第4話 群盲像を評す。

 初めまして。あなたですか彼の事を知りたがっているのは。分かります。彼は神秘的とでも言いましょうか、えも言えぬ魅力がありますからね。皆、言葉には出さなくても、彼の姿を目で追ってしまっていたものです。


 私が彼と初めて接触したのは、丁度19歳になった大学一年の晩夏でした。


 彼は私と同じ大学の同じ学部だったのですが、正直、当初の彼は物静かで全然目立たない人でして、大学が始まってから数ヶ月は彼の存在に気付く事が出来ませんでした。


 そんな彼の存在を私だけではなく、大学の全員が知ることになったのはある事件があったからです。


 当時、私たちの大学では不良もどきが蔓延っていまして、まあもどきの名の通りちょっと悪く振る舞ってみたい反抗期の少年のような生温いものだったのですけれど、勉強しか取り柄のないような人間の多い大学でしたのでそのようなチンケな不良もどきでも皆怖がっていたのです。そんな訳ですから、不良もどきもその身の丈に合わない力を付けてしまいまして、持て余したそれがとうとう氾濫してしまったんです。


 切っ掛けは、不良もどき……いえ、その時はもう立派な不良だったのかもしれません。とにかく、その集団のイジメの標的になっていた学生が、大学の中庭でナイフを使って不良の一人を刺したんです。


 えぇ、おっしゃる通りそれはもう大パニックですよ。ですが、パニックになったのはイジメられていた学生がもう三人を刺して、その仲間に刺し殺されてからでした。


 不良たちもまさか自分たちが反撃されるなんて思っていなかったんでしょう。焦った不良たちは抵抗するのが遅れ、最初の一人は数十カ所を刺され死亡しました。そして不良たちはナイフで刺されながらも、それを奪い、青年を刺し殺したのです。


 興奮状態の不良たちはその後も止まりませんでした。騒ぎに気付いた学生たちにも襲いかかろうとしたのです。ナイフは死んだ青年に刺さったままだったので皆素手での暴行でしたが、それでも十分な脅威であったと言えるでしょう。


 さて、ここからが彼の話です。


 偶然、いや、もしくは必然なのかも知れません。不良たちが襲おうとした学生の中に彼はいたのです。


 彼は向かってくる男の手を冷静に掴み組み伏せました。それはもう素晴らしい手際で、まるで合気道か何かの達人のような動きでした。


 え? 何故私がそれを知っているかって? いえ、簡単な話ですよ。恥ずかしながら、襲いかかった不良もどきは私だったのです。


 と言っても、私自身は誰かを刺したり切りつけたりという事はしてはいません。友達が刺されて気が動転してしまっていたんです。だから、ある意味では彼は私の恩人でもある訳ですよ。あの時彼が私の前に立ち塞がってくれなかったら、誰かを殺してしまっていたかも知れないんですから。


 まあ私の話はこれくらいとして、彼のその突然の行為により喧騒に包まれていた場は一瞬、無に包まれました。


 皆何が起こったのか分からなかったんです。だってそうでしょう。地味で目立たない青年が、興奮した不良たちに堂々と正面からぶつかって、倒したのですから。


 今でもその時の彼の姿は忘れられません。スポットライトの当たった黒いグランドピアノのような神秘的な輝きと、心地よい緊張感が彼を包んでいたのです。


 まるで私たちの理解の外側にいる何かを見ているようでした。


 ……いえ、もしかしたら、混乱から生まれた狂気の波に飲まれる事なく自我を保っていた彼の精神は既に私たちとは別次元の物であったのかも知れません。


 それほど、彼の存在はその場において異質だったのです。


 その後、駆けつけた警備員に私たちは取り押さえられ、彼はそのまま何処かへ行ってしまいました。当然、私たちは退学処分で、イジメられていた青年を刺し殺した知り合いは正当防衛として情状酌量がありはしましたが、有罪となり刑務所に送られました。


 それが一回目の彼との接触でした。


 えぇ、あなたの言う通り、私も大学を退学させられたのですからもう彼と会う事はないだろうと思っていたんです。しかし、二度目の接触は訪れました。


 それは大学を中途退学して半年ほど経った頃です。就活をしながらアルバイトで生活していた私は、何かを求めるようにして夜の町に出向くようになっていました。静かになった冷たい町に溶け込むようにして歩き、最後には川沿いにある公園で、そこから川の向こう岸に怪しく光る遊楽街を眺めたりしていたのです。


 その日も私は公園に行き着き、川のほとりに向かいました。


 すると、川沿いに列をなす柵に肘をつきながら一人の男が遊楽街を望んでいたのです。男はその場から動かずじっと遊楽街を見ては、たまにふっと空を見上げて白い息を漏らしていました。


「こんばんは」


 近づいてそっと声をかけると男はこちらに振り向き、私はその顔を見て驚きの声を上げてしまいました。そうです。その男は彼だったのです。


 私は声を上げてしまったことを後悔しました。何故なら、彼が私を覚えている筈がないと思ったからです。私は勿論彼のことを覚えていますが、彼にとって私なんて所詮道端に落ちている石ころ程度で、つまずかないように避けたら忘れてしまうような存在だと勝手に思っていました。ですが、彼の口から出た言葉は意外な物でした。


「あぁ。いつぞやの阿呆じゃないか。何か用かな?」


 彼は私のことを覚えていたのです。


 その事実に私は何故か嬉しくなり、にやけそうになった口元を手で抑えました。


「いや、こんな時間にこんな所に人が居るのが珍しくてね。何をしていたんだい?」

 問いかけに少し考える素振りを見せ、彼は再び口を開きました。


「何、と言われると返答に困るが……そうだな、あえて答えるなら下と上を見ていたよ」


「下と上?」


 私は彼の見ていた遊楽街とその上に広がる澄んだ紺碧の空を見つめましたが、彼の言葉の真意は掴めませんでした。


「そう、下と上。それよりも、君こそこんな時間にどうしたんだい?」


「僕は散歩だよ。ここから向こうの遊楽街を眺めるのが好きでね」


「血の気の多い阿呆かと思ったら、少しは大人になったみたいじゃないか。……あの光はね、人の生きている証なんだよ。だから君の目には輝いて見える」


 遊楽街を横目に彼はそう呟きました。


「僕の目には……。だったら君の目にはどう映っているんだい?」


 私の口からはそのような言葉がこぼれ落ちていました。


 彼は何処を、何を見ているのだろうか。その景色を見てみたい。そう私は思い始めたのです。


「可能性の光。あの光はいずれ上へ届く。私はそれを待っているんだ」


 やはり私には彼の言っている言葉は理解出来ませんでした。いえ、理解出来ない物だと思い込んでいたのです。何故なのでしょうか。ありきたりな言い方をすれば彼の持つオーラに魅入られたとでも言えばいいのかもしれません。私の目には、彼の存在はダヴィッドの描いたアルプスを越えるボナパルトの様に映ってしまっていたのです。


 そして彼は話を続けました。


「何故人は祈る時に天に祈るのか知っているかい?」


「天には神がいるからじゃないのかい」


「では何故神は天にいると思うんだい?」


「それは……」


 私は言葉に詰まりました。


 あなたはどうですか。何故神が天から見ていると思うか知っていますか。そうでしょう。神なんてあやふやな物を、専門でもない限りしっかりと考えるなんてことはあまりしません。私もその時言われて初めて考えたのです。


 そんな私を見越してか、彼はさらに話を進めました。


「人は上の意味を履き違えているんだよ。地上に追放され肉体の牢獄に押し込められてしまったが、視線を内面に向けた時おぼろげにそれは思い出される。上に住んでいたという断片だけが見えてくるんだ。その上を、昔の人はまだ見ぬ世界、宇宙へと繋げてしまった。だから人は祈る時天に祈る。しかし本当は違う。上とは物理的な上ではなく、魂の存在での上なのだよ」


 彼はえらく饒舌で、しかし、その言葉は重く私の魂に響きました。


「私にも、光が上へ届くのを見ることは出来ないのかい?」


 正直に言いますと、その時の私の精神状態は普通ではありませんでした。まるで大きな炎を長時間近くで見つめていたような感覚とでも言うのでしょうか。目の前が揺れ、思考が虚ろになっていたのです。


「君にも見られるさ。私は、この世界で言うところのルーキフェルだ。全ての魂をあるべき場所に返すためにこの世界に降り立ち、自由を勝ち取るために同志たちと戦っている。人の生きる意味は贖罪や浄化などではない。人はもっと自由に生きてもいいんだよ。さあ、君も私に着いてくるんだ。私と共に魂の行く末を見届けよう」


 言いながら差し出された彼の手を私は躊躇いなく取りました。


 それが彼との二度目の接触であり、私が今に至る理由です。






「後悔はなかったのですか?」


 私が問いかけると、男は薄暗い部屋の中で天井に埋め込まれた電球を見上げた。


「後悔ですか。そうですね。私は勿論の事、他の同志たちも後悔をしている人はいないと思いますよ。たとえ彼が悪魔であったとしても、私たちにとっては光をもたらす者であったのは確かなのですから。彼と共に歩んだのは五年ほどでしたが、私の魂は幾度か上の世界を垣間見ました。そして知ったのです。彼の見ている世界の断片を」


 そう言った男の目は落ち着いており、しっかりとした芯が奥に見える。一見してただの武装組織だと思っていたが、どうやら彼らなりの何かがあるらしい。


 彼らに対し興味がさらに増した私は問いを続けた。


「私の友人に画家が居るのですが、その友人は“芸術に正解はなく、あるのは個人だけである”と口癖のように言っています。彼や、あなたの見た景色もそれではないと言えますか? 正直なところ、私にはあなた達の行なっている行為は理解できず、結果今のような個人のぶつかり合いになっているのだと思うのですが」


 男は少し考えるそぶりを見せ、口を開く。


「なるほど、あくまでも彼の見ている景色は個人の視点であり、理解し合う事は難しいとおっしゃっているのですね。そうですね……その考えを覆すのは上の世界を垣間見ていない限り難しいと言えるので、少し話を変えましょうか。あなたは何か宗教に入っていますか?」


「入っていると言うほどではないですが、しいてあげるなら仏教ですかね」


「仏教ですか。例えば、仏教のゴータマ・シッタルタ、キリスト教のイエス、イスラム教のムハンマドなど、様々な人たちが神の教えを説いていますが、私は彼ら全員が同じ景色を見ていたのではないかと思うのです。彼らの教えは、根本では繋がっています。しかし、ならば何故あれほどの齟齬が生まれるのか。それは、思うに彼らは上の世界の別々の場所を見ていたからなのです。この世界で言う所の、山と海と平原をそれぞれ見ていた為に、彼らはそれぞれ別の宗教として対立してしまったのでしょう」


「それが私たちの間にも起こっていると?」


「えぇ。人は罪深く、欲深い生き物です。自らの正しさを求めてしまい、争いを起こし続けましたが、それこそが人の罪の本質なのです。私は確かに上の世界の断片を見ました。しかし、それはあくまで断片に過ぎません。群盲像を評す。あなたたちも、そして私たちも、所詮は盲人に過ぎないのです。彼の見ている景色はもっと広く、可能性に満ちています。どちらが正しいのかなど語る意味もなく、それこそ、その行為自体が人の罪となるのです」


 そう語る彼の目は輝きに満ちていたが、一通り言い終わると深呼吸し私を見つめた。


「さて、どうやら時間が来てしまったみたいですね。私はこの辺で退場です」


 男の体が徐々に砂になっていくのを見て私は驚き立ち上がる。


「私のこの死を持って、上の世界は今証明される。語り継いでください。彼の存在と世界の真理を……私は、人が自由になる時を信じています」


 そうして男は砂となったのであった。



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