Journey
若槻きいろ
貴方と私の交差点、赤になった信号機
タバコには色々な臭いと味があるのだと知ったのは、その男からだった。
確かその日もあたしとそいつは安っぽい、そして狭っ苦しい一つの布団を共有して、二人だけの玩具箱みたいな世界を、密かに構築していたのだった。
甘く、密やかな関係。ではなく、ただの肉体関係。だと思う。
今日も今日とて同じ男の身体と自分の身体を合わせる。よく飽きないなぁと、自分でも思う。だからなのか。
気づいた。いつもと違うその匂いに。
知った。匂いは、その人自身を表すのだと。
ふと、そのことに気づいたのは、すべてが終わって、二人して寝転んでいた時だった。
部屋でただ一つの大きな窓から、ぴしり、と空気をも凍らせそうな空に、まんまるの月がぽっかりと穴が空いた様にある。
それとは裏腹に、さらさらと窓の向こうから降り注ぐ月光は暗闇に際立って、眩しかった。
隣を見やる。見慣れた身体。何度も見た隣人の寝顔。終わった後の身体に残る怠さも。けど。いつものと違う。
「何が」
声に出ていたらしい。寝ていたと思っていた男が目を開けた。だがそんなことはどうでも良かった。
「臭いが」
その男からは、いつもと同じ苦いだけの臭いが感じられなかった。
キャラメルの臭い。ただ甘ったるいだけの、お菓子のような臭い。そいつは、ああ、と納得がいったように、
「知り合いから貰ったんだ」とだけ言った。
「ふぅーん」
あたしはというと、それだけ。あたしはタバコはよくわからない。それより酒の方がよっぽど好きだ。
「嫌いか?」ってそいつが聞くから、
「よくわからない」と、答えた。
実際よくわからない。そんなこと気にしたことなんてなかったから。ああ、でも。
「今日の貴方は甘いのね」
ニヤッとあたしは笑った。
「嫌か?」そいつは聞くから、
「悪くはないわ」とあたしは応えた。
あたしはくすくす、と笑い、まだ二人の体温が残る布団の中に少し冷えた身体を引っ込めた。
月がよく冷えた、そんな夜だった。
「今日で、会うのはやめにしよう」
静かにバッハかなんかの曲が流れ、あたしに言わせれば場違いな雰囲気の小洒落たレストランで、そいつはそう切り出した。
あたしはというと、ちょうど来たばかりだった、名前のよくわからない肉のソテーを口に含めようとした、まさにその瞬間だった。なんとタイミングの悪い。
「理由を聞かせて?」
少々やりどころのない思いを抑えつつ、あたしはそれだけ言った。
そいつは間違っても女遊びを多くはしない。一人いれば後は断る。そんなそいつがあたしは結構好きだった。
「親が決めた相手と結婚する事になった」
「あら」
とうとう、という言葉が頭にチラついた。契約が終わる。この時が来ることを、あたしと彼は知っていた。
「おめでとう」
あたしはそれだけ言った。他にかける言葉なんてあるのだろうか。
「うん」
そいつもそれだけ。
いつも曖昧な、何考えてるのだかわからない顔で。あの時のまま。少しは悲しそうなり嬉しそうなりしなさいよ。心の中で呟く。
今日はお互いあまりしゃべらないな、なんて思いながら、
「冷めちゃうわ」って言って、あたしは食事を再び始めた。
かちゃり、かちゃり、と食器とナイフとフォークがたてる音と、よくわからないゆったりとした音楽が、しばらく二人の間に響いていた。
「好きになれそう?」
耐えられなくて、あたしは口を開いた。聞いてどうするんだ、あたしは。
「何を」端的にそいつは問うた。
「相手を」
「どうだろう。よくわからない」
かつん、と持っていたフォークとナイフが皿に当たる。そいつにしたら、はっきりしない答え。
「好きになれるといいわね」
「うん」
あたしは小さく切り分けられた肉のかけらを口に運ぶ。名前の長いソースの味は、よく味わったにも関わらず、未だによくわからないままだ。
あたしにできる事は、声をかけることと、飽きるまで隣にいてやるぐらいだった。
「これ」
酔いも回る、人が行き交う帰り道の交差点で。そいつはずい、と何か小さな包みを私に渡した。
「何これ」
「家で開けて」
説明は、なし。毎度思うがこいつは言葉が足りなさすぎるのではないだろうか。こんなのでこれからやっていけるのだろうか。関係なくなるとは言え、心配になってくる。
「これから別れようって女に渡すもんじゃないわね」
なんと女々しいことか。呆れたあたしにそんなんじゃ、と言い訳をしてくる。
「今までの、お礼とか。そういう意味で」
ぶつぶつと呟くように、顔をそむけて言った。相変わらずの自信のなさだ。
あたしはぶん捕るようにその包みを取った。もらえるものは貰っとけ。あたしはあたしの信条をまっとうしただけである。それだけなのに、手元から物がなくなった瞬間、奴はちょっと嬉しそうな顔をした。
全く、やんなっちゃう。馬鹿な奴。
「嫌だった?」
最後に、奴は聞いてきた。
「何が?」
「俺と一緒にいたこと」
ふん、と鼻を鳴らす。あたしは呆れた。嫌だったら、一緒にいないわ、全く。嫌いじゃなかった。むしろ居心地が良かった。なんて、これから別れる人に言いやしないけど。
この男に少なからず、愛情に近いものはあった。恋心では、断じてないが。何度も寝ていれば少なからず情というものは移る。同情と同族的な仲間意識。こいつとあたしは、根本的なところで似ていたのだ。
「どうかしら。よくわからないわ」
今となってはどうでもいいことだ。
「ま、どうぞお幸せに」
そのときあたしは笑えた、と思う。
それだけ言って、あたしはそいつの顔をろくに見ずにその場を去った。馬鹿な奴。と小さく呟き捨てて。
あたしはこの時、後から後悔することになる。大事なものをなくしたのだ。
しんが、なくなった。
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