第17話(2019/2/16 改稿)
もしかしたら、彼は何よりも自分の父親を……現ヴェルディ伯爵家当主を恨んでいるのかもしれなかった。それほど彼の瞳の中の影は濃い。
「父上は母上を愛していた。今も、愛している。だが、父上とてヴェルディ家の人間だ。つまり、元来ほかの人間より我も欲求も強い。
かちり、と最後のピースが嵌った。彼の目は暗く澱んでいた。
アリアは視線をずらし、ぼんやりと考える。
世の中には色々な人がいて……様々な思いを抱えて生きている。そのどれもを予測することはできない。常識は所詮常識だ。
妻を愛しているから不貞を働くはずがないというのは一つの偏った考えにすぎなかったのだ。欲に負けてしまうことが、ヴェルディ伯爵の弱さであり、凶器だっただけだ。
アリアは数拍目を閉じて、開いた。
「ヴェルディ伯爵は……
「ああ、そうだ」
そうして生まれたのがイドラだったのだろう。
全てが腑に落ちた瞬間、虚しさがアリアの胸を穿った。
この話は、おそらくイドラの口から聞くべきことだったのだ。いつか、自分のことに恐ろしいほど頓着しないあの刹那的な彼が、自然と話してくれるのを待つべきだった。彼に、自分から話してもらいたかった。
それを不本意にも知ってしまったことが、少しばかり胸を痛ませた。隠しておきたがっていた秘密を無理やりこじ開けたような気分になりながら、それでもアリアは状況を打破するために問う。
「イドラがスラムで過ごしていたというのは……それも嘘なのですか?」
「いや、それは本当だ。あれの母親は娼婦だったらしくてな、八歳までは育てていたみたいだが、薬をやっていて……まあ、死んだわけだ。それから十五で母上に引き取られるまでは、ずっとスラム街にいたようだ」
妙に濁した言い方が少し引っかかったが、それ以上に薬という単語が強く響いた。
もしかしてイドラが薬物中毒者を酷く嫌っているのは、そういう理由もあったのだろうか。
アリアが考え込んだとき、憎々しげな声がその場に落ちる。
「信じられるか? 父上が母上を裏切った証がのうのうと生きて、あまつさえ次期当主につこうとしているんだぞ。そんなことが許されていいはずがない。母上を悲しませる象徴は、本来なら生きていることすら俺たちの慈悲によるものだというのに」
何かに取り憑かれたように彼は語る。しかしアリアの顔を見て、熱が入ってしまったことを恥じるように無理やり口角を上げた。口の端がひきつっていた。
「さあ、分かっただろうアリア嬢。イドラは罪の塊だ。今だってあの男は戦うこと以外に興味がない。自分が生きていることで母上を悲しませているなどとは思いもしていないのだ」
アリアはその勢いに面食らいつつも、フェルナンドの言葉に疑問を抱かざるを得なかった。
本当に、そうなのだろうか。
どうしてもそうは思えなかった。むしろ、あの夜彼女が「イドラから聞いてくれ」と言ったのは、つまりこのことではなかったのかと思う。彼女はアリアと同じように、イドラに自分から話してもらいたかったのではないかと、思う。
罪悪感のような思いが根底に渦巻いた顔をしていたような気さえする。
そもそも、本当にイドラを見て悲しむくらいなら引き取らなければ良かったのだ。引き取ったのは
あの夜、
しかし、だとしたら、とアリアは思う。
確かにフェルナンドは被害者だろう。イドラが来なければ次期当主は間違いなく彼だった。それを、父親の不貞の証拠である子供が横からかっさらっていくなど、笑って見送れというほうが無理な話だ。
だが、ならばイドラは加害者なのだろうか? 生まれただけで罪になる子供などどこにもいないというのに?
産みの母親に死なれ、スラムで毎日酷い生活を送り、引き取られた先では疎まれ蔑まれ、対等に扱ってくれたのが唯一血の繋がらない
そう考えたとき、急に胸が痛くなった。驚いて思わず胸元を見るが、特に異常はない。しかし、心臓が柔らかな針で刺されたように痛かった。
困惑するアリアの手をフェルナンドが掴む。はっとして顔を上げると、狂気を孕んだ瞳と視線がぶつかる。
「さあ、俺と一緒に来るんだ、アリア嬢。安心していい。最悪の場合は父上を脅すなりなんなり方法はある。オルガランもきっと協力してくれるだろうさ」
嘲るような口調は寂しさの裏返しだ。アリアは一瞬目を見張って、すぐに目尻に力を込めた。
何も迷うことなどない。アリアはアリアだ。自分がどこに立つのかは、自分で決めるべきだ。
緩く手を振り払って、アリアは威圧感のある眼差しをフェルナンドに向けた。
「申し訳ございませんが、フェルナンド様」
薙ぎ払うように声を轟かす。
「私は、死ぬまでイドラの妻です」
そう決めてここにやってきたのだ。彼が何者であろうとも、もう関係ないところまで来てしまった。イドラのことは、イドラという一個人としてしか、アリアの視界には映らなくなっている。
「彼がどこの誰の血を継いでいようと関係ありません。私はイドラの妻であると決めたのです。あの人はきっと……放っておいたら死んでしまう」
痛みも感じず、傷も驚くべき早さで治り、戦うこと以外に頓着しない。彼は必要となったら自分の命すら簡単に放り投げるかもしれない。
それは、ひどく恐ろしいことだ。
「そんなことは放っておけばいい。お前が責任を感じる必要はない」
「いいえ、フェルナンド様。私が嫌なのです」
責任だとか、調教だとか、更生だとか……もはやそういう理由は関係ないのだ。
そのとき、すとんと嵌るように気づいた。
「私はきっと、イドラが死ぬのが嫌なのです」
ぽつりとひとりごとのように呟いた言葉に、フェルナンドは驚いたのか唖然とした。アリアはくすりと笑って、それに、と付け足す。
「私があなたのほうへ行ってしまえば、それこそあなたのお父上がしたことと同じではないですか」
はっきりと放たれた言葉にフェルナンドの目が見開かれた。伸ばした手が空中で止まる。
ゆらりと床が揺れた気がした。微かな声が聞こえた。
そろそろだろうかと思ったとき、フェルナンドの目から光が消えた。
「お前は、まだ知らないだけだ」
その声は、地を這うくらいに低い。
ぞっとするほど暗い瞳だ。一瞬で、尋常ではないほど肌が粟だつ。咄嗟に何歩か後ずさったが、そんなことで消えるものではない。
「あれは……あれは罪の塊だ。お前が汚される必要はない……!」
慟哭に近い叫びに呼応するかのように、細かな揺れがその場を襲い、アリアだけではなくフェルナンドもバランスを崩した。アリアは床へとしゃがみこむ。
「何事だ!」
断続的に揺れが続く中、時々獣の咆哮のような音が混じる。
アリアは耳をすませた。これは人間の声だ。
「どうやらイドラが来たようだぞ」
楽しそうに笑ったのはガイアだった。今の今まで大人しくしていた彼の目には光が灯っている。
つくづくイドラに似ていると思ったとき、フェルナンドの焦った声が響いた。
「どうしてイドラがここに……っ!」
再び揺れる。馬が何頭も連なって走っていると明確に分かる揺れだった。
アリアはうっすらと微笑んだ。
「イドラは分かっているのでしょうね、あなたが私を攫ったということを」
「だとしても、なぜここが分かる……!」
「それは分かりませんが……おおかた
こんな議論は無意味だ。どうせ来てしまっているのだから、頭を切り替えるべきだろうに、彼にはそれが出来ないらしい。取り憑かれたようにぶつぶつと何事かを呟いている。
ガイアがぎらぎらと光る瞳で入り口をじっと見つめていた。その手にはいつの間にか得物が握られている。
「俺はここにいればいいんだろう? イドラのことだ、どうせ真っ先にここに来るだろうさ」
「随分自信があるのね」
「お前がここにいるならイドラは絶対に来る」
鼻を鳴らして断言する。奇妙なまでの自信だったが、なんとなく同意できてしまうところが怖い。
さて、とアリアは後ろをちらりと見た。今、アリアは三人の中で一番入り口から遠く、ガイアが一番近い。イドラが入ってくれば彼はガイアと戦うことになるだろう。
どうやって逃げようか……
いっそ窓から飛び降りるかと考えかけたとき、螺旋階段を駆け上がる音が聞こえてくる。咄嗟に入り口のほうを向いたアリアの手をフェルナンドが乱暴に掴んだ。
「お前はまだ、分かっていないんだ……!」
驚いている暇などなかった。引きずられるようにしてカーテンのそばへと連れてこられ、羽交い締めにされて無理やり入り口のほうへ向かされる。
焦りを感じつつも、アリアは極めて冷静に振舞った。
「こんなことをしても無駄でしょう。私と心中でもするおつもりですか?」
「心中? そんなわけないだろう……アリア嬢にはまだ知らないことがひとつある」
不意に、嫌な予感がした。フェルナンドは、彼は弱いが、弱いということは予想のつかない恐ろしさに繋がるということだ。窮鼠は時に猫を噛む。
足音が近づいてくる。フェルナンドはいっそ穏やかなほど柔らかく笑った。
「イドラの本当の母親は薬をやっていたが……実は死因は、薬ではない」
「え?」
いきなり飛来した話題に素っ頓狂な声がアリアの口から飛び出た。眉をひそめるのと、入り口に影がさすのは同時だった。
「おい、アリア!」
懐かしい声音が耳を打つ。怒りに満ちたトーンに、弁明するのが大変そうだと頭の冷静な部分が呟いた。
「待っていたぞ、イドラ!」
「ああ!?」
耳障りな金属音と共に刃が交わった。ガイアが楽しそうに剣を振るうのとは対称的にイドラはひどく不機嫌そうだ。その視線はアリアを絡めとるように光っている。
じっとその目を見つめ返したアリアに、イドラはふっと口元を歪めた。視線がアリアからほんの少しだけずれる。
「フェルナンド……お前、趣味が悪くなったものだな。不貞は死ぬほど嫌いなのだと思っていたが」
それを聞いたフェルナンドは意外にも静かだった。ただただ余裕そうに、嘲りの笑いを音高く響かせた。
「良いことを教えてやろう、アリア嬢」
嫌な予感が膨れ上がる。聞いては駄目だと警鐘が鳴ったが、それより一拍早くイドラに対して質問が飛んだ。いや、それは確認の言葉とほぼ同義だった。
「なあ、イドラ、お前……母親を殺したんだったよな?」
びたり、と空気が止まった。
しまったとアリアは思う。イドラはアリアを見ていた。驚いて咄嗟に目を見張ったアリアの表情を、焼き付けるかのごとくに凝視していたのだ。
「ぐっ!」
ぎいんっ! という音が響き、ガイアが剣を取り落とす。イドラは今までとは比べ物にならないくらいに荒い息をついて、うねる刀身をガイアに向けた。感情を壊したように澱んだ瞳がガイアを見下ろす。
アリアはたまらず叫んだ。
「イドラ、殺しては駄目!」
びたっと刃が止まる。彼は苛立たしげにガイアを見下ろすと、矛の柄で彼のこめかみを打ち据えた。次いでものすごい速さで腹筋部分に足蹴りをくり出す。あっけなくガイアは倒れた。
思わずイドラに駆け寄ろうとしたアリアは首に鋭く光る刃があることに気がついた。足を止め、静かに真上を睨みあげる。
「趣味が悪いのですね、あなたは」
「そんなことは初めて言われたな」
どたどたとイドラの後ろから足音が近づいてきた。
「ちょ、
「うわ、アリア様!?」
ローガンとレオの姿が見えて少しほっとした。どうやら五体満足なようで何よりである。
しかし、状況は一転して悪くなっていた。
イドラの目はひどく恐ろしいものに変貌していた。海の底よりなお深い闇がある。ここまで感情を顕にした彼を、アリアは見たことがない。
なんとかしなければならないと思ってはいたが、首と刃物の間には指一本分ほどの隙間しかないのだ。フェルナンドもなりふり構ってはいられないらしい。
「なあ、イドラ……」
裏声混じりの高い声が
「お前、女には困らないだろう? アリア嬢一人くらい、俺にくれてもいいと思わないか?」
全くもって非人道的な言葉を平然と投げかける。アリアは顔をしかめた。
イドラがぽつりと告げた。
「……どこまで話した」
地の底から響いて来るような声だ。思わず身震いしそうになるのをなんとかこらえた。フェルナンドが愉悦と嘲りの混じった気味の悪い笑い声を零した。
「全部に決まってるだろう? この親殺しめ」
「……殺す」
フェルナンドはけらけらと笑う。アリアは困惑した。もう後ろにいる男のことなどどうでもよかった。どうしてイドラがそこまで恐怖しているのか分からない。彼の一挙一投は何かを恐れている。
母親を殺したことをアリアに知られたくなかったのだろうか。それは誰もが持つ感情で、しかしイドラには似合わない感情であるようにも思う。
獣の目をしていた。手負いの獣にも似た、
しかし、その思考を耳障りな音が引っ掻き回す。
「お前がいるから母上はずっと苦しいままだ! 実の母親を殺しておきながらのうのうと生きていることすら罪だろうに、次期当主にまでなりたいのか、この恩知らずめ! スラムの孤児と同じように、さっさと野垂れ死んでおけばよかったんだ!」
その言葉に、アリアの頭の中で何かが切れた。
後先などまるで考えていなかった。指一本分は空いていた隙間を助走代わりに限界まで狭め、思いっきり頭を振り、後方に向かって叩きつける。石頭ががつんと顎に当たる感覚がした。
「がっ……!?」
意味不明だろう。それはそうだ。一瞬前まで、アリアもそんなことをしようなどとは思っていなかったのだから。しかし、体が勝手に動いてしまったのだからしょうがない。
運良くナイフが首から離れ、同時にイドラが一瞬で距離を詰めてきた。ぐいっと力強く腕を引かれて抱き寄せられる。その暖かさがひどく懐かしい。
「イド……」
しかし、彼の腕は驚くほどあっさりと離れていった。唖然としたアリアをよそに、イドラは痛みに悶絶しているフェルナンドを静かに見下ろす位置に立つ。
その瞳に光はない。
「駄目よ、イドラ!」
鋭い一声を飛ばすも、イドラはうっすらと微笑むのみだった。
「……いい子にしていろ、アリア」
そう言って、波打つ矛を構える。レオが息を呑む声が聞こえた。
アリアは総毛立っていた。咄嗟にぐるりと辺りを見回し、ベルベットのカーテンに目を止めた。
はっとして一目散に駆け出す。イドラたちの横をすり抜け、カーテンを引き開けた。
思わず笑みが零れた。そこには窓などという大層なものはない。ただ夜明けを待つ景色だけが広がっている。
アリアは身を乗り出すようにして自分の居場所を確認した。おそらく目算で三階ほどの高さにこの部屋は位置している。意外と低い。おまけに下には木があるではないか。
「イドラ!」
声の限りに叫ぶと、彼はのろのろと顔を上げた。そして、アリアを見とがめて目を見開く。レオやらローガンやらが何か叫んでいたが、気にしてはいられない。
彼に、人を殺させるわけにはいかないのだ。ましてや兄を殺した日にはどうなってしまうのか検討もつかない。
アリアは笑った。大丈夫、死ぬことはない。
「アリア!」
彼が駆け出すのが見えた。伸ばした手が触れるか触れないかの位置で、アリアは後ろ向きに窓から落ちた。
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