第3話 間に合わなかった悲しみ。

 小説は紙とペンがあれば書ける筈であった。アルベール・カミュに魅せられ、三島由紀夫に憧れ、それこそまるで大志を抱いた少年のように純粋に高みを目指し続けた。


 それが苦悩になったのはいつからだろうか。


 電球の光を反射する薄黒い万年筆を眺めながら私はふとそんな事を考えた。どうした訳か、例えばこの拘って選んだ万年筆や洒落た翡翠の煙管なんかも、今となっては私に重く伸し掛かる。幸福な感情は机に向かってペンを握るとともに逃げていき、心の中には憂鬱が立て込める。初めの頃は、これは疲労が出たのだと思った。何においても、嫌になる時期というのは存在する。そういう事は過去に何度かあったため、今回もそれが来たのだろうと思っていたのだが、どうも一向に良くならない。


 私は椅子の背にもたれ首を後ろに投げた。天井に埋め込まれた電球が雨のように浴びせかける光は陰鬱な部屋をはっきりと浮かび上がらせる。


 何かが私を追い立てる。それが何なのかは分からないが、私の背中をしっとりと濡らす汗がそこに何かがいる事を示していたのだ。その何かから逃げるようにして私は家を出た。雪の散らつく中、利休下駄を道にこするようにして鳴らしながら街灯が照らす薄明かりの道を歩く。時刻は既に日を跨いでおり、雪のせいもあってか外は静けさに満ち、その中を闊歩する利休の音はおかしくも魅力的であった。


 寒い。と、私は小さく呟いた。


 忍従な私も寒さには弱く、雪は風情があって好きだが、この寒さには腹立たしさを感じてしまっていた。天候に意思はないという事は私とて知っている。しかし、ならばなぜ私は憤りを覚えてしまうのだろうか。意思がない相手に怒るのはただの阿呆だ。意味がなく、損しかない事を分かっているにも関わらず、私は空を睨まずには居られなかった。そうやって目を逸らさなければ、不知不識の内に私は大きく深い空虚の底に落ちていってしまうような気がしたのだ。


 普段ならばこの辺りで思考を止めるのだが、このままではいけないと思い一歩を踏み出す。慎重に、落ちないようにして真っ暗な穴を覗き込むと、突然身体の平衡感覚が失われて、私は頭から真っ逆さまに穴へ落ちていってしまった。


 最初こそ、私は恐怖を感じていた。まるで目隠しされたまま見知らぬ山を歩くような、そんな不安を持ったのだが、暫くするとそれは何処かへいってしまった。何処という感覚もない闇の中、微かな恐怖を肌に感じながらも何もないという事を知ったのである。


 何もないただただ空虚な闇の中にあるのは私だけであった。そのまま目を閉じると、身体中が力を失っていき————


 雪の中に私は倒れる。どれほどの時間が経っていたのかは分からないが薄皮のように積もる雪は街灯の光を眩いばかりに反射させ真っ暗な夜の道をライトアップさせていた。


「どうかなさいましたか?」


 ふいに背後から声がして、私が倒れたまま首だけをそちらに向けるとそこには傘をさした一人の男が立っていた。


「いえいえ、少し滑ってしまいましてね。大丈夫ですのでお気になさらず」


 私は立ち上がって衣服についた雪を払いながら会釈する。


「そうですか。急な雪ですからね。お気をつけて、では」


 そのまま男は先を歩いていき、私はその影が背負った光を失いながら闇の中へ消えていくまでをじっと眺める。すると茫漠とした、恐怖のような感情が私を追い立て始め、次第にはそれが心地よくなっていった。


 結局の所、どれだけ凝視しても闇は闇でしかなく、そこが何処で何がいたかなどは関係ないのだ。ここにいるのは私だけという事実を噛み締めながら、私は帰路につくのであった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る