あたしの前の長い道と、暗い後ろ道 後編

「なんであたしを選んだの」

 寒いしあんな道端じゃ目立つからと、あたし達は近場のファーストフード店に入った。買ってもらったメロンソーダのカップを手に、あたしは先程の疑問を投げつける。冷えたカップはあたしの頭を冷静にしてくれていた。

 こんな状況で悠々とコーヒーを飲む男は真面目で清廉潔白そう。紙カップに入ったコーヒーを持つだけなのに、まるで優雅なそれ。正反対の世界にいる、と思った。

 あたしのいたあそこは所謂店の女の時間を客に買わせるというもので、買った時間は客の好きにしていい、というものだった。主な客層は三十から五十代の男性で、たまに怖いもの知らずの学生もいた。

 やっすい化粧品やアクセサリーで身を飾り、なけなしのプライドで今日を生きる。プライドだけでは生きていけないがプライドがなければ生きていけない。プライドとはその人間の軸みたいなものだ。

 あたしはこれまでプライドと呼べるものがなかった。これまで指名されたことなんて一度たりともなかったし、そういうものだと思い込んでいたから。

 ねぇ、なんであたしを選んだの?

 間違っても、遊びでも、誰もあたしみたいなのを選ぶことは決してないだろう。そう思っていたのに。

「一番まともそうだったから」

 そいつはそう答えた。まともそう、ってなんだ。失礼な奴だ。

「……いくらであたしを買ってくれるのかしら。お姉さま方ほど高くはないけど安くもないわよ、あたしは」

 挑発した目線で相手を見る。正直目の前の男が今すぐにでも気が失せて、あたしを解放してくれないかと待ち構える。男はずず、とカップに口を付けて白い息を吐き、あたしは敢え無くスルーされる。直接言わなきゃわかんないのかしら。

 目の前の男は見た目こそそこらの大学生だが、立ち振る舞い、言動を少し見るに金だけでなく育ちもそこそこ良さそうだった。この観察眼はあの店で培われた、数少ないあたしの特技だ。

「……君を買うのに、いくらなら納得がいくんだい?」

 男は問う。どうやらこの間は思案していただけのようだ。

 あの店で、あたしは所詮添え物だ。花を惹きたてる葉のように扱われていたあたしには、この男の行動と理由がさっぱり理解できなかった。

 だって普通、こんなやせっぽっちの女を買おうなんて思わない。店にいるお姉さま方はみんなあたしより肉感的で見るからに柔らかそうだ。栄養が身体に隅々迄行き渡っている、そんな感じ。その姿はなんだか幸福感に満ちていて、同じ空間にいるのにこんなにも違いがはっきりしている。あたしに声をかけるなんて、よっぽどのお人好しか変人ぐらいなものだ。

「あたしの価値なんて、しらない」

 答えられたのは、声に出せたのはそれだけだった。

 先程まであたしの中にあった攻撃性は、得体の知れない不安に押しつぶされてしまっていた。

「ほんとうは、あたしがいくらかなんて知らない。お金のやり取りなんて、店長とか上の人の仕事だし。レジなんて触ったこと、ないし」

 でも、でも、と一人ごちる。それでもあそこは、あたしの居場所だった。

 お店としてのあたしの価値がわからなくても、必要なんだか不必要だかわかんなくても。

「貴方に連れ出されなきゃ、あたしはあそこにいられたのに」

 腹いせのつもりで言ってやる。全部あなたのせいよ、と。これからどうしてくれるのだ、と。

「あそこに居たかったの?」

 驚いたようにそいつは言った。

「俺にはあまりあそこは君には合わないように見えたけど。いや、君は何にも関心を持ってないんだ」

 その言葉はあたしの身と心臓を刃物のように抉った。思わず胸元を掻きむしる。心臓がバクバクとなって頭ん中で警報が鳴る。これは、いけないやつだ。抱いたのは明確な怒り。沸々と腹の中で湧き上がってくるのがわかる。

「君、自分の顔を鏡で見たことある? とても冷めた目をしていたよ」

 笑うでなく、男は見たままを述べる。

「あんたさっきまともそう、っていったじゃないの」

 なけなしの反撃とも、抵抗とも言える威嚇を向けるが彼方にはやはり通じない。揶揄うでなく、説教するでなく、ただ淡々と事実を突きつけるように男は言う。だから余計にたちが悪い。どっちかなら、ぶん殴ってそれで終わりなのに。

「そんなこと、ないわ」

 関心がなかったとして。

 冷めた目をしていたとして、それが誰の迷惑になるだろう。店の関係者ならまだわかる。けれどこれは、正面の男から突きつけられたこれは、あたしのことをよく知りもしないのに決めつけ貼られたレッテルだ。

 ふざけんじゃない。

「ふざけんじゃないわよ」

 気づけばあたしは口に出していた。もう客とか金づるとか知ったことか。なんでここまで言われなきゃいけない。

 あたしはただ、生きてるだけだ。

「なんでそんな言われなきゃいけないの。なんであたしは責められてるの。どう生きようが、どう生計を立てようがあたしの勝手でしょう。なんで初対面のあんたにこんな言われなきゃなんないのよ」

 ふっざけんじゃないわ。

 腹が立ちすぎて涙も出ない。ここで一粒くらい落とせば可愛いものを。生憎あたしは可愛くない女だった。

 怒ったか、と聞いてくる。当たり前だと答える。何を見てるんだ本当にこいつは!

「……そんなつもりじゃなかった」

 男は初めて、本当にそこで初めてすまなさそうな顔をした。高慢ちきかと思っていたが、そうでもないみたいだ。

「まともそうだからこそ、なんであそこにいたのか不思議だったんだ」

 きみ、高校は。と続けて聞くから、怪訝な顔をしながらこの地区で一番ランクの低い学校名をあげると、男はしかめ面した。思いがけずやっとできた報復にやっと爪の先程の満足を覚える。

「よくそんなんで生きてこれたね」

「なりふり構わなきゃいけるもんよ。だってどうせ、抜け出せるはずがないんだもの」

 憮然とあたしが言えば、やはり男は怪訝なまま本当に? と問う。

「それが死ぬかもしれなくても?」

 あたしは知らず口を弧に描いた。

「死んだって、構いやしなかったわ。どうせ社会の底の底に生きているもの。必要じゃあないの。塵といっしょ。だからねぇ」

 あんたも離してよ。そんな言葉は思ったより心許なく揺れた。

「離して、君はどこへいくの」

「しらないわ」

 知るはずがない。知っていたとして、どうする事もない。向かうなら、いっそ。

「地獄なら、一緒に行ってくれる?」

 地獄、と答えようとして先に言われる。しかも一緒って。やっぱり何なんだこの男は。

「死にたいの?」

「うーん」

 煮え切らない態度にイライラする。飲んでいたメロンソーダは既に底をついていた。残るは溶けた氷のかけらのみ。惰性で啜れば、ストローの管をかすった氷と空気が通って喉に当たった。

「叶わないなら、死にたいかな」

 できるなら生きていたいけど。

 へらっと相貌を崩す。笑うと案外幼い顔も出来るのだと、睨みつけながら見つけてしまう。そんな自分に自己嫌悪しか湧かない。

 しかめっ面なあたしにかまわず、ねぇ、なんて言って男の口は弧を描く。

「一緒に地獄まで行ってくれない?」

「お断りだわ」

 行くんなら勝手にどうぞと言えば、連れないなと少し拗ねたよう。しかも一緒にって。ほんと一人でやってろ。

「で、今日なんだけど」

 ころっと男は唐突に話を切り替える。段々悲しいことに慣れてきたとはいえ、ほんと調子狂う。なんなんだこいつは。

「今日君の店を通ったのは偶々でさ。連れがああいうトコ興味あるからってことで、本当は冷やかし程度のつもりだったんだ」

 ハタ迷惑過ぎる話を迷惑だなんて考えもしないように男は言う。

「にしたって置いてくることはなかったでしょ」

「乗り気じゃなかったんだよ、最初から」

 だから途中で上手く言いくるめて帰る気だった、というからあたしは連れの人に合掌するしかなかった。

「あきれた。そうなんじゃ今頃捕まっているあの人は置いてけぼりになるのね。一人でかわいそうに」

「いや、回収はするよ」

 今頃お姉さま方に絞られているだろうお連れさんを思い出して同情するあたしに、当たり前だよ、とさも当然そうに男は言う。

 友人は大切だからね。そう言う男は何処までが本気かわからない、軽薄そうな笑みを浮かべた。

「まぁただ。自分が巻き込まれない形で、は難しかったからきみを巻き込んだんだけど」

 巻きこんだ自覚はあったのか。呆れ果てて何も言えない。そんなあたしの様子を見てか、男は軽く茶目っ気を弾け飛ばす。

「切り抜ける方法がわからなかったからね」

 ああ、とあたしは嘆息した。こいつ、かなりの馬鹿だわ。眩暈がしそうな頭を抱えたくなる。まさかこんなだとは思わなかった。

 遠のきそうな意識をふんじばって男に向き直る。

「いいトコそうな坊ちゃんが興味沸かせるような場所じゃないわ。とっとと帰んなさい」

「坊ちゃんてほどじゃないよ。いやまぁ将来政略結婚的なのはあるけど」

 そういうお家のしがらみがある人をいいトコそうな坊ちゃんと言わずなんという。

「なによ。ちゃんと先約があるんじゃない」

「そんな大したもんじゃないよ」

 先程から否定ばかり。自分のペースで物を言う姿勢はどこへ行ったのか。訝しめば、男は重たげに口を開いた。

「自分で決められない、選ぶことさえ出来ないことに、意味も価値も求められない。ただ流されるだけの生だ。

 ……君は、それでもいいというの?」

「言ったでしょう?」

 あたしに良いも悪いもない。あるのは生きていればいいってこと。生きていけるのならなんだって。

「社会の底辺、必要でない。そんな奴には、価値も意味も必要ないのよ」

 ただそこにいるだけで良い。まっさらな地平線と、どこまでも続くような深い溝。それがあたしの中で内包している。

「人からの評価はどうだっていいの。今だけが大事なんだから」

 今さえあれば、生きていける。たとえ一人だって。

 男はほぅ、と息を吐く。何かを見つけたような面持ちでこちらを見つめる。

「俺と付き合ってくれないか」

「嫌よ」

 世間的には甘いのであろう台詞を、にべもなく叩っ斬る。これまでの話の流れで何故そうなるのだ。あたしは一刻もこのキチガイから逃れたかった。

 やや不貞腐れたように何故と男は問う。全く理由に検討もつかないようだ。

「まず何でそうなるのかが分からない」

「君は、強いから」

 こくん、と行き先のない空気を飲み込んで、本日何度目かの呆けを体験する。知らぬ顔を毎日相手にしてるがこんなにペースを崩されたのは初めてだ。

「君は一人でも生きていけると思った。実際これまでそうして来たようだし。だけど俺は、誰かが傍にいないと生きていけないんだ」

「傍に居なきゃいけないとして、あたしである理由はないわね」

 ついでに強いからって付き合う理由にもならない。

 そう返せば男はまぁ聞いて、と続けた。

「俺は弱いよ。何かを選ぶ勇気なんてなく、掴み取るなんてできるわけないと思ってる。未だにね」

 それでも、と言う。

「君を見て、話して、もしかしたらって思ったんだ。縛りだらけの人生で、お綺麗な世界にヒビを入れられるならって」

 訳がわからない。こいつは何を言いたいの?

「御託はいい。あんたはどうしたいのよ」

「君を買わせてくれ」

 しん、と一斉に静寂が鼓膜を覆う。周囲の騒めきが一瞬にして聞こえなくなった。この瞬間、あたしだけ時間が止まったよう。

「俺は、いつか俺の意思とは関係なく誰かと人生を共にする。それまでこのままでいいのかとも思う。人を知りたい。自分を知りたい。俺が人を愛せるのか、好きなくとも、情を向けることが出来るのか。だから、少しでいい。俺に時間をくれないか」

 真面目腐った顔で坦々と男は言う。

 まるで小説みたいな人生だ。こんなセリフを言われる日がこようとは思いもしなかった。あたしたち、初対面なのに。

 だけど何故だろう。一周回って面白みさえ感じる自分がいることに気づく。

「いいわ、買われてやる。ただし店は通せない。だって数時間の話じゃ無いんだもの。だからこれは、あたしとあなたの個人的な契約だわ」

 相手のペースに飲まれぬ様、こちらの言い分を上げていくと針妙に男はうなづく。

「と、するとよ。あたしのメリットは何? 金は発生するにしたって、それだけで結べないわ」

 あたしをあそこから引き離すなら、それなりの利点をくれなければ割りに合わない。価値のない人間に価値を付けた、あんたはどんなオプションをつけるというのか。どちらにせよ、今日連れ出した分の料金は頂くが。

 そいつは今気が付いたといわんばかりに、ふむ、と思案し始めた。ややあって、口を開く。

「君に、知らないことを教えるよ」

 名案とばかりに、貴方は言った。なんて事ない案なのに、不思議と納得する自分がいた。

 その目が、あまりにも真っ直ぐだったから、あたしは。

 あとから馬鹿なことをしたものだ、と思った。

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