第5話 檻
「またここか」と、呟く私の手の中には一冊の本が開かれており、そこには何処の国の言葉かも分からない文字が一面にびっしりと並べられていた。
不運だったとしか言えない。
仕事で疲れた精神を休めるために、偶の休日に新しくできた大きな図書館に来たは良いものの、そこで手に取った一冊の本が私の人生を大きく変えてしまった。
初めは意味が分からなかった。
今持っているこのどこの国の言葉かも分からない文字が並んだ本を「意味が分からない」と、一蹴し棚に戻した私はそのまま他の本を漁っていたのだが、気がついたら先ほど棚に置いた筈の訳の分からない本を持って先ほどの場所に立っていたのである。
それが数度続き私は理解した。詰まる所、時間が巻き戻っているのだ。
おそらく、この手に持っている本がトリガーだったのだろう。毎回毎回、きっかり三十分置きにこの本を開いた時の状態に戻るのだ。何処にいても何をしていても、まるで意識だけがタイムスリップしているかのようにこの状況に戻ってくる。
私は、最初こそは戸惑ったが直ぐにその状況に順応し、原因であろう本を調べた。幸いにも、ここは全国でも有数の図書館であり調べるのには事欠かなかったのだが、結局この本に関して分かることは何一つなかった。何語なのかも分からず、強いて言えば全く分からないと言うことが分かっただけであった。
行き詰まった私は、どうにかしてこの時間の呪縛から逃れられないかと、本を燃やしたり破ったり考えられる全ての事を試してみたりもしたが、百回目のタイムスリップを機に心が折れて諦めてしまったのである。
そこからはこの状況を上手く利用できないかと考え出した。暇が私に襲いかかったと言うのもあるが、三十分と言う行動範囲の指定はあるものの、腹も減らなければ眠気や疲れもないある意味では完璧なこの状況を最大限利用してやろうではないかと思ったのである。
私はまず図書館にある全ての本を読み漁った。三十分で戻るといっても、場所やページ数を覚えれば何てことはなく、もしかしたら何処かにこの時間の檻から抜け出す方法が隠されているのではないかと思ったのである。
そしてタイムスリップが十万回に到達する頃には図書館にある全ての本を読み終えた。十万回。それはつまり二千日ほどの時間に値し、絶望から奮闘し諦めるまでを十回ほどループした私は、悟ったようにしてこの状況を受け入れた。
再び暇になった私は人に話かけ始めた。
図書館にいる人から図書館の近くにいる人まで三十分で行ける範囲に居る人に片っ端から話しかけていったのである。面白い事に、同じ人におはようと言っても、タイミングやイントネーションを変えると返答が変わり、また、何度も同じ人と話す事で、私はその人のプロフィールや好みを理解し、旧友を語ったり、偶然出会った同じ趣味の友達の振りをしたりもした。
私は飽きることなく永遠にも思える立ち話を楽しんだ。
しかし、それにも終わりがあった。どれだけバリエーションがあると言っても、同じ時をぐるぐると回っている事には変わりなく、人の数は決まっていたため限界があったのである。
正直な所、人と話すのに飽きてしまったと言うのもあった。全く同じ人達と何度も話し続けると言うのは思ったよりも詰まらない。まるでお人形遊びでもしているような錯覚に陥るのだ。一度そうなってしまうとどれだけ話が弾んでも心寂しく感じてしまい、その溝を埋めるため人に触れようとすればするほど虚しく憂鬱になっていった。
それからどれほどの時間が過ぎたのだろうか。タイムスリップの数はいつからか数えなくなり、三十年、いや下手をしたら五十年以上の時が過ぎたようにも思える。様々な事を試したが、ついに私は何もしなくなった。
今思うと現実世界もこの檻の中も、大して差はなかったような気がする。もしも捕らわれずに普通に暮らしていても、毎日同じような人と会って、同じような人と話をして、同じような日々を繰り返していただろう。
そんな風にして歩んだ人生は、それもまた大きな流れだけで見れば繰り返されているのだろう。ならば、繰り返される三十分の中で生きた私の人生も真っ当だったのではないかと思えた。
「あぁ馬鹿らしい」と私は小さく呟いた。
多少の変化で目をそらしているだけで、日々は確実に繰り返されている。この特殊な状況に浸って私は初めてそれに気がついたのであった。
それはまるで、何かによって人生に捕らわれてしまっているかのようであり、虚脱感が私を襲った。そしてそれは直後に苛立ちに変わる。
一定の範囲の中で放し飼いにされている子犬の気分で、実に不愉快であった。
懸命に行きていたと思ったらぬるま湯に浸かっていた訳だ。
抜け出せない理の檻。その存在を認識すると同時に私の思考は緩やかになっていった。そうして徐々に徐々に、時間が巻き戻るともに積み重ねられていった生は私の思考に重くのしかかり、もう何も考えられなくなる。
そして私はまた本を開く。
歳をとることも、疲れることも、眠くなることもなく、同じ時間を生き続けた私は果てしない記憶に飲みこまれその場から動く事は無くなったのであった。
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