あたしの前の長い道と、暗い後ろ道 前編
起きるという行為は、生まれた瞬間と同じ様な気がする。
そんな事をふと考えはじめた朝だった。
珍しくするりと夢と現の世界が入れ替わって、多少時間をかけなくても昨日の事を思いだせた。私は昨日帰ってきて速攻で倒れこんだのだった。
少し動くと、安っぽいパイプベットがギシッ、と鳴った。そのまま転がり、横向きになる。
大分昔の夢を見た気がする。頰にかかる乱れた髪をかきあげながら、先程までの淡いを反芻する。
彼奴がいて、私がいた。今よりずっと、若いころ。何年前の話だ。
喉が乾いていることに気づいて、起き上がって水を飲みに行く。
髪を後ろに適当に流しつつ、六畳一間の部屋からキッチンへ数歩。鉄筋構造とは言え、築二十年のそこは台所という方がデザイン的に正しい。
洗われないまま乱雑につっこまれたコップをシンクから探し出し、適当に洗って水を入れて喉に流し込む。シンクに寄りかかり、薄暗い部屋をぼんやりと眺める。散らかっている部屋を見渡して、直ぐに夢の原因がわかった。
とりあえず、と思ってそこら辺にあるものをしっちゃかめっちゃかに入れた段ボール。その上に先日偶然発掘した、ちょこんと乗っかっている彼奴が帰り際にくれた小さな包み。
惹かれるようにまた数歩。冷えたフローリングに足裏を浸す。
ひた、ひた。緩く夢心地につかったままの頭が徐々に覚醒していく。
手を伸ばして袋を逆さにすると、出てきたのは綺麗な花の細工のネックレス。
あの頃のあたしが、店のショーウィンドウの前を通るたびにいいな、と思っていたものだった。それを彼奴は見ていたのだろう。普通別れる人にこんなものは渡さない。ご丁寧に人の好みのど真ん中をついて。
何がしたかったのか。誰も問いは返さない。
ああ、わけわからん。
今のあたしはフリーターをしている。
今日は丸一日のオフ。随分と久しぶりだ。
いつもは怠い店長の下、世の中をかってしったる、といいたげなよくわからない小言を聞きながらの怠い作業に身を費やしているが、今日という今日は誰が何を言おうが一日中ふて寝することにしている。今決めた。
しかし。部屋の惨状を見るにそうは言ってられないみたいだ。
……これは掃除を怠った普段のあたしが悪いのだけど。
「とりあえず片さなきゃ」
とっちらかった部屋を見渡し、いるものと要らないものに分ける。
物をひっくり返して、袋に詰めたりベッドに投げたり。それを何度も何度も繰り返す。
夕方になる頃にはある程度見られる姿になっていた。
「しっかしこれなぁ……」
四隅に追いやっていたそれを摘み上げるとちゃり、と細いチェーンが軽やかに音を立てる。殆ど日の目を見ることせず仕舞ったせいで、真ん中のブルートパーズは眩い輝きだ。けれど周りの銀細工は雑に扱ったからか幾らか燻んで見えた。
これを受け取った当時のあたしは、多分あんまり深く考えなかったのだろう。ただの物がこんなに重たくなるなんて知らなかった。
他の物は粗方収納なりしたものの、これだけは最後の最後までどこに置けば良いか分からず、未だに所在地不明のままだ。
「面倒なものもらっちゃったなぁ……」
あー、もう。やり場のない苛立ちを誤魔化すように、ガシガシと頭を掻く。
そのままベッドへとダイブすれば、スプリングが程よく体に返ってくる。きっとあたしの味方はベッドだけだ。
仰向けになって天井に見上げていれば、電気の付いていない部屋に徐々に迫り来る夜の気配があった。
カチカチ、と時計の針が時を刻む。進むことはあれど、戻ることなんてありはしないんだと言わんばかりに。過ぎ去った時間が胸中に渦巻く。
ふと視線を逸らせば、窓枠の外には濃紺に月が大きくぽってりと浮かんでいる。
嫌味なほどきれいな月夜。
そう、こんな夜だ。
回想の引き金になる材料は残念なほどそろっていた。手元に引っかかる銀の鎖と、目前の深い夜の空気。
あの人との始めましては、こんな灯の下だった。
「おにーさんら。よかったら寄ってってよ」
チカチカと頭の悪そうに光る電灯の下、甘ったるい香水を撒き散らし、幾人かの女たちがぬるりと妖しい声をかけた。暗闇から浮かぶ様に青白い肌を照らす。それは美しくも不気味だった。
濃いめに彩られた化粧を恥ずることなく、女特有の内から溢れるおどろしさ、甘い匂いと熟れた肉体を全面に押し出し、それを一つのアクセサリーであるかの様な気軽さで、男たちに絡みついた。
男たちはいとも簡単に引っかかり落とされた。
あーあ、とこっそり溜息をつく。この日、目の前には何とも純でぼけた青年二名がお姉さま方につかまっていた。この道を通ったが最後、無事に通り抜けた者はあたしの知る限り居なかった。かわいそうに。
お姉さま方は件の青年の腕に自分の身をすり寄せ、囁くように夜のお誘いをしている。見たところただの青年であるが、着ているものはちょいとばかし値が張っているようで、そこにお姉さま方は目をつけたのだろう。なんせこの仕事は金づるがなくては商売にならないのだ。
いつものように、百戦錬磨な手管を使い一歩、また一歩と店の方へ連れていく。それを別世界の出来事のようにぼんやりと眺めた。 勿論一応は仕事だから、愛想笑いと可愛く作った声でお姉さまの合いの手を打つ。
ケラケラと脳みそ空っぽな感じに振る舞えば、誰だってその程度と思ってくれる。便利な脇役に演じてこそ、あたしの存在は肯定される。
あたしは所詮、余り物でオマケだ。枯葉も山の何とやら。だから気がつかなかった。一つの視線のことなんて。
「じゃあ」
低めの声が一つ通る。雑音が酷いこの場所でその声はやたらよく響いた。
「あの子がいい」
目の前には綺麗な指先。つまり、私を指していた。
まさかの指名に驚いたのはあたしであったが、それよりもおどろいていたのはお姉様方だった。
魅惑の視線からぎょっとした表情になりそれまで彼女たちが纏っていた空気は瓦解した。そしてあたしをジロリと睨みつける。人魚が泡でなく魚になったらこんな顔をするのでは無いかと思ってしまった。
「さあ、いこうよ」
ね、と言いつつ目も口も笑っていない。あたしの栄養がいきわたっていない細っこい手首が捕まれる。冷えた肌に、知らない男の熱。ぞくり、とするようなその目。その目につい肩を震わせてしまう。
おい、と連れらしき男性の静止の声も聴かずに、目の前の男はあたしを連れていく。
手首を人質に取られ、引きずる様にそいつの後に続いて表通りに出ていた。店の前ならともかく、あたしは表通りに出れるような恰好じゃなかった。だってこんな寒い十月下旬に、キャミソールのようなうっすいドレスと簡単な羽織のみだ。
待って、とあたしがかろうじて声を出すと、男は振り返って、あ、と今更気が付いたように間抜けな声を出す。少し自分の持ち物を見渡し、あたしに着ていたコートを寄越した。
そして、そのまま。
再び手首をするりと掴まれる。先程よりもより感じる、自分と違う骨張った指。冷たいながらも滑らかな肌。今日は秋にしては寒い予報なのに。頰ばかりがやけに熱い。
とっとっと、とつんのめりそうになるのをなんとか追う。違う歩幅を合わせるので精一杯だ。
こんなにも違う、あたしと目前の男。服も、所作も、当たり前な身体つきも。
なんであたし、今こんな格好なのかしら。肩に掛けた濃紺のトレンチコートをぎゅっと握りしめる。身を隠すように、顔も伏せて。
どんどん足は賑やかな雑踏に近づいていく。場違いな想いだけが増していく。
とっとっと、と。つやつやの赤いエナメルヒールが、表通りの明かりを捉えて反射する。
とんっ。その、最後の一歩。あたし達は、ライトアップに照らされた街に足を踏み入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます