ノンシュガーノンミルク・モアカフェイン I
くだらないくらいよくわからない男は、賢木と名乗った。
大学のランクなんて知らないあたしでも聞いたことのある、有名すぎるトコに所属する、正真正銘の御坊ちゃまだった。
「そんな大層なもんでもないんだけど」
やたらと気にするよね、君たちって。肘を立てて頰を突き、憐れむように此方を見るものだから、苛立って足を踏んづけてやった。ピンヒールでなく、つま先でしたのだからまだ手心はある方だ。いっ、と悲鳴じみた鈍い声が小さく聞こえたが、そんなものは知らない。
男が涙目であることを見届けて、ふん、と鼻を鳴らす。
「気をつけなよ」
いくら見ればわかるほど格が違っていようが、それでも人であって、下に見られる道理はない。身を乗り出して、つ、とよく磨いた人差し指を、男の額に射抜くように指した。
「その根っこに染み付いた思考、あたしが引っこ抜いたげる」
オプションサービス、釣りはいらないわ。冷ややかに、周囲の騒めきさえ掻き消すように。その詰まった脳味噌に、しかと届くように。
肝に銘じとくよ、と賢木は降参だと掌をこちらに上げてみせた。どう見ても拭いきれない戯けているそれを、じとり、と睨みつけてあたしは離れる。
知らないことを教えると言った男は、文字通りあたしに知らないことを学ばせ始めた。じゃあここにいついつ集合ね、と知らされたレンタルオフィスへ地図を頼りに行く。どうして駅から離れた辺鄙なところを選ぶのか。調べたら他に良さげなところなんてごまんと有るのに。無駄になだらかな坂を登ること十二分。ようやく辿り着いた先、人二人分が占めるには十分なスペースに、机上の目前には幾つかの教材、そしてご丁寧に筆記用具とノートまであった。積まれた教材に視線を向ければ見慣れた字体。しかし完璧に読めるかと言えばそんなことはない、それ。
有り体に言えば外国語、しかも中国語だ。
「中国語には上海語や台湾語、あとは一般的な漢語があるね。前者はどちらかと言うと方言の括りだから、学ぶべきは後者の方になってくる。で、中国語の学び方なんだけど」
「何で中国語なのよ」
早速とばかりに賢木はそう切り出した。グローバル化が叫ばれている昨今、普通は英語ではないのか。国際共通語はどこに行った。
「それが固定概念というんだよ。言ったろう? 君に知らないことを教えるって」
大体英語だなんて義務教育で大体さらっているんだ。今更復習したって意味がない。それとも如何する、スペイン語でもやって見る? そう意地悪く男は笑う。組んだ手の上に顎を乗せた彼奴は心底頭にくるニヒルな笑みを浮かべていた。あぁ、ぶっ飛ばしたい。
「まぁ他にも理由はあってね。元は漢字だし発音さえ慣れればとっつきやすいかと思って。漢文は苦手? そう、まぁあんまり出来なくても漢字読めれば大体読めるよ」
段々漢字や熟語さえ怪しいあたしを見て、先にするべきは検定だったか、と呟かれたのは余談だ。
「あちらからの企業も多いし、なんだかんだ移住しているのも来る頻度が高いのもアジア圏が多いんだ。なら、話せた方が何かと便利だろう」
そう言って教材を引き寄せる。ぽん、と軽い建築物となった束に手を乗せて、賢木はにヤリと笑った。
「ま、無理なら別の探すからいいけど。それとも、これぐらいも難しいのかなぁ」
参ったなぁ、と大袈裟なモーションをかます奴に苛立ちマックスな、けれど先ほどより威力は弱い蹴りを脛に入れてやった。いてっと小さな呟きに引いた視線を向ければ、戯けて両手を上げてきた。
まるで子供騙しのごっこ遊びだ。ちゃんちゃらおかしくて笑いさえない。こんな、いい歳をしたオトナが。こんな、巫山戯たことで楽しい、だなんて。
彼奴の勉強会は、控えめにもスパルタだった。
「鬼のイスパ、地獄のロシア、茨のフランスって言われているところもあるらしいよ」
早くもげっそりしたあたしになんてことなく言う。
あたしが碌に教養がないのを知って、こんなことをいうのだ。
「じゃあアンタは、さしずめ磔の中国かしらね……」
げっそりとそう呟けば、ぱらぱらと難しそうな題の頁をめくりながら、磔ならイギリスあたりかなぁなどと嘯く。正直どうだっていい。
そんなこんなで、あたしは店で働く傍ら、昼間は眠い目を擦りながら彼奴のとこに通った。大体場所はファミレスか例の多目的室で、前者の場合は何故かたらふく食べさせられた。今日も柳みたいな身体してるな、とひたすら麺を啜るあたしに失礼なことを言う。
「名前に白がつくから……雪柳か。見た目に合わないこともない」
中身は合わないけどな、と彼奴はコーヒーを啜る。意味のわからないことばかりだ。
「雪でも柳でもないわ。わけわかんないことばっか言ってないでここ、教えなさい」
ペンで開いた教材をとん、と叩く。そう急かすな、というがあたしはこの後仕事なのだ。暇人坊ちゃんにいつ迄も構ってられない。ため息をついて煙草を取り出せば、火をつける前にすい、と指の隙間から抜き取られた。煙草ばかりは体に悪い。一日何本まで。と、まるで親みたいなことを言う。
そんな風に、奴はあたしの生活に関わってきた。最初は居心地が悪いしやっぱり辞めたいのに、その日、その時間になると足が向いてしまう自分が嫌だった。
あんた、最近満ちてきているわね。店の裏手出口の扉に寄りかかりながらそう言ったのは店の姐さんだった。閉店間近の、他のスタッフは帰ってさあたしも帰るか、のところで声を掛けられたのだ。まったくめずらしく、あたしがいの一番で帰っていなかったかもしれない。薄汚れたパイプ椅子に座ったまま、へぇ、とあたしは曖昧に呟く。
姐さんは外見年齢が三十路代、実際はそれ以上らしい。常連さんはひっそりと美魔女と呼んで、密かな人気を得ているとは本人ばかりが知らない。いや、気づいて知らぬふりをしているだけかも。この店に最も長くいる人で、オーナーの次に権力がある、とは同僚の言だ。そしてこの人の前では、どんな隠し事も効かない。あんた何か腹に持ってるわね? と見透かしてくるのだそうだ。まさに魔女。だから早々に例の契約を打ち明けていた。
「生活も安定してきてるみたいだし。肌艶も前より良くなった。へぇ、なんかいいことあった?」
あたしの最近の変化を指折で上げる。もう片手に煙草を燻らせ、いっそ妖艶に姐さんはあたしに問うた。その仕草の、似合うこと!
いいこと、いいことなんかな。あれって。なんだか答えられなくて、あたしは首を傾げる。なんかで見たストレッチのように腕を捻って組み、ぐっと体を伸ばした。
「いいこと、なんですかねぇ」
休憩室の蛍光灯がチカチカ点滅する。ヤニカス塗れな天井を見上げながら、もつれ込むように腕を解いて何処にでもあるような事務所机に寝そべった。ぽつんと出てきたのは、白も黒もない応えだ。あたしにはまだわからない。彼奴との契約の、その価値を。
契約しているのが男だと知っている姐さんは、ふぅん、とだけ嘯いた。曖昧なあたしの答えだけでこちらの脳内を測ったようだった。こつん、とヒールを鳴らしながらパイプ椅子を引いてあたしの隣にやってくる。
「元々風船みたいな子だったけどねぇ。なんでもいいけど、芯は持ってかれちゃあ、駄目よ」
風船ってなんだろう、と顔だけ姐さんに向けた。意外と近くて軽くのけぞる。さもないとね、と姐さんは人差し指をぴっと上向かせ、あたしの唇に押し当てる。見目の為だけにくっついたグロスが抉られるような、そんな心地がした。
「あんたはあんたをなくしてしまうから、ね」
宛ら人魚姫みたいに。そう、屈んで耳元に囁かれた台詞は魅惑的で、くらりと来そうになる。ふと、姐さんの戦歴を思い出す。確かどっちもいけたはず。いけないいけない、と慌ててあたしは首を振った。
「人魚姫は王子に恋をしたが故に声を失い、終いには身体さえ泡になった。これらからわかること、即ち自身より大事なもんが出来て仕舞えば、何よりもどれよりもそちらを優先してしまう」
あたしの仕草にふっ、と姐さんはふっと笑う。家族すら顧みなかった、かの人魚姫のように。全て差し出した、身を削った、憐れな女の子のように。
「自身の主人は常に自身でありなさい。こんな仕事をしている私らは、特に」
私らはあくまでも誘う側で、落とされてはいけないのだと。
大先輩からの心得を説かれたあたしは、大丈夫ですよ、と軽く手を振った。
Journey 若槻きいろ @wakatukiiro
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