第18話




 イドラは当然のように飛び降りる。

 空中でイドラの手がアリアを捕らえた。そのまま引き寄せ、彼は自分の胸にアリアをかき抱くようにして体勢を変え、外壁を蹴った。くるりと綺麗に一回転し、二人揃って木々の中に突っ込む。

 手足が擦り切れる感覚。しかし思ったような痛みがなかったのは、イドラが外壁を蹴ったのと、殆どの衝撃を彼が肩代わりしてくれたからだろう。


 運のいいことに突っ込んだ先の木はよく繁っていて、二人の勢いは大きな枝に座るような形で止まっていた。

 ばくばくと打つ心臓をなだめ、アリアは気丈に微笑む。


「……落ち着いた? イドラ」

「お前……何を考えているんだ、馬鹿か?」


 心底呆れた声はいつものイドラのものだった。アリアはほっと息をつく。しかしすぐに目を怒らせて彼を見た。


「馬鹿とは結構ね。あのままだとフェルナンド様を殺していたかもしれないでしょう、あなた」

「……お前、何を聞いたんだ」


 不意に声が低くなる。アリアは深呼吸して大きな枝に座り直す。ちょうどアリアの背の方向に大きな幹があって、もたれかかるようにすると安定した。

 イドラは既に近くの枝に掴まって体勢を整えていた。二人とも、あちこちにできた擦り傷さえなければただ木登りをしていただけのように見える。その状況も奇妙だが。


 アリアはひとつ息をついて、フェルナンドから聞いたことをすべて話した。

 イドラが実は取り替え子ではなかったこと。ヴェルディ伯爵の不貞で生まれた子であること。他にも、様々なことをなるべく洩らさず伝えた。


「……そうか」


 それだけ呟いて、彼は黙り込む。

 アリアは慎重に問いかけた。


「母親を殺したというのは、本当なのね」


 でなければあそこまで取り乱しはしないだろう。彼はぴくりと表情を動かしたが、激昂するでもなくぽつりと言った。


「……どちらにしろもう長くはなかった。俺は顔の美醜に興味はないが、あの女は美しかったんだろう。だが美しさというものは衰えるらしいな。あの女も徐々に男と寝なくなって、逆に薬を増やしていった。だが金も尽きて、幻覚が酷くなったのか知らないが……俺に『殺してほしい』と言った」


 アリアは目を見開いた。彼の顔は見えない。


「俺はそのときから人を殺すような仕事の手伝いをしていたから、どうすればいいのかは知識として分かっていた。……俺の生涯で、初めて殺したのがあの女だった」

「……あなたは、母親を恨んでいるの?」

「恨むほど愛された覚えがない。だが、そういえば殴られたこともなかったな。俺を生かすことは律儀にしていた女だった。もしかしたら親父の金を目当てにしていたのかもしれないが……」


 そこでイドラは自嘲気味に笑った。

 アリアは少し黙って緩く手を伸ばし、彼の頬に触れる。


「でもあなたは愛していたんでしょう?」


 イドラが目を見開く。


「……何を根拠に」

「根拠なんて必要かしら? だってそういうものでしょう、子供って。子供を愛さないまま産み落とす親は存在するわ。でも、初めから親を愛さず生まれてくる子供は存在しないわ」


 きっぱりとアリアは告げる。


「どこかで愛していたのよ。そういうものだわ。愛さなくてはならないわけではないけれど、それって意識して止められるものではないわ。愛されないことより、愛せないことのほうがずっと恐ろしいのだもの」


 だから、ほら、こんなにも動揺しているのだ。

 無意識なのだろう、震えている手を見る。


「あなたはきちんと母親を愛せていたわ。大丈夫よ、そんなに怯えなくたって、あなたは誰かを愛せていたのよ。今は分からないけれど、子供のころのあなたは、少なくとも、母親を殺したときのあなたは、何も感じなかったわけではないのでしょう?」

「……」

「本当に何も思わなかったの? 殴られも罵倒されもしなくて、ご飯をきちんとくれて、そういう人を殺すときに、本当になんの躊躇もしなかった?」


 こんなことを問いかけていいのか分からない。けれど、彼が怯えているのを放っておくことはどうしてもできなかった。

 それがアリアの性分だ。


「……痛みなく殺すつもりで、頸動脈をすっぱり切った」


 ぽつりとイドラが言う。辛そうでも悲しそうでもなく、何かを思い出そうとするように、少し上向いていた。


「ただ、そういえば……最期にあの女は笑って、俺の手を握ったような、気がする。何も言わなかったが、俺に笑って、頭を撫でた」

「……そう」


 それは、イドラの手が殺すのを躊躇したということなのかもしれない。ただ単に子供の力では一瞬で殺すことはできなかったのかもしれないが、アリアは信じたかった。

 彼が母を愛していたのだと、信じたかった。

 イドラが真っ直ぐに見つめてくる。その瞳は透明で、答えを探す子供のようだ。


「俺はあの女を愛していたのか?」

「多分、彼女もあなたを愛していたのだと思うわよ」


 金が欲しいだけだったなら、彼女はイドラを八歳まで育てはしなかっただろう。男に体を売って、金を稼いで、全てを薬につぎこめばもう少し長く生きられたかもしれないのに、彼女はイドラを育てた。

 娼婦にとって子供は邪魔な存在のはずだ。それでも育てた。最後は自分を殺させて、彼を自由にした。


 愛の形に決まりなどない。それがどんなに歪な形でも、愛ではなかったと言える人は存在しない。


 イドラが自分の両手を見てぽつんと言う。


「俺を殺そうとした男を殺したときも、この土地で異民族を殺したときも、何も思わなかったが……風呂に入ると、いつもあの女の血が手についているような気がする」


 アリアはここに来たばかりのころ、イドラが上半身裸のまま、不機嫌そうに頭から雫を垂らしていたことを思い出した。

 彼の手を握る。


「あなたが無闇に人を殺しはしないって、ちゃんと知っているわ」


 彼は気まぐれだが、気まぐれで人を殺すことなどしない。知っている、知っているのだ。

 人を殺した人間は「普通」の人間のようには暮らせないなんて、それはどこから来る常識だろう。だって、目の前の、アリアの夫は、こんなにも透明なのに。透明だから、染まってしまっただけなのだ。スラムという空気に。戦いという高揚に。


 それをアリアは否定できない。自分もそうなっていたかもしれない。だから、お前が異端だと声高に叫ぶ真似はしない。したくない。


「あなたは、ちょっと人と違っただけなのよ。母親が二人いた。それだけよ」


 イドラは少し眉を動かしたかと思うと、唐突に凪いだ湖のような瞳を向けてきた。


「お前は……蟻地獄みたいな女だな」


 予想外のものに例えられたアリアは衝撃で硬直した。どういう意味だと渋面になる。しかし反論を許さず彼は続けてこう言った。


「お前はおかしい」


 きっぱり告げられて困惑した。そこまで断言されるほどだろうか。


「お前は俺が自分の命に頓着がないと言ったが……お前も大概だ。下手したら死んでいたぞ」


 ぐっと手を握り返され、距離が縮まる。変に鼓動が早くなってアリアは目を白黒させた。


「それはだって……あなた、こうでもしなきゃフェルナンド様を殺していたでしょう。手っ取り早い方法がこれしか思いつかなかっただけよ」

「……ああ、そうか、なるほど」


 何かを納得したように彼は頷き、ずいっを身を寄せた。

 咄嗟に後ろに下がろうとしたが、幹が邪魔でどうにも出来ない。目を見開いたアリアの顔を覗き込んで、彼は告げた。


「お前、この前言っていたな。人は皆弱く、その弱さが時に人を傷つけるほど恐ろしいものになることがある。現にお前も川に突き落とされたことがあるからと」

「え、ええ」

「だからお前は、自分のように『弱さ』によって傷つけられる人間を生まないために、強くなりかったと?」

「そうよ」

「それは嘘だな」


 あまりに唐突に宣言されて言葉が出なかった。口ごもるアリアの目をまっすぐ見て、イドラは言う。


「お前は他人を救いたいのではないだろう? いや……違うな。他人も救いたいのは本当だが、お前が真実救いたかったのは子供の頃のお前だ」


 アリアは唖然とした。

 傲慢なほどあっさりした言い方だった。自信があるというわけでもなく、ただただ事実を語っている口調に近い。

 そして、その指摘が図星だと気づいている自分自身にアリアは一番困惑していた。


「それ、は……」


 説明しようとしたのに舌が乾ききって言葉が出ない。同時にアリアは悟った。紅花ホンファに会った日に感じていた焦燥感の正体。

 イドラが強いと認めてしまえば、それはアリアが弱いことに繋がる気がしていたのだ。自分が弱ければ、昔の自分のように無残に怪我を負うかもしれない人々を救えない。

 昔の自分を救えない。


「安心しろ」


 愕然としていたアリアの中に一本の光が差し込んだような声が響く。

 彼は淡白に告げた。


「お前は俺の嫁だ」

「……え?」

「要するにお前は助けてほしいときに助けてもらえなかったんだろう? 違うのか?」


 アリアは息を呑んだ。そうだ、アリアは助けてほしかったのだ。あんな、死にそうになったときではなくて、もっと早く……初めて暴力の餌食となった日に、気づいてほしかったのだ。大丈夫かと問うてほしかった。大丈夫ではなかったのだから。

 どうして分かるのだろう。


「なら簡単だ、俺のそばにいろ。お前は盾のような女だからな、さしずめ俺はお前の矛か。俺の隣にいればまず死なんぞ」


 にやりと笑う。アリアは呆れた。


「あのねえ……私、あなたの玩具じゃないのよ」


 嘘だ。いや、玩具ではないというのは本当だが、それは照れ隠しに近かった。

 アリアのために、アリアのための矛となる。そんなことを言う人は今まで存在しなかった。嬉しくないと言ったら嘘になる。しかしそれを彼が何の気なしに言ったであろうことが、妙に苛立たしかった。

 だが予想に反してイドラはきょとんとした。


「そんなことは知っているし、別に冗談で言っているわけではない。俺は多分……お前を愛しているからな」

「……は?」


 本気で素っ頓狂な声が出た。愛している? 誰が、誰を?

 彼が怪訝そうに眉を寄せた。


「お前がさっき言ったんだろう? 俺はあの女を愛していたと」


 あの女というのはイドラの実の母親のことだろうか。

 曖昧に頷くと、彼は満足げに顎をそらした。


「なら俺はお前を愛しているということになる」

「……意味が分からないわ」

「なんだ、お前、意外と察しが悪いな」

「あなたの言い方が悪いのよ」


 もう少しきちんと説明してと言うと、彼は顎に手を当てた。珍しく考えているらしい。


「俺は女と関係を持ったのはお前が初めてではないが……」


 アリアは頭を抱えそうになった。あけすけすぎる。仮にも妻に対して言う言葉ではない。


「だが、殺すのを躊躇するのはお前くらいだ」


 真剣な瞳がアリアをひたりと見据えた。握った手が熱を帯びた気がした。


「俺は多分……命に対する認識が異常に軽い。それくらいは分かっている。だが、殺すのを躊躇するのが愛するということなら……多分、愛しているのはお前だ、アリア」


 愛に決まった形はない。随分とねじ曲がった基準だが、それはたしかにひとつの愛の形なのだろう。

 そう思った瞬間、アリアの頬が熱を帯びた。

 急にぴたりと動きを止めた彼女に、イドラは怪訝な顔になる。


「? ……おい、どうした」

「分、からないわ……急に……」


 彼の顔を見ることが出来ない。何が起こっているのか分からない。

 すると唐突にレオとローガンの言葉が蘇った。好きとはどういうことか、と聞いたときのもの。


『心臓が痛くなるとか、ちくちくするとか?』

『娼館の女たちが言うには、『胸が苦しくなって息をするのも辛い』らしいけど』


 心臓は痛い。たしかに痛い。呼吸も多分……今までにないくらいままならない。

 荒れ狂う波にも似た激情が胸の内を侵食しているようだった。アリアは混乱しながらイドラの顔を見る。

 途端に鼓動が跳ね上がる。アリアはその想いを自覚し、逆に冷静になった。


「ああ、そう、なるほど……」

「なんだ、どうした」

「え? あ、そうね……えっ、と、これは、多分……」


 静かに黙考し、アリアはイドラの目を見た。彼に向き合わないのは不誠実な気がした。


「多分私、あなたのことが……好きなんだと思うわ」

「……は?」


 訝しむ声に苛立ちが募った。


「そんな怪訝そうな顔をしなくてもいいでしょう。私だって少し混乱してるわ、今までこんなこと……きゃあ!」


 いきなり彼に飛びつかれて危うく木から落ちそうになる。のしかかるようにアリアの体を捕まえた男の瞳が爛々と輝いていた。

 困惑したアリアの首の後ろを掴み、ぐっと引き寄せてくる。既視感と警鐘が同時に頭の中で響いたが、時すでに遅し。


 瞬く間に唇が重なった。

 信じられない心地で思わず目を見開く。アリアもよくは知らないが、こういうのはムードというものが大事なのではないのだろうか。何が悲しくて木の上で口付けをしているのだ。


 しかしそんな思考もすぐに溶けて消えた。初めて口付けした日と同じだ。何も考えられなくなり、思考回路が意味をなさなくなる。

 場所が場所だけに暴れると一大事なので抵抗もできなかった。結局抵抗など考えもしなかったのだが。

 しかし呼吸が出来ないのは今回も同じだった。命の危機を感じて反射的にぐいぐいと胸を押す。それが功を奏したのかは知らないが、比較的早めに彼の口は離れていった。


 涙の滲む瞳できっと睨む。


「あなた、こういうことをいきなりするのはやめなさい」

「なんだ、先触れがあればいいのか?」

「そういうことじゃなくて……どういうわけか分からないけれど、何も考えられなくなるから少し怖いわ」


 恥をしのんでそう告げると、イドラはきょとんとした。次いでにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。


「なるほど、お前はどうやら本当に俺のことが好きらしいな」

「は……?」


 どういう意味かと眉をひそめると、実に楽しそうに彼はくつくつと笑う。


「お前なら嫌いな相手に口付けされたら何がなんでも逃れようとするだろう。相手の舌を噛み切ることさえ厭わないと思うが、違うのか?」


 さらりと告げられたことを何度か頭の中で反芻し、アリアは瞠目して口を閉ざした。それは確かにその通りだ。自分がそんな状況で何もしないなどとは考えられない。

 と、いうことは……

 その向こうにある意味に気づき、アリアは愕然とした。赤くなるどころか逆に青くなった。


 信じられなかった。それはつまり、一度目に口付けをしたときから既にアリアはイドラのことが好きだったということだ。

 イドラは艶めいた顔でぐっともう一度顔を寄せてくる。その表情にもくらりとしてしまう自分を殴りたくなる。


「ふ……それならそうと早く言え」

「ちょっと待って、待ちなさい。勘違いかもしれないでしょう」

「ふうん? 勘違いだと?」


 地雷を踏んだ、と気づくのに時間はかからなかった。しなやかな指が鎖骨の間をとんと突く。


「お前、俺の執着心を舐めるなよ」

「え?」

「勘違いならそれでも構わん。溺れさせることくらいなら訳ないからな」

「は……?」


 目を白黒させるアリアに、イドラは実に楽しそうに笑っている。


「覚悟しろ、アリア。俺はお前の夫だ。お前を好きにする権利がある」

「ないわよ!」


 間髪入れず叫んだ瞬間、下から「あのー」という場違いな声が聞こえた。

 思わず二人揃って下を向くと、木の下から胡乱気な眼差しで見上げる男が一人。参謀のエドガーだ。


「そろそろいいですかね? もう大体のことは済みましたので、あとは帰るだけなんですが」

「お前……あと少しくらい待てなかったのか」

「もう充分待ちましたよ。ほら、既に全員降りてますし」


 彼が自分の後ろを指し示す。そこには、ローガンを筆頭にした私兵たちが苦笑しつつ立っていた。何故か紅花ホンファも混ざっている。彼女はイドラとよく似た表情でくつくつと笑う。


「青春だねえ」


 その瞬間、アリアは頭を抱えそうになった。自分たちのどこに青春要素があったか知らないが、この状況、頭が痛い。

 腹いせにアリアは勢いよくイドラの体をはね飛ばした。弾みで彼はすぐ上にあった枝に頭をぶつけていたが、構う余裕などない。


「っ、おい、アリア……」

「帰るわよ!」


 毅然と言い張るアリアを見て、イドラがにやりと笑う。耳をかすめるようにして、アリアにしか聞こえないくらいの小声で「覚悟していろ」と告げた。

 ぞわり、と腰の辺りまで痺れが走って、アリアは思わず飛びすさりそうになった。そんなアリアをくつくつと笑いながら抱えて、イドラは木から飛び降りる。


 小さくはない衝撃が抱えられているだけのアリアにも響いた。後で、きちんとイドラの手当てをしてやらなければ、と密かに思う。

 アリアは頭上を見上げた。夜はすっかり更けていて、もはや空は白み始めていた。


 ふと周りを見回して首をかしげる。どこか見覚えのある景色だ。

 今の今まで閉じ込められていた塔を見上げ、アリアは絶句した。それは国境付近にある砦だった。どうやらこの前イドラたちと向かった砦とは微妙に違うようだが、アリアの記憶が正しければここは国境付近ということになる。


 ぞっとしない話だ。どうやら、国を守るべき砦の中で、ガイアひきいる盗賊団は生活していたらしい。引き入れたのはフェルナンドだろう。

 そこまでして自分の地位を取り戻したかったのだろうか。


「悪かったね、アリア」


 ふと声がしたほうへ顔を向けると、紅花ホンファが寂しそうに微笑んでいた。


「隠し事をしていたこともそうだし……私の息子が、迷惑をかけた」

「……助けてくれたのも、お義母様の息子ですよ」


 紅花ホンファは目を見開いて、泣き笑いのような顔で笑った。


「……ありがとう、アリア」

「おいアリア、いつの間に母上ニャンをそんなふうに呼ぶようになった」

「あら、いけない? あなたの母親なのだからお義母様でしょう?」


 あっけらかんと告げられて、イドラは口を閉ざした。紅花ホンファも何故か困ったように微笑んでいる。

 どうやら二人の間にある壁はまだ少し高すぎるようだ。二人とも自分の願いに関しては貪欲なのに、変なところで不器用である。


 そういえば、とアリアは紅花ホンファのほうを向いた。既にイドラの手からは逃れ、地面にきちんと両足をついて立つ。


「どうしてお義母様がこちらに? 随分早くイドラが着いたと思っていましたが、それと関係がありますか?」

「アリアは話が早くて助かるね」


 紅花ホンファは微笑んで語り出す。


「そろそろ、潮時だと思っていたんだよ。元はと言えば私の旦那が発端だ。旦那はこういう責任ある仕事に向いてないんだよ」


 なにやら話が逸れているような気がしたが、アリアは黙って聞いていた。


「元々自分の好きなことをやっていたい性分なんだよ。イドラと同じさ。イドラと違うのは、変に人を気遣う余裕があったってことだろうね。だから不安定なまま伯爵なんてやってこれてしまったんだよ」


 彼女は柔く微笑む。


「だからね、まあ、そろそろ私が主導権を握ってもいいかと思っていたんだ……そうだね、具体的に言うと旦那の仕事を獲ることにしたんだよ」


 さらりと告げられた言葉に瞠目した。元々統治の能力が雀の涙なイドラならともかく、曲がりなりにも伯爵である当主の仕事を獲るというのは、下手すると内乱に繋がるのではないか。

 ぐるぐると考え、結局当たり障りない質問に落ち着く。


「大丈夫なのですか?」

「まあ、じわじわとやったからね。私はそういう戦法得意だから」

母上ニャンは忍耐強くてかなわんな」


 何かを察したらしいイドラがくっと笑う。


「まあね。だからフェルナンドがこの砦に度々来ていたことは知っていたんだよ。表向きはここに常駐してる私兵たちの様子を見るだとか……そんなに頻繁に同じ砦に行くのもおかしいだろうに、私の旦那はあっさり通してたね。やっぱり向いてないんだよねえ」


 紅花ホンファがちらりと後ろを向く。そこにはヴェルディ家の馬車があった。多分、フェルナンドが乗っているのだろう。


「あの子にも悪いことをしたよ。旦那の性分は分かっていたはずなのに、気づかないふりをして、自分の子を死なせてしまったことにばかり気を遣って……イドラが来てからはイドラにかかりきりで。フェルナンドやオルガランがああなるのも、仕方ない部分もあったんだよ」


 自嘲気味に呟く体が小さく見えた。


「お義母様だけが悪いわけではないですよ」


 アリアは咄嗟に呟いていた。


「子供を亡くした母親が悲しむのは当たり前です。そもそも不貞を働く男が一番悪いですし、フェルナンド様も、もう少しお義母様と話をするべきだったんです」


 あっさりヴェルディ伯爵をこき下ろしたアリアに、イドラが吹き出した。


「流石だな、俺の妻は」

「言っておくけれどあなたが不貞を働いたら地獄の果てまで追いかけて殺すわよ。今までは許容できると思っていたけれど、やっぱり無理だわ」


 ぎっ、と眦を釣り上げると、イドラはぽかんと口を開けた。


「お前…………抱いていいか?」

「なんでそうなるのよ!?」


 自分がいつの間にか告白じみたことを言っていたと気づかないアリアは、ざっと後ずさる。しかしがっちりと手を握られて動けなかった。


「安心しろ、お前以外の女など女に見えん。俺を昂らせるのはお前と戦いくらいだ」

「それもそれでどうなのよ……というかあなたやっぱり、やめてと言っても戦う気なのね」

「当たり前だろうが。俺から戦いを取ったら何が残る」


 少なくとも命は残る……と思いはしたが、アリアは嘆息してその言葉を飲み込んだ。何故だか、今はそこまでイドラが戦うことに恐怖を感じない。


「そうね……あなたは強いものね」


 アリアは人の強さを信じられなかった。人は皆弱いのだと思っていた。傲慢にも、その弱さを自分がなんとかしなければならないと思っていた。自分のような目に合う人をなくすために。

 今でもそれは変わらない。変わらないが、彼はその思いの奥にある小さなアリアに気づいたのだ。ならば、そんな彼を信じてみるのもいいのではないかと思った。

 ぱちりとイドラはまばたく。


「どういう心境の変化だ?」

「うるさいわね、言っておくけれど死んだら許さないわよ。その瞬間に私も死んで地獄の果てまで追いかけてもう一度殺すわ」

「……抱いていいか?」

「だから、なんでそうなるのよ!」


 突然弾けたような笑い声が響いた。二人は揃って紅花ホンファのほうを向く。彼女が豪快に笑っていた。

 彼女は目尻に浮かんだ涙をすくうように拭って謝る。


「はは……いや、すまない。私にもそんな時期があったものだと思ってね。やっぱり伯爵の妻とかになるとしがらみが多くてかなわない。戦いばっかしてた頃が懐かしいよ」

「何を言っている。今でも現役だろう。ここに来たときの俺が何年勝てなかったと思っている」


 アリアは瞠目した。イドラがここに来たばかりのころというと十五歳だか、その辺りだ。今十九であることを考えると、つい最近まで勝てなかったのではないか。


「お義母様は、やっぱりイドラのお母様なのね」

「………………そうだな」


 イドラはぽつりと言ってアリアの頭を撫でた。随分と遠慮のない手つきだったが、その荒々しい手にある温かさが、どこか心地良い。

 そのとき、黙って一部始終を見ていたエドガーが遠慮がちに手を上げた。おずおずと口を開く。



「……あのー、いい雰囲気のところ悪いんですが、そろそろ帰りませんと」

「お前は一度馬に蹴られろ、エドガー」

「いきなりなんですか!?」


 確かに恋人はいなさそうだとアリアも思った。いいところで余計な正論を言ってしまう性分なのだろう。


 唖然としているエドガーの肩をポンポンとローガンが叩く。「後で娼館行こうぜ」と親指を立てた彼はエドガーによってしたたかに頭をはたかれていた。

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