黒い腕 前編 -⑹

「は―――?」


 景は間抜けな声を出したが、帯刀した女は気にするどころか一切の視線を滑らせることなく、一種の怒りにも似た冷酷な殺意を秘めた赤い目でエノを睨んでいた。エノは黙ってそれを受け止めていた。

 緊迫する空気がひしひしと伝わってくる。景はそっと公園全体を一瞥するように目を泳がせ、貧しい退路の確認を行った。二人の背後はフェンスに阻まれ、公園の出口は女の先にしかない。凶器を携えた女を出し抜き、逃走するのは極めて厳しいと判断せざるを得ない。


(ホンモノの刀? 悪い冗談だろ。いつから戦国時代に突入したんだ俺は)


 荒い動揺を潰れた苦笑で誤魔化しながら、女の位置から見えないようにこっそりと後ろで革手袋をはめ、臨戦態勢を整える。

 だが、射貫くような女の瞳が景をすぐに捉えた。


「なにをコソコソしている」


 呼吸が止まる思いで景は恐る恐る両手を挙げた。防刃グローブは着用済みだが、流石に日本刀の切れ味を防げる自信はない。あれが本物の刀であればの話だが。


「そっちこそなんだ。いきなり死ねだ。やれ殺すだ。不審者かよてめぇ」


 さりげなくエノを隠すように前に出る。舌を巻きたい心情を悟らせまいと虚勢を張った。女の方は品定めするように景を足から頭までざっと目を流す。やがて、訝しげに刀こそ降ろしてくれたが、依然として鋭い殺気に満ちた眼光はエノに向けられていた。

 実をいうと、景は本物の刀というものを目にしたことがある。幼き頃、道場に飾ってあった自慢の骨董品アンティークをこっそり鞘から抜いたことがあった。その時、刀身に軽く触れた指を切ってしまった。切れ味はよく承知している。そして、記憶が正しければ、あの薄い刃文はそれなりに多用している何よりの証拠だ。


「ジュート―ホーって知ってか? チャンバラごっこをご所望なら、映画村にでも帰んなお侍さん」


「生憎、それ、、を斬るだけの仕事だ。帰るのはそのあとだ」


 背後にすっかり隠れたエノに女が恐ろしい目線を投げると上着が少し重くなった気がした。


「自律の意思を持ってさえいなければ、ここまで大ごとにはならなかった。……おまえを喚んだ、、、術者は誰だ?」


「理解不能」


 景の脇の下から顔を覗かせたエノは必死で頭を振った。


「わからないわけがないだろう。おまえは魔術書を暗記インプットするために召喚、、されたんだ。術を発現させ、おまえを使役している魔術師のことを吐け」


「……覚えていない、何も」


「ふざけるな。私はアレ、、を見たんだぞ。今さら嘘が通用するとでも」


「おい」


 言葉を遮った景の語気には、明らかな怒りに満ちていた。


「どいつもこいつも、こぞってアレ、、ソレ、、だ……。ふざけんじゃねぇぞおい。エノこいつをなんだと思っていやがる」


 女は多少驚いた様子だったが、すぐに平静を保った。


「……それは魔書だ。特上のな」


「テメぇらは人と道具の見わけもつかねぇのかッ!」


 我慢の限界だった。はち切れそうな握り拳を携え、怒りに吠えた景は少し戸惑いを漂わせている女へズカズカと歩み寄ろうとした。刀だろうがもう関係ない。斬られる前にブン殴ってやる。

 だが、その怒気は空回る。沸騰した感情を御せずに猛進する彼の裾が制止を呼びかけるように弱々しく引っ張られたのだ。振り返る必要もなかった。エノだ。


「疑問。景、乱暴する?」


「ああ。どうもイケ好かねぇ」


「……拒否」


 ぽつりと小さく呟いた。エノは暗い表情のまま、加えて懇願の意思を絞り出すように怒涛の表情であった景を見上げた。


「私は、景が傷つく姿を見たくない」


 何も言い返せなかった。熱された頭に冷水を叩きつけられた気分だった。治療中もずっと飽きずに景を眺めていたエノの心境がなんとなく分かってしまった。心配していたのだ。景が自分のために戦い、末に負った怪我をずっと案じていたのだ。


「……しゃーねぇな。おまえに言われちゃ、なんも怒れねぇわ」


 ポンポンと彼女の弾力性のあるとんがり帽子を叩く。満更でもない不器用な顔に、彼の機嫌が治ったとエノは安心したように微笑んだ。

 その様子を少し離れた位置から唖然とした面で眺めていた女は、驚愕と疑心に板挟みを食らっていた。危険視していた存在の柔らかな笑み。それと行動を共にしている荒っぽい少年。二人の関係性が把握できない。まるで、親子あるいは兄妹のような奇妙な絆が生まれているではないか。


「待て。やはり、おまえは教団の者ではないのか」


「あぁ? こちとら両親なかよく仏教徒だゴラ。念仏唱えてやろうか。……あの仮面の変態どものことか」


 敵意ある顔から一変して景は思い出したように言った。しかし、それはそれで不快であった。あの筋肉と仮面で迫る変態集団と一緒にされるのは癪だった。景は両手で×バツ印を作って「誰があんな年がら年中フェスティバルな連中の仲間だと。ふざけんな」と明確に否定した。

 たいそう嫌な顔をした景の顔に信用してもいい価値を見出したのか、女は溜息をつきながら刀を竹刀用鞄に入ったままの鞘にゆっくりと納刀した。そして、フードを下ろし素顔を景らに露わにしたのだった。

 それは凛とした声とは打って変わって、随分と幼い美貌の持ち主だった。黒い髪をショートで揃えた十代の学生に違いなかった。景は多少の前後はあれど、ほぼ同輩ではないかと直感した。彼女自体は、景こそ歳上だと誤認していたが。

 女、というより極めて少女、それも美少女と形容すべき彼女は少しの思案を巡らせ、景を一瞥した後に自己紹介を始めた。


「私は織咲おりざき火杏かなん。本職は学生だが、今はワケあってこの街の怪異を調査している」


「怪異? おばけ的な?(カマキリみたいなジェスチャー)」


「好きに受け取ってもらって構わない。そっちの名はなんという」


 悪い意味で有名である景は経験上名乗ることへの抵抗があったが、名すら呼ばれぬエノを見ていると使命感なるものが湧いてきて、自然と声が大きくなった。


「俺は藤宮景だ。そこらへんに転がってる不良だよ。そんで、知ってるようじゃないから教えておくぞ、こいつの名前はエノだ。忘れんなよ、絶対だぞ」


 釘を刺すと火杏は「ああ、覚えておく」と頷いた。

 一先ずの危機は去った。裾を掴んだ無邪気な手を握り返しながら、景は「で、おたくは何でそんなに殺気だってんだよ」と問いかけた。物憂げに考え込んだ火杏は半ば隠れた少女を静かに見つめた。


「それ……その子の秘密は知っているのか」


「本がどーたらこーたらだろ? ちゃんと教えてもらったぜ」


 世界を滅ぼす魔術書。神の再臨。それを目論む者たち。未だ景には現実として捉え切れていないが、もう色々とやらかしている分、後には退けなかった。


「では、なぜ匿う? おまえは関係のない一般人ではないのか」


「バリバリの一般人パンピーには違いねぇけど、その、なんだ……煙草の謝礼とその場のノリ的なカンジ? 文句あんのか」


 火杏の険しい表情が刺さる。景自身にも、上手く説明はできないのだ。これをお人よしの延長線上に佇む優しさだと認めたくない事実も相まって、景は苦い顔で返答するしかなかった。

 横からエノが心配そうに彼を覗き込んでいた。なんとか笑って誤魔化していると、どこか申し訳なさげに火杏が口を挟んだ。


「……その子が怪物だと承知しているのか」


「怪物? なんだよそれ」


「知らない様子だな。どうやら、その子自身も」


 景は何やら嫌な予感がして、火杏の冷たい視線を追った。その向こうで失望を抱いていたのは紛れもなくエノであり、彼女の手は恐怖に震えていた。


「その子は人ではない。特一級禁忌指定された魔術書の膨大なデータをたかだか人間の記憶器官である脳に収められるわけがないだろう。人ではない何か、、でなければ不可能だ」


 顔を青ざめたエノは否定もしなかった。まるで、薄々勘づいていたような一種の冷静さえあった。


「魔術書を記憶するため、必要とされたのは人智の及ばぬ頭脳ハードディスク。狂気の神秘を熟知してもなお、狂うことのないハードウェア。そして、自身の記憶した知恵が何者かに狙われた際、それを守り抜くための凶暴性プロテクト。それらを備えた世界の裏側に潜むおぞましい怪物……まだ人類がその存在を把握していない混沌とした白痴の生命体―――私たちはそれを一概に〝神話生物〟と呼んでいる」


「神話、生物……」


「宇宙の真理を具現する古の習わしが生み出した暗黒の塊を模した神話生物の一体。紛うことなき怪物。それがその子の……いや、それの正体だ」


 ―――怪物。

 じゃり、と後ずさる音が聞こえた。景はちらりと背後のエノを見た。彼女は澄んだ表情を人形のように固めている。ただ、裾を掴んで離さない手が微かに雨に打たれた捨て猫のように震え、今にも崩れてしまいそうな脆弱な芯を訴えていた。

 果たして、おぞましい怪物と呼称された彼女のこの無垢な手を握ってくれる人はいたのだろうか。そんなことを思った。世界、宇宙、魔術、それに神。広大な荒野に投げ出されたような虚無感にも似た圧倒的な情報は景の心を燻るに至らなかった。どうしようもなく少女一人の悲しみの方が気にかかってしょうがない。いや、それぐらいが矮小な俺には都合がいいのだろう。

 そうして、一人でに何度も頷いた景は苦笑いしながらいつもの馬鹿、、に戻った。


「だいたい分かった。俺にはちょっと難しい話だってことがな」


 本心だった。実際、景は神妙に語った火杏の話のおおよそを理解できずにいた。単純にエノが人間ではないと突き付けられたことだけは把握した。

 それを信じるか否か、決めるのは自分しかいない。景は疑う面倒さに飽き飽きしていたので、エノから否定の意を受けない限り、火杏の言葉を鵜呑みにするだろう。だが、そこから先も決めるのは景の勝手である。


「でも、やっぱり、こいつは殺させない。渡しもしない。安心しろ。こいつはそんな恐ろしい奴じゃねぇよ」


 毒気が抜けたような顔でエノの小さな背中を優しく叩いた。エノも火杏も到底信じられないと目を見張る。


「違う違う。そういう話じゃない。それは怪物なんだ」


「怪物って、だからどうしたんだよ。要はこいつを悪用しようとする奴らを全員、俺が返り討ちにすりゃいいんだろ。簡単だな」


 解決できたなと満足顔の景に対し、よもやはっきりと断言できるまでに火杏は確信した。


「おまえ、馬鹿なのか?」


おうよ。それに今思い出したんだが、俺はいっぺん自分で見てみるまでは信じないタチだった。だから、おまえの怪物がなんだって話は信じないことにするわ。まあ、そういうことで、うん、なんかゴメン」


 動揺するエノを強引に連れてひらりと火杏の横を通り抜けようとした。根が真面目な火杏の頭が急速なスピードで走り回る馬鹿に追いついていけない。呆然とした火杏は焦りながらも二人に再度立ち塞がった。


「いやいや、待て待て! 行かせるわけにはいかない。危険だ。おまえにとっても。世界にとっても。その子は自身の判断ひとつで世界を終わらせることだってできるんだぞ!」


「ンなことしねぇよ。それともエノが今までになんか悪いことでもしたのかよ」


「……強いて言えば、意思を得たことだ」


「くだらねぇ」


 怪訝に眉間を寄せた景はありったけの唾を吐き捨てた。


「てめぇにエノの何がわかんだ。こいつは自分のこともままならない状態で、世界なんていう馬鹿みたいにデカいスケールの心配をしてたんだぞ。自分の明日よりも、世界の明日を願ってたんだぞ。そんな優しさ、、、の何が悪いってんだ」


 そこまで言って景は熱くなった額を冷ますように深呼吸をした。


「まあ、ぶっちゃけ俺にもこいつのことは全然わかんねえし知らねえけどよ、生きるとか、死ぬとか、そういうのは違うだろ。誰だって生きて当然だろう。命あるモンが生きて何が悪いんだ。その権利だけは誰も奪っちゃいけねぇ。バカな俺でもそれだけは胸を張って言える」


「景……」


 激情に身を任せていた景は、気恥ずかしさから途方に目を逸らした。そして、まさに偶然の賜物という形で、暗黒の星々に照らされる上空のビルに一瞬の内に消えた光を見たのだ。それが何なのか彼にわかるはずもなく、まさか己を死へと導く発火炎マズルフラッシュだとは想像することもできなかっただろう。無意識に全身を駆け巡る悪寒こそが、唯一の道標みちしるべであった。

 ただ、戸惑う暇もなかった。―――血飛沫が景の左肩から飛び跳ねる。

 火杏も、エノも、虚空を打つ赤い波に絶望するしかなかった。目を疑う光景だった。誰一人として上げるべき悲鳴も、動くべき思考も、停止を余儀なくされる突発性がそこにはあった。

 何が起こった―――? 混濁を極める意識が次の瞬間には、悶絶の痛みに飲み込まれる。緩やかに倒れていく身体を他人事のように感じながら、砂に混じる鉄臭い血の味気に収束する意識が我を思い出したかのように、絶叫した。


「が、ぁあ、ああああああああああああッ⁉」


 どくどくと溢れてやまない血液が辺り一面を染める。身を焦がすような激痛に逆らえず、ただ釣られた魚のようにもがくしかない。声にならない叫びが嗚咽と混じり、景は自分が泣いているのかさえ自覚の仕様がなかった。

狙撃手スナイパー!」火杏は叫んだ。咄嗟に頭を伏せ、撃たれた景に駆け寄る。エノは未だ受け入れられないと立ち尽くしている。このアホ! ―――火杏は乱暴にエノの手を引っ張る。


「ぼさっとするな愚か者!」


「………………」


 彼女は何も答えない。ただ、不安に揺らぐ黄金の瞳だけは景の血反吐を辿っていた。

 焦る思いで火杏は意識半ばで呼吸する景の両脇に腕を通し、滑り台の背後へ無理に引きずる。ぐったりとした少年は額に大量の汗を滲ませながら、血の痕跡を刻々と地に残す。それぐらいの致死量の血液を流しているのだ。放っておけばどうなるか、分からないわけがない。


「こんな場所で正気ではないぞっ⁉︎」


 銃痕から狙撃銃だとは予想できた。思い返せば銃声らしき音も微かにした。しかし、場所は市街地の中でも集合住居の真ん中である。まともな神経なら避けて通る狙撃ポイントだ。

 何とか声だけは噛み殺そうと朦朧とした意識で抗う景は、震える指先で団地の一角を指をさす。火杏はすぐ狙撃手の位置だと察することができた。射角外の位置にずっしりと重たくなる彼を運び、木にもたれさせると彼女は狙撃手の正確な位置を探り始めた。

 一刻も早く治療しなければ危うい。だが―――。


(相手はこんな集合住宅の真ん中で、平気で狙撃銃を発砲するようなイカレだぞ⁉ 狙われたままでは、下手に動けない……!)


 救急車を呼んだとしても、このままでは彼は助からない。いや、そもそも相手がそれを易々と見逃すだろうか?

 敵は狙撃に関してはそれほどの腕ではない。木陰から顔を出し、火杏は十五階建てマンションの屋上を注視した。転倒防止の柵に囲まれた屋上はこれといった異質さはなく、鬱蒼とした月夜の下で静かにかげりを落としていた。

 スコープ越しの視線は感じない。目立った箇所もない。一発で逃亡したのだろうか。いや、あり得ない。それなら、目的であるエノか、邪魔者である火杏を撃ったはずだ。成り行きの一般人などいつでも始末できるはず。ただ、狙いやすい位置に彼が来たとしか考えられない。それなら周りの住民が騒ぎ出すまで悠長に狙撃ポイントで亀のように丸くなっているとしても不思議ではない。

 どこだ、どこで狙っている。視線を張り巡らせる。


「上だ……右の、端のところで、目が合った……」


 景が呼吸とは思えない凍えた息を吐きながら言った。


「リュックに、包帯が、入ってる……頼むッ」


 死相が浮き出た少年の苦悶に、火杏は索敵を諦め、彼の鞄から治療用具一式を取り出した。程度の知れた応急手当にしかならないだろうが、止血さえすれば何とかなるかもしれない。そんな淡い希望を胸に火杏は明らかに量が足りない包帯をきつく巻き始めた。


「くそ、貫通している! しっかり気を持てッ」


 火杏の必死の激励が響く。激しく上下に動く胸板が物語るのは死だけ。失意の眼差しで傍観していたエノは何度もか細い声で呼びかけた。


「景っ、景ぃ……?」


 彼はがくりと項垂れたまま、応えない。


「ああ、血が止まらない! おい寝るなッ」


 二人が絶望の最中で叫んでいる時、無数の足音が闇に響いた。

 火杏にはそれが福音などではなく、戦火に紛れる軍靴たちの不協和音に聞こえた。もはや、状況は滑り落ちるように悪化しているのだ。

 ガサガサ、と近づく音。動けない景と動こうとしないエノを庇う形で前に出た火杏に黒衣の歪な眼光が突き刺さる。不気味としか形容しようがない仮面の群れが暗黒に添うように浮かんでいた。


「目標、捕捉。〝書〟と他二名を確認」


 市民公園を完全に包囲する黒衣の集団。ぞろりぞろりと湧くように暗闇から生気の失せた青白い眼の群れが反射していた。数など計れる状態ではない。何十人というひどく曖昧かつ絶対絶命を残酷に明確化した数字でしか絞り出せない。刀を鞄から素早く取り出しながら火杏は悪態を吐く。


「傀儡如きが」


「傀儡ではありません。彼らは死してなお、神に従えることを選んだ優秀な信徒です」


 黒衣の集団の陰からのろりと姿を現したのは、顔に包帯をぐるぐる巻いたダニアン・マーウィンだった。


「故に、彼らには意思がある。感情がある。想いがある。人と何ら変わりはない」


「人を殺すことに躊躇いもない奴らをか? ―――笑わせる」


 ぐったりとした景を一瞥し、ダニアンはさぞ嬉しそうに答えた。


「ああ、その野蛮な少年は危険でしたので。わたくしの魔術を精神力だけで打ち消すなんて、とても悲しいことでしょう? それに彼のせいで部下を三人、この手で始末する羽目になった」


 口調こそ物憂げであるが、火杏の瞳に映るのは、かつての快楽を反芻するように舌なめずる高揚した青年の姿だった。

 間違いない。こいつはとっくに狂人だった。―――火杏の双眸が赤く灯る。血液を媒介として筋肉繊維を一時的に強化する魔術の行使。間合いは銃器に圧倒的有利な距離だが、その分は飛ばせばいい、、、、、、。柄に手を添えるとダニアンが鋭く目を光らせた。「おっと動くな」仮面の集団が一斉に拳銃を向ける。それも標的は火杏ではなく、その後ろで今にも息が絶えそうな少年に向けてだった。


「外道めッ! そこまで墜ちるのか!」


「解釈違いですね。本来『墜ちる』なんて言葉は有り得ない。なんせ、我々が地に足つける世界こそ最低で、これより墜ちる下など有りはしないのですから」


 その場でダニアンは両膝を付き、公園の地面に頬を擦りつけ始めた。「わたくしは取り戻したいのです。美しき地球の原初を!」我が子を撫で回すように赤らめた頬を密着させ砂だらけにする。その美貌は白目を剥いており、まさに理解しがたい行動そのものであった。


「狂人が……!」


わたくしからしてみれば、狂っているのはあなたたちです。それに今からあなたは死ぬのですよ、蛇女」


 さっと立ち上がるとダニアンは小型のトランシーバーを耳に当て冷徹な声音で「出番だ」と口にした。姿をくらました狙撃手への連絡だと火杏はすぐに気づく。避けられるか? いや、回避すれば後ろの二人に直撃してしまう。生憎、火杏には防御のすべがない。

 口角を歪な三日月のように緩めて笑うダニアンに、火杏は打開策など持ち得ていなかった。


「もういい。殺せ、、



 神秘的な月明りに照らされたマンションの屋上の一角。

 小型のトランシーバーが無慈悲な声を受信した。しかし、応える者がいない。ここには誰もいなかった。いや、居た、、のだろう、つい先ほどまでは。

 そこには一丁の狙撃ライフルが置き去りにされていた。転落防止の金網をニッパーで引きちぎり、無理やり確保したのであろう狙撃ポイントで仰々しく横たわるレミントンM700は排莢を済まし、次弾を撃つ準備はいつであろうと完了していた。なのに、二発目は銃の中で眠ることになってしまった。

 辺りに漂う異様な臭い。誰も寄り付きもしないマンションの屋上に生気のような気配を感じないのは当たり前であるが、ここには同時に〝死〟も混在していた。ぶちまけたペンキのように滴る赤。貯水タンクを引き裂いたような悍ましい爪痕。そして、行き場を失った見るに耐えない生首が転がっている。

 その表情は削ぎ落とされていた。何か途轍もない恐怖に染められていたのであろうか、顎から上に頭蓋が顔を覗かせている。

 屋上へ繋がる唯一の出入り口である鉄扉にすがるように手を伸ばす首のない死体があった。首の持ち主であったであろうそれを嘲笑う邪悪な雄叫びが小さく響き、狂った神話の生き物が雲に覆われた月光の影へと消えていった。



「………………なに?」


 反応がない。

 発砲の音も、血飛沫の音も、何もない。


「馬鹿な。おい、どうした。何か不具合でも? ……ちっ、拳銃チャカは後処理が面倒なんですよ」


 狙撃手スナイパーとの連絡を諦め、トランシーバーを懐に直したダニアンが片手を振り上げると、黒衣の大男たちが拳銃のトリガーに指を置いた。銃の種類は45口径コルト・ガバメント。目立った改良は見られないが、屈強な肩を持つ仮面の大男たちならば、泥酔でもしていない限りこの距離なら外しはしないだろう。


「あなたの力はリサーチ済みです。蛇神の呪い……実に厄介極まるものですが、結局、数こそ最大の武器なのですよ」


 ハッハッハッ! 破顔したダニアンは勝ち誇ったように笑う。心を殺した無情の連中とは違う狂人具合に火杏は奥歯を噛み締めながら問う。


「……お前たちの目的はなんだ」


「大いなる神の復活」


「それが人類の終わりだと知ってのことか」


「無論。我々は出来損ないだ。生半可な知恵をひけらかす下衆どもだ。世界は今一度、混沌と殺戮に満ちた神代へ返り咲くべきなのだ」


「お前の信ずる主とは何だ」


「それは―――」


 その時、ぐしゃり、、、、と何かが鳴った。

 骨と肉が裂かれる無情さが鮮血となり、残虐性を秘めた明確な『死』が一面に散らばった。崩れた積み木の玩具のように転がり落ちたものは恐らくは肉片なのだろう。腕や足といった部位ではない。何の理由もなく子供が捕まえた虫をその手でむしるが如く無理に引きちぎった稚拙な悪意が漂っていた。

 ゴトッ、ひと際重たいブロックが闇夜から落ちた。それが男の顔だと気付くのに多少の時間を強いられた。林檎をかじるように人間の表情かおを食らったのだろう。もはや、眼球が飛び出ている。

 何が起こった? 恐らく、拳銃を構えていた男の一人が有無を言わさぬ自然現象めいた不可視、、、の殺意に襲われたのだ。誰もその瞬間を目にしていないとはいえ、人道的とはかけ離れた屑ごみスクラップと化した男を見て、得体の知れぬ殺戮者は話の通じる相手、ましてや人間ではないことなど誰もが理解していた。

 火杏は息を呑んだ。―――間違いない、奴だ。

 ダニアンを含む男たちは一斉に音の方へと向いた。銃口は自ずと肉片へと注がれる。べちゃ、くちゃ、と生々しい囀りだけが夜の公園に走る。その場を支配していた生と死の緊張は失せていた。あるのは一方的な恐怖だけだ。


「どういうことだ」


 顔面を蒼白に変えたダニアンが額に汗を滲ませながらつぶやいた。


「なぜ、オマエが現在いまここにいるんだ」


 べちゃ、くちゃ、ごきっ……。

 咀嚼の音が途切れる。死肉の臭いが放埓に充満する中で、この世に存在する生物が放つ体臭とは思えない錆びついた鉄に近い激臭が鼻の感覚を狂わせた。嗅いだことのない異次元めいた臭い。それだけで身の毛がよだつ。だが、それは着実に真実へと変貌している証拠であり、恐れている暇など与えられていなかったのだ。

 霧のようなボヤがあった。目を凝らせばやっとその存在を認知できる蜃気楼のような歪みが徐々にその神秘のベールを脱ぎ捨て、いち生命としての頭角を現すために色づいていく。奇妙な時間だった。たった数秒の無からの変身を懺悔室で神に悔いるような気持ちで見つめた。―――ああ、できることなら、死ぬまで出会いたくなかった。


 そして、怪物はその邪悪なる全貌をついに晒したのだ。


 四肢があった。顔もある。とても霊長類に似ていた。似ているはずなのに頭がそれをひたすら拒んだ。果たして三メートルの頭上から人間を見下す猿がいるだろうか。骨のように細い長い手足は昆虫のような印象を抱かせるにもかかわらず、その黒ずんだ体躯は限りなく類人猿に近い。肌と呼んでいいのか、全身は干したばかりの雑巾のように垂れさがり、吐き気を誘う異臭を撒き散らしている。釣り針のような鉤爪はすっかり血で染まり、殺した人間の胎内を掻きむしったであろう跡として生々しい肉がこびりついている。すべてがこの生物の異端極まる残虐さをありありと物語っていた。

 虫にも、類人猿にも属さない未知が闇夜に紛れて佇んでいる。その顔に至っては例えようがない。悍ましいほどに醜悪で、目を覆いたくなるほど狂っていた。

 火杏は初めて見るその狂気なる姿に震えあがった。間違いない。これが神話生物。日常の影に潜んでいた狂気の生命態。制御のしようのない身体の震えは本能の拒絶に違いない。正気を保つので精一杯だ。


「徘徊者……っ⁉」


 徘徊者と呼ばれたそれは真っ赤に滴る口元で吐き気すら覚える不気味な笑顔のような形を作った。


「やめろ。もとの次元、、にかえるんだ。……かえってくれ」


 悲鳴のように震えた一言がダニアンの口から漏れた。その言葉で火杏はこれが何であるかを理解した。


「―――〝次元をさまようもの〟」


 パツン、と公園を照らしていた街灯が一斉に弾けた。反転するように暗闇がすべてを呑み込んだ。ダニアンの焦りを滲ませた怒声が響く。


「撃て! 撃てぇぇぇぇッ!!」


 こうして、一方的な殺戮は幕を開けた。

 手始めに、銃を撃とうとした男の首があまりに非現実なほど軽く、宙に飛んだ。

 遅れて発砲音が幾多にも重なりながら響く。しかし、誰も怪物の位置を把握できていない。飛び交う焦燥の弾頭はあまつさら誤射すら起こしていた。

 頭を下げていた火杏は徐々に夜目が慣れてくると同時に離脱を試みる。だが、その瞬間、目の前で大男がもがき苦しみながら怪物の爪に引き裂かれるのを見てしまう。足がすくむ。息が詰まりそうになる。


 ―――弄ばれている。こいつにとって人間は玩具でしかないんだ。


 戦うという選択肢はすでに欠落していた。刀を抜く気にもならなかった。

 次々と肉塊に変えられていく大男たち。彼らの発砲も虚しく異形の怪物はふわり、、、と一瞬のうちに消えてしまう。朧げな残像に気を取られていると、また血飛沫と悲鳴が上がった。ボトボトと落ちる死屍累々の嘆きが宙に投げられ、不可視の牙に挽き肉へとあしらわれる。

 時間差タイムラグを得て姿を現す怪物の口元はさらに趣味の悪い口紅で彩られ、殺戮の残り香を噛み締めるように食らった。腹が減っているというより、殺す道理を食欲に見立てている風に感じる。


「透明化……?」


 火杏の呟きに応えるように怪物がまた姿を消した。


「ぐぎゃッ……い、痛ぃいいいい!」


 すぐに後方―――少なくとも10メートルは離れている場所から恐怖のざわめきが起こる。

 悲痛な声と共に一人の大男が手品のように空中に浮かぶ。ずぶり、とお腹から血に染まった鉤爪が中身を掻き分けるように姿を現した。小刻みに震える大男は助けを求めようと声を出そうとする。だが、赤い声が漏れるだけだった。その場にいた全員が後ずさる。これからの絵は容易に想像できた。目を逸らしたくなるほどものが。


「やめ、やめてく―――」


 やっとのことで出せたであろう慈悲を求めた声も虚しく、大男はたちまち引き裂かれた。人体が持つ血液の大半であろう量が目の前で滝の如く流れる。左右で真っ二つにされた男の半分だけが地に落ち、残り半分は〝無〟に頭だけを貪られ、遅れてもう半分と地面で再会を果たした。向かい合った元は一つのカラダ。その片目が語る苦悶は筆舌に尽くせない。

 如何に大男らが異端の存在であれ、彼らにも自我はある。五感の具合は知らないが、痛覚は健在なのだろう。なんせ叫び声が本物だ。耳を塞ぎたくなる悲痛な声。死に損なった者のあえぐ声。そして、殺戮者が奏でる惨たらしい音。地獄のような光景だった。


「なぜ出現した?」頭を抱えながら後ずさるダニアンが呟く「蘇生も何も〝書〟はまだ死んでいないぞ!」


 怪物の出現には条件がある。その条件は満たされていない。


「まさか〝書〟の意識下で呼び寄せたのか? いや、あり得ない! そんな極端な感情は、ない、はず―――」


 阿鼻叫喚と化した血肉が躍る地獄めいた異界の最端でダニアンは首を回して必死にあるものを探した。その条件のカギとなる存在は今、何をどうしているのだ。そして、見てしまった。魔女のようなトンガリ帽子を被った少女が持つ異常―――その涙を。

 肩を撃ち貫かれ間もなく命を絶つだろう少年に何度も呼びかける〝書〟は気が動転しているように目の前で繰り広げられる惨状には目もくれない。怪物に殺される恐怖より一人の少年が死んでしまう恐怖の方が勝っているのか。その証拠に彼女の隻眼は大きな雫をいくつも少年の胸に落としていた。その光景こそ、ダニアンにとっては何よりも恐ろしいものだった。

 〝書〟が泣いている―――それは本来あり得ないことだった。あってはならないことだった。


「涙を流すほどの感情をこいつは知らない。一定の感情でしか機能していないからだ。……だから、大量の精神力を必要とする魔術も中途半端にしか使えない! 使えなかった!」


 ダニアンは叫ぶ、怒り狂ったように。


「それが、こんなクソガキにッ! 与えられたのか、泣くほどの悲しみをッ!」


 スーツの裏に隠した拳銃をドロウした青年がむせび泣く魔女と死にゆく少年に引き金を絞る。

 その瞬間、ダニアンの腕は宙を舞った。二の腕当たりからばっさりと断ち切られ、遅れて血と痛みが同時に神経を貪った。

 苦悶に歪むその表情が捉えたのは、真っ赤な鉤爪を振るった怪物であった。その動きは今までの単なる道楽殺人とは違う、それ相応の目的が潜んでいた。疑いようはない。この怪物はダニアンが銃を撃つことを許さなかったのだ。


「使役しやがったな、神話生物をっ‼ ―――うて、うて、うて、殺せぇぇぇぇぇ‼」


 荒ぶる怒号と銃声、そして狂おしいほどの悲鳴が混じり、響き渡る―――。



(なんだあれ……)


 薄れていく意識の奔流の中、景にもその怪物ははっきりと見えていた。

 あまりに埒外な存在だった。これが夢だったらどれほど幸福か。いや、今でも心の中では疑っている。檻から放たれた猛獣とはこんなにも残虐なのか。それとも今まで知った気でいた現実は全部が嘘で、目の前にある狂気こそが真実だというのか。

 夢であってほしい。そう願った。

 姿を消しては殺し、殺しては満足げに嘲笑する恐ろしい化け物。きっと人類が出会ってはいけない存在だったのだ。景の心は絶望に染まっていた。死に直面するとこうも人は弱くなってしまうのか。


(もう、なにもかんがえられない……)


 怪物を黙って傍観できたのは自分がいま瀕死であるからに違いない。追いついていないのだろう、頭も、身体も、何もかもが。

 何もできない。何もしようとしない。恐怖に怯えることにも血が必要なのだと初めて知った。このまま眠れば、あの怪物を見ずに済むのではないか。そんな考えが過る。悪くないとさえ思えるほど脳は働いてはくれない。

 そっと瞼を閉じようとした。想像以上に楽になれた。痛みも忘れられた。このまま果てることへの躊躇は一切なかった。為すがままに死を受け入れる。彼の命はそうやって解き放たれようとしていた。

 なのに、どうして、この手は離してくれないのだろう―――。


(ちくしょうめ)


 悪態もここまでくれば哀れであった。

 もはや遠い残響のように聞こえていた悲鳴の渦に抗う弱々しい呼び声。必死に何度も「景」と呼ぶ涙ぐんだ声が止まりかけていた胸を刺す。どうして逃げてくれないのだ。何のためにカラダを張ったと思っている。おかげで、もう死にきれないではないか。―――景は叫んだ。死という痛みに真っ向から挑むために。


「け……ぃ……?」


 滲んだ傷口から止め処なく溢れる激痛が覚醒した意識を蝕む。それでも彼の腕は涙ぐむエノを抱きしめた。鼓動の消えかかった胸の中に少女の小さな顔を埋めて、決死の覚悟で自分の背中を盾にした。あの得体の知れない怪物から彼女を守る最後の抗いだった。


「大丈夫だ。俺がいる」


 精一杯の強がり他ならなずとも、少しでも彼女の不安を和らげてやれるなら、いくらでもカッコつけてやろう。そんなことを思って、少女を強く抱きしめながら景は静かに瞼を閉じる。三途の川はもうそこだ。


「――――――」


 彼女の言葉は聞こえない。もう気力すら底をついた。

 せめて、こいつだけでも……。

 だが、悲惨な現実は非情を語る。邪悪な影が二人に重なった。



 ◇◇◇




 愛とは、なんだ。

 生まれて初めて彼女が得た疑問がそれだった。

 限りなく虚無と近い異空間から固定されたあやふやな存在が図らずも自我を持ち、自覚の隙も与えられぬまま外部から記憶したはじめての情報がそれだったのだ。

 意思をもった彼女の存在は羽を失った蝶のように『無意味』だった。彼女は人ではない。人であってはならない。その存在には理由がある。しかし、生命としては矛盾している。人としての生は生まれ落ちたその一瞬において破綻した。

 ゆえに、無意味―――それは彼女が知っていた唯一の事実であった。

 窓一つとしてない一面コンクリートの狭苦しい空間の真ん中で、蝋燭の揺らめきに心を奪われていた。生まれたばかりの彼女を取り巻く巨大でいびつ円陣サークルに横たわる幾多の死体を踏み越えて、その男は朦朧とした瞳で自己紹介もせず言ったのだ。


「愛している。きみはわたしの希望だ」


 そっと抱きしめられた時、冷たい胸の中に奇妙な温かさを知った。この男は無意味わたしを求めている。なぜ―――? 彼女はまだ何も分からなかった。彼女の価値は『世界を滅ぼす』という一点にのみ見出される。『愛』される筋合いはどこにも見当たらなかった。無意味わたしが肯定されてしまった。この男の目的はなんだ。この男の言う『愛』とはなんだ。

 疑問があった。答えはなかった。

 知覚に飢えた彼女が答えを求めたときには、男の眉間には穴が開いていたからだ。初めての死。別れ。あるいは決別を意味する。『愛』との断絶。やがて、彼女は『魔術書』という価値によって多くの争いを生むことになった。しかし、彼女が無意味であることに依然として変わりはない。

 彼女は名もなき意思だ。顕現した無知なる災禍だ。ただ、その総てを拒否された無意味の名残。爆弾を抱えた器が自律の脳を手にしただけの存在。それ故に『得脳エノ』―――無意味わたしは存在してはならない。ならないはずなのに……。

 愛とは、なんだ。―――その疑問が彼女を苦しめた。本来、彼女は知るという行為に貪欲な生命体である。一度得た疑問を解消せずにはいらないし、ましてや、それが彼女の無意味さを殺すただひとつの意思ならば尚更のことであった。

 知りたい。知らねばならない。でないと、きっと壊れてしまう。

 元より完璧な無知であるならば、彼女がここまで追いつめられることはなかった。たった一度だけ抱きしめられたから。理解し終えることも許されず、愛されたから―――。

 彼女は知ってしまった、人という温もりを通じて、孤独という耐えがたい苦しみを。

 彼女は思ってしまった、人を愛することができるなら、誰かに愛してもらえるのではないか。


 だから、それはとんでもない不幸だろう。


「こいつはそんなに恐ろしい奴じゃねぇよ」


 笑いながら、そう言われた。生まれて二度目の肯定だった。

 その少年との出会いはまったくの偶然で、どうして彼がそこまでして無意味わたしを守ろうとするのか、ついに分からずじまいだ。なのに、不思議と知りたいとは思わなかった。

 握り締められた手の温もりが何よりの答えだったから。この人なら、きっと私は愛することができるような気がした。だから、この手を……。


 この、手、を……?


 黒い腕が嘲笑う。冷たくなっていくその手はオマエが奪ったのだと。何を隠そう彼を死へと導いたのは紛れもなく無意味わたしだ。あの男だって、無意味わたしを愛したから死んだのだ。

 そうだ。無意味わたしに意味などなかった。私という存在の根底は必ずしも無意味に帰結する。そういう構造だった。為すこと総て尽くが魔を帯びて遍く不幸を撒き散らす。触れたもの、これから触れようとするもの、例に漏れず狂気の道で破滅した。彼を殺したのは無意味わたしだ。無意味わたしのせいで彼は死ぬのだ。そういう運命なのだ。


 ―――嫌だ。いやだいやだいやだ。


 逃れられない理不尽に何度も首を振った。拒んだ。憑りつかれたように拒み続けた。確定された死に抗うことなど禁忌に等しい。だから、彼女は祈った、、、。彼を救えるならすべてを奉げてもいいと。


 ―――おねがいします、神さま。景を救ってください。


 残酷だ。胸が痛くて苦しくてどうしようもない。 

 凍える手が蠢く。

 消えたはずの右目が熱い。

 何も望んではいけない。何も欲してはいけない。他者を不幸にするぐらいなら孤独でいいと誓ったのに、なんで、どうして……!


 ―――どうして、あなたをこんなにも愛してしまったのですか。


 ぽたり、と落ちた涙が弾けた。


 ああ、神さま、どうかお願いです。

 時を止めてください。流れる血を止めてください。この手の温もりを奪わないでください。わたしの愛するものを救ってください。どうか、どうか……。


「生きて、ください」


 寂しく空を切る手を握り返す手はもうどこにもなく、無意味な涙だけが空に舞った。




 ◇◇◇




「うおっ……?」


 吹きすさぶ冷たい夜風に煽られて、少年は目を覚ました。

 暗闇が広がる大きな公園の隅っこにあるベンチで胎児のように丸くなって眠っていた。夢から醒めたように彼は目をパチクリさせながら、地面に落ちた帽子を拾うため、妙に冷たいベンチから起き上がる。身体がやけに重かった。とくに肩は言いようのない違和感がある。

 ぱっぱっと手で砂をはたいたあとに帽子を被り、未だに夢現ゆめうつつな気分で時刻を確認すると眠気が吹き飛ぶほどの衝撃が襲った。


「おいおい、零時過ぎてんじゃん⁉ そんなに寝てたのかよ……つか、ここどこ?」


 彼は焦りながら、スマートフォンの位置情報を読み込むとそこが『アーカムファミリー公園』だと知ることができた。まったく身に覚えのない土地だ。喫煙スペースとしてあてがわれた場所におおよそ四時間以上も眠り続けていた事実に彼は驚愕を禁じ得ず、半ば混乱していた。

 外で寝るか普通? しかも、全然知らない場所で。

 酔っ払いかよ、と自嘲しながら荷物を背負って旅立つ準備を終える。だが、ふと目前の灰皿ボックスに目を奪われ、一服したい衝動を抑えられなかった。一回気持ちのリセットを挟もう。


「あれ? ねぇなタバコ……」


 ジーンズのポケットを漁るが、なぜか所定の位置に煙草が見当たらない。おかしい。ライターならあるのに。


「なんだこれ?」


 代わりに記憶に無い妙な御札を数枚見つけた。ちょっと怖い。


「ああ、くそ。日付変わってるし、行くしかねぇか」


 少年は御札をポケットに突っ込んだ。

 何か大切なものを忘れているような何とも言えない気分に苛立ちを覚える。ふと、無意識に何かを握ろうとした。虚空を寂しく掴んだその手の動きに禁断症状が出ているのかと疑った。そんなに吸っているとは思っていないのだが、ちょっとショックである。


「なんだ、この気分……胸糞わりィ」


 藤宮景は胸の真ん中にぽっかりと空いた穴にどこか虚しさを覚えながら、何事もなく一人で歩き始める。辺りには騒がしいサイレンだけが響いた。

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