第6話 裸
私はいつも不安定だ。
気持ちが悪くて、何かが背中に重くのしかかっている。
この何かはいつになったら消えるのだろうか。もしかすると、一生消えることがないのかもしれない。
まるで即席で作った筏の上に乗っているようだ。今にも沈みそうなのだが沈まない。絶妙なバランスで浮かんでいる。乗っていて怖いのだがそれ以外にしがみ付くものがない。いっそのこと死んでしまったほうが楽なのではないだろうか。しかしながら死というものはそこまで安いものではないのである。
私はいったい誰なのだろうか。しっかりと自分のことは分かっているはずなのに、気が付くと自分を見失っている。霧の濃い山道のように道があるにもかかわらず迷いやすく、見えにくい。
私は上を向いた。
空では少し欠けた月がどんよりと私を映し出す。
夜の公園のベンチ。一人座り時を過ごす私は、他から見ると異常者に見えるのだろうか。
どうにも世界は私に厳しすぎるような気がするのだが、それは私個人の基準であるため誰にも理解されることはない。何とも虚しいものだ。
私がどれほど苦しんでいようと、そんな私を真に理解してくれる者は存在しない。だからこそ神というものにすがる人が出てくるのだろうか。
今なら信仰宗教を持っているものの気持ちがわかる気がする。それもまた気がするだけで真には理解していないのかもしれない。基準や価値観とは自分だけが持ち理解できるものなのだから。
ああ、何とも気持ちのいい夜なのだろうか。すべてから解放されている。今私という存在をとらえているものは一人もおらず、世界は私抜きで回っている。そんな強がりを思っても世界は変わらない。
つい先日職を追われた私はうなだれ頭を落とす。
今年でもう三十八歳になる私は体が弱く病気がちだ。そのため男ではあるが力仕事は難しい。再就職も厳しいだろう。
ベンチの下の薄暗い地面では一匹の蟻がせっせと歩いている。その小さな体をフル稼働させ、世界を踏みしめている。まるで私へのあてつけのように今ある世界を信じ疑わず生きているのだ。今の私はちっぽけな蟻にも及ばない存在だ。なにせ世界に関わっていないのだから。
どす黒い波が襲いかかっては引いていく。私を弄び嘲笑っている。真実はそれよりも大きな真理に押しつぶされる。道徳なんて糞食らえだ。全部、全部、全部。何もかも偽物だ。信じられるものは何もない。この公園の木々も、あの夜空に浮かぶ月も、今私が踏みしめる地面もすべてが偽物であり、人の作り出した虚構なのだ。
なんて言ってみても、世界は変わらず回っていて、意味がないことは知っている。
ため息ひとつついてみても、それは闇の中に紛れるだけで、私の背中を軽くしてくれるわけではない。
どうあがいても私はこの世界からは逃れられないのだ。
「大丈夫ですか?」
突然声をかけられた。
男の声だ。私のような者に声をかける奴はいったいどんなモノ好きなのかと思い私は声のほうに顔を向ける。
そこに居たのは警察官だった。
私はうなだれる。
「何が大丈夫なんだ?」
私は彼を睨み付ける。
「え?」
「俺の何が変だと思ってお前は声をかけてきたんだ」
「いや、もう時刻も夜中の一時を過ぎていますので。こんなところでどうされたのかと思いまして」
「そうか。やっぱり俺は変人に見えるのか」
警察官に聞こえないくらいの小さな声でつぶやいた。
「大丈夫だ心配しないでくれ」
上着に入っていた空っぽの財布から免許証とクビになった会社の名刺を取り出し警察官に見せると、警察官は「そうですか」と言い残し去っていった。
落ちるとこまで落ちたもんだ。
警察官に心配されるだけまだましなのだろうか。しかし、それは今私がスーツを着ているからなのかもしれない。
私がリストラされたのは一週間ほど前の話だ。それならばなぜ私は今もスーツを着てるのか。簡単な話だ。しがみついているのである。プライドを守るために、過去の、本来なら栄光ともいえぬような思い出に必死にしがみついているのだ。それ自体がプライドを捨てた行為とも思えなくはないが私にはもはやこうするしか道はないのだ。
そして、こうやってしがみつくことができるのは私が正しい行いをしてきたという意識があるからなのだろう。
そう、私は正しい人間だったのだ。正しすぎる人間だったのだ。
しかし、世の中はそこまで正しくは無かった。
出る杭は打たれる。私は地の底まで打たれてしまった。
どれだけ正しくても、やはり世の中の真理には適うことはなかったのだ。不名誉なレッテルを貼られ私は地を彷徨う。
今ならば殺人者の気持ちがわかるかもしれない。
心の中にできた空虚は世界を違った形に映し出す。空が青い。こういったとき人を殺すと世界はどう変わるのだろう。もしかすると何も変わらないままかもしれない。空はいつもと変わらず青いままで、世界は狂うことなく回っていくのだろう。
それならば私が人を殺したことに何の意味があるのか。
何もない。そこには何もないのだ。
一個人の感情など世界にはどうでもよくて、社会には関係ない。関係ないのに人は憐れみ、言葉を漏らす。「かわいそうに」と。
何とも素晴らしき世界だ。関わっているようで関わっていない。
社会にはどこにも本当の関わりなどなくて、すべては形だけのごっこ遊びだ。
大人になってからも永遠と続くごっこ遊びで社会は回っていたのだ。
滑稽。
私は再び空を見上げた。真っ暗で、吸い込まれそうな暗闇が広がっている。
今まで私を見下ろすだけだった空は私の不安を煽ってくる。青空は私の心を安らかにしたがこの空はどうだ。闇を私に押し付けてくるではないか。心に住まう不安を、ぽっかり空いた穴を、大きくさせるばかりだ。
まだ貯金はいくらかあるがそれも終わりがある。金の切れ目が縁の切れ目ではないけれど、今まで生きてきた私という人間がいなくなることは確かである。いや、すでに私という人間が積み上げてきたものは崩れ去っているのか。
あれだけ苦労してせっせと築き上げてきたものが一瞬のうちに消え去った。何ともあっけないものだ。
私の数十年がお上の一声で無に帰すのだ。馬鹿らしい。嗚呼馬鹿らしくて仕方がない。地位やら権力やら人望やら、それらはすべて剥奪された。
一体これからどうやって生きていけばいいのだ。
社会から追い出された私に生きるすべなどなにもない。こうなってしまったらプライドなどは要らないものだ。あればあるだけ苦労する。だが捨ててしまうともう一生向こうには戻れなくなる気がしてならない。だから大事そうにしまい込んで、今もこうやって時間を浪費しているのだ。何とも女々しい物だと自分でも思ってしまう。
生きるとは何とも難しいものだ。
私は生きていく意味がなくなった。私という存在を認識するものはもはや私しかおらず、私の見る私以外に私という存在が存在しない。
「もういいかな」
私は小さく呟いた。
私を知る者がいなくなった今だからこそ私は自由になった。
縛るもののなくなった世界は人にとって意味はないのだ。
私は立ち上がり、服を脱ぎ、裸になった。
夜の街に全裸の男が一人。闇に溶けて消え去った。
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