黒い腕 前編 -⑸

 武道をかじった暴れん坊ほど、理由は何であれ、喧嘩を避けねばならない相手はいないだろう。人体の何処を如何にして潰せば急所成り得るか、どの関節の骨をどの向きで曲げれば致命傷に変わるか、彼は何となく覚えていた。あるいは、頭ではなく、血生臭い経験の数々が、しんみりと身体に染み付かせていた。

 本来、武とは、肉体の鍛錬を通じて最終的には清廉とした人格形成を促す人生の道筋である。その道から逸れた者を、外道などと呼ぶが、まさに彼はそれに相応しいと感じていた。将来的な話など興味はない。彼は今、勝たねばならない。その為なら、外道にだって容易く堕ちる。

 

「な、なにをしてくれたんだ、お前っ⁉︎」


 不意打ちを食らった青年牧師は、殴り飛ばされたその身を起こすが、止め処なく滴る鼻血から、鼻の骨が折れてしまっているだろうと戦慄した。いきなりだ。このどこか憑き物が取れたように、すっきりした表情の少年は、一切の躊躇なく、前振りもなく、手加減もなく、ダニアンの整った顔面に目掛けて一筋の軌道を描くが如く殴ったのだ。


「エノ、鞄取ってくれ」


 骨張った拳を解き、今にも口笛を挟みそうなほど楽しげな景はジャケット裏から防刃に長けた黒地の革手袋を取り出し、厳しく両手に着け始めた。それが高価な素材で編まれたものだとすぐにわかった。少なくとも、一介の高校生が常日頃持ち歩く品物ではない。誰の浅知恵か、彼は喧嘩の際、必ず革手袋で指紋を隠し、血の滲んだ拳を守るように努めていた。

 椅子に無造作に置かれたリュックサックを持ったエノは意味有りげな眼差しを景に向けていたが、彼が荷物を受け取る際、人間を弄ぶ悪魔のような形相を目にして、心配も驚嘆も、杞憂の内に通り過ぎるだろうと察した。


「疑問。景は、楽しい?」

 

 ほとんど空っぽの荷物を背負いながら「もちろん」と鼻で笑った。どれだけ悩んでも、何を為そうと足掻こうと、彼は結局、暴れるしか脳がない馬鹿なのだ。

 

「イライラしてたからな。八つ当たりには丁度いい。こいよ、全員、遊ぼうぜ。それとも、道をあけてくれるのか?」


 かつての青年がやったように、景は両手を広げて奥の大男たちを煽った。彼らは明らかに動揺していたが、互いの仮面を見合わせ、ひとつ頷くと景の挑発に乗る形でまばらに動き始めた。

「出口がフリーになりやがった」景は小声で言った。どうやら相手の統制は良くないらしい。「俺が合図したらまっすぐ店を出ろ」エノの耳元で囁き、背中を優しく叩いた。


「心配すんな。喧嘩は任せろって言ったろ」


 彼の細められた眼光は帽子の影に隠れていたが、身長の差がエノにだけ信頼に及ぶものを教えてくれた。彼の目は大男たちの些細な動作一つさえ見落とさんと追跡していたことに気づいたのだ。間違いない。藤宮景という人間は、喧嘩という人生に一度や二度の最低イベントに対して相当な時間を割いている。

 服の裾を離し、エノは一歩引き下がった。邪魔になる。そんな直感を信じて、彼の背中に身を隠した。

 

「なにをしている、こいつを抑えろ!」鼻血を抑えながら、腰の抜けたダニアンが叫んだ。

 黒衣の男たちが散開する。前方から果敢に一人、その隣の通路から背後を取ろうとしている一人、奥から回り込む形で一人───これは負傷した青年牧師の回収が目的だろう───がぞろぞろと景とエノを包囲する。未だ覚束ない動きが空気に漂っていたのは、まだ彼らに動揺が仄かに残っていたからか。どちらにせよ、男たちの落ち着きを待つ理由もない。


 既に目ぼしい武器は当たりをつけている。景は元座っていた木製椅子を持ち上げ、あろうことか前から迫り来る天狗面に投げつけた。

 もちろん、直撃しようと致命傷には至らないだろう。だが、そこそこの質量を備えた物体を無防備なまま受け止める勇気は誰も持ち合わせていない。天狗面は息を呑んで防御の姿勢を固めた。

 投げられた椅子を食い止め、のけぞりながら叩き落とす。その直後、天狗面が見た世界は一面の靴裏だった。彼我の距離はもう縮まっていた。避ける時間も与えられず、反射に任せて顎を引いた。

 もし、天狗面の大男があと二三センチ身長が低くければ、彼はとっくに気絶していただろう。それぐらい景の脚は鋭く、また紙一重の差であった。

 

「おおっ……」言葉にならない恐怖が天狗面の神経を逆撫でた。まさか、恐怖の対象であるはずの自分が、たかだか小僧ひとりに血の気を引いたのだ。彼らにプライドというものはないが、この少年はここで潰さねばならないという強迫に近い感情が駆け巡る。

 その思慮の余韻すら、今は単なる余計と知らずに。

 驚いている暇などなかったのだ。一度放たれた矢は突き刺さるまで止まらない。彼の猛攻は半ば幸運的に蹴りを免れた大男に容赦なく畳み掛けた。右足が当たらないなら左足で───軸をずらし、流れる要領で叩き込む。伸ばされた脚は綺麗な旋風を描く。


「ビビってんじゃねぇよ!」


 少年の小さな雄叫びが轟く。隙だらけとなった腹部を穿った鋭いローキックは想像の余地を与えぬ傲慢な威力を含んでいた。位置としては胃腸より肝臓に近い。急激に加速する血液が筋肉の疲労をけしかける。

 内臓を滅茶苦茶にされた痛烈な気分が天狗面の大男に嗚咽走る逆流を沸かせていたが、景は一時の休息すら与えることなく胸倉を強引に掴んだ。そのまま必中を約束された二撃目のアッパーは流れるように顎に入った。天狗面の長い鼻はその時、ぽっきりと折れてしまったが、闘争心までは折れていないだろうと荒れ狂う少年は天狗面の両肩を抑え、膝蹴りをはらわたに響かせた。

 胎内が悲鳴を上げているのがわかった。「ヌぐッ」と糸を引く涎と一緒に胃液までも吐瀉しそうになり、屈みながら一歩後ずさった。それが間違いだった。猛進する少年から逃れるには、一歩でも前に進むべきだった。

 頭を掴まれた時には何もかも遅かった。加速する視界に店の白いハーブ模様の壁が迫っていた。


 途端、頭が真っ白になる。

 視界と思考が揺らめき、遅れて痛みが脳に伝わってきた。鉄の味が意識を朦朧とさせる。天狗面の男は固い壁に頬をくっつけ、じりじりと額から血を流し、折れた歯から溢れ出た血液を吸い続けていた。

 抵抗はできない。そのような余力、残させてもらえなかった。少年の手一つで支配された頭が乱暴な浮遊感を得ると、次の瞬間には机に顔から叩きつけられていた。一度離され、二度目の激痛。離陸と着陸を繰り返す。水溜りで跳ね回る子供のように血飛沫が机に広がる。床に弾むゴームボールのように何度も惨たらしく叩きつけられた。

 

「おッ、ごぉッ、やッ、」救いを求める天狗面は歯はぼろぼろに折れ、鼻と額からひたすらグロテスクに血を吐いていた。ひっ、と零れた小さな悲鳴は一部始終を見ていたダニアンからだ。恐怖に腰を抜かした彼は、部下の顔面が地面と水平に伸ばされていく様を見ていることしかできなかった。

 

 もはや、跡形もなく砕け散った天狗面と真っ赤な口づけが狂ったように飛び跳ねる机上を見ながら、暴れる景は叱咤した。「くそ、なんだよ、素人かよ、お前ッ!」見せかけの図体に踊らされた景は息を切らしながらも、仮面の男を解放することはない。気絶するまで叩きつける。

 が、その時、偶然にも、景は砕かれた天狗面の奥に隠されていた大男の素顔を見てしまった。火照った躰が一瞬で冷めていく感覚が沸き立った怒りが気化し、霧散して消えていく。

 

「なんだ、てめぇ」

 

 思わず景は手を止めた。止めずにはいられなかった。

 男の顔は、景の手加減無用の暴力によって原形を留めていなかった。肌には割れた仮面が突き刺さり、口元からはだらしない粘液が糸を引いている。だが、その本質的な醜悪を兼ねた素顔には身に覚えがない。屍人にように冷たく突き刺さる白の肌も、焦点のない見開かれた瞳も、生気を失った廃人の如く虚無でさえ、何一つとして知らない。

 いや、景が知っていたとすれば、それは正真正銘、死体の素顔だった。

 

「本当に生きてんのか、こいつ」

 

 まさか、今、俺が殺したのか。

 景は否定した。気は失っているが、死の手応えはなかった。それに加え、殴り殺したのであれば、こんな悪意と憎悪に満ちた美徳たる顔は残らない。

 つまり、この男は元より死んだままということになる。景はこれが一番納得できた。冷蔵保存された肢体はこのような形で死に永らえる。

 

「ワケわかんねぇ」

 

 得体の知れない事案に頭を抱えるも束の間、足音を殺した古翁面の大男が、呆然と震える景に背後から組み付いた。離せ、と肘を叩きつけるが、古翁面は負けじとそのまま転がり込んだ。

 しくじった。景の咄嗟の反撃は男の仮面を擦り、その素顔の半分を景の瞳にまじまじと刻み込んだ。


「───っ」


 そこには、死人の如き冷徹さが怨念がましく宿っていた。ぞっとする悪寒が景の荒ぶる膂力を錯乱させた。

 あえなく、マウントを獲られる。床に叩きつけられ、景は直ぐじたばた、、、、するが、古翁面は恐ろしい怪力でそれを制し、無防備な首に手をかけた。

 景は大柄だが、それを超える2メートル級の大男に馬乗りにされた時点で、脱出は絶望的だった。首をぎりぎりと絞める男の手は、やはり握力からして違う。人間離れした怪力だ。

 

「この野郎ッ」

 

 喉を押さえられたら、いよいよ意識との勝負になる。泡を吹きかけながら、視界の端に、気を失った天狗面の血色と、立てなくなったダニアンを介護する阿亀面を見て、首を絞められている絶体絶命の最中、景は気管の奥からはち切れん思いで叫んだ。

 

「今しかねぇ、いけ!」

 

 血滴が零れる机の下からエノが顔を覗かせ、彼の死に物狂いの剣幕を一瞥し、階段へ向かって走り出した。


「何してんだ、追うんだよ!」

 

 我を忘れたようなダニアンの怒号が飛ぶと、阿亀面が急いで走り出した。

 焦る古翁面が腰を浮かせ、確かな殺意を持って景の息の根を絞め尽くさんと体重を乗せ始めた。

 ごぶっ、と止めどない血交じりの涎が口から溢れ、意識が消え去るのを感じながら、やはり、彼は諦めなかった。元より体格差は歴然としていた。リスクを負わねば厳しいだろうと予測できていた。

 だから、突き入る隙を狙っていた。古翁面と景に生まれた僅かな肉体の隙間に、畳んだ両膝を滑り込ませ、無我夢中で巨大な体躯を蹴飛ばした。

 大した威力ではなかったが、受け身を取れない古翁面は床に転がる椅子───最初に景が投げ、天狗面が弾いた椅子───に踵を引っ掛け大げさに横転した。巨大な図体が仇となったのだろう。後頭部を激しく打っていた。

 

 自由を手にした景は壁にしがみつくように立ち上がりながら、息を整えるだけで精一杯だった。未だ意識は酔狂な万華鏡のようにぐらぐらしていた。

 それでも戦うことを辞めはしない。下品な吐息を撒き散らしながらも、近場に固定されたゴミ箱の上に積まれたプラスチックのトレーを適当な束で掴み、お返しと言わんばかりに古翁面の頭上に叩きつけた。

 頭をかち割られるような激痛が脳天から走る稲妻となって古翁面の大男の意識を襲う。半ば痙攣しながら倒れ込み、死期を悟った虫のように悶える。


「ほら、こいよ」


 景は痰と固まった血溜まりを床に吐き捨てた。古翁面の男は猛々しい体格に似合わぬ痛々しい嘆きで何度ものたうち回り、星の回る頭上に身体のコントロールを失っているようだった。そして、てらりと鈍く滴る血が鼻の輪郭を沿って沈むように落ちた。

 その姿に安堵を覚えたのは言うまでもない。死人? 馬鹿いうな。ゾンビでもあるまいし、妙な厚化粧で固めた平安貴族みたいな何かだろう。殴れば痛がり、傷を付ければ血が出る。人たり得る何よりもの証拠ではないか。


「おぉ……あァアアアアッ!」


 あくまでも、そう思えたのは一瞬の出来事に過ぎない。

 怨嗟の雄叫びが不意に顔面を地面に叩きつける大男の奇行を際立たせた。

 醜い表情を隠す仮面を床に叩きつけ、雅な古翁面を砕かせた大男は、怒りというにはあまりに常を逸した勢いで、その蒼白な顔面に爪を立て、あろうことか掻きむしり始めたのだ。密柑の皮のように脆く、熟し過ぎた苺のような赤に染まる。顔中の血液を垂れ流しても尚、飽き足らず、男は皮を削ぎ続けた。

 まさに、『狂気』という言葉こそ、相応しい。


「おまえ、なにやってんだ」


 吐き気を催す凄絶な惨状を前に、さすがの景も正気を疑った。決して気の緩みを許したわけではない。困惑に窮した彼が、大男の異常な行動に対して多少の同情を寄せた他ならない。その綻びが危機に陥れる。

 突発的な挙動だった。人間の動きではなかった。腐敗したかのような肉片を繋ぎ止めた醜悪な顔面の大男は、潰れた声帯で叫びながら、横に割かれた口を広げ、獣の如く跳びかかった。

 死が、景に迫る。

 類い稀な反射神経に物を言わせ、合気道の振り払いの構えに持って行くが、受け止めきれず、両者は取っ組み合う形で暴れ回る。壁に押し込み、並べられた机と椅子を撒き散らし、隙あらば殴り、手が緩めば膝で蹴り上げる。


「離せ、こいつッ」


 もはや、猛獣のたぐいだ。大男は声とも聞けぬ雄叫びを震わせながら、暴れる景を掴んで離さなかった。闘牛士が牛を御せぬ気持ちを味わいながら、景はすっかり反対側の通路を一週し、一面ガラス張りの壁面に背中を押されていた。大男の怪力は底知れず増しており、じりじりと景の背骨をへし折る勢いだった。

 混濁する意識の中、打開策を模索する景の瞳が、ガラス壁の奥に広がる夜のとばりにて、とんがり帽子を被った少女の畏れる目を捉えた。彼女は車道の真ん中で足をもつらせていた。辺りは深まる夜の静けさを謳うように、薄気味悪い暗闇を体現しており、滲み寄る不気味な阿亀面は着々とエノとの距離を縮めていた。

 このままじゃエノが捕まってしまう。焦りとは裏腹に大男の締め付けは強まるばかりだ。抵抗など意味を為さない。無力を思い知れ、と運命が声となって聞こえてくるようだ。

 だが、耳にしたのは幻惑まがいのうわ言などではなく、儚く脆く消えてしまいそうなたった一つの小さな願いだった。


「景―――っ」


 分厚い硝子一枚で隔てられた向こう側から響いたか弱い声が聞き間違いであるのならそれでいい。実態が何であれ、それはもう届いてしまった。彼女の思いが景の怒りを暴発させる引き金トリガーになったことには変わりはない。あるいは、それが魔術というものだったのかもしれない。そうと考えでもしなければ正気ではいられない。思いも寄らない感情が渦巻いて、景は自分でも御せぬ怒りを身に浴びたのだ。


「がッ……おぉ、おおおおおおォッ」


 彼女の危機が、火事場の馬鹿力を与える。ほんの僅かに上回った一時の奇跡に近い筋力に任せて大男をガラス壁に押し込める。首筋に噛み付かこうと大男が口を開いた時、景は迷わず頭突きで迎え撃った。石頭と名高い景のヘッドバッティングは大男の後頭部をガラス壁に叩きつけ、蜘蛛の巣のようなひび、、を夜闇を顕す硝子に浮かび上がらせた。

 尚且つ止まらない。反撃の隙など与えない。怒りに身を投じる景はこれでもかと言うほど大男の顔面に拳を振り続けた。分厚いガラスの軋む音と広がるひび、、割れる溝に染み渡る赤い遺恨が憤怒の暴虐を露わにする。

 今や襲い掛かる気力すら削がれた大男を壁から引き離し、額に生々しい傷を滲ませながら景はその胸倉と襟をがっちりと掴んだ。まだ大男は気を失っておらず、景の手中でもがいているものの虫の息のように弱い。

「いいモン見せてやるよ」景は邪悪な笑みを浮かべながら一歩下がると血で穢れた透明に向かって助走をつけた。「お空は好きか? 俺はな」ガラス壁が迫る直前、野太い足を引っかけ、景は力の限りを尽くし大男を乱暴に背負い投げた。


「大ッ嫌いだ、ボケぇえええええええええッ!」


 決死の投げ技でひびの入ったガラス壁に叩きつける。大男の過多な体重は意図も容易く分厚いガラスを砕き割り、その大柄な体躯を夜闇広がる空中へと飛び立たせた。もちろん、浮遊は一瞬の余興に過ぎない。意識途切れる大男を待つのは、二階からの自由落下だ。そして、その真下には、偶然というよりも喧嘩馬鹿によって引き寄せられた必然に近い形で、阿亀面が自分の真上から身を投げた古翁面を失った大男を茫然と仰ぎ見ていた。


「う、うわああああああああああ」


 悲鳴が上がった。それだけで十分だった。外に見向きもせず、派手な騒音が耳朶を打ち、己が勝利を確信しながら倒れた机に腰掛ける。


「ざまぁねぇぜ……おぇッ」

 

 景は喉を押さえながら、嗚咽交じる痛々しい咳を何度も繰り返し、ぽたぽたと零れた血を俯瞰して密かに笑った。口内が少し切れていて、腕に食い込んだ爪から血があふれているが、それ以外の目立つ外傷は頭突きによって痛み分けた生傷ぐらいだ。常に何かしらの外傷と生活している景にとって、これは完勝に果てしなく近い。

 

「な、なんて無茶苦茶な……野蛮人にも程があるだろう!?」

 

 ひとり取り残されたダニアンが鼻血を抑えながら、興奮と畏怖の入り交じる目つきで彼に近づいていく。取り巻きの三人がまだ若い少年一人にやられたことに相当なショックを受けたのか、十八番であった笑顔の面影は残っていなかった。

 額の青筋は伊達ではない。怒鳴り散らす勢いの歩幅だ。内心焦りながら景は呼吸を整えるので精一杯だった。


「きみは自分が何をしたのか、わかっているのか。わたくしの優秀な同志を、よくも、あんなザマ、、に。わかっているんだろうな!?」


「おたくらだって殺す気だったじゃねぇか。優秀だって言い張るには教育が足りてねぇと思うけど」


 ぴくりとダニアンの切り揃えられた眉が剣吞に跳ねた。

 実を言うと、景に煽れる体力はもう残っていない。もう一戦するには、少なくとも一発殴れるだけの体力スタミナが必要だ。四人の中でそれが異質と感じるほど脆弱な体格をしているダニアンだが、他三人の司令塔の役割を担い、こうして景に不用心に近づく辺り、何かしらの策があるのかもしれない。

 平生を保て――――景は立ち上がる振りをして、机にもたれるようにダニアンと勝ち気に向かい合った。


「どうなんだよ、牧師さん」


 険しい表情のダニアンは突然、何か思うところがあるのか、歩みを止めた。顎に手を当てながら、冷たく蔑む目線を景に向け、静かに問いかけた。


「きみは、彼女アレが何なのか、知っているのですか」


「ああ?」


「いえ、結構。その反応だけで十分です。なんて愚かな単細胞か。無知は罪というが、ここまでしでかすと、むしろ愛しいですね」


 そう言って一人納得するダニアンに、景が苛立ちを隠せるはずもなかった。野郎、と胸倉を掴みかかろうとした直前、牧師とは思えぬ刃のような無情の冷気が張り詰めた小声で「アレ自身気付いていないことが最大の不幸というワケか」とほくそ笑む姿を目にした。

 瞬く間に、ダニアンはいつもの温和な作り笑いを浮かべていた。だが、その裏には、紛れもない底知れぬ深い闇が見え隠れしている。


わたくし、こう見えても好き嫌いが激しくてね。オマエのような品に欠ける下劣な人間相手には使いたくないのだが、よもや致し方あるまい。その身をもって、とくと知るがいい、我が魔術、、を」

 

 魔術―――そう聞いて、馬鹿げていると笑った景は、数分前にエノが決死の思いで教えてくれただろう告白を思い返した。嫌な予感が過り、自然と身が強張る。

 ダニアンの目が怪しい光芒を揺らし始めた。エノの目とは違う、芯から休まるような蠱惑的な誘い。火照った肉体に襲い掛かる異常な睡魔は景の精神に無遠慮にのしかかった。視界に霧がかかったような重みがこみ上げる。眠たい。なのに、瞼は軽い。

 ダニアンは次第に景の目前まで迫っていた。訳もなく目を逸らせない景はただ奥歯を噛み締めた。「強情な子だ」耳元で囁く淫婦の如く艶めかしい声。夢へと誘惑する悪魔の声だった。

 

「だがね、抗えはしないよ。さあ、夢に堕ちるがいい。───〝神はあなたを赦すだろうia ia Cthulhu Fhtagn〟」

 

 その言葉は不気味な発音を伴っていた。恐怖すら感じるほど。

 如何なる言語にも属さない未知に気を取られた景は自制心を有耶無耶に誤魔化された。転がるように夢に堕落していった。落ちれば落ちるほど気分が良くなっていく。イライラなんてしない。心の平穏が夢の底に眠っているのだと気が付いた。

 ダニアンの柔らかい掌が景の頬に触れる。艶麗な瞳が現実と夢の境界線を判別させまいと濃霧に似た睡魔という欲望を駆り立てる。必死に戦う彼の精神を侵食せんと子守り唄めいた安楽がダニアンの間近に迫った瞳に瞬いた時、景は心のどこかで小首を傾げていた。

 何か腑に落ちない。尋常ならざる眠気に襲われても尚、意思が頑なに寝たくないと拒むのは何故だろう? それは本能に近い。魔を帯びた淫らな欲望を振り払う唯一にして絶対的な意識。人はこれを総じて意地と呼ぶ。


 ───ああ、そうだ。こいつの言う通りになるのは癪なんだ。し。もう目が覚めた、、、、、

 

「うぜぇよ、おまえ」

 

 精神が魔を打ち払う瞬間だった。

 青年の芝居がかった諸々に終始イラッとしていた景は眠気などお構いなく、問答無用に握り締めた拳から鋭いフックを青年の顎目掛けて放っていた。外側から内側へ緩やかな曲線を描きながらその拳は神秘めいた魅力を持つ青年の微笑を波打つように震わせ、脳を揺さぶった。

 止まりかけた鼻血が勢いを取り戻し、青年牧師はまたもや殴り飛ばされ、哀れな白目を剥きながら仰向けに倒れながら「な、なんて馬鹿げた精神力なんだ……」とぼやきながら夢の世界へ沈んでいった。一応、何度か足で小突いてみる。完全に気絶しているようだった。


「……勝ったのか」


 しゃァッ! ガッツポーズも虚しく景は死屍累々の二人が転がる強盗事件の現場の如く荒れ果てた店内を見て、こういう時、やれやれって言えばいいのだろうか、などと適当に考えていた。

 ふと、生温かい風が割れたガラス壁の大穴から吹き荒び、気を失ったダニアンのスーツの懐から数枚の紙束を覗かせた。気になって拝借して見てみると、公園の石像にも貼られていた御札と同様のものだたわかった。スマホの写真と見比べても何ら違いはない。

 唯一の違いは、景が手に持った御札はどれも妙な熱を帯びていた。革手袋越しにも感じる体温じみた熱気だ。景は数秒悩んだ末、外が寒くなってきたので懐炉代わりにポケットに突っ込んでおく。財布を奪わない代わりの勝利報酬だ。


「てか、犯人、こいつらかよ」


 安心と落胆が交互に来た。妹に送る前に自分で解決してしまった。幸先が良いのか、悪いのか、どちらだろう。いや、紛れもない最低のスタートダッシュだ。喧嘩するなと念を押され、日も越さずに約束を破ってしまった。観察処分者の行動ではない。

 割れたガラス壁から顔を出すと、路面で二人の大男が重なり合って潰れた虫のように気絶している様子が目に入った。古翁面と阿亀面に違いない。視線を巡らせると電信柱の陰からずっと二階を見上げていたエノと目があった。

 彼女は景の安否を知ると、おぼろげだった月光が晴れ渡るように静かに微笑んだ。彼も口から漏れた血溜まりを拭いながら、何となく笑って勝利のVサインを掲げた。


「ツイてねぇのな、お互いに」

 

 まっ、悪かねぇか。――――どこかで笑った自分を、今は誇らしく感じた。


 

  ◇◇◇

 

 

 二十三時過ぎ。赤無市の住宅街ベットタウンである西区の目立たぬ一端。追い立てられるように建造された高層団地に両脇を囲まれた近隣公園の錆びたブランコに二人は座っていた。

 冷たい夜風に揺らいだ雑草が深く鎮まる闇夜を急かすようにざわつかせていた。妖しい月はマンションの頭から顔を覗かせ、静謐なる影の世界を浮き彫りにする。


いてっ……くない」


 自前のガーゼで怪我の治療を行う景の横顔を無感情にエノはじっと眺めていた。いや、無感情かどうかなど。もはや景には判断できない。むしろ、一向に視線を逸らさない手前、心配していると考えたほうが正解かもしれない。

 あまりにガン見されていたので、恥ずかしさを紛らわすため、彼は強気に笑ってみせた。自慢するように袖をまくって力瘤ちからこぶを作る。どうだろう強かったろ? 得意げな景だったが、内面の心境は疑問と焦りで覆い尽くされていた。


(あんなトチ狂った連中だとは思わんだ。気色悪いお面の奴らと魔法?とか使ってた男……。

 俺以外の客は全員、ヤク中みたいにゆめうつつ、、、、、だったし、向かいのコンビニに至っては、割れたガラスも倒れたお面どもも丸見えだったのに、無反応だった)


 何かがおかしい。段々険しい顔つきになってきた景は無理にまた笑って、エノのとんがり帽子を軽く指で弾いた。ぶよん、と帽子の先端が揺さぶられるとエノが少しむすっとした。


(こいつを狙ってんのだけは、嫌でもわかる。なおさら、渡せねぇわな)


 悪い悪い。彼の憎たらしい謝罪はエノに響いたのかは定かではない。彼女は直ぐに表情を消してしまう。笑っても怒っても見せるのはほんの一瞬に留まる。それが気がかりなのだが、接しているうちに感情の推移が頻繁に表れるようになってきた。景はそれが嬉しくて、怪我した甲斐もあったのだと安堵していた。

 闘いの果てに、荒らし尽くされたハンバーガーショップからせっせと逃げるように発ち、ここまで行き着いた二人は我武者羅な思いで足を動かしていた。落ち着いた景は、引っ越し先であるアパートに身を潜めようと考えたが、今まさに喧嘩しましたと言わんばかりにボロボロの姿では問題がある。すれ違う通行人には印象深く残るだろうし、警察の職質からは確定的に免れないため、せめて応急処置だけは済ませておこうと考えた所存であったが、今さらながら十二三歳の少女を連れ回している時点でアウトだったことに気が付いた。


「まっ、どうにでもなるか」


 お気楽に構える景は帽子キャップを外して、額に負った傷の在り処を感触だけで確認する。指が触ると軽い粘液と少量の血が付着した。ツーと顔の真ん中を堂々と滑り落ちる血滴を舌先を伸ばして舐める。予想通り濃い鉄の味がした。「ゔぇ」と顔をしかめた。

 ポーカーフェイスの魔女っ娘はブランコも漕がず、桜色のサンダルを湿りっけのある地面に突きながら、じっと彼のアホヅラを見つめた。やっぱり何を考えているのかサッパリわからない。血の跡をポケットティッシュで拭う景は思いついたように、前髪をかき上げながら彼女を向いた。


「よっしゃ、エノ。おでこのよぉ、血ィ出てんだろ」


 ほら、ここ。指さす場所にエノが顔を近づけた。


「確認。……把握」


「そこに上手く絆創膏はってくんね?」


「了承。任された」


 景から手渡された業務用の絆創膏に一瞬の躊躇いがあったものの、彼の両手でポテトチップスを引き裂くようなジェスチャーが功を奏したのか、無事に粘着面と対面することに成功した。


「ん、小さい」


 彼女の細い吐息と柔らかな手が額に触れる。傷自体は大きくない。絆創膏一枚貼ると見る見るうちに滲んだ赤が広がったが、収まるに留まった。

「はは、褒めんなよ」顔のサイズを誉められたと笑う景。「否定。絆創膏の方」即座に勘違いを正すエノ。


「推測。景は、平均男性の頭蓋骨より大きい」


 良かれと思ってか、エノはさらに余計なことを口走った。

 口を尖らせた景は途端に立ち上がり、エノの柔らかな両頬をつまんで引っ張った。


「ジョーダン言うときはよぉ、笑うモンだぜフツ~?」


ふぉうふぉうりょうしょうふぇふぉうぃふるめもりする


 されるがままの堅いエノの顔を呑気に笑かせてやろうと口角を吊り上げる。ちょっと不細工になった。年相応の女の子らしい笑顔にならなかった。

 そういえば、と突拍子もなく思い出した景はポケットから数枚の御札を取り出し、エノにまじまじと見せた。


「これ、何か知ってるか。あいつらが持ってたんだけどよ、公園とか、店の一階にも、いっぱい貼られてて気味が悪ィのよ。わかるか?」


 エノは考える素振りすら見せず、すらすらと解答を読み上げるように応えた。


「人除けの簡略式魔術の一種。その札には、何者かの莫大な魔力が込められている。よって、誰にでも扱える代物で、設置された箇所から半径七十フィート圏内に、五感及び思考内に無意識的な嫌悪を刷り込ませる能力チカラがある。数が多ければ多いほど効能も高まるが、一度でも神秘のカラクリに触れたり、知覚すると途端に効力が弱まる。

 それと同時に長期に渡る使用は不可能。人の無意識下に滑り込む効果は有限。よって、これを使用している団体はこの魔具を大量に生産できる触媒があると推測できる」


「あー、つまり、置くだけの防虫剤みてぇな?」


 小首を傾げるエノ。ああ、知らないのか。


「ちなみに、俺でも使える?」


 今度はこくりと頷いた。景は溜息をついた。


「こんなモンが魔術とはな。まあ、効果は知ってけどよ」


 駅からひしひしと積み重なっていた異常な重みの正体はこれだろう。適当な推理としては、あの胡散臭い牧師たちがエノを出来る限り誰にも目撃されず誘拐しようと目論んでいたのだろう。そのための人払いだ。こんな便利なものがあれば、誰にも知られずに子供一人を拉致することなど容易に可能となる。見ず知らずの内に景は気合いで打ち破っていたが、どれほどの嫌悪を無意識に訴えかけられるか、その効果は身をもって知っている。

 ふと、あの牧師が行使していた魔術の魅了チャームをおぼろげに思い出す。あれも意地という名の精神力に物言わせて振り切った覚えがある。魔術というものは馬鹿には効き目が薄いのかもしれない。なんだか風邪みたいだ。


「なんか混乱しそうだ。知らない世界に迷い込んだカンジだぜ」


「景は迷惑?」


「いいや。おかげさまで面白い緊張スリルが味わえた」


 景はできる限り悪人の振りをして笑った。演技というにはあまりに自然で、本性というには曖昧が過ぎるような微妙さが漂っていた。


「人をブン殴れる大義名分だ。喧嘩馬鹿の俺にとっちゃありがてぇよ」


「景は嘘をついている」


「ついてねぇよ」


「だって、景は怖がってる、、、、、


「っ───」


 何も言い返せなかった。こんなに鋭い言葉が彼女の口から放たれるとは思いもしなかった。

 下唇を噛みながら景は明後日の方向を向いた。怖い? 怖がっている? 自分が何を恐れているというのだ。保護観察の身分で喧嘩をしたからか。店を荒らしてしまったからか。それとも自分の見知らぬ世界に踏み込んでしまったからか。

 違う。これはうまく言葉が見つからない。とても単純なはずなのに説明できない。


「景、ホントは怖いの?」


「それはちが…………なんだ」


 言い淀んだ景の目が何かを発見した。木枯らしが寂しく舞う風の方向に人影が見え、得体の知れない悪寒に従い立ち上がる。エノはまだ気づいていなかった。

 月の光さえ役に立たない静けさが二人を包む中、夜闇に深紅の双眸がうっすらと浮かんでいた。だが、決してバケモノではないと断言できる美貌が芯から冷えるように理解できてしまった。


「―――見つけたぞ、禁忌の書」


 凛と澄み渡る女の声。異様に美しく響いた何かの音。悠々と二人との距離を縮める赤い声の主は、薄明るい街灯の下に肢体を晒すと同時に、銀の閃光を反射させた長い刃の剣尖をエノへ向けた。

 日本刀―――景が唖然とする間もなく、赤い目をした美しい女ははっきりと宣言した。


「お前には死んでもらう。潔くこうべを垂れろ」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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