第2話 夏の虫
障子越しに鮮やかな光りが見えたと思ったら、その一秒ほど後に巨大な太鼓を思いっきり鳴らしたような音が静まり返った部屋に響いた。
「もうそんな季節か」と、私が小説から視線を上げ呟くと再び障子の向こう側で光りが跳ねる。ぱらぱらと落ちる光りの影の正体は花火であった。
障子を開けると赤や黄色、青色の艶やかな光りが黒いカンバスに沈んでいっているのが見えた。
人はまるで正の走光性を持った虫のように花火の元に集まるが、あれの何がそこまで人を惹き付けるのだろうかと私は思う。美しいから惹かれる。それは一見繋がっているように見えるがその実、繋がりを示すものは何もない。それに関して、昔誰かが“花火は死体を材料にして作られている”と言っていたような気がするが、今ならばその意味を理解できる気がした。
もしも花火が死体を使って作られているのだとしたらそれは歪ながらも素敵な輝きを見せるだろうし、あれがああも人を惹き付けて離さないのも納得だ。そして死体が使われている事も知らずに綺麗だとはしゃぐ群衆を見て私はさらに快感を覚えるのだ。
しかしながら、実は花火は終わった後が至高なのだと私は知っている。一瞬だけ光って消えたその瞬間、派手に咲いたは良いが見窄らしくなって消えてくその格好がたまらなく可笑しいのだ。
と、こんな阿呆らしい事を考えているとここ数日私を悩ませていた体に纏わりつく憂鬱が少しばかり消え失せたような気がした。
「和仁さん。お風呂が沸きましたよ」
不意に扉の向こう側から聞こえて来た妻の声に私は「あぁ分かったよ」と一言だけ返しながら遠くなっていく足音に耳を傾ける。
憂鬱の元は妻にあった。
それは先日の事である。照りつける太陽の光りが空気を焦がし、深緑の葉を吹き飛ばすほどの風が閉め切った戸をがたがたと叩きながら通り過ぎていく音の響く自室で私は一人戸惑いと憂いに悩んでいた。
本来ならば仕事が早く片付き日もまだ高いうちに帰る事が出来た今の状況を読書でもしながら満喫している筈であったのだが、家に帰った時にふと目に入った居間の机に並ぶ二つの湯飲み茶碗と息のきれかかった妻のゆらゆらと揺れる眼が私の思考を揺さぶったのである。
妻が家に誰かを連れてくるなんてそれこそ一度もなく、―いや、もしかしたら私が知らなかっただけで過去にも仕事で家をあけている間にそんな事があったのかもしれないが、私が認識したのはこれが初めてであった。
それは、妻に取っては良くある日常での一場面で、その事実に他意はないのかもしれない。しかし、初めて触れた私に取ってそれは得体の知れないものであり、齢三十を過ぎある程度固定されてしまっていた日常に漠とした不安の塊を投げ込んだのであった。
そして数日たった今もなおその塊は私の心の底に隠れており、精神を徐々にではあるが腐らせていっていたのである。
私は一つ大きな溜め息をつき、同時に響いた一段と大きな花火の音に目を向ける。澄んだ夜空には打ち上げる際に出た煙が漂っているらしく真っ赤な光りは所々が隠れ、影や空のまだらと相まって赤い目をした何かが私を見ているようであった。
正直な所、私は怖かった。まるで時計の付いていない時限爆弾を抱えているようで、ぴんと張られた糸が少しずつ切れていくような緊張感と早く何とかしたいのに何をしたら良いのかが分からない焦燥が私の胸の少し上辺りに小さな穴を開けていた。
ふと、花火の音がしなくなっていた事に気付く。おそらく先程の大きな音が最後の盛りだったのだろう。花火を見ていたと思われる人々の帰り際のざわめきが夜風に乗って聞こえ、それがだんだんと薄らいでゆくと共に静寂がじわりじわりと私を取り囲み、私の心に潜む不安の声を大きくしていった。
私はこの感覚を一度味わった事があった。昔、一人暮らしを始め一ヶ月ほど経った夜に、生活に慣れた事もあってか私は昼間の喧噪が消えていくその様に寂しさを感じ、すっかり暗くなった町の面識もないような場所へ宛ても無く、しかし誰かに会えるのではないかと言う思いを持って歩いて行ったりして、不運なのか辿り着いた誰も居ない公園でより一層の根拠を不安に与えてしまったのである。
あの時と同じように、喧噪に紛れていた不安は静けさの中をまるで獲物を見つけた蛇のように這いずりながら徐々に近づいて来ていたのであった。しかし、それと同時に私は気がつくと常に妻の事を考え、視界の端で姿を捉えてはその唇や服の隙間から覗く鎖骨に子供には出せないようなしっとりとした人妻の色気を感じてもいた。
妻が他の男に寝取られているのだとしたらと考えた時に生まれる不安も焦燥も悔しさも想いも興奮も、その全てが彼女を鮮やかに彩ったのだ。それは真面目で勉強熱心な少年よりも、少しやんちゃな少年の方が少女によく好かれるように、自らが相手の行為に思い悩む過程を感情の根拠としていたのである。
あらゆる価値には根拠が必要であり、根拠がある物には相応の価値が生まれる。
私の持つ不安や憂鬱の根拠と価値とは。疑問ではなく自問。まるで鏡を見る事で初めて自分の顔を知るように、自分に問う事でそれは初めて姿を表したのだ。この不安は私が妻を愛しているという証なのである。私には不安が必要なのだ。その揺らぎがあって初めて私の感情は形を成す。そう考えると体にじっとりと張り付く夏の憂鬱も心地のいい物のように感じるではないか。
私は妻を愛しているとこの最低な憂鬱に誓おう。
―――それは夏のようであった。暑く気怠い草木生い茂る幽鬱の夏。しかし、その暑さの中で行うスポーツは気持ちよく、少しばかり涼しくなった夜に鳴る風鈴の音と時折聞こえる祭り囃子は風情を感じる心地いいものだとも思う。
雑踏も静まり返った夏の夜、幽愁に耽る私の行為が正しいのかは分からない。
もしかしたら妻は私に気がついて欲しいのかもしれず、今手を打たないと取り返しのつかない事になるのかもしれない。また、私の精神がまるで鉄が錆びるようにして腐食して行っているのも事実だった。
しかし、私の目はその深い海の大気漂う澄み切った夜空に浮かんだ恐ろしいまでに鮮やかな光りに夢中であったのだ。
頽廃と耽美の魅力を持ってして花火は完成する。
ほら、耳を澄ませば聞こえてくるだろう。花火をつまみにして楽しそうに酒を飲む人々の声が。こうして、まるで消し炭になると分かっていても火に飛び込んでしまう虫のようにゆらりゆらりとその輝きに魅了された人間が集まり宴が始まるのだ。
そして私は静まり返った薄暗い廊下を、居間から漏れるぼんやりとした光りに向かって歩いて行ったのであった。
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