家康、江戸を捨てる
結城藍人
家康、江戸を捨てる
「この地はよいぞ。土地は広く、海が近い」
「確かに、左様でござるな」
見晴らしのよい高台の上で主君と肩を並べて己の新たなる所領を眺めていた
「だからな」
人好きのする笑顔で、家康の主君は言った。
「
主君が指さした先には、古い小城が建っていた。先の北条討伐では、北条氏が主城である相州小田原城に籠もったので、大した戦にならず開城している。
「御意」
~~~~
「気に食わぬ」
家康は仏頂面でつぶやいた。
「何がでござる?」
腹心である
「関白殿下も地味な嫌がらせをなさる……」
家康は吐き捨てた。
「嫌がらせ……で、ございますかな?」
問い返した正信に、家康は渋い顔を隠さず答える。
「嫌がらせよ。関白殿下は
最初の主君、
「そして、関白殿下も儂は主君として認めた。小牧の役では器量の違いを見せつけられたからな。だが、なればこそ長久手で叩きのめした小僧なぞ、たとえ関白殿下の跡取りになったとしても大人しく従うつもりはない」
家康が秀吉と戦った小牧の役は、家康の完敗だった。戦場では雌雄を決することができず、外交においては家康が挙兵する大義名分だったはずの織田
唯一、長久手の戦いという局地戦では、秀吉の甥である
結局、長久手以外は秀吉の掌の上で踊る羽目になった家康は、秀吉を主君と認めることにしたのだ。
主君と認めた以上は、誠心誠意尽くすのが家康の流儀である。だが、尽くすのは主君と認めた者までという所も徹底している。「家」には忠誠を誓わないのだ。
それは、秀吉もわかっている。だからこそ、東海道五州から関八州への移封という「御恩」を与えたのだ。
石高は一気に百万石は増える。そのかわり、先祖代々の土地からは切り離され、前の領主である北条氏が善政を施していた土地に移ることになる。表面上は出世であり、力を得ることになるが、同時に見えない力を失うことになる。
ただ、家康は失う力以上の利点があると考えていた。先祖代々の土地から切り離されて弱体化するのは、家康の家臣団なのだ。徳川家全体の力が弱まることは確かだが、家中の統制ということから考えると、かえって主君の力は家臣団に対しては相対的に高まることになる。
そのことを含めても、秀吉に対して敬意は抱いている。自分を上回る大器だと認めてはいるのだ。
だが、だからといって豊臣家に忠を尽くすわけではない。もし、秀吉の後継者が己に劣る者だったときは、家康は容赦なく
そして、そのことは秀吉も分かっている。今川義元の嫡男である
「儂にどれだけ恩を施しても、関白殿下止まりであることは、殿下ご自身も分かっておられるのよ。だからこそ、地味な、地味な嫌がらせもなされたのだ」
その程度の嫌がらせでは家康の忠義は揺るがないと見たのだろう。秀吉は最近になって、そういう底意地の悪さを見せ始めている。文字通り天下を統一して逆らう者がいなくなったからだろうと家康は見ていた。
そんな家康に、正信は首をひねりながら尋ねた。
「はてさて、その地味な嫌がらせというのが、どうにもわかりませんなあ」
家康の前では時折わざと
そんな様子を見た家康は、吐き捨てるように言った。
「城よ」
それを聞いた正信はひとつ手を打って答えた。
「ああ、確かに随分と傷んだ小城でしたな。しかし、あんなものは好きなように建て直せばよいではございませぬか。確かに駿府城も建て直したばかりのところで転封となるのは痛いところではござるが、所領も大幅に増えたことでござるし……」
「違うわ、馬鹿者」
不機嫌さを隠そうともせずに正信の言葉を遮る家康。このように不機嫌なことは珍しいと不思議に思った正信が尋ねる。
「はて? 地形的には理想的と思えますがな」
それに対して家康はうなずきながら答える。
「地形は問題ない。古さは建て直せばよい。広くすることもできる」
それを聞いて首をかしげながら正信が問う。
「ならば、何が気に食わぬのでござるか?」
その問いに、家康は吐き捨てるように答えた。
「名よ」
「名?」
「そちも一度は儂に逆らったほどの一向宗の門徒であろうに」
今でこそ家康の懐刀に収まっている正信だが、一度反逆したことがある。三河一向一揆と呼ばれる大反乱のときだ。三河国の一向宗の寺院が持っていた守護不入の権を
「はてさて、それがしの過去の過ちについては
まだ分からぬという顔をしている正信に、家康は苛立ちを隠しもせず再度問うた。
「そちにしては鈍いの。我が
「ああ、
手を打って納得する正信と、それを見て苦笑しながら、ぼそりと本音を漏らす家康。
「よりにもよって『
一向宗、すなわち浄土真宗とは敵対したことがあるが、実は浄土真宗とは同根で同じく
~~~~
その十三年後、秀吉の死後に天下分け目の関ヶ原の戦いを制した家康は
その決定を聞いたとき、千代田城などと雅称も付けてはみたものの、結局は名前が気に入らなかったので早々に捨てることにしたのだろうな、と正信は思ったのだった。
家康、江戸を捨てる 結城藍人 @aito-yu-ki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます