第7話 白日夢
こんな夢を見た。
私は一人の子供の手を引いていた。
辺りに生えた松がひょうひょうと梢を鳴らし、道を照らすのは僅かな街灯と、私の持つぼんぼりだけだ。
子供は質素な汚れた服を着た少年であり、しかし、その髪や爪は見事なまでに艶やかで綺麗であった。
「君の名前はなんて言うんだい?」と、首を後ろに捻って私は聞いた。
すると、「名前なんてないよ。僕は僕だから」と、少年は答える。
えらく達者な子供だと私は思う。甲高い変声前の声とは裏腹に、口調や態度は私よりも随分と大人であった。
道は広いが人はおらず、左右には塀が続いている。
私たちはその中を歩いた。
「君は名前が欲しくないのかい?」
「思ったことはないよ。困ったことも」
問いに考える事なく少年は答える。その瞳は酷く純粋だ。
「でも名前がないと呼べないじゃないか」
「呼ぶ必要はないよ。この手を握っている間だけの関係だから」
どうにも寂しい気持ちになる。
「私は君のことを覚えていたいのだけれど名前がないと忘れてしまうだろう。もし良ければ名前を付けてあげようか」
「なら聞くけど、名前はその人なのかい?」
「どう言うことだい?」
「あなたの名前は紛れもないあなたの名前だけど、その名前が無くなったからといってあなたがあなたで無くなる訳では無いと思うんだ。だから名前はただの記号であって、その人を表すものでは無い。僕はそんな記号に縛られるのが嫌いなんだ」
また難しい事を言うが、その考えが分からなくもない。
「なるほど」と、呟き私は歩いた。
暫く進むと、光を漏らす一軒の家が見えてくる。
二階建てで木造の古いその家を見て私は、はっと息を飲む。
「目的地が見えて来たね。急ごうよ」
手を引いて歩き出そうとした少年を私は引き止めた。
「どうしたの?」
「あの家には行きたくないんだ。引き返さないかい?」
私の足は竦む。何故だろうか、あの家にはどうしても近づきたく無かったのだ。その家を私は見た事があった。確実に何処かで見た家なのだが、何故見覚えがあるのかは思い出せず、嫌な感覚だけが背筋を伝っている。
ただただ不気味で仕方なかった。
「引き返す事は許されないよ。あなたはあの家へ行かなければならないんだ」
「何故だい?」
「その責任があなたにはあるからだよ」
少年が何のことを言っているのか私には分からない。ぼんぼりの灯りでちらちら揺れる少年の表情は読めず、しかし、その中で見える肌はしっとりとした白であったように思える。
「さあ、行こうよ」
少年はさらに私の手を引っ張った。重い足を引きずるようにして私はゆっくりと家に向かって足を進める。
見えてくる家は思ったよりも大きく、近づくに連れて何やら楽しげな話し声も聞こえて来たが、それら全てが私の中に緊張感にも似た不安を植え付けた。
「やっぱりやめよう」
私は再び足を止める。
「どうして? ただあの家へ行くだけだよ。それなのに何故そんなに嫌がっているの?」
少年の疑問は最もであったが、私にはあの家がまるで幽霊の出ると噂の寺小屋のように見えて仕方なかった。齢三十となって子供の前で怖いなどと言うのも恥ずかしい話に思えるが、そんな恥などどうでも良いくらいに直感があの家には近づくなと私に訴えていたのだ。
「どうしてもあの家には行けない」
「でも、今あの家に行かないとあなたは一生あの家へ行く事も出来ず、何があるのかを知る事も出来ないよ。そして必然的に責任も果たせなくなる……それでも良いの?」
「……やはり君は、あの家に何があるのかを知っているんだね」
静かに頷く少年は引いていた私の手を離す。
「あの家にあるのはあなたが背負うべき真実だよ。選ぶといい。引き返すのか進むのか。後はあなた次第だ」
言い残して少年は先に家の方へと駆けていった。
私はぼんぼりの揺らめく道の上で一人考える。一体あの家には何があるのか。少年の言う通り、ここで引き返せば以前と同じ生活を続けていけるだろう。しかし、家へ行かなかったと言う事実はしこりとして私の記憶に残り続ける。
あの家へ行く事が果たして私の為になるのか。分からないからこそ私はこうして立ち止まっているのであった。
私は一体どうするのが正しいのだろうか。引き返して今の生活を守るべきなのか、それとも進んで良くも悪くも新しい何かを手に入れるのか。分からない。分からないが、正しいと言う事ならば少年が言っていた責任を果たすという行為が正しいのだろう。
あの見覚えのある家と私の責任。遥か昔の埋もれた記憶の中を探るとぼんやりと何かが見つけられそうな気もするが、やはり思い出せはしなかった。
「責任」と、漏らした言葉は彷徨う風に運ばれ消える。
私は一つ唾を飲んで家を見た。そして恐る恐る一歩を踏み出したのであった。
怖くて仕方がない。足が竦んで仕方がない。それでも私は、私の責任と言うものを果たさなければいけないような気がしてしまったのだ。
ここを超えなければ私はこの先へ進めない。決心して私は家へ向かって歩きたどり着いた。
中からは依然として楽しげな話し声が聞こえて来ており、吐きそうな程のストレスを私は感じていた。
「やっぱり来たんですね。それが正しさです。さぁ中に入りましょう」
気がつくと少年は隣に立っており、引き戸に手を掛けた。
からからと戸が動き中が見える。囲炉裏と、それを囲む家族の姿。そこに座っていたのは私と母と、そして兄であった。
それは遥か昔の私の家族の姿である。
「これは一体」
不思議に思って少年を見る。すると突然辺りが真っ青になったように思えた。雲に隠れていた月明かりが現れ地上を照らしたのである。
揺らめくぼんぼりの灯りでしか映し出されなかった少年の顔が青白い月光で照らされ、私は尻もちをつく。
少年の顔はそこの囲炉裏で座る私と同じ顔をしていたのである。
「兄さん。私の名前は役に立ちましたか? そろそろ私に返してくださいよ。奪って取った物なんですから」
そうして男は目を覚ましたのであった。
文学の淵を歩く。(短編集) 朝乃雨音 @asano-amane281
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