第19話
内々に処理したおかげで、フェルナンドの起こした事件は公にはならなかった。
あの砦には見張りのために塔のような建物が併設されていて、そこにアリアは閉じ込められていたらしい。更に砦の中には大量の盗賊がいたが、ほぼイドラと私兵たちで対処してしまったという。呆れたことだ。
フェルナンドはあれからどうなるのかといえば、どうやら現ヴェルディ伯爵と共に内地で療養ということになるらしい。しばらくは
「あの人は私に少し負い目があるからね。フェルナンドのことと昔のことと、重なったらあっさり療養を認めたよ。ちょっと気分がすっきりしたのは、まあ、私も少しは腹に据えかねてたってことだろうね」
からりと告げた
とはいえ、表向きの生活はあまり日常と変わらなかった。変わったことといえば、
そしてどうやら、イドラはそれがご不満らしい。
「……おい」
ある日、ベッドの上から寝ぼけた声で彼が言った。体温の低い腕が伸びてきて、アリアは顔をしかめる。
「何かしら?」
問いかけながらするりと腕の中から抜け出す。体が軋むように痛かった。この男、抱きしめる力に最近遠慮がない。
「なんなんだ、お前は。俺のことが好きなんじゃなかったのか」
「いきなり何よ。言っておくけれど私、あなたの調教をやめたわけではないのよ。好きだろうとなんだろうと変わらないわ。あなたには立派な領主になってもらいますからね」
「おい、何やら虫酸の走る形容詞はやめろ」
「あら、調教しがいのある言葉だわ」
胡乱気な眼差しに鼻を鳴らす。彼は深く嘆息して、そうではなくてだな、と言った。
「初夜はいつになるのかという話だ」
何も飲んでいないのに吹き出しそうになり、アリアは反射的にイドラの頭を叩いた。がくりと首が揺れたが、痛がった様子もなく、恨めしそうな視線はアリアから離れない。
「文句は受け付けんぞ。お前、この間帰ってきてから毎日、ベッドに入るなり早々寝るだろうが」
「寝るためにあるのでしょうよ、ベッドって」
それに毎日と言っても、あの事件からまだ三日だ。アリアはまだ細かな傷が治っていないし、さすがのイドラにもまだ生々しい傷が残っている。
そもそも元々負っていた傷が治っていない状態で乗り込んできたため怪我は酷くなっていたのだ。そんな状態で初夜も何もあったものではない。下手すると二人とも破傷風になる。
相変わらず自分の体を大事にしない人だと腹立たしくなる。
しかし、アリアはそこでふいっと視線をそらした。
イドラは強いし、今ではそう簡単に死なないことは分かっている。それでも彼が命を軽々しく扱うことをまだ完全に許容できているわけではない。それはアリアにとって呪縛にも近い強迫観念だ。
それなのに、自分の怪我を無視して助けに来てくれたことが嬉しいだなんて、そんなことを思い始めている自分も大概だ。
「? おい、聞いているのか?」
「……聞いているわよ、ほら、さっさと服を着なさい。というかこの際だから言わせてもらうけれど、どうして私、毎日毎日起きると寝たときより薄着になっているのか不思議だわ。上着はご丁寧に床に放り投げられているし、奇々怪々ね?」
「何が言いたいのかよく分からんが、案外お前もさっさと初夜を済ませたいということなんじゃないのか」
「寝言は寝て言いなさい。あまりそんなふうだと私、いつか離れのほうで寝るわよ」
イドラはあからさまに表情を変えた。すっと空気が冷える。
「お前……あんな男どもの巣窟にいたらひとたまりもないのは分かっているんだろうな? それは不貞を働くのと同義だぞ」
お前が言うか……? と思わず呆れつつも、アリアは平然と答えた。
「あら、私はあなたの妻なのだから、私に何かしたらあなたとお義母様から死ぬより辛い目に合わされることくらい皆分かっているわよ」
「あいつらの中で夜に酒を飲まんやつなどいない。酔った
「そう思うのならきちんと怪我を治すことね。別にあなたとの初夜が嫌ってわけじゃないわよ」
瞬間、再び彼の雰囲気が変わった。何やら熱を帯びた気がする。
彼は既に着替えてしまったアリアを見て恨めしそうに眉を寄せる。その仕草ひとつにも色気があって、ふと気を抜くと当てられそうになる。しかしこの三日間でアリアも慣れてきた。時間というものは偉大である。
「お前……煽るだけ煽っておいて……」
「悔しかったらさっさと傷を治しなさい。ここのお風呂、怪我に良いらしいわよ」
「……風呂は好かん」
その言葉に少し口ごもった。彼が風呂に入るのを嫌う理由を知ってしまったからだ。しばらく視線を彷徨わせ、目を閉じる。
「……大丈夫よ」
目を開けて小さく息をつき、笑う。迷っていたが、告げることにした。そもそも隠し通せることでもない。
「血にまみれているというのなら、私だって同じだわ」
「何?」
「私、自分の妹か弟か……分からないけれど、殺してしまったことがあるのよ」
あっけらかんと告げられた内容に彼は少し瞳孔を開く。じっと透明な瞳で見つめられて、アリアは空虚な微笑みを浮かべた。
「妊娠していたお母様に飛びついたの。ずっと遊んでくれなくて……そうね、寂しかったのよ。それだけの理由で、私は人ひとりを殺してしまったわ。一緒に階段から落ちたお母様が、咄嗟に私を庇ってくれたことは今でも覚えているの」
そのとき母の腹の中からまろびでた小さな命の重さを、アリアは一生背負って生きていくと
もしかしたら、無意識だっただけで、強くなろうと思ったのはあのときからだったかもしれない。
「私だって同じよ……いえ、あなたよりも酷いわ。あなたは殺すつもりだったのでしょうけれど、それは正しくあなたの母親のためだったのだもの」
アリアは殺すつもりはなかったけれど、結果的に祝福されるべき赤子は地の下に眠ってしまった。母も父も、叱りもせず命の大切さを説いてくれただけだったけれど、使用人たちの甲高い悲鳴は今でも耳にこびりついている。
人を殺してしまった恐怖を、アリアはきちんと知っている。
自分の弱さが人を殺したことを、決して忘れはしない。
「だから気にしなくてもいい……と言う気はないわ。私とあなたは違う人間だもの。でも、私がしたことも、覚えていてほしいのよ」
自分だけが異端なわけではないことを、きちんと知っておいてほしかった。
なんとも言えない顔でイドラは黙っている。その澄んだ瞳に向かって、アリアは言葉を紡いだ。
「私、きっと強くならなければという思いは消せないわ。あなたが戦場に出ていって、止めなかった結果あなたが死んでしまったら、のちのち死ぬほど泣くでしょうね。同時に首を切るかもしれない」
アリアは笑う。その背筋だけが凛と伸びて、翡翠のような瞳がゆるく光った。
「私はきっと変わらないわ。人が死ぬのは嫌。人の弱さで人が傷つけられるのは嫌。だから強くなる。それは多分、変えようと思っても変わらない。だからあなたが証明して。私が安心できる強さを、あなたが証明して」
懇願だった。それは自分の弱さから来る慟哭なのかもしれなかった。それでも、願わずにはいられなかった。
イドラは不意に顎に手を当て、数拍してから口を開いた。
「俺も多分変わらんだろう。人を殺しすぎたし、戦う瞬間の高揚なくして生きていられるとは思わん。いつ死ぬかも分からんし、正直絶対に死なないとは約束できん。だが、お前は放っておいたら一人で強くなるのだろうな」
ふっと皮肉げに笑って、彼は言う。
「それは面白くないな。人は強くなると感情の起伏が消える。お前は弱さが恐ろしいと言ったが、慈悲やら祝福やらは弱さの領分ではないのか? 恐ろしさなどどこから発生しようと予測など出来ないだろうよ」
アリアは苦笑した。二人の意見はおそらくここで分かたれている。所詮は二人の異なる人間なのだ。そして多分、二人とも頭が硬すぎて柔軟とは程遠い。
「そうね……私は今まで色々な男性に『あなたは強すぎる』と言われてやんわり振られてきたから、なんとなく分かるわ。私は多分、一人だとどこまでも強くなってしまうわね」
「ふむ。とりあえずその男たちはつるし上げるとして、お前、一体どこまで強くなりたいんだ? 弱い人間が恐ろしいという感覚が俺にはよく分からんが」
そうだろうなとアリアは思った。弱さからくる恐ろしさは、加害者になってみないと多分分からない
彼は自分を弱者だと思ったことはあれど、弱者だから、強者より恵まれていないから、その分大事に扱われるべきだなどとは思ったことがないのだろう。いつだって、加害者となるのは自分が優遇されるべき弱者だと思い込んでいる者だけで、そういう人は多分、強者になるための努力は厭うのだ。こんなはずではなかった、と後から言い訳を紡ぐものだ。
「どこまで強くなりたいのかは、正直私にも分からないわ。だから私はずっと考えているし……あなたにも、考えてほしいのよ」
「俺が? 何をだ?」
「分からないことを、よ。たとえばそうね……私は多分、やめろと言われても人助けをやめないわ。レオのような子がいたら助けたいと思うし、異民族とだって、もしかしたら分かり合えるかもしれないとすら、少しだけ思うのよ」
イドラはあからさまに動揺した。
「お前……手当たり次第に子供を雇う気か?」
「え、興味あるのそっち?」
予想外の答えに、アリアは話の流れを無視して目を剥いてしまった。しかし思えば、彼は別段誇りを持って異民族やら盗賊やらを討伐しているわけではないのだ。そこまで彼らに思い入れはないのかもしれない。
ともかく、アリアは呆けた顔をきゅっと引き締めて顎を引いた。
「まあとりあえず、どちらにせよ、やっぱりあなたは反対するでしょう?」
「当たり前だろうが。餓鬼が何人も増えるなぞ許せるか」
「私は許せるわ」
さらに反論しようとして、イドラはふと何かに気づいたように固まった。呆れたように顔をしかめてアリアをしげしげと見る。
「なるほど、お前とは色々と意見がぶつかるようだな」
「今気づいたの?」
遅すぎる。そもそも意見が合うと思っていることに驚きだ。彼と意見が合うというのは危険人物であるということではないかとアリアは思う。
イドラは何がおかしいのかくっと笑った。
「考えるのは苦手なんだがな」
苦手というより、理性が仕事をしていないだけだろう、イドラの場合は。
彼はゆっくりと立ち上がり、均整のとれた体を上着で覆った。にやりと笑う。
「だがまあ、そういうのもたまには悪くないな」
「ぜひそうしてくれると有難いわ」
嘆息する。多分、二人の意見は交わらない。二人とも自分を曲げることはしない、できない性分だ。
だから考えるしかないのだ。一緒にいたいのなら、共に歩んでいくのなら、二人で、考えるしかない。
「とりあえず朝食を食べに行きましょう。今日はお義母様が料理当番よね?」
くるりと話題を変えて、アリアは微笑んだ。
帰ってきてから判明したのだが、イドラは驚くべきことに料理が出来た。よって朝食だけはローテーションで作ろうという話になっている。今日は
しかし、イドラはその言葉にぴたりと動きを止め、ぐっと眉間に皺を寄せた。
「え、何?」
急に深く渋面になった彼に少し慄くと、「覚悟しておけ」という声が返る。
「おそらく、今までにない衝撃だろうからな。アリア、昨日俺が作ったものはまだ残してあるか?」
「え、ええ……私が作ったお菓子もまだあるけど」
「ならいい。それを理由にそうそうに退席することにしよう。おそらく、お前では耐えられん」
どういう意味かと思って怪訝な顔になったが、イドラはそれきり口を噤んだ。
変な人だと思ったアリアだったが、その十分後、今までに見たことのないヘドロのようなスープを出され、「母国の料理だよ」と言われたときの衝撃に色々と納得した。ちなみにものすごく辛かった。
一番衝撃だったのは、イドラがそれを見てどこか安堵したようにこう言ったことだ。
「なんだ、辛いだけか」
「辛いだけ……?」
イドラはあっさりとそれを食べていたが、アリアには未だに信じられない。
辛いというよりそれはもはや凶器だった。香辛料を世界の端から端まで行ってすべて集めましたと言われても納得できたし、うっかり素手で触れてしまった部分が小さく火傷を負ったので、アリアはその日、生涯で初めて料理を残した。
その後、こっそりレオが買ってきてくれた値の張る氷菓子を惜しみなく食べたアリアは悟った。
もしかして、この家に嫁いでくるのは予想以上に過酷な運命だったのではないか……?
絶対に
戦闘狂の調教姫 七星 @sichisei
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