7月18日 夜明け前

 高雄 早水は、私の義理の妹だ。

 この説明は正しい。だが同時に卑怯だ。言い換えよう。

 高雄 早水は、私が拒絶した、私の妹になるはずだった人物だ。

「私が小さい頃、お父さんとお母さんは離婚したの。それから何年かして、お母さんが再婚したのが早水のお父さん」

 床でうなだれたまま、私は話す。オレソンは慈しみを感じさせる丁寧な所作でボストンバッグに白い布をかぶせた。布に吸収されるように悪夢は瞬く間に消えて、バッグの形にたわんでいた布は、ふわりと床に着地した。

「知ってるわ。でも話して。貴方に必要なことよ」

 そう言ってオレソンはクローゼットの戸を開けた。その空間は、何故かエレベーターに成っていて、オレソンは私の手を引っ張って中に引きずりこむ。オレソンは100と書かれたボタンを押す。クローゼットの戸が閉まり、エレベーターが動き出す。ボタンの上にあるディスプレイに1………2………3と現在の階数が表示される。



「私の体質が現れ始めたのは、両親が離婚した頃。それからすぐ、私は迷い始めた」



 日ごと現れ消える不思議な夢達。幻みたいに消えた父。実感はなく「あった」という事実だけが残る家族三人幸せな日々。どれが夢でどれが現実か、日を重ねる度その境界が曖昧になっていった。私を定義する人間関係、社会的立場、趣味嗜好に主義思想。そのいずれにも、リアリティを感じることが出来なくなっていった。

 現実の友達も先生も、消える時間が早いか遅いかだけで夢と変わりがない。そんな風に思った自分に恐怖した。

 私はいつか無自覚なまま幻を現実と違え、砂金と信じた土砂の中に埋もれてしまうのではないか。そもそも、私が私でいられる保証もない。私は両親の愛の結晶。その愛が幻だったのだ。私という存在の前提はとっくに崩れている。夢に成って還るのは、私の方なのかもしれない。

 私は恐ろしかった。何があっても揺らがない確固たる私、地に足付いた確かな世界を欲しがった。



「だから、貴方は早水を拒絶した。唐突に増えた家族、付与される姉という形、世界と自分の変化を、貴方は拒んだ」



 私と早水が家族に成った日。当時小学六年生だった早水は私に手を差し出した。

『よろしくね。お姉ちゃん』

 中学二年生。早水より二つも年上だった私は、その手を握り返しはしなかった。初対面のクラスメイトに話しかけるみたいに、差し障りのない微笑みを浮かべて言った。

『よろしくお願いします。高雄さん』 



 エレベーターは、尚も上昇を続ける。だんだん速度が増していく。階数表示が68……69…70と増えていく。

「――――滑稽ね」

 重々しい沈黙の中で、オレソンがさらりと言う。

「返す言葉もないよ」

 エレベーターの床に座り頭を垂らしたまま。自白を終えた犯人みたいに力なく、私は自らの愚かさを嘲った。



 私は間違えた。どこからかわからない。でも決定的だったのは早水を拒絶したところだろう。 高校三年間を一時の夢と断じて過ごし、大学に進学してなお、夢の後片付けをするのと変わらない作業感で日々の課題をこなす。

 多少の不幸で心乱さない。ほのかな幸せに感激もしない。ちょっとした驚きや、一時の怒りに身を委ねることもない。私は私の存在が希薄に成っていくのを感じた。

 守るべき自分が、どこにいるのかわからない。誰かにとっての何かでない。何かに属する私じゃない。不意に心に浮かぶ情動さえ、それはノイズで私のものではないと言う。私が私に言う。生きているのは言われた私、言った私は誰なのか。

 どっちの私が本当で、どっちの私が幻なのか。心と身体が溶けるような感覚を覚えた。

 そんな、暗闇を彷徨うような不安に呑まれた時、早水の夢をみた。

 現実には見たことがない、幼い早水の夢だ。早水が私を「おねえちゃん」と呼ぶと、溶けた私の身体は「早水のお姉ちゃん」の形に固まった。その瞬間、凄く安心できたのだ。

 ここにいればいいのだと思えた。この私を守ればいいのだと。


 現実の早水からメールが来た。

 みんなで、父の実家で暮らすことになった。気軽には会えなくなるから、片づけついでに遊びに帰って来て。

 与えられた贖罪の機会、出直すキッカケを放り出し、私は夢の早水を抱きしめた。



「現実を幻と否定して、結果迷って幻に縋った。笑えないよ、それが私だ」

 チーン、と音がしてエレベーターの表示が120になる。扉ではなく、壁と天井がそれぞれ外へ開いて、吹っ飛んだ。宙に浮く床と化したエレベーターから私はその景色を見渡す。

 そこは100階ではない、地上100㎞。空と宇宙の境界だった。

「それで、どうする?」

 オレソンが私に問う。私は視界を埋め尽くす空の青に距離感と平衡感覚を失って途方に暮れた。

「わかんないよ……。このまま夢の早水と暮らすのは異常、わかってる。でも怖いのよ。本当の早水に謝っても、誰かと友情を深めても、それは私に永遠の安心をくれはしない……」

 震える足で立ち上がり、もたれるようにオレソンの両肩を掴む。

「私は消えるのが怖いのよ! 夢みたいに、今の、この私が無くなってしまうのが‼」

 情けない。怒鳴ったつもりが、声が掠れてた。いつの間にか、私は涙を滲ませていた。オレソンは間近に迫った私の顔を見て、それから首を横に回した。

「船をね、こいでいるのよ」

 真っ青な空を見つめて呟いた。「ありきたりな例えだけどね」なんて笑って。

「一人では迷ってしまうから、それぞれが灯りを点けて、互いを目印に自分の場所を確かめ合う。そうやって私達は、大きな世界を渡っていく」

 広大な空を寄り添う合うように、小さな雲が流れていく。

「それぞれ好き勝手生きているから、場所も形も時々よ。貴方の言った通り、指針にするには心許ないわ。瞬いては消えて、また点いて。時には幻みたいに思えたりする」

 風に煽られ雲が割れる。視界の上部、紺色の宇宙で星が一つ流れる。

「でもね、そこに光はあったのよ。それを辿って、貴方の命はここに来た」

空に飲まれて気づかなかった。流れ星の軌跡を遡って空の上、空の空を見上げる。私達の頭上で、幾千、幾億の星が、輝き放っていた。

「貴方の存在。貴方が至って立つ場所が、貴方が辿った灯りを証明する」

「オレソン……あなたは…………」

 あなたは一体何なんだろう。 どうして私の気持ちがわかるんだろう。

 どうしてあなたの言葉は私を安心させるんだろう。

 疑問が顔に出ていたのか、それともやっぱり私の心を見透かしてるんだろうか。

 オレソンはふふん、と楽しげに笑った。

「私は―――貴方よ。貴方が夢にまで見た理想の貴方。決して揺らがない、確固たる貴方」

 そう言ってすぐ、笑みに自嘲が混じる。

「でもね。そんなのは夢の特権よ。時間の波に流されない。そこに留まり続ける夢だけの特権。現実的じゃないわ。だから」

遙か下方に広がる地上。その一点が微かに光る。私の会うべき人がそこにいるのだと、夢ならではの直感で理解した。震える私の身体を、オレソンは優しく抱きしめる。「怖がらないで」と穏やかに呟く。

「所詮はただの目印よ。寄るも去るも好きにすればいい。でも、無かったことにはしないで。灯りを示して。そしたら、今の貴方を、ちゃんと連れていってくれるから」

 オレソンにしがみついたまま、涙も拭えぬままに、でも私は彼女の顔を真っすぐに見て決意する。

「―――――私、行ってくる」

 オレソンは微笑み、私を抱く力を緩める。私は自分の意志でオレソンの腕を離れ、地上の光を目指し、空へ飛び出した。



 目が覚めた時、私は地面の上に横たわっていた。街灯はなく周囲は真っ暗。星と月の光が辛うじて、私がいるのが田んぼ道であることを教えてくれた。百八十度、どこを見ても平坦な田畑が広がるばかり。どちらへ進むべきかも判断つかない。

 そんな視界の一点が、チカリと光った。

「来るったって、そんなすぐには来れないだろう」

「また連絡があるんじゃないの? 今日はもう帰りましょう」

 光はそんな声を引き連れて、暗闇のあぜ道を無暗に照らしてまわる。

 私は地面に座ったまま、スマートフォンの電源を入れて、頭上に掲げた。闇の中、頼りなく浮き上がるディスプレイに、懐中電灯の丸い明かりがゆっくりと近づいて、重なった。

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夢の灯台 あさって @Asatte_Chan

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