黒い腕 前編 -⑺

 憂鬱な夜が深みを増す深夜一時前。

 景が歩く赤無市西区の狭い路地には数多くのマンションが建ち並んでいた。必死に背を比べ合う高層マンション街とは違い、ここでは物静かでありたいという希望が全面に押し出されているようにこじんまりとした雰囲気があった。

 何気なく顔を上げても夜空ははっきりと拝むことができる。景は途中で寄ったコンビニの買い物袋を弄びながら更に狭い路地へと入る。そうして、互いの肩と肩をぶつけ合うような間隔で佇むマンションの行列にひと際目立たない建物を見つけ、足を止めた。スマホの画面を開き、何度か確認を終えてぼそりと呟いた。


「ここかよ。しけてんなぁ……」


 単調に形容するなら普遍的な建物であった。1980年代の好景気バブルの勢いに任せて建てられたのであろう当時の欧風モダン的な外観を持つ三階建ての普通のマンション。咲いては枯れていく時代の成長に追いつけず、大した変化もなく錆びゆくままに残ってしまったような、平たく言えばどこにでもあるようなシミジミとした風格がほのかに漂っていた。老朽化のせいか、壁の塗装は所々はがれており、全体的にもどんよりとした物寂しさがある。

 肩身の狭い一帯である故に、駐車場というものはもちろん無く、あてがわれた駐輪場には原付バイクと自転車が数台止まっている。入口から顔を覗かせると真っ直ぐとした廊下が見えた。その左右に三つずつ玄関が並んでいる。省エネだろうか、電灯はやけに薄暗いが、張り替えたばかりであろうタイルの床には光が浮かんでいて良い味を出している。

 景はアパートの周りをウロチョロしながら、その全貌を見上げる。すると三階の窓にこれ見よがしに『武田探偵事務所』という名前と電話番号がビニールテープで書かれていることに気づく。


「こんなありきたりな住宅街で探偵って、バカじゃねぇの……?」


 はっきり言ってこんな場所で営業するのは相当アタマがおかしいと思える。だが、あの叔父ならやりかねん。やりたいと思ったら即行動が信念であった叔父のことだ。深く考えていないのだろう。

 中に入り、廊下の真横にあった階段を上る。無意識に重くなっていく足腰に鞭を打って、目的の三階へ着く。一階同様に細い廊下が薄暗い電灯に照らされ、沈殿したような重みのある空気を溜め込んでいた。一階の廊下と唯一違うのは床のタイルがかなり古く、恐らく張り替えられていないという事実だろう。外からの見てくれだけは良くしようという管理人の心構えが滲んでいる。確認していないが二階も三階と同じく手をつけられていないに違いない。

 廊下を進むと、これも一階と同じく左右に玄関が合わせて六つ並んでいる。生活感はあまりない。夜だからか。それとも、家というモノに寝床ベッドとしての利用価値しか求めていないからか。景は後者だと思った。なぜなら自分がそうだからだ。

 番号は301から306まで。空き室は一つしかなかった。それも今、なくなってしまうのだが。


「さん、まる、さん……」


 彼は扉の前で立ち竦んだ。表札に名前はなく無感情に303号室とだけ綴られており、最奥ということもあってか、ここは一段と暗さが際立っているように感じる。

 深呼吸してから扉に手をかける。鍵は当然のように閉まっていた。


「えっと、なんだっけ? あー……タヌキのケツってなんだ」


 スマホの画面には叔父との質素なやり取りが残っていた。ただ、景が送った『かなり遅れる』という連絡に対して『鍵は狸の尻』とだけ返信されている。恐らくは、直接渡すはずだった景の新居である303号室の鍵を隠しておいたので拾って開けろという趣きなのだろうが、肝心なところが意味不明である。

 しばらく考えてみるも答えは一向に出ない。辺りを見渡しても狸も猫もいやしない。廊下の隅に貧相な蜘蛛の巣が張ってあるぐらいだ。


「もしかして、俺、野宿か」


 すでに外でガチ寝をかましている身分なのだが、個人的にあれは不可抗力だと感じている。なぜなら、睡眠に至るまでの過程の記憶が一切ないからだ。赤無駅に着いたところまでは覚えている。だが、それ以降の時間は赤無モールで迷子になりかけた辺りから朧げであり、ついに何も思い出せなくなった。

 きっと、記憶が飛ぶぐらい精神が疲れ切っていたせいだ。思い出したくもないここ最近の多忙は景の胃に穴を開けるような陰湿なものばかりで、気付かぬうちに心がやられていたに違いない。


「つーか、こんな連絡したか俺? 遅れるって、外で寝る気満々だったのかよ」


 自分はそんなに野性的な人間ではないと自負していたが、これは失笑ものである。


「あ」


 丁度その時、背後からガチャリと扉が開く音と共に女性の声が聞こえた。303号室の向かい側に位置する306号室の方だった。振り向くと甘い香水の匂いが押し寄せてくる。そこにいたのは二十代後半ぐらいの化粧の厚い女性だった。その服は露出の多いドレスのような鮮やかなもので、その上にベージュ色のコートを羽織っている。女性は今まさに出かけようと廊下に足を踏み出したが、そこには見知らぬ少年がいてびっくりして動きが止まった。察するにそんな状態だった。


「こんばんわ」


「どうも」


 会釈を交わして扉に鍵を閉めた後、我関せずといった感じで女性は早々に立ち去る。こんな時間に化粧をして何処へ行くのだろう。そんな疑問は湧かない。水商売だろう。ちょっと気まずい。

 景は女性にならって居心地の悪い空気を機械的に受け流そうとしたが、一瞬の判断の末に急いで声をかけた。


「あっ、ちょっとすんません」


 カッカッカッ、という高いヒールの音が止まり、女性は羽のような瞼を瞬かせながら振り向いた。恥ずかしさを押し殺した景は意を決して訊いた。


「このへんにタヌキいませんでしたか」


 自分でいうのもなんだが、メッチャ馬鹿だと思う。

 女性も大変困った顔をしていらっしゃる。無言のまま首をかしげてしばらくく、何か合点がいったのか、景の居る場所から少しズレた302号室の方をゆっくりと指さした。玄関の前には魔除けの盛り塩と傘立てであろう陶器が置かれていた。

 そして、気づく。―――この傘立て、タヌキの顔が彫られていやがる!

 まさかと思い、景はすぐにその狸型の傘立てを動かした。すると、その下に念願の鍵を見つけることが叶った。


「あった!」


 喜びの声を上げるとすぐハイヒールの子気味良い音が響き始めた。景は急いで頭を下げて御礼を言った。その後、心のメモに向かいの人は良い人と記しておく。今度ちゃんと挨拶しにいこう。

 ところで―――景は302号室を睨んだ。『武田探偵事務所』と表札に書かれていた。

 さらに掛札には『お悩みご相談があればお気軽にどうぞ!』と自己主張の激しい墨で書かれており、なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらい異様な雰囲気を醸し出していた。本当にやる気あんのかと疑わしい気持ちを抑え、景は303号室の鍵穴へカギを差し込んだ。カギを回すとカニみたいなマスコットキャラクターのキーホルダーが中に仕込まれた鈴の音を騒がしく鳴って、扉はやっと開いた。

 303号室―――彼自身も初披露となる景の新たな家は鬱めいた影を落としていた。重たい扉から覗くと靴箱すらない小さな土間が見え、その奥はひたすら暗い。

 靴を脱いで電気を付ける。パッと明るくなって極短い廊下の終わりを知らせた。数歩程度しかない廊下の横にはこじんまりとした洋式トイレと湿気の強い小さな洗面所があった。風呂にカビが目立つ以外、これといった不満はない。

 居間は普通だった。いち高校生が住む場所としては十分すぎる大きさだろう。布団を置けばすぐにでも窮屈に感じるであろう八帖の広々とした空間はLDKというもので小型のキッチンも備え付けられていた。エアコンもある。快適だ。

 部屋の真ん中には三個ほどダンボールが置かれている。もちろん景の私物だ。先に送ってもらった衣服などの最低限の荷物だろう。だが、その奥で当然のように居座る平たいローソファーには身に覚えがない。


「なんだこれ」


 かなり中古臭い鼠色のそれは触れただけで絶妙に忌々しい固さを感じさせた。弾力性の衰えがわかる。中に入っているであろうスプリングがほぼ死んでいるのだろう。生地もザラザラしていて粗末なものだし、染みこそ無いが総じて傷んでいた。

 こんなゴミみたいなオプション頼んでない。察するに前の住人が処理をすっぽかして置いていったのだろう。管理人も家具を捨てる労力を惜しんでそのまま放置していたのか、埃が溜まっていた。ここに住む者として憤慨すべき事案である。即刻クレームを言った方がいい。


「……まあいいか」


 何かも面倒くさくなった。肩は誰かぶら下がってるんじゃないかと疑うほど重いし、血でも足りてないんじゃないかって考えてしまうほど頭がクラクラする。気を抜けば自然と溜息ばかりが宙に舞う。すべてが鬱めいて見えるのは自分のせいだ。一回気持ちのリセットだ。

 荷物を置き、電気を消した。

 ぱっぱっと埃を叩いてから固いローソファーに腰を下ろす。座り心地はもちろん悪い。公園のベンチとどっこいどっこいだ。何となく馬鹿らしくて笑っていると、ソファーから紫煙の香りが薄っすらと感じることができた。元の所有者は喫煙者だったか。せるような芳香に誘われて、景も煙草を吸おうという考えに至った。―――しまった。タバコはリュックの中だ。

 結局、大した葛藤もないまま煙草を諦め、不愉快そうに足を投げ出して横になった。この不親切なソファーの大きさでは彼の図体を収め切ることなど到底できるはずもなく、太股から先は完全にフローリングの上に突き出ていた。寝心地は想像にお任せする。

 夜という自然に身を任せた室内は真っ暗というわけではなく、バルコニーに繋がる大窓から漏れる艶めかしい月の光によって幻想的な静寂なる輝きを保っていた。緩やかな光が景の顔を覗き込んで、姿を失った不安を意地汚く掻きまわす。今夜はよく眠れるかな?―――そう煽られているような気分。

 孤独感が動悸を激しく加速させ、逃げるように帽子を顔の上に乗せて光を遮断した。

 明日、真っ先にカーテンを付けよう。そんなことを思ってから瞼を閉じる。掛け布団ぐらいならダンボールを漁れば出てくるが、今はそれすら面倒くさい。

 そういえば、メシを食べていない。コンビニで夕飯のカップ麺を買ったが、空腹は一向に感じず、手を付ける気にはならない。最後に口にしたのは腐ったおにぎりだったはずなのだが奇妙だ。


「……てか、お湯ねぇじゃん」


 今さら気づいて、もう色々と馬鹿馬鹿しくて、やるせなくて、不貞寝を決め込んだ。



 ◇◇◇



 白い世界が広がっている。

 螺旋状の宇宙を貫く巨大で歪な鳥居が遠近感を狂わせる白痴の空間。いや、ここでは数字や感覚は意味をもたない。すでに狂っているのだろう、この世界は。

 空に浮かんでいる赤い鎖にからめとられた蝶が絶えず黒っぽい液体を吐き出して、それに群がる片翼の蛾が意味もなく死んでいく。毒と知りながら命乞いをするように眼下を潤す血を舐める。

 意味はない。この世界に意味など見当たらない。

 街で見かけた標識柱に刺さる人影。白線の上を歩く子供の振りをした狼たち。無意識という虚妄の延長線上に佇む深層が仮初の姿をもっただけに過ぎない。

 なぜなら『夢』だから。燃え残った煤だらけの椅子に座る彼は呆然とそれらを眺めながらこれを『夢』だと知覚した。

 すると、目の前でいつかの少年が無邪気に机にナイフを突き刺した。どん、と音が鳴って両翼を携えた蛾が腹を刺されて命を絶った。彼は無感情にそれを見つめた。


 おもしろかったよ。でも、終わりだね。


 少年はケタケタと笑いながら、その死骸から鮮やかな羽根を一枚むしり取る。死してなお色褪せぬ悪徳の淡い白が少年の無と言えぬ邪気に弄ばれひらひらと揺れる。彼は黙ってそれを見た。

 昼下がりの森の奥で開かれるお茶会のような感覚で向かい合う二人。彼は心ここにあらずといった感じで上の空な目線をありもしない地平に投げている。対して少年は上機嫌に死骸で遊びながら笑っている。

 

 これで君の非日常は幕を閉じたってコト。よかったね生還できて。ちょっと物足りないけど、あんなもの、、、、、に出しゃばられたら腹を抱えながら喜劇として完結するしかないじゃないか。


 彼に少年の言葉は伝わらない。すべてが夢幻の戯言のように聞こえる。少年は悦に浸りながらその羽根を机に押し付け、白桃の鱗片で文字を描く。―――『エノ』と。

 その名前さえ、彼には届かない。

 その無と言える反応に満足したのか、意地悪そうな笑みを浮かべて少年は立ち上がる。そういえばさ、君はいったい何を恐れていたの?

 彼は机に刺さったナイフを抜き、片翼の死骸とすっかり薄くなった羽根を大切そうに手で抱えながら応えた。なんだろうな。もう忘れちまった。


 手の平に包まれた蛾は、かつて蛹から成虫へ進化したように『無』へと変貌する。死は風化という手段を用いて無へと姿を変え、過ぎ去る時が加速して、止まれない哀れが老いということを教えてくれた。それが少し悲しい。

 この蛾は少年の理不尽に殺された。それは避けられない運命だったのだろうか。少なくとも万物は皆、死という宿命から逃れられない。だが、それは来るべき時があるからそう言えるのであって、この蛾が得た死は宿命とは程遠いものだったのではないか。

 一匹の蛾に与えられた生命の死が無に変わる瞬間を見届けた。死とはこんなに安いものだったのか……。

 無窮の空へ旅立つ遺灰に別れを告げてから、彼はこう付け加えた。

 たぶん、負けたくなかったんだ。

 少年は言った。なにに?

 彼は言った。運命ってやつに。

 少年は噴き出した。その場でうずくまり、勘弁してくれ、と笑い転げる。そんなものに勝てるわけないじゃないか。理屈というか、根本がおかしいよ。

 涙目になりながら少年は彼の背後に立って、その首に抱きついた。体温は感じない。凍えるような無機質の冷酷がズルズルと引きずる呪いとして巻き付いたのだと直感する。

 やっぱり、きみのことは大嫌いだ。でも、これで確信した。きみはまだ抗うんだね、絶対的な世界のことわりに。

 彼は眉をひそめた。世界ってなんだよ。誰だよ。

 少年は言った。神だよ。

 彼は言った。それって、おまえか?


 返事はかえってこない。もどかしい抱擁を振り払って、睨むように振り向くと少年の柔らかな微笑が待っていた。そっと人差し指を唇に添えられる。


「ナイショさ」


 期待しているよ。より深い悲劇ってやつをさ。

 そんな囁きを残して、夢は終わる。



 ◇◇◇



 目が覚める。

 見慣れない天井と煙草の残り香。

 知らない場所にいる―――寝ぼけた頭がほんの一瞬だけ勘違いを引き起こすほど、太陽の光を浴びた温かな自室は新鮮だった。

 つけっぱなしだった腕時計は朝七時を示している。身体を起すと節々が痛い。間違いなくベッドの代わりに使ったソファーのせいである。疲労が取れていない。ダルい。未だ肩に違和感を拭えない。健康と言い難い体調だ。だが、不調を言い訳にこの空っぽの部屋で何もしないというのは些か違う気がする。やることは山のように溜まっている。

 昨夜のコンビニ袋から麦茶を取り出し、乾いた喉に流し込む。食欲もいよいよ復活したが、お湯も鍋もない環境でどう即席麺を調理しろというのか。あ、お風呂があった。……やめておこう。

 充電し忘れた死にかけのスマホを付ける。知り合いからの通知が数件あった。一瞥すると内容はこぞって引っ越しの話だった。悪い意味でメディアから人気のある景は情報漏洩を防ぐため、父からの助言で、友人らには当日になって報告を済ませたのだ。だが、昨日の電車での様子からして、全部無駄だったなと苦笑した。

 適当な返信をしていたら、ついに充電が底をついてしまい、叩いても返事をしなくなった。鞄から充電器を漁り、部屋の隅で充電させておく。ダンボールを開けて中身を漁り、歯ブラシやタオルなどの一式を手にもって、何もない洗面所へ向かった。備え付けの鏡がB級映画のゾンビみたな少年を映す。顔を洗ってみても、あまり変わらなかった。

 シャワーを浴びようとシャツを脱ぐと、鏡を使って肩の様子を確認した。

 付き合いの長い肉体がさも万全のように鏡に映っていた。よくスポーツマンと間違われる筋肉質な体躯は昔に負ったもの以外の傷は見当たらない。肩を指で押したりしてみても痛みはない。


「……別にケガとかしてねぇもんな」


 腑に落ちないと調子の優れない肩を不満そうに回しながらシャワーへと向かった。

 圧迫感のある狭いバスが温かな霧に包まれる。熱い雨を全身に浴びながら景はガラでもない考え事を続けた。やはり、この胸は何か欠けている気がしてならない。でないと、決して満たされない苛立ちがずっと足元にちらつくのは何故なんだ。

 忘れている。何か大切なことを―――。

 それが思い出せない。いや、思い出しようがない。なんせ、何を忘れたのかさえ出てこない。喉元で分厚い魚の骨が引っかかるようなもどかしさだけが先走る。

 忘れたんじゃない。失ったんだ。

 肩にそっと触れる。不思議と悪寒が走った。火照ったはずの身体にゾクッと駆ける異様な寒気。なぜ俺は生きているんだ、と沸き上がった疑問はそれ以上の浮上をやめた。熱いシャワーが洗い流す汚れの中に憂いは含まれていないらしい。景はシャワーを止めた。


 服を着替えて、濡れた髪も乾かさずに居間に戻ると、彼の目に仰天してしまいそうな光景が飛び込んできた。

 ソファーに見知らぬ男が足を組んで座っている。だらしない無精ひげが目立つ四十代ほどのダンディな顔立ちをしたスーツ姿の男が景の帰りを待っていたようにソファーに偉そうに腰かけている。景が唖然としていると鋭い目つきが緩んで素っ頓狂な声が響いた。


「よっ、久しぶり」


 見知らぬ男が手を振る。―――いや、景はこの男を知っている。


「タケ兄、なんで勝手に部屋ん中に―――おぶッ!」


 動揺も束の間、景に容赦ないドロップキックが炸裂した。

 そのまま間髪いれずにかの有名なコブラツイスト(超痛い関節技)を食らわせられる。


「オメーさんが鍵かけてねぇからだろうが、このマヌケ!」


「痛ててててててっ⁉ ギブ、ギブです、ギブギブ!」


 膝をペチペチ叩いて白旗を主張する。すると、急に拘束が解かれ景は床にずっこけた。

 ムダな体力使っちまったぜ、と呆れるように言いながら、藤宮景の母方の叔父であり現在の保護者代役である私立探偵・武田聖十郎は緩んだネクタイを強く締めなおした。

 この男こそ、景にありとあらゆる武道を仕込んだ張本人である。開幕ドロップキックも日常茶飯事であった幼少時代を過ごした景にとっては懐かしさもこみ上げてくる。もちろん、怒りもセットでだ。


「いきなり何しやがるんだ、このヒゲ!」


「何って挨拶だろ。バカに制裁という名の〝良い朝ですねグッドモーニング〟だ。夜遅くまで何してたんだ?」


「た、タケ兄には関係ねぇだろ」


「あるんだよ、残念ながら。その様子じゃ、鍵もかけずに寝てたんだろ」


 そう指摘され、景は小首をかしげた後に「あっ」と口を押えた。絶望的に隠し事のセンスがない。ゲンコツが頭上に落ちる。


「痛っ⁉」


「自業自得だ馬鹿野郎。チェーンぐらいは最低限かけろ。……はぁ、こいつは骨が折れるぞ」


 聖十郎はやれやれと肩をすくめて首を振った。


「だから言ったんだ、こいつに一人暮らしなんてムリだって。なのに、オメーの親父さんは甘いったらありゃしない」


「親父は関係ねぇだろ。ましてや、あんたにも」


「言っておくがな、俺はオマエの保護者なんだよ書類上。なんか悪さでもしてみろ、無人島に連れてってナイフ一本でサバイバル生活させてやるからな」


 この叔父ならやりかねない。前例として、昔に聞いたこともない山奥に連れていかれたことがる。とうの本人は用事があると言い、そそくさと当時十一歳の景を置いてどこかへ消えてしまったのだ。夜の森を子供一人がテントの中で丸まって過ごす様子を想像して欲しい。

 ぞっとする思い出が蒸し返される。野生の熊と睨めっこするのも二度とゴメンだ。景は何とか強がろうとして、舌打ちを吐き出すことぐらいしかできなかった。

 そんな微塵の反省心もない少年を懐かしい目で苦笑しながら聖十郎は手を差し伸べた。


「まあいいだろう。ようこそ。このクソッたれの街───『赤無市』へ」


 不愛想に景はその手を掴んだ。―――なぜだが、少し心が痛かった。




 場所は変わって隣の302号室―――『武田探偵事務所』の来客用のソファーで景はカップ麺の出来上がりを待っていた。

 聖十郎は奥のキッチンでコーヒーを淹れているらしい。コォー、という心地よい音が聞こえる。

 事務所というのは伊達ではないらしく、中身はそれ相応のデスクやテーブルなどの備品が揃っていた。所長である聖十郎の席には大量の書類が行き場を失って、上へ上へと不安定な塔を築いている。こっそり適当な書類をパラパラと覗いてみると『星辰』や『冥王星』と言った天文学らしい用語が難しい文章の中に見えた。どうやら論文らしい。景は頭が痛くなった。

 本当にここは探偵、、事務所なのか? 壁一面を埋める本棚とオカルト的な骨董品の数々が目を引いた。木彫りの像やトーテムポール。妙な色をした石に粘土細工の怪物などなど。魔除けだろうか、景にはどれも眉唾物にしか捉えられない。


「ほかに従業員はいねぇの?」


「ああ。前はいたけど辞めちまった」


「求人は出してないのか」


「うーん。この仕事も半分俺の趣味みたいなモンだからなぁ」


 そう言いながら半笑いで聖十郎は向かいの上座に腰を落とした。その手にはマグカップが二つ。聖十郎は何も言わず景の前にコーヒーを置いた。遠慮などという気遣いはドロップキックの時点で天に召された。景は黙々とコーヒーに口をつけた。ん、甘い。

 この散らかりようを見て、大雑把な性格故に聖十郎が片付けを苦手としていたことを思い出す。家事全般が苦手だった彼が今までどうやって生活していたのだろう。ふと奥の流しの近くにある膨れ上がったゴミ箱を発見してしまう。事務員ぐらい雇えないのだろうか。そんなに繁盛していないのか。


 おもむろに聖十郎がリモコンでテレビをつけた。朝のニュース番組のようだった。


『昨晩未明、赤無市西区にあるハンバーガーショップから火の手が上がっているという通報を受け、消防隊が駆け付けたところ、大きな火災が発生しておりました。数時間に渡る消化活動の末、店は全焼。店内にいた三人が軽傷。従業員の一人が顔中に火傷を負い、病院に運ばれました。命に別状はないとのことです』


「……そこそこ近いな」


 どうやら他人事ひとごとではないらしい。「ここから歩いて三十分ってトコか」湯気が立ち昇るカップを置いた聖十郎が言った。

 テレビの画面には深夜の暗黒を照らさんと忌々しく燃え盛る建物が映されている。必死に消化活動を続ける橙色の隊員たちがひと際強いモザイクの入った被害者を救助するシーンが流れると、景はすぐその人の顔が焼け爛れているのだと気付いた。どうやらテレビ局は消防服に付着した血肉までモザイクをかける時間はなかったらしい。

 このご時世だ。スマホで検索をかけると多分、無修正のグロテスク動画に辿り着くのではないだろうか。するつもりは微塵もないが。


『この件について、警察は放火の可能性が高いとして、調査を進めていくことを明らかにしました』


 画面が切り替わる。割れたガラスが広がる道路、現場近くのコンビニや古着屋、そして年老いた警察署長。何かに既視感があった。こんな場所に赴いた記憶はないのだが……。

 再び現場にカメラが戻った時、いつの間にかテレビに釘付けになっていた聖十郎は顔色を変えて「氷室……」と静かに呟いた。丁度、メガネを掛けた二枚目の刑事らしき男性がカメラの横を忙しく通った時だった。

 知り合い? と聞くと「まあな」と素っ気なく返された。元刑事の叔父だ。現役の警察関係者に知り合いがいても全然可笑しい話ではない。ただ、なぜ定年も待たずして退職してしまったのか、それは今でもわからない。

 聞く勇気も聞きたいという願望もなかった。景は割り箸を下手くそに割って、出来上がったカップ麺をすすり始める。少し伸びていた。でも、空腹というスパイスを得た彼にとってはそれでも旨かった。

 それからコメンテーターが独自の見解を述べる。ズルズルと言わせることに夢中になっていた景は大半を聞き流していたが、確かに誰かが『赤無市はこういう事故が多い』と指摘し、それに対しスタジオ一同が感慨深く頷いていた。


「この街で、おまえが平穏に暮らすために必要な常識ルールが二つある」


 突然、テレビを消して聖十郎はそう語りだした。足を組んでいた居住まいを正し、改まって真剣な表情をする叔父の姿に少し呆気にとられる。


「一つは、この街に蔓延る『噂』はすべて虚実まやかしであることをしっかりと認識すること。馬鹿正直に何でもかんでも鵜呑みにするな。いいな」


 聖十郎の強まる語気に押され、ワケもわからないまま景は何となく頷くと、同意に念を押すような目で話を続けた。


「そして、もう一つは、それらに決して関わらないことだ。この街の『噂』は特別、、なんだ。間違っても首を突っ込むな。―――じゃないと死ぬ、、ことになる。いや、死ねるほうがマシか」


「なんだそれ。意味わかんねぇよ」


 景は鼻で笑った。いきなり「死ぬ」だなんて言葉が出るとは思いも寄らず多少は驚いたが、冷静になってみれば全部おかしな話である。ついに叔父もボケたのか。


「バカみてぇだな。四十六になってヘンな方向に走ったのかよタケ兄」


 揶揄からかうように言ってやると予想に反して聖十郎は物憂げに微笑むだけだった。そうであれば良かったのに。そんなニュアンスが含まれていた。


「生憎、三十過ぎてからずっとこう、、さ」


 聖十郎はポケットから煙草を取り出し、黙々と苦い煙を吸い始めた。ニコチンにでも頼らないと喋っていられない。複雑で鬱蒼な意図が煙草の火を通して景には見えた。


「この街はいろいろと奇妙な事件が多い。信じられない。ありえない。狂っている。そんな非現実的な事件が山のように転がっている。それは大衆からしたら甘い甘いお菓子なんだ。非日常という刺激的で魅力的な大麻―――いや、この街では煙草これに近いな。なんせ、もっぱら手軽だ。

 そうやって非日常という煙草を吸い合って吐き出した煙が『噂』ってのになるんだ。人間ってのは不思議なモンでな、どんな馬鹿らしい『噂』でも、それ自体がブランド品のように人間を惹きつけてしまう。今の赤無市はそれが有り余るほど溢れている。……警察も処理できないぐらいにな」


 ふぅ、と息が煙になって宙を舞った。灰皿に虚しいだけの残り火が落ちる。


「景、オマエさ、お化け苦手だったな」


「なんだよ急に」


「怪談とか好きか」


「どっちかって言われると嫌い。……あれだぞ。どっちかって言うとだぞ。そこ大事だからな」


「怪談とかも『噂』みたいなもんだろ。話の中に実在する場所や名前が出たら、そりゃもう立派な『噂』だ。たとえばAというトンネルに幽霊が出るって話があって、それを実際に確かめに行くとする。どうなる?」


「どうなるって、何事もなく終わるか。まじで、その、で、出るとか」


「そう。『噂』が嘘か真実の二択だ。現実的に考えるなら嘘一択。何も出ずに呆れて帰る。これで終了」


 聖十郎は灰皿に大きな吸い殻を落とした。だが、短い煙草にまだ火は着いている


「でも、もしも、そこには本当に幽霊がいたらどうだ。そして、その幽霊によって怪談話が再現されたとしたら―――『噂』は続く、永遠にな」


「……え、いるのオバケ」


 景のショックはそこだった。聖十郎は顔を横に振る。だが、その行動に否定という意味合いは持っていなかった。


「もっとタチの悪いのがな。ちゃんと存在してるってのが何よりも厄介だな」


 聖十郎はそんなものと出会ったことがあるような言い方だった。


「『噂』には必ず真実がある。だが、それは決して良いものではない。特にこの街の『噂』は別格だ。俺の知る限りじゃあ『噂』の真実に辿り着いちまったやつは、もれなく精神病棟で元気にやってるか、首つってるかのどっちかだな」


 景は薄っすらと聖十郎が自分を脅しているのだと気付いていた。彼の口から度々出た『死』という言葉は恐喝以外何物でもない。……昨夜遅かったのを未だ気に留めているのだろうか。

 話自体は到底信じられない話であった。とても納得ができる内容ではなかった。だが、少なくとも景が信用している叔父がたった二つに絞ったルールをないがしろにするのも気が引ける。

 噂を信じない。

 噂に関わらない。

 この単純な規則が如何なる意味を持つというのか。まさか、本当に怪奇なるものが存在しているのか。いや、それこそ『噂』を信じているということだ。考えれば考えるほど景はわからなくなっていく。


「……つまり、何が言いてぇんだよ」


「おまえ、巻き込まれやすいから注意しなって話。昔から巻き込まれ体質だったろ?」


「そんな体質ねぇよ。……ねぇよ」


「あるある。オマエが小学ん時なんて、近所のガキ大将の喧嘩に巻き込まれてよ、泣いて帰ってきただろ。そんで翌日に先生にこっぴどく叱られた後に、野犬に追い回されて泣きべそかいてたじゃねぇか。ケツ噛まれてたオマエを病院に連れてったの俺だから覚えてるぜ」


「違う。あれは野犬じゃない。学校の隣に住んでた人の飼い犬で、クラスの馬鹿がイタズラで首輪を外して逃がしやがったんだ。そのまま学校ん中入ってきて、校庭にいた同級生を襲って、んで……なぜか俺が噛まれた」


「しっかり覚えてるじゃねーか。オマエいっつも巻き込まれてんな」


 くっくっと笑う聖十郎に、景は思わず「余計なお世話だ」と言い捨てた。

 確かに彼は天性と言えるぐらいに厄介事に巻き込まれてきた。安息の時間も与えられないほど矢継ぎ早に巻き込まれるものなので精神と体力の消耗戦を一人愚かに興じているようだった。だが、本人はそれを一概に不幸と呼ぶのは好まなかった。

 巻き込まれる、というのは台風に呑まれることであって、自らその身を嵐へ投げることではない。最初は巻き込まれた。急な突風に煽られ吹き飛ばされそうになった。持ち前の根性で乗り切るとそこから家で嵐の終結を待つことが許される。退き際だ。そんな場面は必ず与えられていた。それを拒んで、台風を走り抜けたのはいつだって自分の意思だ。

 自分の意思で決めて、自分の意志で戦った。不幸であるとしたら出会ってしまったことだろう。―――そうだ。俺は選んだんだ。出会って、選んで……何を……?


 また、何かが頭の中で揺らめいでいる。


「なんだ急にボケーっとして」


「いや、なんでもねぇよ」


「まっ、変な事件さえ起こらなきゃ、街の設備自体は悪くないのよ。カワイイ子は多いし、遊ぶ場所だって山ほどある。メシにも困らない、いっぱいあるからな。ここから一番近いコンビニで徒歩十分だぜ。おまえぐらいのガキにゃ天国だろ」


「どういう基準だよそれ……」


「おっと、そろそろ時間だ。支度しろよ」


 支度?何で? ―――景は顔を歪めた。この後、過ぎた開放感のある自室にカーテンを付けるという重大な予定が残っているのだが、それよりも優先順位の高い要件が他にあるのだろうか。


「何って学校だよ。挨拶しにいくんだよ。殺人、、なんて前歴もったバカを編入させていただき、ありがとうございますって

 ほら、制服に着替えろバカタレ」

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