黒い腕 前編 -⑽

 並木道が寂しく広がっている。

 空の青さが忌むべき虚しさを象る皮肉として絵になっていた。白い雲が千切れ漂う風に意味性の乏しい日常が違和感として後味の悪さを残す。通り過ぎる子供たちの無邪気な声が心の隙間へと沁み込んで在りもしない傷が疼いた。調子が悪いだとか、気分が優れないだとか、そんな生易しい心境には到底及ばない。

 これは怒りだ。中身のない怒り───藤宮景はそう得心した。

 気に食わなかった。何もかも気に入らなかった。何も思い出せなった自分。忘れてしまった自分。なのに、今をのうのうと生きている自分───殴りつけたいほどに心底気に入らなかった。

 自販機を叩き、冷たいコーヒーを買うと彼はベンチに腰を下ろした。時刻は十五時を過ぎている。徒歩一時間も掛からない道のりこそ、彼が進むべき帰路であったが、彼の中に居着いたもどかしいだけの苛立ちがそれを許さなかった。

 あらゆる情景が張りぼてのように彼の目に映った。空も、街も、人も───虚構まやかしだらけの世界に佇む記号が群れを成しているように見える。視覚や聴覚に訴えかける普遍性を帯びた記号。それらは絶えず景に囁きを残した。思い出せ、忘れるな、と。


「思い出せねぇ……」


 頭を抱えても変化は起こらない。首を傾げて悩んでも答えは闇の中だった。

 ここは昨晩、彼が寝落ちしたアーカムファミリー公園の端っこに追いやられた喫煙スペースであった。記憶を、大切な思い出を失ったというのなら、前後の記憶がままならないこの場所が起点のはずだ。必ず何か手掛かりが残されているのではないか。

 ここが最後の砦だった。頼みの綱だった。これ以上の手掛かりは景の考える限りは絞り出せない。

 頼む。思い出せ。思い出してくれ。

 期待は虚しく空を切った。何の閃きも一向に起こらず、手掛かりなんてものも見当たらない。簡素な微風だけが彼のぽっかりと空いた胸を横切った。


「…………」


 缶コーヒーの蓋を開ける。

 ほろ苦いカフェインを喉に流し込みながら、琴吹射鳥から譲ってもらった都市伝説の噂に関する分厚いファイルに目を通す。〝黄金の瞳をもつ魔女〟や〝無名の教団〟にまつわる噂話をまとめ、噂の立証を裏付ける情報の詳細と持論を含んだ根拠などを整理して作られた資料は抵脳を自負する景にもすんなりと頭に入ってきやすい丁寧な作りをしていた。射鳥はレポートなどの書類作成にかなり自信のあったようで、この資料を受け取った際も「猿でもわかるもの」と断言していた。猿と同列に扱われたような気がしたが、この際そのへんは目を瞑ろう。

 もちろん、この資料は無料タダで貰ったわけではない。譲ってくれと懇願したら、取引を持ちかけられた。


「───この資料は部員の皆さんと寝る間も惜しんで作り上げたものです。それを出会ったばかりの転校生に譲るというのは……副部長である私の一存では決め兼ねます」


「そうか。そうだよな……」


「ですが、この琴吹射鳥、藤宮さんの熱意に胸打たれました。ある条件を呑んでくださると言うのなら、オカ研副部長の名において、これをコピーしたものを藤宮さんにお譲りしましょう」


「本当か⁉︎」


「ええ。ここにサインするだけで構いませんよ」


 そう小悪魔的な笑みを浮かべた少女の手元には、ボールペンと入部届と書かれた用紙があった。


「先程申し上げた通り、ウチは部員が少なく、廃部の危機を迎えているんです。部活の存続のためなら、この貴重なデータをお譲りすることは他の部員の方も納得せざるを得ないでしょう。

 どうでしょうか、藤宮さん。我々オカ研の同志に名を連ね───」


「これでいいのか」


 射鳥が話し終えるよりも先に、景は入部届に必要事項を書き終えてしまった。

 あれだけ嫌がっていたのに。拒絶していたのに。

 オカルト研究会への入部を認めたオカルト嫌いの景は堂々とした態度でペンを置いた。腹なら括ったという顔だった。やむを得まいという顔だった。

 取引を持ちかけた本人である射鳥は唖然とする。こうもあっさり行くとは予想していなかった。もう少し悩んだり、葛藤したり、色々と考えてたりするものだと思い込んでいたのに、この少年は迷いも躊躇もなく、高校生活において極めて重要な役割を担う部活動の選択を終わらせてしまったのだ、たかだか学生が集めた噂のまとめのためだけに。


「入部していただける意志を確認した今、わざわざ聞くことではないのでしょうけど、どうして藤宮さんは〝黄金の瞳をもつ魔女〟にそこまでの関心をお持ちに?」


 射鳥はそう聞いた。


「それがさ、俺にもよくわかねぇんだ」


 景はそう返した。


「だから、その理由を知りたい」


 多分、今はそれだけ。


「知らなきゃいけねぇ気がするんだ」


 そうだ。知らねばならない。

 空き缶をゴミ箱に投げ捨てる。

 ふぅ、と息を吐き出し、昼下がりの公園で藤宮景は細かい活字に目を通す。彼の中で文字を読むという行為は好むものではなく、寧ろ苦手な部類であった。新聞も本も読まない怠惰な生活を送ってきた。学校教育の一環で読書をする時間を設けられた際はほぼ居眠りをしていた。

 なので、そこそこの厚みのあるこの資料を読むのが既に辛いし、時間も掛かる。必要のない情報を読み飛ばしたとしても、自分が知りたいことすら解らない現状であるため、読み飛ばすという行為もかなり無駄と感じる。

 景は熟読をやめ、パラパラと素早く資料を見ることにした。読むのではない。見るのだ。B5用紙一面の文字から、彼の目が無意識に吸い込まれるものをピックアップして、そこだけを読んだ。


「魔女、無名の教団、黄金の瞳、黒い腕……」


 ぶつぶつと呟きながら資料を読み進める。


「三ヶ月前───黒い腕の魔女。同時に連続猟奇殺人事件が起こる。バラバラになった死体や焼け焦げた死体、溶かされた死体などの様々な形で死体が見つかる。中には、道路で溺れ死んだ死体や辺りに何もない空き地で数百メートルからの落下死したものなど、普通有り得ない死に方をした死体もあった。犯人は未だ捕まらず。被害者の身元は誰一人として判別できず。───そういや、これニュースで見たことあんな」


 三ヶ月前───まだ藤宮景が殺人の罪を問われていなかった時。

 世間を賑わせていた連続猟奇殺人事件は確かに赤無市でのものだった。十日間、毎日一人。つまり被害者は十人───発見された死体がどれも悪意に満ちた残虐な状態であったため、メディアは連続猟奇殺人事件と呼び、民衆に恐怖と興味を煽った。手の込んだことに死体は多種多様な死に方をしていたらしく、それこそ発見された死体の形が被ることは無かったという。

 斬られ、燃やされ、溶かされ、凍らされ、溺れさせられ、突き落とされ、捻られ、埋められ、爆ぜられ、空けられ───死んでいった。

 ニュースでは、複数人での犯行や模造犯の仕業など様々な憶測が飛び交っていたが、ついに犯人は見つからなかった。警察の力不足が露呈し、市民からの糾弾の声が上がったが、それもすぐに止んでしまった。

 理由は単純だった。被害者の身元が───十人もいるのに───誰一人として分からなかったからだ。無残な死を遂げた十人の仇を取ろうと言う人間が出るに出れず、どこの誰かも分からぬ悲惨な死体に同情の声を囁くしかなかった。本来なら被害者の親族が声を上げるべきところが、その親族が見当たらなかった。

 つまり、連続猟奇殺人事件は犯人の尻尾どころか、被害者の顔すら掴めず、そのまま闇に葬られてしまったのだ。

 これが三ヶ月前───〝黒い腕の魔女〟の噂と同時期。


「魔女と殺人事件が関係してる? ……ああ、そうか。色んな死に方してるんだ。魔法でも使って殺したんだと思ったから『魔女』なのか」


 景は一人で納得した。

 三ヶ月前の噂───〝黒い腕の魔女〟のその容姿には、魔女と見受けられる特徴や部位が無い。少女の身体を借りた単なる化け物が〝黒い腕の魔女〟の噂だった。魔女としてのアイデンティティたるトンガリ帽子は三ヶ月後に出現した噂の〝黄金の瞳をもつ魔女〟が初めて手にした特徴であり、旧式の〝黒い腕の魔女〟にはそれが無い。だが、彼女は「魔女」と名付けられ、少なからず認知された。

 考えてみれば不思議な話だが、流石はオカルトマニアが作成した資料、その辺りも推測できるように細やかに作られている。

 理由は、同時期に起こった猟奇殺人事件とのこじ付けだったのだろう。道徳に反した不可解な死体が連続で発見され、犯人も被害者もわからず、本当に人間の仕業なのかさえ判断し兼ねる事件に警察が頭を悩ませていることはメディアを通じて誰もが知っていた。

 犯人は一体、何者なんだろう。恐怖と期待が入り混じった感情を御せぬまま、大衆は何の根拠も得られないまま、一人の犯人を虚構として作り上げた。

 それが〝黒い腕の魔女〟───。

 その頃に化け物じみた少女の噂があり、時期の偶然性から彼女は猟奇殺人事件の真犯人の「魔女」として祭り上げられた。魔法で何でもできて、火を起こし、水を操り、風を吹かせる万能な凶器を得た極悪非道の「魔女」として、彼女は彼女自身が知らない内に魔女という肩書きを与えられた。迷惑な話だが、所詮は噂というもの。それに〝黒い腕の魔女〟を連続猟奇殺人事件の真犯人に似たてようとするのは分からない話ではない。彼女の噂と事件発生の時期は巡り合わせたかのように一致していた。


「でも、結局は〝黒い腕の魔女〟はそんなに流行らなかった。連続猟奇殺人事件の犯人に〝無名の教団〟の名前がまことしやかに囁かれるようになったから、か」


 〝無名の教団〟───赤無市でその名を知らぬ者はいない。だが、誰もその正体を知らない仮面のカルト教団。

 連続猟奇殺人事件で、彼ら〝無名の教団〟らしき人影を見たという噂が立ち始める。そして、警察も彼らの動向について調査を開始したという噂も相まって、赤無市の中では〝無名の教団〟の仕業だという声が一際目立つようになった。

 十人にも及ぶ被害者を出した連続猟奇殺人事件。

 その容疑者こそ、謎に包まれた宗教団体。

 警察は〝無名の教団〟なる集団が事件に何らかの形で関係しているとして捜査を行っていたらしい。存在だけが独り歩きして、その実態は誰にもわからないカルト集団を───実在するのかしないのかもわからない宗教団体を警察は長らく追っていた。だが、教団の目撃情報があったという噂はあれど、事件の核心に迫るやうな手掛かりを掴めず、八方塞がりが続いた。

 そうして、最後の犠牲者―――十人目が発見されて約一ヶ月。捜査は中断された。

 結局は何もわからなかった。

 犯人の動向も、猟奇的な殺害の方法も、被害者の身元も、容疑者になり得た〝無名の教団〟も、何もかもがわからないままだった。やがて、事件は過去のものとして人々の記憶の中で風化していく。何一つとして解決できていないまま、で。

 そういう打ち切り気味な終わり方を三ヶ月前の連続猟奇殺人事件はしている。


「その殺人事件の熱りが冷めて三ヶ月、いや、捜査が完全に中止されてからだと二ヵ月後か───〝黄金の瞳をもつ魔女〟が現れる」


 そう、現れたのだ。

 世間を騒がした連続猟奇殺人事件から三ヶ月というインターバルを挟んで、彼女は新たな姿で、人の目に止まるような格好で、噂となって赤無市を穏便に賑わせてた。当時、殺人事件の真犯人として、僅かながらも支持を集めていた魔女が帰ってきたのだ。これが現在いまから一週間ほど前の話。当時のオカルト関連の掲示板はそこそこ盛り上がったが、魔女の姿が大きく異なっているという噂から、その名をいつしか〝黄金の瞳をもつ魔女〟に統一されるようになった。

 そして、問題の三日間―――〝黄金の瞳をもつ魔女〟の目撃情報が頻出する。

 出現場所に規則性はない。強いて言うなら、目撃されたとされる場所を点と点で結んで行くと、赤無市の街を東区から西区へ横断しているような道筋ができる。ただ、それを理解した上で魔女に会おうとする物好きは悉く空回ったという。

 ―――待ち伏せを仕掛けても、気付けばその場から足を退いていた。

 と、言うコメントが「あーかむチャンネル」の掲示板で多数見受けられた。

 魔女に会いたいという声が上がるほど〝黄金の瞳をもつ魔女〟が人気を博したのは、魔女が悪意あるものではなく、誰も〝黒い腕の魔女〟など忘れてしまったように、親しみのある女の子という印象が多くの人々の中に生まれ、もしかしたら魔女のコスプレをした単なる女の子かもしれない、といった甘い考えが広まったからである。

 謂わば、噂の魔女と出会えれば、誰であれ都市伝説の真相の究明が可能であるということが多くの人を惹きつけたのだろう。

 特に何をするわけでもなく、何の害があるわけでもない。

 ただ不思議な恰好をしていて、不思議な雰囲気をしている。

 一見売れないはず都市伝説である〝黄金の瞳をもつ魔女〟であったが、それ以前の凶悪な〝黒い腕の魔女〟の噂を知っていた者たちの支援もあってか、魔女の存在は多くの人々の耳に入っていった。―――だからこそ、認知度が高い都市伝説だからこそ、解明できるなら解明してみたい。そんな心境がまた〝黄金の瞳をもつ魔女〟の噂を肥大化させてしまったのだろう。


 彼女は何の害もない、もしかしたらただの家出娘で、〝黒い腕の魔女〟とは一切関係ない潔白の少女かもしれないのに。


 そのページはそう締め括られていた。

 渋い表情のまま固まっていた景は射鳥の会話を思い出した。


「―――実際、〝黄金の瞳をもつ魔女〟は人畜無害の都市伝説として認知されているんですよね。明らかに有害な〝黒い腕の魔女〟が同じものとしているにもかかわらず、挙句の果てには幸運の女神なんて噂まで出てくる始末。みなさん―――というか、水淵ウチの生徒なんか特にそう。まあ、仕方ないんですけどねぇ、これは」


「ん? 〝黒い腕の魔女〟はバケモノだったんだろ。一緒にされてる〝黄金の瞳をもつ魔女〟の方もヤベェもんって思われるんじゃないのかよ普通」


「その考えは間違ってはいないですよ、藤宮さん。ただ、黒い腕の方は知名度が低かったんです。黄金の目の方を知っていて、黒い腕の方を知らない人がほとんどなんです。あ、ソースはあります。ここの資料ですね。両方知ってる人の割合は……なんと二割。そのうち一割は名前だけ。マイナーなんですよ〝黒い腕の魔女〟は。

 だから、黄金の瞳の方の噂が現れたときって、あんまり盛り上がらなかったんです。でも、黒い腕の方を覚えていた一割の人たちは「ああ、あの魔女ね」ってみーんな思って、期待して、でも、しばらくして違うと感じてしまったんです」


「へ? 同じじゃねぇのか」


「私は同じだと思いますよ。ただ、そういう意見が、〝黒い腕の魔女〟の噂を知っている人たちがそう結論してしまったんです。

 実を言うと、〝黄金の瞳をもつ魔女〟と〝黒い腕の魔女〟の共通点って、かなり少ないんですよ。まず、少女であること。そして、金色の目をしていること。隻眼のね。これだけです。ええ。数で言えば少ないんです。でも、金色の隻眼ってインパクトあり過ぎますし、これだけで二つの噂が元は同じである証拠になってしまうわけで、私を含めて〝黒い腕の魔女〟を覚えている人間はもれなく〝黄金の瞳をもつ魔女〟をあの時の噂の続きなんだと思ったわけです。

 で、その意見がひっくり返った。こればっかりは仕方ないんです。三ヶ月前の連続猟奇殺人事件が起きて、照らし合わせたように現れた恐ろしい魔女―――そりゃ、犯人こいつじゃね? って思いますよ。興奮しますよ。みんなが魔女の仕業だとして、でも、やっぱり空回ってしまった。藤宮さん、ただの怪談話のように聞こえる〝黒い腕の魔女〟が噂として囁かれたのは同時期に起こった連続猟奇殺人事件のせいなんです。実にタイムリーでした。魔女と事件を繋げたから噂になったんですよアレ。だから、黒い腕の方を覚えている人はみーんなまだ心のどこかで魔女が犯人だと思ってるんです。だって、あの事件、なんにも解決していないのですから」


「……つまり、黒い腕の方は三ヶ月前の事件ありきの存在だったのか。ふぅん。少数とはいえ、黄金の瞳の方が噂になったときはそれなりに盛り上がったりしたのか」


「ええ。でも、すぐに冷めました。だって、〝黄金の瞳をもつ魔女〟はんです」


「……あー、そっか。黒い腕の奴はヤベェ殺人犯で、事件を起こしたんだから、黄金の目の奴もなんか事件起こすんじゃねぇかって、思ってたのか」


「その通りです。だから、〝黒い腕の魔女〟を知っている人たちは何の事件も起こさない〝黄金の瞳をもつ魔女〟を同じものとは思いたくなかったんです。結果、知っている一割の人が手を引いたため、古い方の魔女はただでさえ薄いのに薄れていったんですよね。

 で、残ったものは人畜無害な〝黄金の瞳をもつ魔女〟だけだった」


「はーん。わざわざ黒い腕の方の噂を流す奴がいなくなったのか。噂って怖ぇな」


「ええ。怖いです。おかげで私は授業をサボタージュです」


「関係ねぇだろそれ」


「ありますよ。藤宮さん、忘れましたか? 今朝のニュース。放火事件。そして、〝黄金の瞳をもつ魔女〟と〝無名の教団〟の目撃情報―――これって、三ヶ月前と条件が一致してしまっているんです。さっき話した〝黒い腕の魔女〟を知っている一割の人たちが生き返ったみたいに嬉々として噂を拡散させています。手がつけられないレベルで、ね。

 おかげさまで〝黄金の瞳をもつ魔女〟はもう一概に人畜無害とは言い難い存在になってしまいました。たった数時間も経たない内に無害と思われていた噂は恐ろしいバケモノの───もしかしたら十人も殺した───そんな化け物の噂として覆ってしまいました。残念ながらこのグラフも過去のものになりました。今〝黒い腕の魔女〟の噂を知っている人は、私の予想だと五割は超えたのではないでしょうか。

 ええ。三ヶ月前とほとんど同じ状況が揃うだなんて、とんでもない偶然です。でも、偶然とは言い切れません。必然の可能性。私たちは常にそれを考えます。それを考えた結果、魔女は確かに魔女だったんですよ」


 ―――と、熱弁していた。

 景は最後までそれは授業を怠ける理由にはならないのではと考えていたが言うのも憚れるほど、その時の琴吹射鳥は熱に浮かされていた。十代乙女らしからぬ鼻息が遺憾なく吹かれていたくらいに。

 確かに噂を好むものからすれば、三ヶ月前の未解決の事件と同じように、得体の知れないパーツが散らばって、そこに噂の「魔女」が立っていたとすれば、それはそそられるものなのだろう。あとは十人ほどの遺体があれば、事件の再現であると射鳥は口にしていた。なんとも穏やかではない発言だった。


「ハンバーガーショップの放火事件……関係あんのかこれ」


 だが、景は訝しい思いを捨てられなかった。

 そもそも噂とは鵜呑みにすべき情報ではない。その一帯で如何に複数の証言があったとして、誰かが口にした最初の嘘に弁上しただけかもしれない。顔も知らない他人が流した噂を何でもかんでも受け止めていてはキリがない。

 とはいえ、真実と嘘を見極めるすべなど、頭脳に乏しい景が持っているわけでもなく、彼も噂に振り回されるだけの有象無象の一部に過ぎないのだ。

 噂の魔女を見かけたと聞いたら、見かけたと思うしかない。でも、それは確実な情報とは言えないことを頭の隅に置いておかなければならない。


「メンドくせぇなオイ」


 疑い続ける行為に嫌気が差す。


「魔女。魔女か……」


 結局、情報を整理しても、赤無市へ引っ越してきたばかりの新参がやっと時代に追いついただけに過ぎなかった。魔女の噂とは、なんだったのか。それを概ね理解したまでだ。彼が欲した違和感の正体とは程遠い。

 無駄だった。そんな思いが湧き立つ。

 噂の魔女を調べていけば、何か一つでも記憶に引っかかるかもしれない。そのような浅い考えをしていた景は苦渋の表情を隠せずにいた。何もかもが彼の記憶に形のない衝撃をズルズルと残していく。

 苛立ち───嫌というほど纏わりつく。

 唾でも吐き捨てたい衝動を抑えた景は半ば無意識の内に乾いた手が煙草の箱へと伸びていることに気付き、そのまま左手をポケットの奥に突っ込ませた。制服姿のままで煙草を咥えたら警察に通報されかねない。煙草にすら逃げられない現状に失笑を含んだ溜息を衝く。


(……何を意地になってんだ俺は。はっきりとしないテメェの記憶に腹立てて、知ってる気がするってだけで都市伝説なんかを躍起になって探して、なーんも成果も得られちゃいない)


 今度は重たい溜め息が出た。


「何やってんだろ、俺」


 風。春を終えた虚しい微風。地上の喧騒と空の静寂。人が生きる普遍の世界が広がっている。笑いながら走り回る子供たち。クレープの屋台に並ぶカップル。ベンチに座って一息つく杖をついた老人。平穏という世界が煌びやかな光を纏い、眩しい光景となって目に映る。

 こんな風景は嫌いじゃない。だが、それを愛せる自信は今の彼にはなかった。

 はしゃぎ回る子供の手をしっかりと握って並木道を歩く親子を何となく目で追った。今日は何があって、何を学んだかと楽しそうに高い声で語る子供に耳を傾ける親はどこか幸せそうな表情をしていた。その手は固く繋がれて、離さないように握られていた。

 景はふと自分の掌を眺めた。右手。気に入らない人間を殴り続けてきた武骨な手。壊すことしか知らない分厚くて骨ばった手。

 この手は何を握っていたのだろう。

 何を手放したのだろう。


「……離しちゃならねぇもんだった気がする」


 もう思い出せねぇけど。

 自嘲気味に笑う。笑った。笑うしかなかった。

 そうして、何となく目を前に向ける。風情に重きを置いた石道にぽつんと佇む街灯。その奥に小さな林。―――視線。黄金の視線。

 虚しくて、悲しくて、声にすらならない悲鳴を抱えて。

 彼女は帰ることを拒んだ―――。

 そんな情景が光速めいた一瞬で脳裏を過った。

 脳髄に稲妻が走ったような感覚に支配される。何か重要な手掛かりに触れた気がする。なんだ。なんなんだ。喉をゴクリと鳴らした。滲む汗と震える肩。虚しさを模った空気を掴んだはずの左手を恐る恐るポケットから引きずり出す。何かを握り締めていた。何か大事な物を。


「煙草……」


 掴んでいたジッポライターを眺める。

 着火して、蓋を閉じる。何度も、気が済むまで。

 脳裏に訴えかけてくる焦燥。失われた記憶を揺さぶる衝撃がこのライターに刻まれているのかもしれない。なんだ。それは一体なんなんだ。それはどうして俺をここまで苛立たせる? 俺はどうしてここまで思い出したいと意地になっているんだ?

 ライターを握り締めて景は祈るように呟いた。


「思い出せ、藤宮景。おまえはこの手で何を握っていやがった」


 もういいだろう。悩んで考えてばかりでは性に合わない。意味も解らぬような煮え切らないわだかまりとはここで決別せねばならない。うじうじ考えるのもいい加減に飽きた。我慢の限界だ。如何なる形であれ苛立ちは怒りへ返り咲くべきだ。火種があるなら燃え盛れ。雨が降るなら雷を落とせ。度し難い怒りがあるなら気が済むまで暴れ散らせ。

 それが藤宮景という大馬鹿者の生き様ならば───。

 苛立ちは怒りだ。その怒りの根源が、何に怒りの矛先を浴びせていたか、それを見失ったことに由来する現状ならば、今こそ真の怒りを取り返さなければいけない。

 停滞するな。突き進め。おまえの怒りは誰に向けている?

 少年は徐に瞳を閉じた。胸の奥底に眠る自分自身へ語り掛けるように失われた記憶を追跡する。朧げだった記憶の断片が脳裏にうっすらと浮かび上がる。鮮明ではない。認識すらままならない。だが、記憶はそこにあった。そこにある気がした。


 ―――呼んでいた。呼んでいるはずだ。


 苦痛。吐き気のする耐えがたい痛み。

 狂ったような頭痛が思考を滅茶苦茶にする。彼が不確かなソレを思い出そうとすると反発するように脳が焼かれている激痛を味わった。拒絶。否定。悪意に満ちた激しい痛みが精神を揺さぶる。だが、それに勝る沸々とした憤激の熱が身体中を渦巻いている。景は泣き言一つ口にせず、ただ沈黙し続ける。その手をもう一度、掴むために。


 ―――他の誰でもない俺の名を呼んでいた。


 ―――辛そうな顔して、涙を流して、何度も呼んでいた。


 ―――こんなバカを最後の望みとして呼んでいやがった。


 脳髄を引き裂かれるような途轍もない痛み。

 頭の中に異物を突っ込まれた気分だった。常人なら迷わず思考を止めている不快感が迸る激痛となって脳味噌を掻き回す。やめろ。やめてくれ。思い出したくない! それが心理の底に潜んだ本能の悲鳴であるとすれば、失われた記憶の先に待つものは尋常ならざる恐怖かもしれない。あるいは狂気の権化かもしれない。

 それを思い出せば、自分は狂ってしまうかもしれない。いや、確実に狂ってしまう。正気など保てるはずがない。必ずや藤宮景という人間が崩壊してしまう。発狂してしまうに違いない。狂ってしまう。戻れなくなってしまう。

 自分を守るために、忘れたままでいろ。

 それとも、自分を壊して、思い出すのか。

 たかが、身に覚えのない記憶のために。名も忘れた少女のために。

 狂えるのか、それだけのために。


 ―――上等だゴラ。


 景は誰に向けてでもなく心の中で啖呵を切った。

 自分という存在が崩れていく。日常が壊れていく。狂気の世界へ染まっていく。

 だが、そこに恐怖はなかった。

 恐怖などありはしなかった。

 あるとすれば、このまま何も知らず、何もできず、何も為せぬまま悔いることへの恐怖。浅い記憶が断片として残したあの涙を拭えぬ恐怖。

 気に食わない。そんなこと気に食わないに決まっている。

 藤宮景はすっかり怒っキレていた。何かを忘却した自分への怒り。何かを救えなった自分への怒り。そして、■■あいつを泣かせた世界への途轍もない怒り。―――静かに怒り狂った。

 忘れたのなら思い出す。奪われたのなら奪い返す。誰が何と言おうと取り戻す。

 あの子だけが泣いている世界なんて認めたくなかったから。

 それだけの意地―――。



 ◇◇◇



 記憶の奥―――白痴の夢が広がる。

 無意識の拡大が際限あるものとして具現化した白紙の世界は意思と思考の多大なる齟齬によって生じた一瞬の摩擦熱に過ぎない。脳髄が拒絶し、魂が肯定した。その軋轢に耐えかねた精神が一種の逃げ道として生み出した夢幻の間。

 故に、これは夢だ。浅い夢。儚い世界。夢の狭間。

 拒絶し合った心の悲鳴が創り出した刹那の悠久―――真っ白の世界。

 白痴の夢は現実に成り得ない。何の意味もない空間である。目覚めたとしても、ここでの出来事を記憶として残すことはできないだろう。それでもやる事がある。やらねばならない事がある。

 いつものように意味のない牢屋の中でパイプ椅子にもたれる彼は、もう二度と動くことはないだろうと決めていたのに、重たい腰をのっそりと上げてしまう。砕かれた足枷を引きずりながら錆びついた鉄格子の向こうへと歩みを進める。鉄格子は触れただけで白い砂となって消えていった。

 誰も彼を止められなかった。彼はここの主なのだから、彼を止めるものなど本来ありえないし、ありえてはならないのだ。


 やめなよ。みっともない。


 だからこそ、この少年は不正イレギュラーなのだろう。

 少年。彼の夢に居着いたあどけない少年。

 白を好む世界に、夥しい黒を装った巨大な鳥居をふてぶてしく呼び出したのも少年だった。少年の目は虚無を象る深淵だった。吸い込まれるような虚無。何もなくて、何でもある。……怖い目。


 どうして、ここへ辿り着いてしまったんだい。君の求めるものなんて何処にもないのに。


 少年の言葉には、悲哀を帯びた嘆きがあった。初めて聞く声だった。


 ここは君の夢さ。すべて君の思い通りになる。でも、だからと言って、君が失ったものは此処にはない。そもそも君の記憶は、あの短い短い非日常は、全部なかったことになっているんだから、それでいいじゃないか。


 邪悪で甘美な声だった。極寒の冷気を纏った声だった。

 少年と真っ正面から向き合った彼は少しだけ照れくさそうに笑いながら言った。


 そういう話じゃないんだ。こればっかりは、お前には、わからないんじゃないかな。


 そう言って、彼は夢の世界の遥か先―――地平線の彼方に佇む巨大な鳥居を指差した。


 ここにないならあの先へ行くよ。いるんだろう神さまが。だったら、あんまり好みじゃなけど、神頼みってやつ、やってみようかな。


 彼の揺るぎない決意に少年の澄んだ美顔が歪んだ。馬鹿だよ君は。理解に苦しむ。愚かにも程がある。あの先には恐ろしい神さまがいるんだ。人間の意識が触れていいものじゃない。あれはタナトスのようなもの。時間を支配するということはそういうことなんだ。もっていかれるよ、君の全部が。

 彼は笑った。それでも、やっぱり俺は取り返さなきゃならないんだ。たとえ、数時間だけの拙い記憶ものだったとしても、その時間を生きた俺は紛れもなく今の俺なんだから。あの子が呼んでいるのはその俺なんだから。

 その優しい声のまま、別れの言葉を告げて、少年の制止を振り払った。

 少年は言った。勝負はもうついてる。君は負けたんだ。命が惜しくないのかい。

 彼は言った。惜しいさ。でも、もっと惜しいものがある。それに負けたままじゃ終われない。

 少年は問うた。知らないままなら普通に生きてゆけたのに。思い出さなければ傷つかずに済んだのに。君にとって彼女は何の価値があるというんだ。

 彼は応えた。そんなことは決まっている。

 だって、彼は怒っているだけ。泣いている女の子を見放した世界に。何もできなかった自分に。不合理や理不尽に。怒り狂っているだけ。ただ、それだけのこと。それだけの怒り。


 俺は、ただあの子の笑ってる顔が見たくなっただけだ。


 価値など知らない。知ろうとも思わない。

 泣いていた。ずっと、泣いていた気がした。だから、せめて―――。

 胸の中に居着いたわだかまりはずっとそんな形をしていた。

 無窮の白い砂漠を越えて、永久の螺旋を描く階段を降りて、真なる宇宙の彼方に迫るべく、耳を塞ぎたくなるような煩わしい鈴の音を無差別に吐き散らす巨大な暗黒の鳥居の前に彼は一人立ち竦んだ。門の先は見えない。真っ暗な深淵。吸い込まれそうな深淵。悪意と恐怖に満ちた世界の入り口───究極の門。

 この先に何が待つのだろうか。この先は夢のままなのだろうか。神は本当にいるのだろうか。不安が押し寄せる。引き返したい気持ちはあった。何もかもを捨て去りたい衝動もあった。でも───。

 

 それでも行くんだろう君は。

 ああ。もちろん。

 勝手にしなよ。

 そうさせてもらう。

 血迷ったかな。君なら帰ってきそうな気がしてきた。

 当たり前だ。俺は帰ってくる。ぜったいに。なんせ俺は───。


「厄病神、らしいぜ」


 無知な彼は深淵へと飛び込んだ。

 その背中を不愉快そうに少年は見つめていた。


 

 



 夢。

 外の夢。

 誰の夢でもなく、誰の夢でもある。

 曖昧すぎる世界。

 意味を剥奪される。

 存在を凌辱される。

 自分を狂わせられる。

 引き裂かれる。───みたいな夢。

 気色の悪い夢。最低の夢。深い、深い、深すぎる夢。

 もしくは、深淵。

 彼はこの世界を知っていたような気がした。一度訪れたことのあるような既視感があった。でも、そんなことはどうでよくなる。どうでもよかった。

 渦。

 あるいは。泡。

 遍く総てを溶かす泡沫。過去も、未来も、現在も、絶えず流れ往く時間は等しく全であるが故に、一という混沌に須く還る。

 一とは全。全とは一。

 これが総てで、これしかない。

 泡は弾ける。時の有限を象るように跡形もなく消失し、懲りずにまた泡を生む。それに意思があるわけもなく、無意識があるわけでもなかった。機械的で、自動的で、受動的だった。

 それは泡だった。泡の集まり。泡の渦。夢に縛られた宇宙そのもの。深淵に押し込まれた時間そのもの。究極の存在。

 あるいは、神───。これこそが、神───。

 どうでもいい。

 彼は泡の中を漁るように掻き進む。奥へ、奥へ、奥の奥へ。深く、深い深い深淵のその先へ。

 死。

 それは唐突な腐敗。人の身でありながら、神を畏れなかった罰。

 燃え尽きる痛み。焼き尽きる痛み。腐り尽きて、滅び尽きる痛み。悲鳴も嗚咽もない。単純化された死の痛み。何もかも尽きてしまう。身も、心も、魂も、この深淵ユメに無限に散らばる死の泡で必ず尽きる。

 そうなる前に。自分が失くなってしまう前に。心が潰れてしまう前に。

 神さまと一つになる前に───。


「──────っ!」


 声。

 内なる声。

 懐かしいような、そうでもないような。

 曖昧な世界。

 手を伸ばす。手を伸ばした。

 夢だから、夢なのに。

 溶けてしまえば、夢であったのに。

 夢であってはダメだから。夢のままではダメだから。

 彼は手を伸ばす。その声へ手を伸ばした。

 もう一度だけ、あの手を掴むため───。

 もう二度と、その手を離さないため―――。


「エノ──────‼︎」


 望みではない。これは臨みである。

 願いではない。これは意地である。

 くだらない夢だった。

 つまらない夢だった。

 それでも大切なものだった。

 だから、夢のままでは終わらせない。負けたままでは終われない。

 白痴の世界が目醒める。

 恐れ知らずの馬鹿が目を覚ます。

 くだらない怒りを携えて。つまらない意地を抱えて。

 忌まわしい現実を睨みつけた。

 その眼はきっとバカみたいに燃えているのだろう。



 ◇◇◇



 滾るような茜をした夕日。

 平日の夕方とはいえ、財布の紐が緩む金曜日。

 赤無市東区の繁華街は鮮やかな喧噪に満ちていた。辺りを埋め尽くす人の群れ。彼らを囲むビル群がそれぞれの看板に品性のないネオンをちらつかせ、光に群がる蛾のように誘われる大衆を厳かに取り合っている。

 赤無市東区虎州とらす通りの日常―――下品な笑い声が絶えない場所。

 本日の業務を終えた者。夕飯を探す者。家路につく者。あるいは、キャッチとしてこれから仕事を始める者。目的は然程変わらない彼らの―――凡そが上機嫌である彼らが生み出した雑踏の中を掻き分けるように疾走する学生がいた。

 藤宮景───その目は強い怒りを含んでいた。

 この場に似つかわしくない憤怒の表情をした少年は呼吸を乱しながら、虎州通りの一角に佇むビルへと躊躇いなく足を踏み入れる。一階、平凡なラーメン屋のチェーン店。剥き出しの外階段を昇る。二階、不動産会社。三階、マッサージ屋―――というより、いかがわしい店。

 四階―――テナント募集。

 何度かノックして、強引に扉を開けようとする。当然カギはかかっている。もう一度ノックする。返事はない。扉に聞き耳を立てる。―――無音。誰もいないようだ。


「ここも違うか」


 握り締めたくしゃくしゃの地図を広げてマーカーで印をつける。そして、休憩も挟まずにまた走り出す。しばらくして、別のビルへと辿り着く。同じように一階を覗いて、二階、三階、四階と調べる。このビルは五階が空いていた。同じようにノックと聞き耳を繰り返し、中に人がいないことを確認すると潔く駆け足でその場から立ち去る。


「ここも違う」


 ギラギラとした目が赤無市東区の簡略化された地図に記された線を追う。目的地をスマホのナビゲーションに設定して、ついでに現時刻を確認しておくと焦りが募った。十九時を目前とした空は徐々に暗闇に包まれようとしており、眠ることを知らない繁華街は煌びやかな光芒と下卑な声をより激化させる。

 あがった息を落ち着かせながら景は「あと十四件」と何度も口にした。

 そして、走る。ひたすらに走る。行手を阻む人の群れが生み出した肉の壁に突っ込み、強引に抜け出して目的地までの最短ルートを駆ける。夜の繁華街を掻き分けて走り抜ける。

 ビルに着いては、同じ手順で確認して、懲りずに走る。急かされるように。焦るように。一心不乱に足を動かす。削がれる体力は持ち前の気力でカバーして全力疾走を試みる。

 何度も人の肩にぶつかった。

 何度も躓きそうになった。

 何度も、何度も。それでも止まらない。

 もう止められない―――。


「おい」


 ついに、と言うべきか。

 虎州通りの商店街で一際ガラの悪い連中に呼び止められた。


「人の肩にぶつけておいて、何もなしかテメェ」


「おいおい。肩がとれちまったよぉ」


「まずは土下座しろ、土下座」


 ギャハハハ、と顔が酒気で赤らんだ六人ほどの男女の下劣な笑いが響く。ただでさえ限られた幅しかない商店街の道を横並びに堂々と千鳥足気味で闊歩していた彼らは、一応は避けようと努力をした景に酷い難癖をつけた。謝る気など毛頭なかった景は彼らを一瞥することなく、背を向けたまま走り出そうとしていた。

 だが、その素振りに腹を立てた男が景の肩を乱暴に掴んだ。


「おいゴラ! シカトすんじゃねぇ!」


 無言を貫く少年を引き寄せるように―――肘が来る。


「おごッ!?」


 男の鼻に尖った肘が直撃した。鋭い痛みが駆け巡るのも束の間、腹に深い拳が突き刺さる。

 両膝を地に着かせて男はどくどくと流れる鼻血を止めればいいのか、苦痛が走る腹を押さえればいいのか、選びかねて苦しくて慌てふためきながら止まらない嗚咽を吐き出す。取り巻きは何が起こったのか、まだよくわからない様子らしく「え?」と素っ頓狂な声を零していた。

 躊躇わない暴力。それが如何に恐ろしいものか。

 数秒後、仲間が暴力を振るわれたとやっと認識して男連中は怒気を露わにする。道行く人々もトラブルの臭いを嗅ぎ付けてか、野次馬が自然と集まり、すでに景と六人を囲むようにして円状の戦場フィールドが形成されていた。

 一触即発。何なら火蓋は切られている。

 男の一人が憤激に身を任せて拳を振り上げ、身の程知らずの少年を殴ろうとして―――止まる。止まらずにはいられなかった。狂気と憤怒が絶えず交差する目の据わった眼光───殺気。どんな人生を歩んできたら人間はそんな顔をができるんだ。少年の顔は深い怒りで満たされていた。

 男たちは拳を下げて、野生の熊と出会ったような素振りで、ゆっくりと後ずさるしかなかった。そうでもしなければ、自分の拳が届くよりも先に、怒れる少年の凶暴な一撃が自分の意識を奪ってしまうと予感した。

 まだ嗚咽を繰り返す屈み込んだ男へゆっくりと近づく学生服の少年―――殺気に満ちた鬼の形相が張り付く。

 それは純粋な恐怖だったのだろう。少年の顔は、これまでに―――あるいは今から人を殺めることの覚悟をした人間の怒涛が浮き彫りになっていたからだ。


「……今よ、忙しいんだ」


 冷たく言い放つ。


「自分でもワケわかんねぇぐらいにキレてんだ」


 その眼光―――狂気の沙汰。


「それでも……やんのか」


 殺される。

 間違いようもなく殺意があった。心臓を鷲掴みにされたような恐怖に思わず小さな悲鳴が漏れる。

 屈みこんだ男の両肩を取り巻きが抱えて、檻から抜け出した凶暴な狼のような少年から一秒でも一ミリでも遠ざかろうと足早になって、嫌がる雑踏に紛れていった。彼らの離脱を見届けた野次馬のような見物客らも観てはいけない一部始終を目にしたような居心地の悪い空気に耐えきれず、さっさと輪を崩し、いつもの活気ある金曜日の商店街へと姿を戻した。

 景は舌打ちすらせず、また黙々と走り出す。

 止まらない。誰も彼を止められない。禁止された暴力を振るうことを厭わない。長い人生を天秤に掛けても尚、己が怒りに準じて暴れることを選んだ藤宮景は誰の指図も受けることはない。

 もう何も彼を縛れない。彼を縛り付けていたものは一瞬で砕け散った。あの瞬間、の名前を口にした時から───。


「次はどこだ。次は」


 束の間、彼はまた走り出す。

 幾度となく夜の街を走り続ける。

 止め処ない焦燥と湧き立つ憤怒。

 藤宮景の失われた記憶は、厳密に言えば元には戻らなかった。

 だが、彼は。観ることができてしまった。

 夢の奥底で、世界の記憶とでも称すればいいのか、過去と未来を含んだあまねく時間のに触れて、彼は失ったはずの記憶を俯瞰した。そう、観たのだ。録画されていた監視カメラのような映像を、神の如き俯瞰によって、自分の知らない過去を観た。そこには自分に似た自分がいた。自分と瓜二つの自分がいた。それはきっと藤宮景という人間で、藤宮景という自分なのだろう。

 実感はなかった。自分の欠けた記憶がこれだと断言されたとしても、景には納得が及ばない不信感があった。なぜなら、景はそれを覚えていなかったから。文字通り、無かったことにされてしまったから。

 過去に映る自分―――五月二十日二十時から二十一日零時までの約四時間に渡る世界を過ごした藤宮景という少年は確かにそこに存在していた。だが、藤宮景その本人の脳には、その世界を過ごしたは残されていない。彼はその四時間の夜を

 彼の記憶と世界の記憶が大きな差異を生じていた。自分だけが違う感覚───自分という世界が音を立てて崩れていく感覚。噛み合わない歯車が激しい悲鳴を上げるようだった。

 思い出したくなかったのは、その狂気を本能が認識していたからなのだろう。思い出せるはずもないのに。思い出す記憶なんてものは最初から無かったのに。全て無駄だったのに。

 ―――その記録に残された彼は藤宮景であり、今の俺であるが……。

 ―――今の俺は、その記録に残された藤宮景ではない。

 失望。力が抜けるようだった。

 夢の世界の更なる奥底で眠る大いなる存在に触れたことなど景は微塵も覚えていない。知る由もない。知る方法など無い。

 皮肉極まりないほどに、ふと感覚だった。突然、少し転寝うたたねでもしたのかと疑った瞬間に、自分ではない第三者視点の目がカメラのようになって、自分の欲した過去が映像となり、強引に頭へ流れ込んできた。忌まわしいほどの違和感に襲われて、失った自分の過去だと時間をかけて認識して、景はのだと考えるしかない。

 故に、達成感などなかった。あれだけ欲した記憶なのに、喜びも、安堵も、何もない。

 それどころか、恐怖が込み上げてきた。まず、自分の身体を隈なく触れた。仮面の大男たちと喧嘩した時の傷は残っていなかったし、撃たれたはずの左肩は何の不便もない健全な状態を保っていた。世界は藤宮景の死を記憶しようとしていたのに、反して彼は生きてしまっていて、その違いを認識すると今までに感じたことのない悪寒が走る。

 それにあのバケモノ―――不可視の残虐な獣じみた怪物。

 勝てない。あんなものに勝てるはずがない。も言っていた。常軌を逸した世界の裏側に潜むもの〝神話生物〟と。人間が関わっていいものではないと。その通りだ。あんなバケモノと戦えるはずがない。人をゴミかエサとしか認識していないバケモノだ。戦うことすらできずに殺されるに決まっている……。

 不幸中の幸いか、この恐ろしい記憶は、彼の中では訝しい幻覚じみた夢として捉えられていた。自分の身に起きた出来事だったという自覚が極めて薄い。何なら他人の物として認識した方が受け入れられる。忘れようと努めていけば、時間はかかるかもしれないが、いずれは忘却されるかもしれない。忌まわしい記憶として封印できるかもしれない―――。


 そのような葛藤があった。

 いや、葛藤というより一人芝居の方が近い。

 ほんの一瞬の形だけの恐怖だった。本当なら思い出した瞬間において彼は悲鳴の一つや二つを叫びながら逃げ出しておくべきだった。家に帰って、布団に包まり、あのバケモノに襲われる恐怖に震えておくべきだった。

 なのに、彼は言ってしまった。

 その名を───もう忘れないと胸に誓って。

 あれよこれよと考える暇もなく、激しい論争もなく、忘却への答えを絞り出す前に、景は黙々とオカルト研究会の資料から〝無名の教団〟の目撃情報を地図上に表したページをめくり、彼らが拠点としている可能性が高い建造物をピックアップし始めた。

 東区にある虎州通りと呼ばれる繁華街に一定の目撃情報が重なっていた。教団が何かしら関与しているとであろう事件の際には、必ずと言っていいほどの高確率で、虎州通りで仮面を被った大柄の人間が目撃されているそうだ。

 そして、虎州通りには安易に見過ごせない或る噂が囁かれていた。どこかのビルで、誰もいないはずの空きフロアに夜な夜な声が聞こえてくるという怪談話だ。ただのよくある普遍的な怪談話に過ぎないが、虎州通りでは、そのような事例が近年で多数挙がっているのだとオカルト研究会は報告している。〝無名の教団〟が噂になり始めた時期とかなり被っている。無視はできまい。―――と、資料にはご丁寧に虎州通りの現在テナントを募集しているビルまできっちりと調べられていた。

 有難い。不動産会社に足を運ぶ手間が省けた。

 そして、考えるまでもなく景は走り始めた。

 自転車も、バイクも、今の彼は持っていない。移動の脚は自分の脚しかない。彼が居たアーカムファミリー公園は中央区に位置し、東区の虎州通りからはそれほど離れていない。しかし、それでも徒歩四十分以上は掛かる。調べればバスなどの交通手段もあっただろうし、観光客用の自転車を借りることだって視野にはあったはずだ。だが、景の筋肉に染まった脳味噌は自力で疾走することを選んだ。そっちの方が、らしくていい。


 「うおおぉあああああああああああっ!!」


 走りながら叫んだ。叫びながら走った。

 日常との決別。世界との別離。狂気との邂逅。

 あらゆる感情が渦巻いていた。思い出せなかった苛立ちが何とか消化されて、今度はより深い苛立ちが降ってきた。知ってはならない狂気の世界に足を踏み入れた後悔や恐怖。化け物が現れた時に何もできなかった無力感や情けなさ。あの化け物とどう戦えばいいのか分からない焦りや緊迫。自分に彼女が救えるのかという不安。揺さぶられる感情の渦に巻き込まれて、景は狂ったように叫んだ。通り過ぎる人たちの冷たい目線はもう気にならなかった。

 あの子を救えるのか。助けられるのか。その資格が俺にはあるのか。

 彼女との記憶は、単なる記録になってしまった。彼女との時間は、中身のない過去となってしまった。彼女を救おうとした藤宮景は、過去の人物になってしまった。そして、ここにいるのは、彼女に哀れな藤宮景という無力な男だ。

 救えるわけがない。助けられるわけがない。資格なんてあるわけがない。

 でも、あの子は俺の名を呼んでいた───ならば。


「畜生がああああああああッ‼︎」


 どれほどの憂いが彼にのしかかろうと、藤宮景の行動原理は何一つとして覆らなかった。

 泣いている女の子がいた。助けを求める女の子がいた。

 ただ、それだけでいい。

 それ以上はいらない。

 困っている人を助けようとするのに、一々理屈を求めるのならば、そんなものはクソくらえだ。

 それに景は───すべての感情において何よりも怒りを優先する彼は、すっかり怒り心頭に達していたのだから、もう手のつけようがなかった。


「ふざんけんなよ! ふざんけじゃねぇぞ! なにが魔術だァ⁉︎ なにが神だッ⁉︎」


 吐き散らすように言った。


「どいつもこいつも、ってたかって、あいつを泣かせやがってッ‼︎ あいつの心を引き裂きやがってッ‼︎ もう許せねェ‼︎」


 やっとわかった。この怒り―――あの子が背負わされた理不尽への怒り。あの子の優しさを踏みにじった世界への怒り。あの子を縛り付けた運命というものへの途方もない怒り。

 燃え滾る憤激の嵐が抑えられない衝動となっていた。拳はもう解けない。眉間のシワはもう緩まない。怒りが満ちる。我慢の限界はここだった。

 藤宮景はどうしようもない短気だ。そして、彼は一度キレたら止まらない。どこまでも、何にでも、向かっていく。まるで、恐れを知らぬ狂戦士のように───。


「ぶっ飛ばしてやる。あの変態宗教どもを……あのサルみてぇなバケモノも……全部まとめて―――の代わりに、俺がブチのめすッ‼︎」






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DREADNOUGHT -feat, Call of Cthulhu- 尾石井雲子 @delicious_shit

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