黒い腕 前編 -⑷
某ハンバーガーショップ。
赤無市の駅付近にひっそりと構え、二十四時間年中無休を謳う店内に、招かれざる客とまでは言えないが、いち来訪者としては招きたくない客が二人来店する。
「いらっしゃいま……せ」
赤無西区店に勤めて早五年、ベテランアルバイトこと小早川は意識せずとも口に出る常套句を研修時代以来、久方ぶりに詰まらせた。
裸足の半分マミーみたいな魔女っ子を、半ば強引に手を引きながら来店した少年。とんがり帽子を被った隻眼の少女は店内を所在なく見回し、少年の方は目深に被った帽子の奥から鋭い眼光を向けた。
果たして、どういう関係だろうと思考するよりも早く、少年の騒いだら殺すという脅迫めいた面に、息を呑む緊張を感じた。
「二階は空いているか」
小早川は泣きそうになりながら、無言で頷いた。本来なら清掃のため、二階は朝まで締めているのだが、少年の地獄の釜から這い出た鬼のような恐ろしい顔面に負けてしまった。警報装置に手が伸びる。
景は、店員の引きつった顔に、誘拐犯にでも間違えられているのかもしれないと舌を巻いた。たしかに、こんな異常事態の渦中にある身は無意識に強張っていた。とくに表情筋はいつにも増して堅く寄っている。
ちらりとエノに目をやると、季節外れなハロウィン姿に隠した表情は依然として冷めきっていたが、ほんの少しだけ強く握られた手が、彼女の緊張を知らせてくれた。景は、自分が焦っている場合ではないと言い聞かせて、堂々とカウンターに向かった。小早川はいよいよ神に祈りながら警報装置を握り締めた。
「セットが二つ。アイスコーヒーと……りんごジュースで」
小早川は黙って頷き、震える指でレジを打った。これ以上関わりたくないと目が語っていた。五年のキャリアがなんだ。人は恐怖にはこうも無力なんだ。涙ぐんだ目元を拭い、小早川はポテトを揚げ始めた。
景は会計を済ませ、カウンターの横で注文を待つ。その間、エノは片時も繋いだままの手を離そうとはしなかった。別に、強く握られているわけではない。添えられている程度の握力だった。だが、エノは景の手から離れることを拒んだ。道中、何かの拍子で手が離れた際、急かされたように彼女は手を繋ぎ直した。景は最初こそ驚いたが、もはや下手に踏み込むまいと小さな手を黙って優しく握った。
「おおお、お待たせしぇしました」
かみかみの口調で店員が小刻みに揺れるトレイを持ってきた。食欲を唆られる香ばしい匂いを放つジャンクフードに涎が口内に広がっていくのを感じながら、ゆっくりとトレイを受け取る。店員の振動でポテトが紙箱から飛び出た。
「なんか、悪いことした気分だ」
「…………」
「エノ?」
景はエノの顔を覗き込んだ。人形めいた
景ははっとした。トレイを持つため、自然と手を解いていた。───その時、一瞬錯覚のように映ったエノの寂しげな表情は気のせいとは思えなかった。
一階は他の客で賑わっていたので、波立たぬ内に二階へと上がった。他の客がいないことをざっと確認し、壁際の席を占拠した。エノは戸惑う素ぶりを見せながら、景が椅子に荷物を置いて座ると、遅れて向かいのソファ席に座った。
トレイを置いてしばらく、景はエノの足が床に着いていないことに気がついた。親指の頭だけが小汚い床にタッチしてしまっている。靴があれば、気に留めない問題なのだが。
向かいにコンビニがあったことを思い出す。便利の代名詞たるコンビニに、果たして靴は売っているのだろうか。
「先食ってろ。三分で戻る」
宣言してから三分少し。景はゴム製のサンダルの入手に成功した。残念ながら不眠の宝物庫たる我らがコンビニに靴は売っていなかったが、すぐ隣の古着屋がホタルの光を歌っているのに気付き、景は締めようとしていたレジに文字通り滑り込んだ。おかげでサイズをおちおち選ぶ暇さえ無かったが、我儘も言えまい。
肩を上下に揺らしながら戻ると、エノは微動だにしないまま、未だ食事に一つも手をつけていない状況だった。金色の左目でじっとフライドポテトを睨むように観察していた彼女の異様な姿が目に映った。
「なにやってんだ」
「回答。危険性の有無の確認」
「ねェよ。もう冷めてんだろ」
揚げたてのポテトは熱い。触ることすら躊躇う熱に猫舌が耐えられるはずがない。彼女が猫舌ならの話だが。
「ほい、靴だ。サイズ適当だから合わねぇかも。まあ、それぐらいは我慢しろ」
薄い桜色のサンダルを見せるが、エノの反応はイマイチ変わらない。気に入らなかったというより、なぜ靴を履かねばならないのか疑問という感じだった。
ええい、面倒くせぇ───景は彼女の前で片膝をついて、小さな足の裏をウェットティッシュでさっと拭いてから強引に靴を履かせた。やはり、少し大きかったが、歩くには支障ないだろう。
(そういや、こいつ、裸足で歩き回ってたくせに、足に怪我一つないな)
エノの足は汚れてはいたものの、血一滴すら流れていなかった。いくら整備された道路の上だとはいえ、小石や砂利は無尽に転がっているというもの。怪我一つしていないことに違和感を覚えた。だが、景も子供の頃はよく裸足を好んだし、裸足で遊べるのは子供の特権のようなものである。別に問題ないか。と、景は疑問を消化した。
「どんだけ健康体なんだよ。子供スゲーな」
「?」
「でも、履いとけ。ガラスの破片とか以外と落ちてるもんだぜ」
「了承。この靴は履く」
そう言うと両足をぶらぶらさせた。表情は変わらないが、一応喜んではもらえたのか。この際、税別三百円というお買い得すぎた値段は言わないでおこうと彼は心の内で決めたのだった。
そうして、やっと腰を落ち着かせた景は「いただきまーす」と軽い合掌を終え、包み紙を解いてチーズハンバーガーにかぶりついた。小首を傾げながらエノは如何にも見様見真似といった感じで「いただきまあす……?」と動作を繰り返した。
しかし、なぜだろう。手が止まる。日本が誇るある種の伝統的儀式を終えた両手は机の上で迷子のようにワナワナしていた。
「ほら、食えよ」
「………」
エノは目の前にあるポテトとジュースに困惑していたのだ。初めて見たという初々しい顔だ。ハンバーガーに至っては当初眼中に無かった。景が包み紙をひん剥いて、食べ物だったという正体を晒させた上で、実際に口にするまで、その紙に食べ物が包まれていることさえ、気づいていなかった様子だ。
遠慮ではない。これ本当に食べれるの? という葛藤がそこにはあった。
キノコや甲殻類などの見た目が特徴的な食物を、人類最初に食した人も彼女と同じ心境だったのかもしれない。しみじみと景はパンとチーズがかった肉を咀嚼した。
「これは、なに」
「フライドポテト。ジャガイモを揚げたやつ」
「これは」
「りんごジュース。よかったな果汁一〇〇%だぜ」
一〇〇%で何がどう違うのか、景はいまいち知らなかったが。
眉一つ動かさない機械のような表情のエノは黙々と食を進める景を見つめていた。ただし、彼女の手は、ポテトの前で、進んだり、下がったり、指で触ろうとしたり、やっぱり辞めたりを繰り返している。
ついに見兼ねた景は彼女のポテトに手を伸ばし、その一本を口にした。なんてことのない、塩の効いたフライドポテトだった。
「うまいぞ」と景は自分のポテトをエノに差し出した。悩みの末におそるおそるポテトを摘むと、景を一瞥した後、意を決して口の中に放り込んだ。
いけ、噛むんだ。未知との遭遇はすぐそこだ。景はなんだか楽しくなっていた。
咀嚼の時間。エノは物言わぬ仏のような顔だった。そして、静かに彼の目を見て、感想を漏らした。
「……しょっぱい」
「そりゃ塩だからな」
「でも、美味しい」
エノが見せたのは、小さく口元を綻ばせた年相応の優しい表情だった。初めて見せた彼女の笑顔に、彼もつられて笑ってしまった。
「なんだ。ちゃんと笑えんじゃん」
少しだけ安心した。心に傷を負っているのかと心配していたが、過ぎたお節介が生んだ杞憂だったのだろう。
「疑問。これは如何にして食す」
「ストローあんだろ。刺して吸え」
「吸う……」
真剣にエノは彼の飲みかけのアイスコーヒーのカップを見ながらストローを刺したが、何度もフタに阻まれる。その度にカップに刺さったストローを不思議そうに見つめた。手元を見ずに刺し(刺すというよりほぼ突いてた)ながら、景のカップだけを注視していると、偶然にも切り口に命中し、ストローを刺すことに成功してしまった。ざくっと氷を劈く音がした。刺した本人は驚きのあまり言葉を失っていた。
「おい、どうした?」
「驚嘆。人は強い。すとろーをいとも容易く刺すことができる」
ぐいっとりんごジュースを景の前に突き出し、エノは誇らしげに胸を張った。まるで、長年の宿敵を打ち倒したような達成感の貫禄であった。
「しかし、これを試練というには弱すぎる」
「言ってねぇよ誰も」
そんなに嬉しいか、ストロー一本で。
前のめりになって無心でりんごジュースを吸い始めるエノ。最初はやはり飲めていなかったが、一度見本を見せると黙々と飲み始めた。彼女は一度真似るとすぐに学んでいく。子供の脳はスポンジだと言ったのは誰であったか。
感心しながらも景は、必然として視界の真ん中で異常な存在感を示す彼女の巨大なとんがり帽子を眺めざるを得なかった。もはや、慣れたと思っていたが、帽子の先端が尻尾のようにひょこひょこと滑らかに動いていると、気になって仕方ない。
そもそも、これは本当にただの帽子なのか。さっとペーパーで指を拭くと、興味本位で手を伸ばした。そして、がっしりと触ってしまう。感触は予想だにしないもので、意外にも
「うおっ、なにこの新触感」
布というより人肌に近い感触だった。
どの衣類にも属さず、おおよそ彼が知り得る生物では、到底生成できないであろう奇妙な素材。いや、それとも、これそのものが新たな生物なのではないのかと妙な考えすら過る中、景の馬鹿さ加減は遺憾なく発揮されていた。
「これがウワサのナノカーボンってやつか」(※違います)
最も近い感触は、たっぷり膨らんだ水風船の質感。弾力を帯びた柔らかなゴム。中毒性があるほど触り心地が良い。
今はこんな素材が流行ってんのか。ちょっと欲しくなってきた景は、とんがり帽子を気に入ってわしゃわしゃと触りまくっていた。それはもう愛犬を撫で回す勢いで。
いつのまにかエノが恨めしげに彼を見上げていた。僅かに頬を赤らめながら、冷たい軽蔑の眼差しを向けていた。
「忠告。それは私の肉体の一部。あまり触られると……恥ずかしい」
「お、おう。なんかスマン」
急いで手を離し、咳払いと共に座り直す。エノは真っ赤な顔を隠すように、とんがり帽子の両つばを握って目深く被った。それでも彼女の非難の目線をひしひしと感じる。景は居た堪れない気持ちになった。
おかしい。幼女にセクハラしてしまった気分なんだが……。
「お詫びに俺の帽子、触る?」
「拒否」
即答だった。
◇◇◇
時刻がいよいよ二十二時に差し掛かる頃、洗わなければならない小物類を洗浄機に叩き込み、小早川は欠伸をしながら厨房の床を箒で掃いていた。店内の客は、二階に居るあの恐ろしい二人組に加え、一階で珈琲一杯で三時間もねばる若い男女と、終電を逃した中年サラリーマンだけになっていた。
厨房の清掃は大方終わった。デッキブラシで擦ったタイルは気を抜くと滑りそうで危ないが時期に乾くだろう。生ゴミは既にまとめて外に出してある。廃油はもう少し夜が更けてから、フライヤーの電源を落とし、火傷防止のため、冷ましてから行う。それが終わればいよいよ彼の仕事は店番だけになる。
ちりりん。来客を知らせる鐘の音に、先程はきちんと言い損ねた「いらっしゃいませ」を伝えるため、小早川は笑顔で顔を上げた。
「いらっ……しゃ」
カウンター越しに見えた来客者は、目を疑うほど異様であった。数は四人。一人の例外を除き、他三人は黒衣の外套を羽織り、筋肉隆々とした体格を狭苦しそうに押し付け合っていた。彼らは多種多彩な和風の仮面で顔を隠し、小声で何かを囁き合っている。
雑技団か、酔っ払いだろうか。また泣きそうになりながら、
ところが、仮面の男たちは注文どころか、無遠慮にも店内の至る箇所───机の脚、ガラス戸の端、商品が記された看板───などに古臭い
「お、お客さま⁉︎ 何を勝手に……っ? け、けけ、警察を呼びますよ?」
流石にカウンターから飛び出した小早川は、天狗面の男の肩を掴んで震える声を荒らげた。
しかし、尋常ではない怪力で、いとも容易く振り解かれた。「うわっ」と尻餅をつく小早川を見向きもせず、天狗面の男は壁に見たことのない文字で書かれた御札を貼り続けた。
なんなんだこれは……。借金取りが土足で部屋に上がりこみ、差し押さえを淡々と貼っていくような気分に、小早川は異常性極まる不安を覚え、一刻も早く逃げ出したい一心であった。
そんな時、一人の西洋人が駆け寄った。来客した四人の中で、唯一普通の人間に見える白人の青年だ。
「いやはや、すみません」と彼は流暢な日本語を口ずさむながら、人懐っこい笑みを浮かべ、腰を抜かした小早川に手を差し伸べる。
彼はきっちりとしたスーツに身を包み、赤茶の髪を三つ編みでまとめた、如何にも清潔そうな容貌をしていた。小早川は悪い人ではなさそうだと安心して、彼の手を縋る思いで強く握った。
「あ、あの人たちの知り合いですか?」
「ええ」
「じゃあ、止めてくださいよ」
「それはできません」
小早川は絶句した。笑顔を崩さない白人の青年は、細い瞼の奥から青い瞳をチラつかせながら、作業を続ける仮面の男たちを褒め称えるように大袈裟に腕を広げた。泣きそうな思いのまま、小早川は彼も狂人の類ではないかと疑い始めた。
「彼らは正しき道を得るために、恥を承知で、己の為すべきことをしているだけなのです。それは一見、世間の常識からハズれた行為に他なりません。すれ違った人に殴りかかる。高速道路を逆走する。あまつさえ、人殺しもその類でしょう。ですが、それらの行動に意味があったとしたら? 命の天秤に値する重要な理由があったとしたら? 誰が彼らを責められるのですか」
青年は陶酔したように止まらない。
「彼らの理由、それこそが主への信心です。かつての神代から受け継がれてきた純粋無垢な信仰心に従っているだけなのです。我々、現代人が忘れてしまった心です。正義に準じる彼らの行いは何よりも尊く、美しい。
こいつは、一体何を言っているんだ。小早川の引きつった頬に、青年は優しく手を添えた。愛撫でるような温かな手振りだった。いつのまにか、小早川は気持ちの良い気分に浸っていた。彼の美しい青の瞳をずっと見つめていたいと呆然と考えていた。
「
眩暈がする。本能が告げる。これ以上、彼の言葉を聞いてはならない。彼に耳を傾けてはならない。
ああ、なのに、なぜだろう。心はもう堕ちていく。眠りに誘われるように、深みに沈んでいく。
「このお店を壊そうとは思っておりません。ただ、赦していただきたいのです。
ほら、私の目をよく視て。真実は遠く、虚構こそが仮初めの現実に移り変わります。誰も、意識の外では不安に駆られることはないのです。怯えることもない。総ては夢。夢の過ち。さあ、夢に堕ちなさい。───〝
それは甘い言葉だった。
溶けてしまいそうな蠱惑的な誘惑が、脳裏に何度も反芻する。嗚呼、抗えない。この欲望は酒と女に溺れる逃避と何の違いがあるのだろうか。それらには互いに求め合う両義性と反社会的な風刺を備えながら、何ら不浄な欲望を伴っていないのだ。
小早川は意識を失っていた。軸を損なったようにふらふらと、零れ落ちそうな握力で箒を持ち、
白人の青年は冷徹な眼差しで店内を見渡した。そこには虚ろに笑う客らが机に力なく突っ伏していた。彼らもまた、意識なき夢を現実と履き違えているのだろう。
なんと、造作もない。これが
「二階だな。いくぞ」
白人の青年が指示すると、仮面の男たちはぞろぞろと青年を中心に取り囲むように陣を組んだ。さながらボディガードのようだ。
青年らが階段を上がる頃、厨房の奥から誰かが転けたような騒音と、次いで油が弾ける音が鳴り響いた。所詮、夢と現実は違う。夢見る意識では、自分が何をしているかなど分かるはずもない。感じるはずの五感は既に眠っているのだから、痛みすら忘れているのだろう。
哀れに眠れ。死は夢だ。
肉の焦げる臭いが煙のように厨房から漂った。
◇◇◇
藤宮景にとって、エノと名乗った少女は単なる赤の他人であるにも関わらず、放っておけない対象へと変わっていた。
あの目だ。あの顔だ。痛いと言えない、助けてと言えない、壊れていく自分を傍観するしかできない人間が憂い嘆く表情だ。
彼が一度、それを見てしまうと、胸の奥深くに隠していたはずの良心を揺さぶられ、忘れたはずの慈しみとやらを強いるのだ。彼はそれを一種呪いだと感じていた。
なぜなら、藤宮景は優しさなどとは無縁の生き物だから。───そう、言い聞かせてきた。そうでもしないと、暴力の渦中でしか生きられなかった自分を見失ってしまう気がした。
人を傷つけて、挙句は殺してしまった男の気まぐれじみた優しさほど、価値のないものはない。今さら、
食べ終わったハンバーガーの包み紙を丸めてトレーに置いた。時刻は二十二時前。客足が途絶えた店内はしんみりとした静寂を守っている。貸し切りとなった二階の隅の席で、魔女めいた少女と食事を取る帽子を被った無愛想な少年は、どこから話を切り出そうか悩んでいた。
(今なら、まだ引き返せるよな……)
厄介事なら性に合っている。吐き出したいほど満腹だ。十中八九どこか面倒な臭いを漂わせる幼気な少女と今ここで別れてしまえば、藤宮景は赤無市で新たな学園生活を楽しめるかもしれない。
いや、少なくとも引っ越し初日は平和に終われるだろう。景は自分の中で
小さな口がハンバーガーにかぶりつく。無口な少女は決して言葉では表さないが、ケチャップ塗れの綻んだ顔は美味しいと物語っていた。呆れた景は苦笑しながら、ペーパーで口元を拭いてやった。
「おいおい。食べ方ワイルドかよ」
抵抗もせず、口元を拭かれるエノはきょとんしていた。やっぱり、年相応の
景は段々考えている自分がバカらしくなった。気付けば勝手に口が開いていた。
「それで、なんで家に帰れないんだ? 喧嘩か?」
景はなるべく軽い気持ちで話させようと、スマートフォンを弄りながら聞いた。叔父に「めっちゃおくれる」とだけ連絡を入れておく。こんな時間だ。待ってはくれていないだろうが。
ちらりと前を見る。エノは俯いていた。何度か口を開こうとする素振りも虚しく、何かを躊躇っていた。景はすぐ「ま、喋りたくないならいいけど」と付け加えた。
「俺は、喧嘩しかできねぇ馬鹿だし、お前にしてやれることは殆ど無ェよ、多分」
景は呑気に笑いながら話した。かつて自分が絶望の淵に立たされた時、そう笑って語りかけくれた人がいた。すると、魔法のように楽になって、心の奥底に溜め込んだものを吐き出せた。
だから、不器用ながらも必死に笑ってみる。真似事でも、自分できることはこれぐらいだと思ったから。
「でも、話ぐらいは聞いてやれる。馬鹿だから、難しい話は無理だけど」
しばらくの間、重たい沈黙が流れた。どんよりとした空間を耐え忍ぶこと数分、エノは小さな胸にはち切れんばかりに溜め込んだものを今こそ吐き出さんと、ぽつりと語り始めた。
「回答、帰属を避ける理由は一つ、
「……またとんでもねぇのがでたな」
予想外の答えに景は苦笑いした。まさか、ここで冗談を交わしてくるとは思いもしなかったし、多少とはいえ、仲が深まったと自惚れていたことに落胆もした。しかし、エノは神妙な表情を一向に崩さなかった。
これでは、まるで、本当のことを言っているようではないか。景は崩した姿勢を正した。
「私の目には、この世に混在するあらゆる神秘の具現、いわゆる〝魔術〟と呼ばれる禁忌の知識が記された〝魔導書〟の写本が記録されている」
いきなりファンタジーになったな。もう笑えなくなった景は机に突っ伏してストローを咥えながらエノの日常とはかけ離れた信じ難い話に耳を傾けることにした。嘘か真か、今はそんなことどうでも良かった。ただ、何か恐ろしいものを感じずにはいられなかった。
「十年前、数少ないその一冊が焼失。残る写本は国外で厳重に保管されている訳本のみ。当然、魔導書を欲する多くの者から追われる身となった。かつて、身を置いていた教会は組織ごと抹消され、私は行く当てなどなく逃げるように
エノの不審な表情に、景は「記憶喪失なのか」と問う。彼女は首を横に振った。答えは「わからない」だった。
「この街に来たのは数ヶ月前だと記憶している。前後の
ズーズーと空になったカップから空気を吸い上げる音が響く。話を聞くには、態度の悪さが際立っていた景だが、その目は鋭くエノの挙動を注視していた。
嘘を言っているようには見えない。彼女の話は信じ難いが、景は笑い飛ばせるような事態ではないと気づき始めていた。
それでも内容が内容だ。易々とは信じられない。
「だから、目的も、私の使い道も、理解するのにそう時間はかからなかった。隙を見て逃げ出してから三日。彼らとは何度も接触したが、運良く逃亡に成功している。もしかすると、無意識の内に何かの魔術を行使していたのかもしれない。だが、彼らが求める魔術はそんな生易しいものではない。より恐ろしいものだ。彼らの手に渡らせてはならない、絶対に」
エノはワンピースの裾を小さく握った。顔には出さないが、本当は怖がっているのかもしれない。何に対してか───そんなこと予想できないが。
「彼らはは欲している。混沌を、終焉を。世界を滅ぼす魔術の一端を」
「どんな魔法なんだよそれは」
景は興味本位で聞いてしまった。エノの話はどうやっても信用に値しない伝奇じみたオカルト譚だ。子供が考えたにしてはよくできた、悪く言えば出来すぎた内容だった。
それでも彼はエノは信じてやりたかった。極めて変化の乏しい無表情の彼女の震える肩と強く握った服の皺が、ここにきて景を真面目にさせていたのだ。
エノはその黄金の瞳で景を見つめ、そっと耳打つように囁いた。
「───〝神〟の召喚」
ゾッと身の毛が泡立つ。得体の知れない魔力を秘めた言霊が凍える全身を駆け巡る。
なんだ、どうして今、俺は冷や汗をかいた?
景は理由のない薄気味悪さを感じた。呼吸も血脈も心臓の鼓動さえも働きを躊躇した瞬間は、悍ましい恐怖心が織り成した幻惑他ならない。だが、嫌な汗が背中や指と指の間までびっしりと叫びたいほど纏わりついていた。咳払いして、上着をはたきながら何でもない顔をしてみるが、荒っぽい吐息が全てを台無しにしていた。犬みたいに頭を振って、上ずった声しか出せなかった。
「神さまってなんだよ。いいじゃねーかよ、別に。仏さんなら頭についた納豆でもくれるんじゃねーの?」
「回答。螺髪は豆ではない。そして、この星に眠る神は人が崇めてよいものでは、決してない」
エノの諦念は声音によって露呈していた。景は今にも崩れそうな作り笑いを潔くやめた。
「其れが目覚めれば、地は腐り、海は荒れ、生命は無情の死を遂げる。意味などない。元に戻るだけ。総て冒涜する。かつて、遠い昔、まだ宇宙が胎児のように小さかった時代、荒れ果てた地球を我が物としていた支配者たちの一柱。人はそう、それを〝
―――グレート・オールド・ワン。
本能的に彼はその名を意識の隅で反芻した。
頭痛めいた気持ち悪さが返ってきた。知ってはならなかった禁断の理に背徳感が正気を揺さぶる。こんな、こんな話あってたまるか―――!
丁度その時だった。誰かが階段を登ってくる音が聞こえた。こんな時間にわざわざ二階で飲食するとは変ではないか。不思議に思った景はすぐ鼻で笑い飛ばした。尖った神経のせいでセンチメンタルになっている。
エノの話は些か過激だ。真偽を問うより先に、のめり込んでしまった。なんとか落ち着かせようと胸を下ろしていたが、妙な感覚に横殴りされたかのように襲われた。駅と公園でひしひしと感じたあの気怠さが、あの虚しい重みが、懐かしさなど微塵も追随させない配慮の無さで景の神経を逆撫でていた。
彼女の目は、恐れていた。
「人払いの魔術、と死の匂い」
「なんだ?」
「……来る」
階段から上がって来たのは、妙な仮面を付けた黒衣の三人組だった。かなりガタイが良く、外套に筋肉の型が見て分かる。如何にも怪しげな三人は、奥の席から訝しげに睨む景と目が合い、その先に縮まるエノを視認すると、さっと道を開けた。
三人に守られるように囲まれていたスーツ姿の四人目が姿を現し、景とエノの席へ悠々とした足取りで迷いなく進む。
「御機嫌よう」
第一声がそれだった。
窮鼠のような印象を抱かせる西洋人の青年だった。柔らかそうな細い吊り目。長い赤茶の髪を三つ編みでまとめ、撫で肩に垂らしており、首からロザリオをかけていた。神父なのだろうか。
なんだか信用できないやつだな。景は頬杖をつきながら無愛想に応対した。
「席なら他に空いてんだろ」
「いえ、
視線の先は、やはりエノだった。
「さあ、帰りましょう。皆、あなたのことを心配していますよ」
一歩、白人の青年が怯えた表情のエノへ歩み寄ろうとする。景はさっと席から立ち上がり、エノと青年の前に割って入った。
青年の鋭い眼光が糸のように細まった瞼の隙間から見えた。
目と鼻の先。景の身長は百八十前後もある。肩幅だってそこそこある。体格差に物を言わせて、百六十にも満たない青年にガンを飛ばす要領で、ぐいぐいと近寄った。
しかし、青年は脅える様子もなく、静かに笑っていた。
(大体のやつならこれで逃げる。だが、こいつ、ビビりもしやがらねぇ)
景の中で、青年に対する警戒が強まった。青年は気品ある優しい口調を崩さない。
「何かご用ですか」
「……あんた、こいつの家族か」
背中に隠れるように縮まるエノに親指を差した。手を合わせて青年は笑顔で頷いた。
「ええ。
物腰の柔らかい声だった。人を安心させるセラピストのような優しい声。それが逆に景の中の不信感を強めた。
牧師と名乗った青年ダニアンの後ろでは、退路を断つ形で階段前に佇む不気味な黒衣たちが並んでいた。その動きに不穏な予感を覚えた景は、これ見よがしに奥の三人を睨んだ。背丈二メートルはある体格を備えながら、
一丁、飛び込んでみるか。景は野生の勘に従い、煽るように大声で言った。
「なんだよアレ。随分と個性派なお友達だな。おたくら、歌舞伎でもすんのか」
「ああ、彼らは
「どうでもいいんだよ、そんなことは。なんで、三人揃って変なお面つけてんだって聞いてんだ。近くでお祭りでもやってんのか、ああ?」
「怖い人だな。彼らは美意識が非常に高いのです。凡人には、理解できないでしょうけど」
牧師の青年は景を嘲るように、そう説明した。
少しムカッ腹が立ち始めた景の中では、底知れない不安ばかりが走っていた。ここまで怪しい集団は初めてだ。奥の三人は、言うまでもなく恐喝の代役というわけだ。実にやり方が手練れている。
ここで、天啓に近い形で、この妙な連中にエノを渡せば万事解決なのではないのかという考えが頭の中で沸き立った。これ以上、変なことに巻き込まれるのは御免だ。牧師ダニアンの言葉を鵜呑みにして、素直にエノを保護者に返すのが一番平和的ではないか。何より、景にとってこれ以上首を突っ込む利点は見事に無いのだ。
彼は揺れていた。だが、天秤は片方だけに載せられた錘に反して大袈裟に揺れるばかりだ。不意にこぼれた舌打ちに反応を示したのは、板に付いた笑顔のダニアンだった。
「あなたには感謝します。この子の相手をしていただいたようで。御礼は後日させて頂きます。さあ、帰りますよ」
牧師の青年が何食わぬ顔で、俯く景の横を通り過ぎる。もはや、止める気力は存在していなかった。如何に拳を強く握ろうと、親権を主張されたら景は手出しできないのだ。
そう、
その時だった。無力にも肩を震わせながら目を伏せた時に、ふと誰かに上着の裾を小さく
あまりに弱く、自己主張の乏しい掴み方に一瞬気の所為だと心の内で蹴ってしまったが、思い当たる節が景を思い留まらせた。ああ、いた。ただ一人そこにいるではないか。脆く散ってしまいそうな泡沫の如く少女の憂いが、最後の頼みとして彼の背中から訴えかけたのだ。
ああ、これは俺の失態だ。もうすっかり負けてやがった。
あえて、後ろは振り向かなかった。
巧みに避けるダニアンの前に、景は一歩踏み出し、立ち塞がる形で彼の目の前に躍り出た。嫌がらせに感じたのか、青年の笑顔が不快に歪んだ。とはいえ、悪意に満ちた景の笑いを汲み取れはしないだろう。吹っ切れた馬鹿ほど怖いものはないのだから。
訝しげながらもダニアンは牧師らしい慈愛に満ちた笑みに切り替えた。青筋は上手く隠したつもりなのだろう。
「なんです?」
「一つ確認なんだが、こいつの名前ってなんだ? 知ってるなら、教えてほしい」
ダニアンは黙り込んだ。
やがて、顎に手を当てて考え込み、また笑顔を作りながら一人でに頷くと、
「いいでしょう。彼女は翔子と言います。黒井翔子。黒に井戸の井。飛翔する子と書きまして、翔子です」
と、丁寧に答えた。
景は瞼を閉じて己の不運を呪った。同時に今まで自分の中で渦巻いていた諸々が生まれたばかりの台風に直撃して吹っ飛ばされていった。
この世は単純だった。馬鹿には丁度いいぐらいの思慮深さが世界に廻っていたのだ。信じるか、疑うか。判断の余地など与えられない。全部、やりたいようにやるだけだ。
ああ、もう考えるのも面倒くせぇ。
いつのまにか景は握り拳を突き出していた。鼻から血を流すダニアンと名乗った牧師の青年の美貌が急速に失われる。顔面にストレートを貰った彼は周辺の机を巻き込みながら背中から派手に倒れていた。
机や椅子が転がる騒音の後、ダニアンは何が起こったのか、不可解だと言わんばかりに目をパチクリさせた。鼻から落ちる血の跡だけが真実を語る。不意打ちされた話し合いの目処すら立たずに。
「な、なにを……?」
「おまえ、くせーんだよ。血の臭い。それに俺以上の外道の臭いもしやがる。あと、保護者なら名前間違えんてんじゃねぇ。二度と間違えんな」
あーあ、やっちまった。親父になんて謝ろう。
景は心の中で失笑しながら、上着の裾を小さく握るその手をそっと握り返した。
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