黒い腕 前編 -⑻
私立水淵学園―――赤無市中央区に位置する国内有数の全日制マンモス進学校。高等部だけで在籍数二千人を超える大規模な運営を可能とする莫大な敷地は赤無市のほぼ真ん中で無遠慮に広がり、その外観は西洋文化の建築に強く寄せられた古めかしい煉瓦の街並みのようになっていた。
だが、その空気は決して奥ゆかしいものではない。
市内に住む学生のおよそ六割にも及ぶ生徒数を孕んだ校内はどこもかしこも若々しい活気に満ち溢れていた。熱と暇を持て余す学生が眩いばかりの集団となり、止まることを知らない爽やかな喧噪が響き渡る。青春とは何なのか。その答えが溢れ出ていた。
学生たちの節度ある自主性を重んじるという教育方針を掲げていると景は聞いていたが、放任主義の間違いではないだろうかと疑いを持った。
駐車場に車を停め、職員室を目指して校内を進む。現在、校舎として使われている建物は三つあり、学部などの理由によって隔てられているが、外観や内装に違いという違いは見当たらない。景か籍を置くことになる普通科は第二校舎と呼ばれる校舎に学室を設けられているが、向かうべき職員室は第一校舎という場所にあるため、第二校舎から渡り廊下などを経由して向かう。
時間的には昼休みなのだろう。第二校舎は外も中も束の間の休息に羽を伸ばす生徒でごった返していた。校舎裏でバスケットボールを楽しむ男子生徒や階段下に集まって談笑する女子生徒の脇を通り抜けながら、景は謂れのない視線を感じていた。
自意識過剰ならそれでいいのだが、今は顔を隠せるような帽子もない。なるべく普通を装った。
「かぁー、やっぱ若い子ってのはイイねぇー」
柔らかな風にふわりと揺れる花弁のようなスカートを何度もいやらしい目で追いながら、聖十郎はスキップでもしそうな足取りで職員室へ向かう。若々しい学徒の渦中では、ただでさえ聖十郎は目立つのに、鼻の下が伸びた心地よい顔で気色の悪いステップを刻まれては、余計に目を引くものとなっていた。赤みがかった黒を基調にしたブレザーに袖を通した景は呆れた表情で距離を取りつつその後を追った。どうか身内と思われないことを祈って。
「なんだよ、もっとテンション上げとけよ花の十代」
「うぜぇよ果てた四十代」
もはや暴言しか出てこない。
「いい
「ゴキブリにか?」
「景、おまえ口悪くなったな。そんなんじゃ彼女の一人もできやしないぜ、チェリーボーイ」
「ぶっ飛ばすぞ、ヒゲ」
「やってみろ、クソガキ」
そんなやり取りばかりしていた。
しばらくして、生徒の波が比較的に少ない第一校舎への渡り廊下へ出た。第二校舎とは異なる雰囲気が第一校舎にはある。この学舎で勉学に励む生徒の全員が特進科である。特進科は、将来有望なエリートを育てるために学園が最も力を入れている学科であり、水淵の看板と言ってもいい頭脳明晰な優れたエリートの卵が集まる場所である。耳を澄ませばカリカリと鉛筆を滑らせる音が聞こえてきそうだった。
その予感は当たっていたのかもしれない。昼休みであれ、校舎はしんみりとしており、第二校舎のような自由な喧騒はどこかへ消えていた。そのせいか、自分とは別の世界が広がっているのだろうと景は微かに尻込みをせずにはいられなかった。
ニガテなんだよ、こういう空気……。足を一瞬だけ止めた景に、今の今まで軽々しい様相を纏っていた聖十郎は低い声をかけた。
「言っとくけど、問題は起こすなよ」
「……わかってる」
「喧嘩なんてもってのほかだぜ」
「わかってる」
「オメーさんはこの学校でフツーに友達つくって、素敵な恋して、甘酸っぱい青春を謳歌しながら平凡なスクールライフを過ごすんだ。じゃないと少年院行きだぜ? 親父さんでも庇ってやれなくなる」
「わかってる。……わかってんだよ」
次いで聖十郎の呆れたような溜息が聞こえたが、聞こえなかったフリをした。それぐらいの抵抗しかできなかった。
「これが君の生徒手帳です」
校長室。
気弱そうな銀縁メガネをかけた初老の校長・
「これで君は晴れて我が校の生徒となりました。前の学校では随分と
先ほど聖十郎にも言われたことを釘を刺される形で言われ、蒸し返された苛立ちのあまり景は無意識に校長を睨んでしまう。
一瞬のどよめきが走り、すかさず聖十郎が景の頭を乱暴に押さえつけ「いやいや、すんませんねぇ!こいつ緊張してるみたいで」と笑いながら弁明した。校長と隣に居た教師の安堵の声が同時に漏れた。
「た、頼みますよ武田さん。本校としても彼を入学させるのは遺憾なものだったのです。しかし、理事長と君のお父さんが旧知の仲だということで、特別に、特別に編入を許可したんですから」
おどおどした口調でそう語る。
「
はあ、と嫌味な溜息。
曇り空が透けて見えるような一室の空気を名も知らない教師が咳払いで誤魔化した。
「校長、あとは私が」
「おお、すまないね、古高井くん」
さっと前に出る教師はどことなく爬虫類っぽい雰囲気をした男で、嘘みたいなチョビ髭が鼻の下から目立っていた。あと額の面積が限界まで広い。
「私が君のクラスになる二年A組の担任教師を務める古高井だ。学年主任も兼任している。詰まるところ、イエローカードの君は、特に私には逆らわないほうがいいということだ。
突然の英語だった。もしかしたら外国語の科目を担当しているのかもしれない。景はよそよそしく頷いた。退廃した髪の毛が生み出した遥かな荒野に絶妙な煌めきが走ったのだ。見事と言わんばかりの禿げ一歩手前の輝きに景は感嘆の息を漏らし、それをボケーと眺めていたので話を聞いておらず適当に頷いてしまった。
「ふぅん……。立場は弁えているようだな。よし。月曜日から登校してもらうわけなんだが、来たらすぐに職員室の私のところまで足を運ぶように。クラスに案内しよう」
さっとチョビ髭をなぞり、威嚇の目で睨みを利かせる。
「私の目が黒いうちは問題など起させんからな、覚悟しておけ」
景は直感的にこの学年主任は生徒からの人気が薄そうだと思った。髪だけに。
「いや~、いつパンチが飛び出すかとハラハラしたぜまったく」
校長室を出て、水淵学園の敷地内にある広大な駐車場まで戻ると聖十郎は呑気に背伸びをした。穏やかな太陽が千切れ雲の隙間から顔を覗かせている。心地の良い天気だ。撫でるような微風も春の終わりを告げる気など毛頭ないのか、かなり温かい。
「オメーさんもちょっとは我慢って言葉を覚えたか。感心、感心」
真っ直ぐ愛車である真っ赤なセダンへと向かう聖十郎の背中を追いながら、景は何処か怒りに満ちた表情をしていた。胸奥で溜まった泥のような懐疑の心情を包み隠さず、聖十時の大きな背中を訝しむように睨んでいた。それに気づかないほど聖十郎は鈍感ではない。
「なんだ浮かない顔して。もう嫌になったのか」
そう返した叔父の顔は飄々とした平然だった。
景はますます納得がいかなかった。
「……あんたはどうも言わないかよ」
「何をだ」
「俺は人を殺したんだぜ。あんたが教えてくれた、武道でよ」
景が期待していたような、やっと声に出せたという達成感はなかった。自虐的な虚しさだけが胸を刺す。挑戦的な口振りは精一杯の抵抗に過ぎなかった。
自分は人殺しをした。当時の状況がどうであったかなど然したる問題ではない。人を殺めたという結果が重要だ。藤宮景はある人間の命を奪い、世間に糾弾され、厄介払いの果てに武田聖十郎のもとに流れ着いたのだ。
彼は景の師父のような存在だ。どのような経緯や願いがそこにあったとしても、かつて弟子のように武術を教えた唯一の少年がくだらない喧嘩にかまけて、挙句の果てに殺人を起したのだ。―――許せるはずがないのだ。誰よりもこの男が。
聖十郎の心中は穏やかなはずがない。本当は藤宮景の顔だって見たくないはずなのに、今は面倒を見せられている。居たたまれないとか、不幸だとか、そんな生易しいものじゃない。武田聖十郎は怒りと失意が混ざり合った真っ黒な気持ちを押し殺しているに違いない。なのに、今まで殴りも罵倒もない。それが景には辛かった。
景は許しを請うつもりなどない。頭を下げて謝罪する気もない。ただ贖罪を受けろというなら甘んじて委ねるだろう。殴られる覚悟は常にしていた。不意に蹴られたって、首を絞められたって構わなかった。いつだって待っていた。
「殺したんだ。あんたの顔に泥を塗ったんだ。文句の一つや二つじゃ済まされないモンがあるだろ」
熱くなっていくのを感じた。だが、聖十郎は何の変化も見せてはくれない。
「別に。俺から言うことは何もないな」
聖十郎はさして変わらぬ表情でそう言った。それが景には納得できない。
「なんでだよ。あるだろ。責めろよ、俺を」
「もういっぱい責められてんだろオメーはよ。いまさら俺が言うのも気が引ける。それにな、オメーの親父さんがバカみてぇに信用してたんじゃ尚更よ」
「信用って何を」
「本当は、お前が人殺しなんてしてないって可能性だよ」
「―――っ」
不意に言葉を失った。
その反応を見て、何か満足したのか聖十郎は煙草を取り出した。だが、未だ学内であることに気づき、「喫煙者はツライね」とボヤきながらポケットに押し込む。
「あの人は身内にゃとことん甘いが、検察官としてはスゲー優秀な人だ。何の証拠も上がってねぇのに、私がやりましたっていう自白をわざわざ鵜吞みにするわけがない。電話越しで聞いたぜ、この事件は腑に落ちない点が多すぎる。1ピースまるまる欠けたパズルみたいだってな」
口を固く閉ざした景は無言の抵抗を謀る。拳が意味もなく新品の制服に皺を作り、震える肩が何かに怯えていた。───もうその話は終わったんだ。やめてくれ。心が叫ぶ声をおさえつける。
「加えて、こうだ。―――よりにもよって、
そこまで告げて聖十郎は力なく項垂れる少年を見た。彼は必死に何かを押さえつけようと踠いているように見えた。
「……俺は喧嘩しか能がねぇような最低野郎だぞ」
「俺からしてみりゃ、その能の中に人殺しの線引きはきっちり叩き込んだはずなんだがな。相手を立てねぇぐらいまでボコボコにするトコまでは教えたけどよ。
まっ、いくら
楽観的な感想だった。それでいて景を弁護しているような口振りでもある。
叔父はこういう人間だった。改めて思い出す。傍若無人な心の裏にはいつだって人の想いを守ろうとする優しさがあった。それが如何なる結果を招いたものでも彼は人の想いを信じていた。だから、殺人鬼であろうと武田聖十郎という人間はその想いを守ろうとするだろう。どんな過ち犯そうと彼はきっと責めることはないだろう。それが当人にとってどんなに残酷なことであったとしても、それが罰だと言い聞かせるように。
「真意がどうであれ、俺からしてみりゃ殺しちまったオマエはまだまだ未熟だったってだけで、その責任はオメーさんがちゃんと背負った。その顔見りゃわかんぜ。まっ、これに懲りたら喧嘩なんざやめるこった。ロクなことないぜ」
そう言い終えると、軽快なリズムを刻む着信音が重苦しい空間を引き裂くように聖十郎の胸元で鳴り響いた。
「はい。こちら武田探偵事務所、所長の武田です……って何だお前か。どうかしたのか―――……わかった、すぐに行く」
短い電話を切ると、鋭い眼光を得た聖十郎は「仕事だ」とだけ伝えて車に乗り込んだ。彼の纏っていた雰囲気が一瞬にして変わってしまった。どこまでも剽軽者であった武田聖十郎は今や一匹の虎のような圧があった。
唖然とする景に、叔父はいつもと同じように笑いかけた。
「悪いが急ぎでな。歩いて帰ってくれないか。ああ、でも、道わからんか」
「見くびんな。ガキじゃあるまいし」
「でも、方向音痴じゃんオマエ」
「うっせ。さっさと行けよ、探偵さん」
追い立てるように催促すると苦笑交じりに聖十郎はエンジンを蒸かし、愛車を発進させた。
「ちゃんと鍵かけてから寝ろよ、
そんな呪いのような別れ文句を残して。
遠くなっていく赤いセダンの背中をその場で見送って、景は呟いた。
「ツイてねぇよ、まったく」
少年の挫折は続く。
◇◇◇
このまま家に直帰しようとしたが、景は学内の購買へと足を運んでいた。
購買の施設は別棟にあった。とはいえ、距離は第一第二校舎から離れているわけではなく、靴箱から走って二分足らずで着くほどに近い。大きさは二階建てのコンビニと言えば伝わるだろうか。外から内まで既視感すら覚える装いの空間は学用品から弁当や菓子パンなどの食料品に加えて学生が大好きな甘いお菓子も取り揃えていた。ATMも完備されている。景は素直に感心した。すごい。
だが、目当てのものはそれではない。
景が購買部へと向かったのは、校長室での諸々の説明の際に言われた教材購入に関して、学科ごとに扱う教材が大きく変わるため、購買部で直接買わねばならない方針を思い出し、教科書などの下見を済ませておこうと思い当たってここにいるのだ。
昼休みもそろそろ終わるのであろう。購買部には生徒はほとんど残っておらず、居たとしても目当ての物をレジの婦人に渡しては駆け足で校舎へと戻っていく姿ばかりが見受けられた。景はそんな忙しい生徒の脇を通り抜け、購買部の二階にある教科書エリアへ向かう。そこは壁沿いに設置された本棚に教科書や学書が並べられているだけの簡素な場所だった。人もいないし、レジもない。景はやっと人間の輪から外れた空間に来たと思って、少しだけ安堵した。鼻歌でも唄ってやろうかという気分で必要な教材の値段をゆっくりとメモしていく。特に理由もなく他の学科の教科書も手にとってパラパラとめくったり、縁のない理系の問題集を怖いもの見たさにちらりと覗いたりしていた。
「……わっかんねーな。これホントに日本語か?理系って怖」
「おーい。そこのキミ、早くしないと授業始まっちゃいますよ」
すると後ろから声を掛けられた。階段から誰かが登ってくる音は感知していたが、購買部の従業員だろうと見向きもしていなかったが、声の幼さから生徒らしい。どうやら、親切にも在学生と間違われているようだ。
「いや、俺は……」
そこまで言って言葉に詰まる。転校生だから関係ないと言いたい気持ちは山々であるが、果たして藤宮景という暴力の化身みたいな人間が近々編入されるという噂がどこまで広がっているのか、それを考慮すると自然に言い淀んでしまう。
何も言えないまま振り返ると、両手に半端とは言い難い大量の本を抱えた小麦色の髪の女学生がいた。声から女性だとわかっていたが、想像よりかなり幼い顔立ちで、黒紅の制服でなければ危うく中等部の学生が迷い込んだのだと勘違いしていただろう。
手元の積み上げられた本の束が危うげに揺れるのをお構いなく少女は景に近づてきた。物珍しいからか、見慣れないからか。理由はいくらでもあるだろうが、いつまでも景が適当な答えを返せずにいたことが大方の原因であろう。
「あ、もしかしてサボリ? いけないですよ。ダメですよ」
返答に困っていると、そう結論づけられた。
「勝手に決めんな」
「だって、もうチャイム鳴っちゃいますよ。3、2、1、はい」
キーンコーンカーンコーン。
「ほらね」
「ほらねじゃねぇよ。サボリはテメェだろ」
校内全域に響く鐘の音がサボリの現行犯は誰かを教えてくれる。だが、サボリの少女は悪びれる様子もなく、普通なら湧いてくるだろう罪悪感というものを一切感じさせない。
サボリ慣れている。元サボリ魔の景は直感した。
悲しいものを見るような目をした景が不服だったのか、彼女はムッと頬を膨らませて強く物申した。
「失敬です。わたしはちゃんと保健室で休んでいるという
「同じだろ」
「他に目的があるのはサボリとは言いません。わたしの脳内辞書にはそう書かれております」
「そんな辞書燃やしてしまえ」
「頭の中は燃やせませんよ。残念でした。バカなんですね」
「喧嘩売ってんのか」
「まさか。暇じゃないんで」
エッヘン、とでも言いそうな顔で平らな胸を張った。そのせいでバランスを損ない、身の丈を超える大量の本が彼女の胸元で不安定にぐらぐらと揺れる。「うひゃっ」と情けない声が漏れた彼女は手の平を返すように助けを求める視線を景に送った。受取拒否は無理そうだ。
とりあえず、崩れ落ちそうな本の束をそっと押し込んで支えてやる。地震が時間を掛けて鎮まるように、本の塔がゆっくりと落ち着きを取り戻す。やがて、安静に
だが、慣性には逆らえなかった頂きの一冊がボサッと床に落ちた。景がそれを拾い上げると、タイトルには『知られざる宇宙の神秘⁉ ~宇宙人はキミのすぐそばに~』と書かれており、随分な胡散臭さが漂う表紙であった。───おかしいな。
「……ほどほどにな」
何だか面倒な臭いがするのでこれ以上関わるのはよそう。拾った本を少女の両腕に築かれた塔の頭に置く。そのまま流れるように颯爽と立ち去る背中に「ちょっとちょっと!」と悲鳴に近い甲高い声を浴びせられる。
無視はした。だが、それと重なるバサバサという音には罪悪感を抱かせるに十分な脆弱さが含まれていた。落ちた本を拾い上げて、鬱陶しそうに景は返事をした。
「なんだよ」
「暇ですよね? ちょっとこれ運ぶの手伝ってください」
これ、というのは彼女の両腕に抱えられている大量の本だろう。景は拾った本を本の束へ無感情に載せて、悩むこと素振りも見せずにきっぱり断った。
「嫌だよ。面倒くせぇ」
「いいじゃないですか、同じサボリ仲間でしょ」
こいつ、サボりを認めやがった。
「それともキミはか弱い女の子を放っておくような冷たい人なんですか」
「ああ。そういう人間だ」
「嘘ですね。実はいい人です。既に私の窮地を二回救っています」
「じゃあ、その二回で終わりだな」
じゃあな。後腐れない一方的な別れを強引に告げて購買を出る。か弱い非難の視線は今やちっとも痛くなかった。
(まったく、変な奴に会っちまったな。なんか最近そんなんばっかりな気がする。気を付けねぇと)
だが、その数分後、だだっ広い校内で案の定、道を間違え踵を返した景は何とも言えない気持ちに晒された。遠目でも
彼女のおぼつかない動きに合わせ、ぐらぐらと揺れる不安定なジェンガのような本の束が嫌でも目に入る。加えて、彼女の童顔が本の束が揺れる度に泣きそうになる光景を見せられては、考える余裕さえ与えられないにも等しい。結局、景の足は家路とは真逆の方向へと向いてしまった。
「あ、さっきのサボリくん」
「だからサボリじゃ……はぁ、もういい。半分よこせ」
つくづく自分が嫌になる。―――半ば強引にも本の束を奪って景は溜息をついた。
「で、どこに持っていくんだ、コレ」
その場所は今は部活棟と言われる旧校舎の三階に位置する狭苦しい部屋だった。
旧校舎は第一第二校舎から離れており、荷物を持って歩いていると十数分は掛かってしまった。旧校舎とだけあって古めかしい煉瓦で囲われた内部はペンキの匂いが強く残っている。廊下の床はぎいぎいと軋む音が鳴る木で、壁はところどころ割れている。……これでも耐震工事などは済ませてあるらしいからビックリだ。
童顔の少女に案内された部室は、元々教室として使われていたであろうことを一目で理解させる名残が滲んだ空間であった。居場所を失った机や椅子が後ろの方に追いやられ、部室の半分を占拠し、押し入れ感覚で詰め込まれた備品は秩序も無く溢れかえって、誰もいないはずなのに何やら騒がしさを感じさせる空間だ。真ん中には席を六つ繋げた長机が置かれ、机上はPCと乱雑に散らばる書類や本で満たされている。黒板にはチョークで「打倒!新聞部!」と書かれ、写真やら書類などが磁石で引っ付けられていた。ここが子会社のオフィスと言われても納得してしまいそうな忙しさが視覚に訴えかけてくる。
段ボールだらけの床を巧みに進みながら、比較的スペースが確保されている空間へ持ってきた本を置くと、一枚の写真がヒラヒラと何処からか舞い落ちた。
本に挟まっていたのだろうか。拾い上げると写真には、石棺に眠る人間であろうミイラの骨張った胸に突き刺さる一本の細長い何か……槍とか矛のようなものが写されていた。かなり古い。それを槍か矛だと思ったのは単純に細長い形をしていたというだけである。黒い包帯のような何かで全体を覆われているため、細長い槍っぽい何かがミイラに刺さっている以上の概要は写真からは得られない。
「趣味悪いなオイ」
「それ聖槍ですよ」
「うおっ」
ひょっこりと景の脇の下から顔を出す少女に驚きを隠せなかった。だが、少女は恥じらう様子もなく解説に舌を回した。
「神聖なものかどうかは諸説あるんですけどね。
もともと赤無市立博物館に展示されていたものなんですが、数ヶ月前に窃盗事件がありましてね。今はそれと違うレプリカが置かれています。まあ、窃盗されたものもそれと同じレプリカだったと言われているのですが、この窃盗事件で盗まれたものはその聖槍だけでして、金目のものを盗むなら他にも沢山あったのになぜ価値の薄そうな偽物の聖槍だけが盗まれたのかはオカルトマニアの間ではちょっとした話題になってたんですよ」
「は、はあ」
「元々その槍は古代エジプトの遺跡から見つかったものでして、本物はアメリカのマサチューセッツ州にある学院で厳重に保管されているんですよ。この街にあるのはそれを模したレプリカ。なのに、犯人はそれだけを盗んでいった。なーんか不思議じゃありません?
槍は、主に神霊を召喚するための祭具として用いられていた説が濃厚でして、神との交信には生贄を必要する定番のやり方で儀式を行っていたと思われます。写真のミイラが生贄ですね。正確な文献があったわけじゃないんですが、槍によって喚び出された神は破滅的な力を持ったもので───」
「ちょ、ストップだ! ストップ! そんないっきに説明されてもわかんねぇよ」
なぜか日が暮れるまで続きそうな直感がした景が急いで止めに入ると少女はハッと我に返ったようで、少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「失礼。私、こういうオカルトな話をする時は我を忘れて饒舌になってしまうオタクなので」
でしょうね。景は愛想笑いで流した。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。わたし『オカルト研究会』副部長の
「……藤宮景。来週からここに転校予定だ。説明やら挨拶やらで今日は来てただけで、決してサボリなんかじゃないからな」
「そうだったんですか。なるほど。じゃあサボリはわたしだけ、と」
なぜか寂しそうな顔する射鳥はポッドからお茶をいれて出してくれた。無造作に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろして熱い湯吞を受け取った。
「藤宮……聞き覚えのある名前ですね。確かにそんな名前の人が転校してくるとか、小耳に挟んでいた気がします。でも、わたし、そういう俗物的な話には疎いので」
「そうか。そいつは良かった」
静かに胸を撫で下ろし、喉を焼けるような熱さの緑茶で潤した。射鳥は湯気の中に顔を突っ込んで必死に息を吹きかけている。猫舌ならしい。
「ん。ということは部活動はまだ?」
「まあな」
「でしたら、是非とも我がオカ研に」
「ぜってぇイヤだ」
彼女の言葉に被さるように景は拒絶の意を示した。あまりの率直な否定に射鳥は口を尖らせる。
「なんでですか。楽しいですよオカ研」
「い、や、だ、ね。オカルトなんて大嫌いなんだよ」
「藤宮さんは現実主義者なんですか。その割にはアタマ悪そうですけど」
「馬鹿にしてんのか」
射鳥の表情は……あ、そっぽ向いた。
「好きとか嫌いとか、カンケーないですよウチは。部員は四人しかいないですけど」
「よく廃部になんねぇな」
「だから、躍起になってるんです。入ってくださいよ。一先ずは幽霊部員でも構わないので」
「お断りだ。他を当たれ」
頑な意志を見せる景に「では、ここはPRといきましょう」と不気味な笑みを浮かべて射鳥は机の上に置かれたノートパソコンを開いた。景としては興味の有無以前に単純にオカルトものが苦手だから断っているのだが、それはどうにも伝わっていないのかもしれない。
「ささっ、こちらをご覧に」と射鳥が手招きをする。大きな溜め息をついてから景は湯呑みを置いた。二人は対面する形で座っていたので、景はパイプ椅子を移動させ、射鳥の少し後ろからノートパソコンの画面を伺うことにする。小型ディスプレイには『あーかむチャンネル』というWebサイトが真っ先に表示されていた。景はそんなサイトを聞いたことも見たこともなかった。
「我れらがオカ研は我武者羅にUFOを探したり、肝試し感覚で心霊スポットに足を踏み入れたりなんていう青春の1ページみたいなことはしていません」
「してないのかよ」
「基本、陰キャの集まりなんで」
本当にPRする気あるのか。あるいは、滲み出る陰湿な人間性を看過されたのだろうか。景の不安の矛先はそこに向いた。
射鳥は画面に表示されたサイトを慣れた手つきで操作していく。インターネットに広くない景でも、このWebサイトが個人運営されたものだと何となく把握できた。少なくとも公の組織が管理しているものとは考えにくい単純な構造をしたものだ。
カチッとマウスが押されると、しばらくの処理の後にノートパソコンには膨大な量のチャット欄が流れ始めた。
「
カチカチと射鳥はマウスを動かす。
「日々の勉学という束縛から逃避したいがため、刺激を求め、あることないことをネットに吐き捨てていく。そんな取り留めのない学生たちの呟きを拾い上げ、まとめたサイトが『あーかむチャンネル』なんです。ようは水淵の学生によるまとめサイトです」
そこには確かに学生たちの他愛ない戯れが言葉となって踊っていた。虚実や妄言が複雑に絡まった毛糸のように這い、正体を持たぬまま他の者へと伝播していく一端が目の前で繰り広げられていた。
SNSが著しく普及した現代において、人々が吐き出す意味もない戯言はある一定の価値を得た。それは誰でもその無価値であるはずの呟きを知ることができるという価値だ。公共性と言ってもいい。誰の目にも入るということは如何に些細な情報であれ、伝播や拡散がされやすく、たとえそれが虚偽の塊であったとしてもその流れを止めることは誰にもできない。ましてや、その偽りの根源を突き止めることなど不可能に近い。
誰でも世界を騙すことができる。そのような現状が景の瞳にはありありと映っているように思えた。
「ほら、ここ見てください」と射鳥が指を差したページは、今朝のニュースで目にした『ハンバーガーショップ放火事件』に関しての掲示板であった。驚きを隠せないもの、独自の見解を挟むもの、実際に現場で写真を撮ったもの、単なる愚痴を溢すもの。様々な反応が言語という情報態になって流れていく。
だが、過激な呟きを残すものも少なくはない。ライバル会社の嫌がらせだとか、秘密結社の仕業だとか、玩具を得た子供のように憶測のない言葉ははしゃぎまわっている。
「昨夜の火事の噂がかなり挙がっています。わたしも何度かあそこで食事を取ったことがあるので正直ビックリですが、みなさんも同様の気持ちであったようでかなり荒れてます。滅茶苦茶です。情報が錯綜しています。ですが、この無法地帯のような掲示板にも必ず真実の痕跡は隠されています。どれが嘘で、何が真実なのか、わたしたちは選ばなければなりません。オカ研が知りたい真実のはただ一つ」
カチッとクリック音が鳴って、大量の情報の処理に追われるハードディスクが呻りを上げつつ新たな情報を絞り出した。
『火事の起した犯人は話題の新興宗教ってマジ?』
『なんか変なお札が焼けた状態でいっぱい見つかったとか』
『ソース不明だけど、噂では〝無名の教団〟が絡んでるっぽい(汗』
『アホくさwwwいるわけないだろ魔法をつかう宗教団体なんてwww』
と、普段の生活からは聞きなれない言葉が飛び交っていた。
「なんだこの〝無名の教団〟って」
「知らないんですか? そっか。転校生ですもんね。
彼ら〝無名の教団〟は世間が勝手に名付けた架空の宗教団体―――と一般的には認知されています。彼らは布教活動などせず、目立った行動もしない。何処に拠点を置いているのか。何を信仰しているのか。何を目的としているのか。それ以前に本当に存在しているのか。まったくの謎なんです。ですが、赤無市に何か良からぬ事件が起こると度々彼らの目撃情報が寄せられるんです。彼らは見た目が特徴的で、それぞれが奇妙なお面をつけているそうなので、目撃の情報が流れた時は決まって複数の目に入っています。それに噂によれば魔法を使うなんて話もあります。
今回の件も何人かの学生が証言しています。お面をつけた修道服姿の男たちを見た、と」
「お面……」
景は無意識に呟いた。何か胸の内に引っかかるものがある。掌がほんの少し熱くなった気がする。俺はそいつらを知っている───?
「それとこれはかなり
ドクン───心臓が大きく跳ねた。
何か途轍もない衝撃が脳を激しく揺さぶる感覚。気を抜けば嗚咽を漏らしそうになるほど身体の芯が震えている。景は自分でも理由のわからない恐怖にも似た感情に襲われた。
〝黄金の瞳をもつ魔女〟───その言葉が彼の凍てついた脳に熱い溶岩を流し込む。
悪寒に包まれた左肩を右手でなぞる。思い出してはいけない。触れてはならない。本能が叫んでいる。彼の全身がソレを知ることに多大なる拒絶の意志を示している。やめろ。やめるんだ。そんな言葉が脳裏に反響した。
彼が理解のできない震えに感情を支配されようとしている時、射鳥の心配そうな表情が視界に入ってきた。どうやら余程みっともない顔をしていたに違いない。
「大丈夫ですか、藤宮さん。なんだか顔色が優れないようですが」
「……いや、問題ねぇ。大丈夫だ。それよりもその魔女がなんだって言うんだ。それが知りたい」
景は本能に逆らった。知らねばならないという義務感に駆られた強い思いが心の奥底に芽生え、得体の知れぬ恐怖心に打ち勝ったのだ。
小首を傾げながら射鳥はマウスを動かした。カチッと何かが音を立てる。
『昨晩の火事の近くで例の〝黄金の瞳をもつ魔女〟を見たって情報、ホントなの?』
『マジマジ。ウチの部の先輩の友達の同級生の二個下の後輩の妹が見たって』
『それ他人じゃん』
『それならオレも見たって話聞いたよ。深夜の暗闇でもハッキリとわかるぐらい黄金の瞳が輝いてたって。それに魔女のトンガリ帽子なんて珍しいものを見間違えるわけないしね』
そんな呟きが目に入ってきた。
「〝黄金の瞳をもつ魔女〟は名前の通り金色の目を持った魔女のことです。魔女のような格好した小さな女の子を夜遅くに見かけたという話から都市伝説として最近話題になりました。
ですが、この魔女は目撃情報が囁かれているだけであまり刺激的な話は聞きません。もちろん、出会ったら呪われるとか目があったら石にされるとかそんな尾ヒレはついますが、信憑性は限りなく低いです」
射鳥が提示したチャット欄は
『てか、その魔女ってなんでこんなに有名になったの?』
『オレが知る限りじゃ、もともと名前が違ったんだよ。もっと物騒な名前だったんだけどいつの間にか〝黄金の瞳をもつ魔女〟になってたんだ』
『へぇ、もとの名前って?』
『たしか』
「〝黒い腕の魔女〟」
射鳥はそう言って、机の上に乱雑に散らばった書類の中からクリップでまとめられたファイルを引っ張り出した。
「〝黄金の瞳をもつ魔女〟あるいは〝黒い腕の魔女〟は今から三ヶ月前───二月下旬に初めて目撃されました。その時の噂はこうです。
深夜、人気のない場所でそいつは現れた。全身は真っ赤な血で染められ、獣のように鋭い黄金の目をしながらその容姿は幼い少女のそれであった。その少女はとても聞き取れない意味不明な呪文のような言葉を口にし、黒い腕をこちらへ伸ばしてきた。そう、黒いのだ。底知れぬ闇のように黒い腕だった。だが、もっと恐ろしいのは、その腕から無数の眼光が睨んでいたことだ。ぎょろぎょろと絶えず蠢く腕の目たちが一切にこちらを見た。そして、少女の背後から何か恐ろしい影が浮かび上がってきた。血が滴る音がした。獣がする呼吸のような息を吐き出す音がした。影はバケモノだった。無我夢中でその場から逃げ出した。追いかけてはこなかった。その代わり、遠くの方で何かおぞましい音が鳴った。肉が砕ける音……。そして、今でもときどき思い出す。少女が口にしていたあの声を。
〝テケリ・リ……テケリ・リ……〟」
射鳥がそう資料を読み終えると、少し悪戯っぽく微笑みながら「けっこう怖いでしょう、この噂」と得意げに聞いてきた。
だが、景はそれどころではなかった。
間違いなく彼はコレを知っていた。濃霧に包まれたように全貌を明らかにしない不確かなソレは失われた記憶に何度も力強いノックを鳴らす。知っている。知っているはずなのに、覚えていない。思い出せないのに、こんなにも胸が締め付けられる。
焦燥───何も言えないまま、景は強引に射鳥の手からその書類を奪い取り、精密に調査された魔女の情報に関する資料を喰らいつくように読み始めた。彼の豹変した行動に、豆鉄砲を食らったように目を丸くした彼女だったが、景がオカルト話に食いつくたと判断したのか満足げに鼻を鳴らした。
「当時〝黒い腕の魔女〟はそれほどの知名度はありませんでした。しかし、最初の噂が出てから徐々に他の人も目撃するようになったんです。ただし、初めの噂にある黒い腕やバケモノなどの記述は見当たらなくなって、黄金の瞳だけが伝わっていったんです。この手の噂は怪談に近い部類のものです。要するに怖がらせてなんぼの話なんです。なのに、聞き手が一番怖がる黒い腕とバケモノの部分が噂から無くなるのは些か妙とは思いませんか。口裂け女の裂かれた口が無くなってるようなもんです。そんなつまらない噂が広まるわけがない」
射鳥はそう断言した。
噂というものは、総じて特定の形を持たない。元の形が不明瞭であるからだ。誰が最初に語ったか。いつの時代に語られ、いつの時代の物語であるのか。必須ともいえる情報がない。それらを探り当てるすべは残されてはいない。拡散と変化を繰り返し、徒に増幅をしていった噂の根源など何処にもないし、何処にでも転がっている。大多数から認知される統一の形を持てない理由はそこにある。
噂が形を持てない理由は語り手にもある。
場所や地域、民族間によって正しく語り継がられていく伝承とは違い、噂は語り手を選ばない。誰であろうとその物語を語り継ぐことができるし、誰でもであっても聞くことができる。そして、その解放的なシステム故に噂の内容は語り手に一任される。噂には
そもそも語り手が十として語ったものを聞き手が十として受け取るとは限らない。聞き手には聞き手の感性がそこには混在するからだ。そして、聞き手が次の語り手に変わる。自らが咀嚼した噂を新たな聞き手に伝えるために創意工夫を凝らして語る。このようにして、噂の内容は粘土細工のように柔軟なものとして扱われてきたのだ。
噂というものが、如何に信用に値しないか。射取の目は語っていた。
「噂っていうものは、話し手次第でどうとでも形を変えてしまいます。ネット環境が著しく発達した現代においてもそれは変わりません。いや、むしろ悪化したのでしょう。なんせ規模がケタ違いです。SNSって、
でも、噂というものは無からは生まれないんです。必ず最初の語り手がいます。今回の件だって、誰かが〝黒い腕の魔女〟を見て、また誰かが〝黄金の瞳をもつ魔女〟を見たに過ぎないんです」
「つまり、何が言いたいんだ」
「これは噂が形を変えたのはではなく、噂の主役たる魔女が変わったのではないかと推測します。噂の発信者は〝黒い腕の魔女〟を見たのに、それを〝黄金の瞳をもつ魔女〟と認識したんですよ。なんせ黒い腕もバケモノもいないのですから、そう呼ぶしかありません。
不思議な話です。都市伝説が自ら姿を変えたんです。もちろん〝黒い腕の魔女〟と〝黄金の瞳をもつ魔女〟が別個体である説もありますし、そもそもそんな話はすべてまやかしであるなんてのも当然のことながらあります。しかし、ここ最近〝黄金の瞳をもつ魔女〟の目撃が急増しています。それと同時に〝無名の教団〟の目撃情報や不快な事件が立て続けに起こっているんです。昨夜のハンバーガーショップの一件もそうです。
何かが繋がっている。……私たちオカ研はそう判断して、今は独自の調査を行なっています。藤宮さんも興味がおありなら是非とも我がオカルト研究会へ」
射鳥がそう話し終えると喉が渇いたのか、少し冷めた湯呑みに手を伸ばした。喉が砂漠となっていたのは景も同じだった。意味もわからない冷や汗と全身に駆け巡る異様な熱にうなされた彼は今や魔女に関する書類に釘付けとなっていた。
魔女は三ヶ月前に現れた。
最初は〝黒い腕の魔女〟として噂が
そして、魔女は二ヶ月前に再び現れた。
その後に〝黒い腕の魔女〟と容姿が酷似している〝黄金の瞳をもつ魔女〟が話題となる。改名された理由は、目撃された魔女らしきものに黒い腕が見当たらなかったからと予想される。そして、前者には無かったはずのトンガリ帽子が後者には当てはまり、魔女としての容姿がより想像しやすいため、これが大きく伝播されたと考えられる。だが、何より〝黄金の瞳をもつ魔女〟は度々新たな目撃情報がネットを中心にあがっていたのだ。赤無市内で頻繁に目撃され、その話題の熱が冷めることはなかったという。
魔女はなぜまた現れたのか。魔女はなぜ姿が変わったのか。
景は文書を眺めて、奥歯を食いしばった。何か後一歩で思い出せる気がする。なのに、届かない。届くはずなのに、この手がそれを拒むのだ。そんな苦渋の思いを感じながら、次のページへと書類をめくった。
「こいつは……?」
小さな紙がファイルの合間に挟まっていた。コピーされた参考資料だろう。目撃者による〝黄金の瞳をもつ魔女〟のイラストだった。
それはあくまで絵に過ぎなかった。目撃者が当時の記憶を頼りに描いたイラストは色鉛筆を丁寧に使い、なるべく自分が目にした本物へ近づけようとする想いが伝わってきた。だが、真っ黒に彩られたトンガリ帽子は黒い鉛筆でこれでもかと殴り染められ、金色の瞳を持つ表情はどこか暗い。その目が正気を宿さぬ虚無であることを表現するように色は極めて薄く添えられていた。
そっと彼は絵の中に佇む少女に触れた。網膜に焼き付かれたように絵の中にいる少女の儚い笑顔が光芒となって澱んだ脳裏に翻す。───知っている。知っているとも。
景はその絵に心を奪われた。そして、彼の中で一つ確信したことがあった。藤宮景は〝黄金の瞳をもつ魔女〟を知っている。一度会ったことがある。だが、その記憶は無い。彼女との記憶は景の中には残されていない。
───俺はこの子を知っている。
心が激しく揺さぶられるのを感じた。
───名前は、名前はなんだ。
思い出せない耐え難い苦痛が胸にあった。
───この子は俺の名前を呼んでいた気がする。
浅い記憶の海がこれ以上は何もないことを伝えていた。
───なぜ、呼んでいた。
藤宮景にそれはわからない。
何もわからないから苛立ちだけが加速する。怒りという感情が深い海の底で燻っている。だが、それは浮上するキッカケを失い、錆びついたエンジンのように轟々しい音だけを虚しく水面に震わせていた。
眉間のシワが深い溝を作り、神妙な眼差しが研がれた刃のように絵に注がれる。射鳥は怪訝そうな顔をした後、小さく咳払いをした。
「と、まあ、面白い話題に飢えた学生が同じ場所でペンを握るというだけで、こんなにも情報は錯綜するんですよ。その中から信憑性の高いものをピックアップしたり、散りばめられた複数の情報を繋ぎ合わせたり、吟味を重ねてより真実へ近づこうとする。それがわたしたちオカ研の活動ですかね」
そう綺麗に締め括った射鳥だったが、次の瞬間には座っていたパイプ椅子から転げ落ちそうになった。バンッと机を叩き、食い入るように身を乗り出した景の真っ直ぐな瞳が眼前に迫っていたのだ。
「な、なな、なんですか?」
「これは……こいつは今、どこにいるんだ」
「へ?」
少年の真剣な眼つきが射鳥をますます混乱させていた。
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