開いた。

 掌にあるのは、わたしの手のひら程もある、一枚の大きな純白の鱗。意識を取り戻した後、発見当時に握りしめていたと看護師さんから渡されたもの。



 きっと、母が思ってるような優しい神様じゃないけれど。むしろ自分に仇なす人間に対してはどこまでも厳しいし、仲間を傷つけた野良猫にも容赦しなかったのだろうけど。



 また、会えるといいな。

 掌中できらりと光を反射する白鱗に、そっと願いを込めた。



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