7月17日 夜

 家に着いてバッグからスマホを出すと、着信が三件も入っていた。メールも一件。


『from 高雄さん

  件名:いま出発しました』


 メール一覧に表示されるその二行を見た時点で、私の指先は完全に止まった。

 思考すら停止させたまま。本文を開く。


『都さんの部屋にあったものは、私達の判断で処分させてもらいました。どうしてもわからなかったものだけ、そちらに送ったので受け取りお願いします。



  遠いは遠いけど同じ日本です。待ってますから。いつでも遊びに来てください』

 

 


 返信を書くことも、画面を閉じて無視することもできない。明かりを付けてない真っ暗な部屋で、唯一光るスマホのディスプレイ。そこに写る文字だけをただ眺めていた。

 十数秒、節電のため画面が暗転する。完全な暗闇に陥ることで我に返った私は、いっそメール自体消してしまおうとスマホを何度か叩く。

 その時、着信音が鳴った。

「あっ……」

 いつもなら鳴り止むまで机の上にでも放置するのだが、ちょうど指が画面を打っていた。意図せず、通話が繋がってしまう。

『っ……! もしもし!都さん?』

「――あぁぁっ‼‼」

 思考の隙も無く、私は呻いてスマホをぶん投げていた。1Kの部屋の1から放られたスマホがKの床をバウンドして玄関へ滑り込んだ。

『もしもし! ねぇ、都さん! ねぇってば‼』

 スマホに照らされ青白く光る玄関、呼びかけに背を向けて、私は自室の扉を閉めた。そのまま、ドアの前で膝をつく。私を呼ぶ声がまだ微かに聞こえる。壁とドア、四辺の隙間を、仄かな光が縁取っている。声と光、どちらかを感知しただけで私の心臓は跳ね、呼吸が詰まる。私はその場で震えたまま声を殺した。



  




 ……そうしてしばらくすると声も光も止んで、暗闇と静寂が訪れる。私は扉を少しだけ開けて、遠目に玄関を確認する。どうやら通話は切れたらしかった。恐る恐る、スマホを広いに玄関へ向かう。台所を備えた真っ暗でまっすぐな廊下に右足を一歩踏み出す。

「え……?」

 思わず間抜けな声が出た。床が沼のように溶けて、私の一歩を飲み込んだ。くるぶし辺りまで埋まってしまう。二歩目を沼に漬ける。すると何故か一歩目の右足はすんなり抜けて、左足がすねの半分くらいまで飲まれた。三歩目を出すと二歩目は抜けて、右足は膝まで埋まる。大股で四歩目。左の太股を半分飲まれたところで、スマホに右手が届いた。が、スマホに触れた瞬間、さっきまでより広範囲に床が緩み、私を首まで飲み込んだ。自由に動くのは頭と、右手だけ。

「誰か…助けを……」

 スマホを叩くが反応はない。電源が付かない。混乱。パニック。わけもわからず、その名を叫ぶ。

「早水ぃ‼‼ 助けて! 早水ぃぃぃいいッ‼‼」

 私の絶叫を受けて、真っ暗なままのスマホから「お、ねぇ……ちゃん」と途切れ途切れの声が帰ってきた。紛れもなく早水の声だ! 安堵の息を漏らして呼びかける。

「早水ぃ、顔を見せて、早水ぃ」

 その時、私の額に何か垂れてきた。最初は一滴、それから二滴三滴、徐々に数が増えていく。私は誘われるように上を向いた。私が右手に持っていたはずのスマホが玄関の床で光り、天井を照らす。

「は…………え?」

 そこにはボストンバッグが吊られていて、その底から濾過器みたいに少しずつ、赤い液体が滴る。ぽつり。私の額に落ちる。

「お…………ねぇ……ちゃ」

 また、右手のスマホから声がした。いやでもスマホは玄関に落ちてるんだった。じゃあ私が持ってるのは? 私は、スマホが放つ青白い光の中へ、ゆっくりと右手を動かした。

「おねぇちゃん……どうして…?」 

 中心に真っ暗な穴を開けた誰かの頭が、早水の声で私に聞いた。





「うああぁああああ‼‼‼‼」





 気づくと私はまた閉じたドアの前で膝を付いていた。眠っていた?いつから?今のは…夢?ドアの向こうでは着信音が鳴っていた。一度切れたまでは現実…?状況を飲み込めず思考が混乱する。ドアの向こうで、べしゃっ、と何かが落ちる音がした。続けて、声。

「…………おねぇちゃん…」

 ドアの隙間から、赤い液体が流れ込んでくる。感情より思考よりも早く、胃液が喉をせり上がる。まだ悪夢の中にいるのか、現実に悪夢が攻めてきたのか。わからない。ぐしゃぐしゃだ。

「おねえちゃん……おねえちゃん……」

 ドアの向こうから、何かが私に呼びかける。そのさらに向こうでは、いまだに着信音が鳴っている。

「やめて……やめてよ」

 床に広がる血から逃げるように、低い姿勢のまま後ずさる。震えながら首を振る。着信音は止まない。ドアの向こうの何かは言う。私は、思い切り目を瞑る。

「おねえちゃん……‼」

「やめてよッ‼‼ 私をそんな風に呼ばないでッ‼‼‼」

 叫ぶと同時、着信音も声も止んだ。

 代わりに、別の話し声が近づいてくる。こんな惨状でやたら落ち着いた、なんだか聞き慣れた声。

「さっきはごめんなさい。電波が悪かったの。本当、本当よ」

 とんとんとん、扉が叩かれた。私は後ずさったまま。一歩も動けずにいる。もちろんノックへの返事も出来ない。扉の向こうで会話は続く。

「メールのことも、今までのことも、謝りたいと思ってる。だけど、電話で済ませたくない。いつでも良いって書いてたでしょう? 今から行くわ」

 ゴッ、とものすごい音がしてドアが吹っ飛び、私の上空を通過して壁にぶっ刺さった。

 ぶち破られた扉の向こう、積もりたての雪みたいに真っ白い髪をした女が、私のスマホで話していた。

「だから待っていて――早水」

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