黒い腕 前編 -⑼

 死と名付けられた事象が、命ある生物のことごとくに等しく与えられた終着点というのなら、神の存在もあながち嘘ではないのだろう。なんせ神は不平等だ。神にとっての救済は、地上に芽生えた数多の意思に沿って行われるものではない。傲慢で、不可解で、極めて理不尽である。神の目に人間の嘆きが映ったことなど、地球という星が生まれて一度も無かったのかもしれない。

 ただ、それでも神は神様だ。天変地異の権化たるそれを人間は崇め奉るしかない。渇いた大地に慎ましく降り注いだ自然の雨こそが、神のお恵みであると盲目となって信じることが人間と神様の良き関係なのだろう。

 時に、自然が命を奪うことを知りながら。

 命を授けたものが神であるなら、死もまた神が生んだもの。生と死は必然的に繰り返される絶対順守の理である。生きていれば、いずれ死ぬ。誰もがその世界のルールを信じているし、そのシステムに疑いはない。

 ならば、死を与えられなかったものは何だというのか。彼らはどこへ向かえばいいのだろうか。神にすら見捨てられた彼らは何のために生きていたのだろうか。いや、最初から生きていたのだろうか?

 赤無警察署に勤める刑事である氷室ひむろだんは冷やかな表情で考えていた。社会の汚物を見るように殺伐とした眼力は名状し難いあるものへと向けられていた。

 赤く滴るレンズを拭いて、飾り気のない眼鏡をかけ直す。彼は神学者ではない。神の必要性を説く訳でもないし、有神論を唱えている訳でもない。彼はあくまで、神の名においてではなく、法に従って、法が定めた悪を捕らえるだけの刑事に過ぎない。そこに心が必要であるか否かと問われると、氷室断という男は不必要と断言できるような冷徹さを持った人間だ。

 心を殺して社会に奉仕する。それが彼の信条だった。それ故に、神の有無などこれまで考えたことはなかった。居ようが居まいが、それが法の下にある秩序へ大きな干渉でもしない限り、彼は生涯で一秒足りともカミサマへ思いを寄せることはなかっただろう。


 ───私はいつから狂ってしまったのだろう。


 仄かな硝煙が昇る拳銃が答えを知っていた。


 ───いつから、ではなく、いつになれば、か。


 小さな息を白く吐き出す。


 ───残酷だ。


 今の氷室にとって自責の念に捕われることは、明晰たる頭脳を費やすほどに優先すべき事柄ではない。その程度の判断力は損なわれてはいない。氷室は状況整理を頭の中で繰り返す。何度も、何度も。

 氷室断が神の有無を人間の生死に重ねるほどに狂ったのは、その果てしない過去の幻影を反芻しただけに過ぎない。つまるところ、彼は極めて冷静だった。


 五月二十一日───彼は初めて死を選べなかったものに出会った。時は十分ほど遡る。


 奇妙な放火事件が署内を慌しく駆り立てていた頃、彼が属する天文課という部署に身元不明の遺体の調査が舞い込んできた。

 むごたらしい死を遂げた巨漢の男だった。署内の死体安置所にて、司法解剖を受ける手続きを済まされた冷たい肉の人形は台の上に力なく仰向けで横たわっていた。静止された空間。黙する死者。見飽きた光景。果たしてそうだったのか。

 死人は大抵の場合、安らかな表情をしていた。彼らが望もうが望むまいが、死という生命の終わりに敬いがある限り、死者は安静なる眠りを与えられる。それが警部として様々な死と向かい合ってきた氷室の経験だった。

 それが今はどうだろう。この死者は顔というものが欠落していた。顔の皮膚は無理やりに剥がされており、むき出しになった歯は恨めしそうに黒ずんだ血を食らっていた。零れ落ちそうな剥き出しの眼球が悍ましい視線を絶えず天井へ送っている。怨恨。あるいは絶望。その言葉が遺体には宿っていた。

 それもそうか。───氷室は遺体の胴体へ目を移した。

 遺体は、ほぼ半分だった。

 左半身のみの状態だった。

 遺体の胴体は右肩から左の股関節にかけて切断されていた。いや、切断という言葉は些か誤りかもしれない。引きちぎられていると言った方が正しい。血肉から突き出ずにはいられなかった肋骨が人智の及ばない膂力を物語っていた。鋭利な刃物で切られたとは到底考えにくい砕かれ方だ。チェーンソーのようなものでも、このような断面は出来上がらない。

 何か得体の知れないものによって引き裂かれた、と考えるのが一番手っ取り早い仮説であった。だが、その仮説が手のつけようのない不気味な謎を生み出してしまうことに変わりはない。

 殺人という範疇を越えた何か。理解を許さぬ悪意を孕んだ残虐な何か。───遺体はそれだけを語る。

 結局、真意は誰にもわからない。誰にもわからなくなってしまったが故に、天文課という人智が及ばぬ特殊な事件を取り扱う専門捜査官らの下へ遺体がたらい回しの末に届けられたのだ。

 天文課に特命が下った際には遺体の解剖が決定していた。かなり早い段階であるが、驚きはしなかった。赤無市一帯を仕切る警察という国家組織は、このような猟奇的な事件の対応に酷く慣れていたからだ。

 なんとか解剖前に死体安置所へ滑り込んだのは良いが、目新しい情報というものは得られなかった。マイナス十五度を下回る極寒の牢獄で二の腕をさするだけの徒労に終わった。

 もはや、精密な解剖に頼る他ない。氷室はちらりと腕時計を見た。午後三時を回ろうとしている。死亡推定時刻からおよそ十時間が経つ。

 この時、氷室は遺体に対し異常な疑いを持っていた。悲惨な塊となって眠る巨漢の遺体が今にも動き出そうとしているように思えて仕方がなかったのだ。


 ―――これは本当に死んでいるのか。いや、死を与えられたのか?


 不気味な生気が遺体には宿っていた。それは酷く見苦しく、邪悪な意思そのものだった。


「ゔぇ……ッ」


 嘔吐を予感させる嗚咽を漏らしたのは氷室と同じ刑事の猿渡さわたり要平ようへいだった。爽やかな短髪が人当たりの良い性格を表していて、署内でも彼を悪く思う人間はいないが、十年目を控えて未だグロテスクに対して耐性が乏しいのは如何なものかと氷室は評価している。

 ジャンパーに身体を縮こませ、毛先が薄らと白くなりつつある猿渡は蒼白となった表情でひたすら頭を横に振っていた。


「こんなヒデェ殺され方って……犯人はいったい何者なんすか」


「さあな。わからん」


 端的に答えた氷室だったが、細められた瞳が見つめる遺体の惨劇に「人であるか、どうかすらな」と心の中で付け加える。

 よもや、これを殺人と呼ぶのは烏滸おこがましい。

 これは殺戮である。あるいは、命の陵辱。いずれにせよ、人ならざるものが事件の背後に佇んでいるのは間違いないと氷室は確信めいたものを感じていた。

 遺体から目を逸らさずにいられなかった猿渡が申し訳なさそうに「かわいそうに」と手で十字架を切る。猿渡は基督キリスト教徒である。常日頃からロザリオを持ち歩く熱心な信者というわけではないが、生まれ育った環境故にそのような手癖があった。


「さぞ怖い思いをしたんでしょうね。ああ、痛かったろうに」


 有情に溢れた猿渡は今にも神に祈りを捧げそうな勢いであったが、氷室はこの遺体の男に同情は一切なかった。元から死人に寄せる哀れみなど氷室断という冷酷な刑事は持ち合わせていないが、この遺体に関しては哀れを飛び越えて激しい嫌悪すら覚える。猿渡も知っているはずだ。この遺体は被害者として解剖されるのではない。あくまで、容疑者の一人として、重要な手掛かりとして、監察医の手によって隈なく解剖される。

 なぜなら、遺体は惨殺されたという状態を得るまでもなく、正気を逸していた。

 遺体の首から下には目を疑うほどの無数の縫い目があった。尋常ならざる数の縫い目は都内の線路図と言っても冗談では済ませられないほどの量をカラダの至る部位───あくまで残された左半身に限って───に冒涜的なまでに走らせていた。

 その縫い目たちは決して医療目的の縫合ではなく、ましてや趣味の悪いオシャレでもない。明らかに違法なものだ。なんせ、縫い合わせている皮膚は一個人のものではなく、別の誰かの皮膚を、他人の皮膚を、何人も何枚も集めて、幾人を一枚に縫って、一枚の布切れのように、あたかも一つの人肌のように縫い合わされた狂気の産物だった。

 この事実を知るのに時間は掛からなかった。皮膚の色が縫い目を境目に所々違っているからだ。少し焦げた東洋人の肌の色と真っ白なヨーロッパ人の皮膚が隣り合わせで縫われていたら、その肌の色の差異から誰だって嫌でも気づく。気づいてしまう。―――この遺体が見つかった時の現場がどうような状態であったのかは言うまでもない。

 糸として使われていたのは千切れにくいワイヤーであった。それもかなり太く、縫い目は荒く、素人の所業であることは氷室の目でも十分に理解に至る。人体というものを生命として捉えず、単なる物体として認識しているような冷たい悪意が迸る。


 ───人間というものを弄んでいるのか。


 氷室自身、見慣れていたはずの人体に、それも動きを止めた遺体に対して、これほどの憤りを覚えたことはなかった。この狂気じみた肉体が昨日まで難なく動いていたと思うだけで嫌悪感が増した。果たして、この狂人を生み出すために、いったい何人分の皮膚が使われているのだろうか。氷室が判断できるのは、使われた皮膚の持ち主はもうこの世にはいないことぐらいだ。

 そして、もう一つの狂気―――最も氷室が気にしていたのは遺体に刻まれた刺青いれずみである。その刺青を見つめていると、脳が激しい頭痛を起して理解を拒み、吐き気を伴う恐怖が悪寒として襲った。氷室はこの名状し難い感覚にある種の確信を得ていた。

 世界の裏側に潜む狂気の神話───人が知るべきではない魔の領域。異常の空想であり異端の真実。───奥歯を噛み締めたい衝動を抑え、氷室は小さな声で、細々と、ソレを可能な限り解読した。


「『我は死せぬ・神は眠る・黄金の庭・我は死せぬ・遥かなる星・───の目醒め・我は死せぬ・古の祭壇・───の敵・黒き───・総ては───・───の名において・我は生霊にあらず・我は死せぬ・偉大なる───の目醒める時まで』」


 刺青は呪文だった。あるいは呪詛。

 地球上で口にされている様々な言語態に一切当てはまらない異形の言葉だった。だが、氷室はほんの一部分を読み解くことが可能であった。それは彼がこの悍しい象形文字にも似た言葉を過去に目にした経験があったからだ。───思い出したくもないが、忘れることすらできない。

 色褪せた墨は遺体の胸中に夥しく彫られていた。この呪詛が邪悪な神を讃える聖歌のようなものなのか。それともこの言葉の羅列が意味を為す魔術なのか。ついにはわからずじまいだ。だが、悪しきものであることは疑いようがなかった。……耳なし芳一は全身に念仏を描くことで禍々しいものから身を守ろうとしていたが、これはどうだろう。むしろ、邪悪なものを呼び寄せている気さえする。

 とにかく、端的にまとめると不快極まる残骸であった。何も知らぬ警官たちからすれば、このような奇妙な死体と真摯に向き合って調査することは億劫なのだろう。天文課という側から見れば胡散臭い部署へ回された理由も頷ける。


「先輩、よくもまあ、そんなまじまじと見てられますねぇ」


「慣れだ。これより酷いものを見てきた」


「や、やめてくださいよ……。こっちは朝食のサンドウィッチをまるまる便所に流してきたばっかりっすよ。もう出すモンも流すモンもないっす」


「天文課の刑事なら、これぐらいで吐かれてもらっては困る」


「んなこと言われたって、自分はフツーの刑事課志望だったのに……。ううっ、なんかこいつ今にも動き出しそうなツラしてますねぇ……」


 口を押えながら言った猿渡に氷室は釈然とした態度で「かもな」と短く返した。氷室の素っ気ない言葉が猿渡にとって、どれほどの恐怖に満ちていたものかは他者には理解できまい。若くして警部にまで上り詰めたエリート警察官である氷室は冷静沈着な物腰を崩さない頼れる刑事である。署内での彼の信頼は一線を画するほどの優秀さを兼ねている。その実力は彼の相方として配属された猿渡がよく知っている。

 その彼が遺体が動く可能性を考えたのだ。冗談? まさか。それこそ有り得ない。氷室断は寡黙な性格だ。真面目な彼が冗談───ましてや仕事中に───を口にすることなど猿渡は未だかつて聞いたことがない。

 氷室は本気で思ったのだ、遺体が動くと。脈もなく、呼吸もなく、誰もが死んだと判断した遺体がひとりでに動くのではないかと本心で思ったのだ。


「う、うう、うごく……え……?」


 半分は冗談のつもりだった猿渡は既に洒落にならななくなった遺体から数歩後退り、蒼白となった顔面でただ絶句する。ただ、彼らの居る安置所の一角は非常に狭く、一歩下がるだけで壁やら棚に阻まれてしまう。猿渡は止むを得ず、一時の現実逃避のように、その場にゆっくりと腰を下げた。彼の目には、遺体の左半身だけが水平に横たわり、血肉に満ちた地獄の沙汰は除外されていることだろう。

 そんな相方を他所に氷室は遺体を観察することをやめなかった。死体安置所ここには二人以外はいない。数分前は違う部署の刑事が何人か入れ違いで出入りしていたが、今は氷室と猿渡に番が回ってきたような形で二人しかいない。恐らく、例の放課事件との関連性を嗅ぎ付けたものの、あまりに遺体が酷かったため、得るものも得られずに踵を返していったのだろう。それが午前あたりの出来事か。

 では、氷室たちもそろそろお暇すべきなのだが、他でもない氷室断がそれを拒んだ。

 誰かがコレを見張っていなければならない気がしてならない。せめて、監察医が来るまでは遺体を野放しにするわけにはいかない。───強迫観念じみた妄想だ。酷い空想だ。死体を見張る刑事など笑い者もいいところだろう。

 嘆息。氷室は外套の胸ポケットから眼鏡を取り出した。フチのない質素な眼鏡だ。決して氷室断は視力が芳しくないわけでない。ある理由で眼鏡をかけているだけに過ぎないのだが、今はちょっとした精神安静の意味合いも込めて、眼鏡を掛けた。

 そして、一息───悪くない。


「猿渡、もう一度、当時の状況を教えてくれ」


 尚もグロッキーな顔つきの猿渡は慌てながら「へ、へい!」と返事をして、ポケットからメモ帳を取り出した。切り替えの速さは彼の評価すべき点である。


「ガイシャ───コイツを見つけたのは今朝の五時頃。場所は西区の団地に囲まれた公園の裏手にあるゴミ置き場っす。第一発見者は団地そこの住民の主婦で、朝にゴミ捨てようとしたらヤケにカラスが騒いでいて、不思議に思って見てみたら、見るに耐えない肉塊が転がってたと……こん時、かなり気が滅入っちまったようで、この人の身柄は天文課で預かっています。巳豪みごうさんからの連絡で、記憶を消すには時間がかかるそうで、目撃者の家族には一課の連中が色々と走り回ってくれてます」


「そうか」


「それで、団地の公園なんすけど、まあ、その……血の水溜りってのが至る所にできてるぐらいに大量の血の跡が残っていたらしいっす。多分、七、八人はくだらない量っす。でも、発見された死体はコイツだけみたいで、後はもう、何の痕跡も無くなってやがりました」


 猿渡がメモ帳を素早く読み上げる。所々に言葉を詰まらせるのは、見たくもない惨劇を記録した写真が目に入るからだろう。


「あとは、聞き込みでわかったことなんすけど、マンションの住民の数人が何やら大きな音───銃声のようなものを何度も、何十発も、夜中に聞いた気がすると証言してます。ですが、全員なぜか記憶がおぼろげでして、本当に聞いたのか今ではよく覚えていないそうなんすよ。聞いたという記憶はありますが、その記憶に信憑性を持てないって感じでした。

 そして、現場近辺で多数見つかった例の札。これは今朝のハンバーガーショップから見つかったものと一致してます。偶然とは、考えにくいっす」


 市内のハンバーガーショップが放火された事件は今や全国のトップニュースを飾っているだろう。おかげで赤無警察署は上から下まで多忙の環境に叩き込まれてしまった。人員不足のためか、関係のない部署まで走らされている始末だ。それほどまでに今回の放火事件は注目されていた。

 だが、放火事件と極めて関連性が高いとされる西区の団地での奇妙な一件は政府の情報規制によって世間の耳にはまだ入っていない。揉み消しだ。この遺体の存在すら世間はまた知らされていない。どこからか情報が漏れるのも時間の問題かもしれないが、誤魔化しようはいくらでもある。

 真実を知られてはいけない。世界の裏側を見せてはならない。この遺体は出来ることなら闇に葬るべきだ。でなければ、世界が辛うじて保ってきた人間の安寧は二度と返ってこなくなってしまう。───それが上層部の考え方であり、氷室がこの職に魂を捧げる大きな理由でもある。

 猿渡が隠匿を繰り返す警察上層部にどのような感情を抱いているから定かではないが、彼もまた狂気の世界へ足を踏み入れた者───蔑ろにされていたはずの正義が何かを囁くのはさがなのかもしれない。


「なんか三ヶ月前、、、、と似ていますよね。あの時の遺体もこんな酷い有り様でした。血みどろになった路上に、何の異質感もなく転がる人間だったものが、毎夜毎夜、発見されて、バラバラだったり、ドロドロだったり、あるいはもう人なんかじゃないって思っちまった方が楽だったヒデェもんがあって……あん時は気が狂いそうになりましたよ。いや、実在にそれで辞めてった同僚もいましたっけ。巳豪さんは『実験』なんて言ってましたけど俺にはサッパリわかりませんでした。人間って、こんなに安いもんだったのかって。……それがまたこの期に及んで……何人殺せば気が済むんですかね」


「同一犯の可能性が高いのはわかっている。いや、確定と言っても差し支えない。目的の大凡の検討もついている。問題があるとすれば、その手段。我々は未だに三ヶ月前の『実験』の意義を理解していない。───だからこそ、なんとしてでも例の〝書〟を手にせねば。でなければ、世界は狂気の神代へ戻ることになるぞ」


 その時、張り詰めた空気が凍てついた。

 死を弔う空間が鈍重な質量を持って、見えざる腕で二人の足を掴むような不気味な感覚が支配する。元々死体安置所は室内温度はマイナス十五度を下回る極寒の場所となっているが、今はその比ではない。重圧的な寒さが肌をぴりぴりと逆立てる。呼吸が辛い。身体が思うように動かない。身震いせずにはいられない悪寒───猿渡は何が起こっているのか理解できずに自分の肩を抱いていた。氷室は己の直感に従い、腰のホルスターへと手を伸ばす。

 その直後に、彼は己の失態を知った。

 台に寝そべる冷たい遺体は右半身がない。氷室は遺体をより注視するために、その引き裂かれた血肉が目立つ右側に立っていた。そして、猿渡は比較的に目に優しい左側から断固として動こうとはしていなかった。彼の視界には骨も肉も入らないよう、綺麗に横たわる巨漢がいたはずだ。

 この位置関係はまずかった。

 氷室は血相を変えて叫んだ。


「猿渡、そこから離れろッ‼︎」


「へ───?」


 猿渡の理解が追いついていない声が哀れに響き、何かを思考する暇もなく、彼はその目で紛うことなき異常を捉えた。

 見つめていた。見つめられていた。

 遺体が猿渡を深く凝視していた。天井へ向けられていたはずの視線が、動かざる虚無の目玉が、今ははっきりと猿渡の眼を見つめていたのだ。

 その瞬間、正気を疑う光景が飛び込んできた。

 遺体が動いた。いや、遺体だったものが動いてしまった。隆々とした左腕で台の端を掴み、丸太のような隻足を曲げ、起き上がる予備動作を瞬きも許さぬ刹那で終わらせて、途轍もない俊敏な動作を持ってして猿渡の首筋へと噛みついたのだ。

 唖然としたのは束の間。

 グチュリ、と嫌な音がした。


「ゔあぁぁぁぁぁぁぁッ⁉︎」


 猿渡の恐怖が悲鳴となって響く。すぐに氷室は拳銃を構えるが、リアサイト越しに舌打ちを零すしかなかった。彼の視界には今や巨漢の醜い背中しか見えない。この位置での発砲は、大男の影に重なった猿渡へ貫通する恐れがある。

 巨漢の背中から猿渡の踠き苦しむ手が覗く。呻き声も発さない大男は残された左腕で猿渡を逃さまいと拘束している。あの巨腕に捕まれば振り解くことは不可能なのかもしれない。

 血がボトボトと垂れ落ちた。巨漢の男は手と足をバタバタと動かして抵抗する猿渡に噛みついたまま床へと倒れ落ちる。信じられないような膂力で拘束された猿渡は為すすべもなく地面に叩きつけられた。猿渡のスーツは今や真紅に彩られているに違いなかった。まだ若い刑事の悲鳴は助けを求める声に変わっていた。掠れるほどに必死な声は信頼する上司の名を叫ぶ。

 氷室は台を飛び越えた。───このバケモノの生命活動を完全に止めなければならない。だが、そのすべは今や皆目検討もつかない。即死の有り様だった。脈も呼吸もなかった。心肺停止は確実だった。なのに、死んでいたはずなのに、死亡が確定したはずの半身の男は世界の絶対的な倫理を打ち壊して蘇ったのだ。そんなものの息の根を完全に止められるのか? ───思考の時間すら惜しい。猿渡が失血で冷たくなるのが先か、怪物が猿渡の首を噛み千切るのが先か。どちらにせよ、氷室に考える猶予は残されていない。


「ぐぅ……ッ‼︎」


 死を知らぬ怪物の背中から首を締め上げるようとする他、氷室には手段が残されていなかった。だが、それは人間ならざる怪力によって、猿渡から離すことすらできないことを知るのみだった。氷室の努力に意も介さぬ執着心を持って、巨漢の怪物は獲物にただ喰らいつく。

 氷室に一筋の汗がこぼれる。

 ある意味では予想の範疇にあった。遺体が動き出すのではないか。そのような予感が彼の中には絶えず渦巻いていた。だが、それは狂気を知る者の過剰な妄想に過ぎない。あくまで非現実な想像であって、いとも容易く食い破られていい現実ではない。

 氷室は吠えた。───狂気の化け物が表に出るな!


「離れろ、氷室ッ!」


 何者かの声が緊迫した死体安置所に響く。

 思考よりも先に身体が動き、氷室は反射的にその言葉へ従った。首を締め上げていた腕を緩めて、偉丈夫な怪物と化した巨漢から素早く離れる。───その直後、鮮血が飛び散った。

 発砲音が三つ鳴っていた。どれも巨漢の頭を側面から的確に撃ち抜き、間一髪の距離で猿渡への被害を避けていた。

 何よりも驚異の的となったのは、不死身かと思われた怪物が撃ち込まれた三つの弾丸に僅かな反応を示したことだ。苦悶の呻き声。血だらけの顎が微かな緩みを得る。

 氷室は直感した。怪物に撃ち込まれた銃弾は悪しきものを祓う聖なる弾丸───聖人と呼ばれた者の遺灰を銀に混ぜ合わせた合金から造り出される魔弾と呼ばれる代物である。このような異端の祭具を用いる人物に心当たりは一人しかいない。


「武田か!」


 安置所の入り口から険しい表情で銃口を向ける武田聖十郎は狙いを頭部から胸部へと定めて引き金を絞る。

 正確な射撃だった。自動式拳銃のハンマーに叩き出された弾頭は吸い込まれるような軌道を描き、怪物の体へと赤い稲妻を迸らせて着弾していく。音が激しい。どうやら炸裂弾に変更したらしい。怪物は横から鉄球にでも殴られたような衝撃を味わい、大きく退けぞったものの、先の銀の弾丸に比べれば痛くも痒くもないような素振りで猿渡を離そうとはしなかった。

 ───そうだ。こいつは死んでいるんだ。

 氷室は混乱していた頭を冷やす。死から蘇ったものを如何にして完膚なきまでに殺すかという対処に困っていたが、その必要はなかったのだ。コレはもう死んでいる。とっくに息絶えているのだ。ならば、殺すべくは───!


「実弾は無駄だ! これはもう死んでいる!」


「───だったら」


 愛銃であるSIGのP220を下ろした聖十郎はジャケットの裏から白い麻布に巻かれたものを取り出した。乱暴にその布を解き、鈍い輝きを閃かせる銀色のナイフを手にする。この世ならざる狂気の芸術性を彷彿させる奇妙な彫刻が施された意匠の一品には、浅い象形文字が僅か五センチほどの短い刃に呪詛のように刻まれていた。

 魔術───それが何たるものか、漠然とした把握を得るに時間は掛からない。

 聖十郎は叫んだ。それと同時に銀の刃物を氷室へと投げつけた。


「中身をつぶせ、氷室ッ‼︎」


 すかさず氷室は動いた。異様な紋様に象られた刃に手を傷つけぬように注意し、投げられた銀のナイフを空中で巧みにキャッチした氷室は一切の躊躇なく、そのまま巨漢の背後から左胸へと刃を突き立てた。

 とても心臓へ届くような刃渡りではない。だが、左胸へとナイフを刺した直後、邪悪な装飾が彫られた柄を握る手が何とも気分の悪い熱を帯びた振動を感じた。思わず氷室が手を離すと、ナイフはまるで地を掘る魚のように左右に激しく揺れ、傷口を広げるように抉りながら、ついには怪物の中へと入っていってしまった。

 声にすらならない異様な恐怖。

 そして、次の瞬間には半身の怪物は苦悶の悲鳴を撒き散らしていた。獣の如き耳障りな雄叫びを発したかと思えば、周りにあるものへ見境なく身体をぶつけ、自分の肉体を掻き毟りながら、とにかく暴れ回った。

 やっとの思いで解放された猿渡が泣くじゃくりながら氷室の足へしがみつく。どうやら噛まれた痕から流れる血が目立っているものの、無事には違いなかった。だが、安心はできない。命の危機が去っても安堵を許されぬ狂気がそこに激しくもがいているのだから。

 未だ恐怖は顕在していた。部屋の真ん中に置かれた台をひっくり返し、風前の灯と化した芋虫のようにその場で踠き苦しむ半身の怪物は口からドロドロとした黒い液体を吐き出した。とんでもない量だった。一リットルはくだらない。よく見れば黒い液体は油のように虹が浮かんでいる。だが、油というにはあまりに粘着性と弾力に優れたスライムじみた物質であった。

 床へとずるずると広がる黒い粘液。

 濃厚な闇を形容するに相応しい暗澹の塊。

 絶えず男の口から吐き出される。

 半身の怪物───巨漢の遺体は、腹の中に溜め込んだ黒い液体を吐き尽くしたのか、肩が弱々しく上下するのを最期に、本来あるべき遺体の姿へと戻っていった。

 舞い戻った静寂は安堵とは程遠い位置にあった。三人の目は一面に広がった黒っぽい粘液へと注がられていた。

 これは恐怖。あるいは狂気。

 その液体は重力に逆らって───それ自体が意思を持つように───細い触手のようなものを天井へと伸ばす。氷室は抜いた拳銃を一切の活動を終えた巨漢の男にではなく、この得体の知れない黒の液体へと向けた。間違いない。この液体こそが、大男から死を奪った犯人そのものだ。この不気味な液体こそが、神話生物他ならない。


 引き金に掛ける指に力が入る。「撃つなよ、氷室」銃を構えたまま氷室の隣へ近づいてきた聖十郎が小声で言った。彼の銃口もまた黒い液体へ注がれている。


「下手に刺激すんな。ぶっちゃけ俺もコレの対処法はわからん」


「思い当たる文献はないのか」


「……ある。でも、それだけ。本当にそれだけ」


「さっきのナイフはどうした。もう一本ないのか」


「あのナイフは胡散臭いインディアンから買ったただの魔除けよ。一回切りの使い捨てだが、効果は覿面てきめん。コスパは悪いが、信頼できる一品。だが、ぶっ殺すには至らねぇ。それが難点」


「相変わらず、変な人脈を持っているな。───動くぞ」


 ぼそぼそと小声で話し合う二人を前に、黒い液体は触手のような細い腕を安置所の至る所へと伸ばし、自身が居るこの空間の隅々を把握するように壁や床を静かになぞり始める。液体であるから視覚はないのだろうか。氷室と聖十郎は息を呑んだ。依然として氷室の足に抱きつく猿渡は床を這う黒い触手が目前まで迫り今にも泡を拭いて気絶しそうな勢いだ。

 聖十郎が囁いた。───こいつ、俺たちのことに気付いていねぇ。

 氷室が答える。───もはや、液体なのかどうかすら怪しいが、視覚と聴覚は備わっていないと考えるべきか。

 異様な緊張が走る。汗が額からこぼれ落ちる。恐怖が呼吸を鈍らせる。できるなら、この場から離れたい。だが、それを許さぬ異形の化け物が目前に生まれてしまった。

 気の遠くなるような時間が過ぎた錯覚を感じた。黒い液体の化け物は触手での感知を終えたのか、長い触手を引き戻し、ゆっくりと巨漢の遺体へと向かおうとする。

 戻るつもりなのか。また死者を冒涜するつもりなのか。───ふつふつとした怒りが込み上げてきた。氷室は巨漢の遺体に哀れみなど抱いていない。だが、この醜い大男を生み出すために使われた何人もの死者は弔いを受けるべきだという気持ちはあった。

 もうやめろ。死なせてやれ。

 氷室の居た堪れない物憂げな視線に聖十郎は極めて真摯な表情のまま無言で頷いた。───どのみちこいつを野放しにするのはアウトだ。


「逃すかッ‼︎」


 自律する黒い液体へ二人は発砲した。効果があるかどうかはわからない。だが、弾の限り引き金を引き絞る指の力を緩めなかった。黒い液体の化け物は何も言わない。撃ち込まれいく弾頭が水面で衝撃を殺され、勢いもなく液体の中へ沈んでいくのが見えた。

 やはり、無駄なのか?───諦めかけた氷室の目に異質なものが飛び込んできた。

 黒い液体───ではなく、死に伏した巨漢の男の口から覗く黄金の目玉があった。目玉は焦点を合わせることなく悪戯にギョロギョロと辺りを見渡していた。氷室は気付く。この液体は大男の口から溢れ出て、その液体は未だ男の口に繋がっている。ならば、この目玉は黒い液体の部位と考えられないか。そして、実体があるから物理的な攻撃は通るのではないか。

 弾切れを起こした自動式拳銃に素早く新しい弾倉を叩き込む。リロード完了。すぐさま銃口を遺体の口から下界を覗く黄金の目玉へと向けた。目玉は、目玉という機能を放棄したかのように氷室の存在を視認しようとはしなかった。───発砲。目玉はいとも簡単に弾け飛んだ。それでも執拗に何発も撃ち込む。何発も、何発も───黒い液体の化け物が単なる液体へ変わったことに気づくまで。


「……もういい。死んだ。死んだぜ。やっと死にやがったんだ」


 微かな疲れを含んだ声が聖十郎の口から発せられ、銃を握ってから鬼気迫る表情を崩さなかった氷室は船が沈むような素振りで、恐る恐るベレッタを床に置いた。乱暴に撃ち尽くされた拳銃はスライドストップが掛かり、ゆったりと硝煙を吐いていた。

 ───まだ、情緒は安定しないな。

 氷室は咽せ返るような酷い呼吸を絶えず繰り返していた。口や鼻ではなく、肩で呼吸しているような様子であった。それでも数秒の時間を有して、位置のズレた眼鏡を正し、やっと氷室断はいつもの冷静沈着な物腰へと戻ることができた。


「無事か、猿渡」


「無事じゃないっすよ! メッチャ痛いっすよ死んじゃいますよコレ!」 


 涙で目元が真っ赤になった猿渡が「ほらココとか!」と血で染められた首元を指差した。確かに血の量だけなら重傷のように見えるが、9mm拳銃とはいえ、本来持ち歩くことすら許されない強力な炸裂弾を物ともしなかった大男の歯は骨まで届いていなかった。顎の力は巨漢の怪力に含まれていなかったらしい。大袈裟な血はもしかすると巨漢の男の血だったのではないか。───血が垂れ落ちた時は焦燥したが、杞憂だったらしい。

 そこで氷室は考える。つまり、あの怪物───黒い液体がまだ体内に潜んでいた時の遺体───はそれが自傷行為であろうと、猿渡に噛みつくという行為に何らかの意味、あるいは生物的な本能があっと見れる。怪物に殺意があったとすれば、「噛む」という行動は極めて非効率な行為だ。それこそ筋肉質の体躯を使って、氷室のように首を締め上げれば、猿渡の細い首ならあっさりと息の根を止められていただろうに。なのに、動き出した遺体は手頃な位置にいた猿渡に噛みついた。

 それは殺意ではない。捕食本能。

 人間が忘れた、食うか食われるかの世界における絶対的な意識。だから、あの遺体を住処にしていた黒い液体は、きっと、きっと───。


「腹が減っていたのか……」


「ひっぐ……氷室さん?」


「何でもない。とにかく命に別状は無さそうだな。そこでじっとしてろ。担架を呼ぶ」


「ひむろしゃ〜ん! まぁじ怖かったっすよ〜!」


「泣くな。あと抱きつくな。お前の血が俺の服にまで着いてしまっている」


 心底げんなりとしている氷室と一向に彼の足から離れようとしない猿渡。血だらけでさえなければ良い絵になっていた。

 二人の刑事のやり取りを見て、意地の悪いニヤケ面で笑う私立探偵は「あの氷室も今は頼られる立場か」としみじみと物思いに耽けていた。氷室がさりげなく睨むと彼は緩んだ頬のまま両手を挙げた。それは何の害もないことを示すサインだったが、表情が嘘を物語っていた。

 武田聖十郎。私立探偵。元刑事であり、氷室断の上司だった男。

 彼はだらしない無精髭を手で触りながら、泣きべそをかく猿渡へと近寄った。ニヒルな笑みを崩さず、飄々とした風貌で、つい先程に得体の知れない化け物に躊躇なく銃弾を撃ち込んだ者とは思えない気楽さで、彼は言った。


「まあまあ、若いの。傷は浅い。加えてこんな場所だ。血なんて凍って固まってるさ。死にはしない。それにあれだけバカスカ撃ったんだ。署内の連中がすぐにでも駆けつけてくんぜ。そしたら、オメーさんは救急車で運ばれて一先ずの安息を約束される。良かったな。名誉の負傷だぜ」


 でも、と探偵は続ける。


「そんなに休んでる暇はねぇ。怪我も怪我だが、状況も状況だ。正体不明のカルト共が何やら妙なこと企んでやがる。こんなに派手に動いたのは三ヶ月前の事件以来だ。カルト共はたった九十日の間でほぼ不死身の兵隊さんを生み出しやがったのさ。そりゃコソコソする意味もないってもんよ。こんな怪物が何体もいりゃ警察なんて怖かねぇもんなァ」


 そう言って、彼は横目で一瞥した。ほぼ不死身の兵士の遺体を。その異常と言えるメカニズムを。


「まずいさ。まずいよ。俺ァ、このホトケさんを少し勘違いしていた。肉体に魂を縛りつけた屍人グールだと思い込んでいた。だから、銀弾を撃った。効果はあったが、あまりに薄かった。挙句にゃ、なんだあの黒っぽい液体の化け物は。……俺の記憶が正しけりゃ、あれは本当にマズいんだ。今回は小さい奴だったから殺せた。でも、俺が知ってんのはもっと大きいやつだ。いるぞ。何処かに。この街───赤無市に高層ビルなんざ丸呑みにできちまう正真正銘のバケモノがよ」


 脅すような口調で。呆れたような口調で。

 武田聖十郎は怯えて声も出ない猿渡から視線を外し、沈黙を貫く氷室へと見上げるような形で視線を送る。氷室断は苦渋を飲んだような顔を、鉄仮面を被ったように一瞬の内で元の感情に乏しい無表情へと正した。

 強がりではない。ただ臆するわけにはいかなかっただけ。

 かつての後輩の勇姿に、探偵は満足したのか、視線を猿渡へと戻す。


「まあ、こんなトチ狂ったおっさんの話を真面目に聞いてくれるお巡りさんなんて、天文課の人ぐらいだからな。他にも結構な数の組織が動いてるみたいだが、警察に任せるのが結局のところ一番信用できるワケ。痛いとか、怖いとか、今は我慢して、しっかり働いて貰わねぇと困るのよ。───だから、残酷な話をするようだが、慣れてくれ。あの黒っぽい液体の化け物とは多分、何度か遭遇することになるだろうからな」


 猿渡は思わず頷いた。気圧されたと言ってもいい。

 この胡散臭い私立探偵のことを猿渡要平はよく知らない。彼が天文課に配属されたのは約一年前で、その時から武田聖十郎というフリーランスの探偵は天文課に度々力を貸していた。

 元刑事で、氷室の元上司で、天文課の協力者で───それだけだ。それだけが猿渡に与えられた武田聖十郎という男の情報だった。ここに加えられるものといえば、彼がある界隈───あまり関わり合いたくないもの───ではそこそこ有名な〝魔に魅入られた探偵〟であるという噂ぐらいだろう。

 氷室断は過去に狂気の神話に触れて、ここにいる。

 猿渡要平も似たような経緯を持って、ここにいる。

 武田聖十郎はどうだろう。何があったのだろう。どのような過去があって、どのような挫折を味わって、そこにいるのだろうか。

 バタバタと外が騒がしくなってきた。激しい銃声を聞きつけて何人かの警察官が集まってきているのだろう。最初の発砲から三分程度の時間が経っていた。

 死体安置所は署内の中でも別棟に位置し、この棟には普段は使われない会議室や備品を詰め込んだ倉庫ぐらいしかなく、銃声であろうと他の警官への伝達には多少の時間を要する。それに加えてこの多忙。来るのが遅いと愚痴を漏らすのは同じ警察官としては躊躇われた。 


「さて、氷室くん」


 聖十郎は辺りの喧騒を嗅ぎ分けて、厄介な事情聴取に引っかかる前に本題へ移ろうと愉快そうな表情を氷室へ向けた。


「俺を呼び出したのは、この死ぬに死ねなかった遺体を始末することじゃあないだろう。なんせ、俺は探偵だ。依頼はあくまで調査に絞ってほしいんだがね」


 氷室は「ああ」と短く答えて、一枚の写真を私立探偵に渡した。放火事件があったハンバーガーショップ近辺の防犯カメラが捉えた奇跡の一枚───ソレを写真に収められたのはこれが初めてであった。ソレの行動範囲は防犯カメラを常に避けていて、その存在をカメラを通してとはいえ、確認できたのは快挙であった。問題があるとすれば、噂だけが一人歩きしていたソレ、、は紛うことなき少女の姿をしていたことだろう。

 儚い泡沫のような少女───〝黄金の瞳をもつ魔女〟

 聖十郎は目を細めた。薄く開かれた瞳は剣呑に写真に映るトンガリ帽子の少女を睨んでいた。防犯カメラの画角に辛うじて映った程度なのか、拡大の加工をし終えた画素の粗いものだったが、魔女めいた少女の黄金の左目ははっきりと目立っていた。


「ほほう。この子が〝書〟かい。随分と可愛いらしいじゃないか」


「その少女は既にカルト教団の手に落ちた」


「そいつはよくねぇな。で、どうするおつもりで?」


「我々は〝書〟の身柄を確保したい。そのためにも、武田、お前には教団の拠点アジトを突き止めてほしい」


 居場所ではなく、拠点アジト


「なるほど。やる気満々ってワケね」


「頼めるか」


「勿論。可愛い後輩の頼みだ」


 呆気なく危険な仕事の依頼を受ける私立探偵は「報酬はしっかり貰うがな」と言って、くっくっと噛み殺したような笑みを浮かべる。

 とはいえ、依頼の難易度は極めて高い。

 三ヶ月前の猟奇事件に加えて今朝の放火事件によって、今も尚、警察が血眼になって探しているカルト集団───巷では〝無名の教団〟と言われるその存在は、おおやけの存在ではないとはいえ、知名度としてはかなり高いものであるにも関わらず、誰にも発見されず、正体すら知られず、国家機関の目を欺いてきた実績がある。

 彼らの拠点を見つけるというのは至難の技。警察の尽力を持ってしても突き止められないその場所を一介の私立探偵に探し出せるのか……。


「今晩中には見つけてやるよ。なぁーに、難しい話じゃない」


 答えはイエスだ。


「お巡りさんが見つけられねぇ場所。いや、違うな。相手は人避けの魔術なんて使ってきやがるんだ。目撃者らしい人の頭を片っ端からいじくっていたとしてもおかしい話じゃない」


「記憶の改竄は、目撃者の中にそれらしき後遺症が何人も見られた。銃声───つまりは耳で聞いた感覚の記憶。人影───目で見た感覚の記憶。少なくとも、この二つの記憶を消去された形跡がある。間違いないな、猿渡」


「は、はい。確かに、銃声を聞いたような気がしたけど覚えていない。人影を見たような気がしたけど覚えていない。そんな証言ばかりです」


 猿渡の補足に探偵は景気良く頷いた。


それなら楽で良い、、、、、、、、。なんせ記憶なんてものは本来消えることなんてない。覚えていないだけ。忘れるんだよ。脳味噌の中にはしっかり残っていやがるのに、それを探すのが億劫になってるだけ。だから、いずれは思い出せる。

 カルトの魔術はどちらかというと、思い出すという行為にロックを掛けたんだろうさ。記憶を脳という箪笥の奥の奥に突っ込んで、鍵を掛ける。それだけ。人は思い出そうとしても鍵を探すのが面倒でそのまま忘れてしまう。

 忘却の魔術なら、それこそ「気がした」なんて記憶は忘れてしまう。ああ。これで間違いない。俺で対処できる」


 半ば感心したような様子の猿渡を見て、武田聖十郎は続けて言った。


「もちろん、魔術なんていう何でも有りの常識の範囲外には、本当に記憶を失わせるものもある。そうなると記憶は二度と手に入らない。永遠に、だ。なんせ、記憶以前の過去へ戻すからな。時間の波を徹底的に無視して、一分前、一時間前、あるいはそれ以上前の時間……過去の状態へと遡らせる禁忌の魔術。これに掛かりゃ記憶は消される。現在いまの自分が過去の自分に置き換えられちまったからな。なんて、過去の自分が持ってるはずないからな」


「時間の巻き戻し……」


 呟くように氷室は言った。


「まっ、これは与太話だ。そんな大それた魔術、それこそ、この〝書〟の嬢ちゃんぐらいしか知らないんじゃないか」


 ヒラヒラと大事な写真を摘んで聖十郎はくっくっと笑う。しかし、束の間、飄々とした態度であった彼は凍りついたように動きを止めた。片手で弄ばれた写真から目線が離れない。離せない。食い入るように写真の一角を凝視する。

 それは冗談みたいなものだった。

 できれば、冗談であってほしかった。


「……………………」


 写真───赤無市を混乱させる元凶とも言える〝書〟の魔女。

 少し考えれば、わかる話だった。

 今まで街中に仕掛けられた監視カメラを避けてきた彼女が、なぜ易々と姿を晒したのか。

 きっと、彼女にとっては未知の事態だったのかもしれない。経験のない不測の事態だったのかもしれない。だから、油断したのか、普段の対応を損なったのか。カメラの位置など頭から抜け落ちたのか。


「……なんつートコにいやがんだテメェ」


 武田聖十郎は天を仰ぎ見るような心境で、写真に映る魔女の手を引く少年を見つめていた。少年───とは見えにくい風貌で、帽子を深く被っているし、画角の都合もあってか半分も姿が確認できない男らしい人物。とても判別が難しい撮られ方だった。

 だが、武田聖十郎にはこの男が少年であることがわかった。わかってしまう。どれだけ写真が酷くても、どれだけ小さな痕跡であろうとも、こと武田聖十郎にだけはわかってしまう。


「俺の説教ははなから無駄だったか、景」


 ……巻き込まれ体質とやらは、彼が想像していた以上に深刻だったらしい。

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