第16話
入り口に立つフェルナンドは目の前に舞うかすかな埃に顔をしかめた。
「相変わらず手入れがなっていないな……埃臭くてかなわない」
その埃臭い部屋にアリアを閉じ込めていることは棚上げだった。まあ、アリアは特に気にしてはいないが。
おそらくここはどこか高い場所にある部屋なのではないかとアリアは思っていた。少なくとも階数で言えば三階以上の高さだろう。
というのも、あの軽薄男が降りていくときも、フェルナンドが上がってくるときも足音がしていたが、随分と反響していた。螺旋階段だと分かりにくいが、あれほど反響するとなるとおそらく一階二階の高さではない。
アリアはちらりと後ろを見た。カーテンを開けさえすればどれほどの高さか分かるのだが……
「さて、早速だが本題と行くか」
声が近づいていた。何事もなかったかのように視線を戻し、アリアはフェルナンドを見た。尊大に立つ男は優雅に微笑んでいる。
その視線に下卑たものが混じっていることに気がついたが、どうにか顔をしかめないようにこらえる。多分本人も無意識だ。無意識が一番タチが悪いが。
「すまないなアリア嬢、こんなところに閉じ込められて不自由していることだろう?」
「ええ、そうですね」
間髪入れずに答える。彼は笑みを深めた。
「ならば話は早い。俺の要求をひとつ呑んでさえもらえれば、すぐにこんな場所からは出してやろう」
「要求、ですか」
「なに、簡単なことだ。手続きは全てこちらで行うし、何も心配しなくともいい。お前は、ただひとつ頷くだけでいい」
アリアはげんなりしつつ答える。
「大方予想はついていますが……どのような要求でしょうか」
「流石だな。では単刀直入に言おう。イドラと離縁し、俺と結婚しろ」
目眩のする気分だった。その不躾な要求にではない。あまりにも予想していたものと寸分違わぬ状況と、それを悟らせることになんの躊躇もない彼にだ。
正直、ここまで察しやすい要求もあったものではない。今までのフェルナンドの態度と現在のヴェルディ家の力関係を考えれば容易に予想がつく。
そしてフェルナンドがそれほどまでに愚鈍だとは思えないアリアとしては、理解できない危機感が募るばかりだ。
「その要求を、私が呑むとでも思っているのでしょうか?」
半ば呆れた声をどう解釈したのか、自信に満ちた表情で彼は告げた。
「心配するな。父上となら話はすぐに付けられる。イドラのようなただの戦闘狂にアリア嬢のような聡明な令嬢は似合わない。前から言っているだろう? 俺といたほうがいいと。次期当主の妻の座だ、悪いものではないはずだ」
アリアはため息をついた。何も分かっていないのか、まだ何か考えがあるのか……
「失礼ですが、その意見には間違いが二つほどあります」
「何?」
怪訝そうな顔に再びため息をつく。本当に気づいていないのだろうか。前々から思っていたが、何故かアリアの意見は無視されることが多い。無視というか、良いように解釈される。
「まず失礼ながら申し上げますが、おそらく次期当主はイドラでしょう。ヴェルディ家は実力主義。戦闘においてはあなたよりイドラに軍配が上がる。加えて私がいれば、おそらく統治の問題も解決することでしょうしね」
フェルナンドの顔から笑みが消えた。アリアは構わず続ける。
「そして二つ目です。そこの……盗賊団の首領の方にも言いましたが」
「ガイアだ」
「……ガイアにも言いましたが、私は今更イドラの妻でなくなる気はありません。あと別に次期当主の妻とかどうでもいいです。正直全く興味がありません」
予想外の言葉だったのだろう。フェルナンドは大きく目を見開いた。
「なんだと? そんなことがあるはずないだろう」
「いえ、そんなことを言われましても。なぜそう断言出来るのか不思議でなりませんが……」
アリアは眉をひそめた。アリアの意思はアリアのものだ。
「幸い私の家は裕福です。正直お兄様たちならともかく、私一人なら結婚しなくとも十分生きていけます」
最近は社会進出する女性も増えてきていると聞く。そもそもアリアは元々嫁ぐ気などなかったし、貴族の中でのし上がりたいとも思わない。
「今更権力など求めていません」
きっぱりと告げたアリアの言葉が余程衝撃的だったのか、フェルナンドは愕然とした顔でアリアを凝視する。しかしすぐにふっと余裕のある笑みを取り戻した。
「お前がとても強い女性だということは知っている」
いきなりなんだと眉をひそめたアリアに向かって、彼は得意げにこう切り出した。
「だが、それでもあの汚れた血にお前が呑まれるのを見過ごすわけにはいかない。次期当主としてな」
この人も自分の言っていることに酔うタイプなのだろうかと思って気だるげに視線を上げ、アリアはぴたりと思考を止めた。
狂気を感じる瞳がぎらぎらと光ってアリアを見据えていた。思わず一歩後ろに下がる。
ぞわりと腕に鳥肌が立った。得体の知れない不気味さが浮き上がるような気がして咄嗟に腕をさすった。
意味不明だ。アリアが彼になびくと本気で思っているのだろうか。しかし彼の自信は何か決定的なものに裏打ちされているような気がした。
警戒心をもって問いかける。
「どういう意味でしょうか」
哀れみと愉悦の混じった表情で彼は口を開く。
「お前も哀れだな」
「は……?」
「お前はイドラの出自を知っているか?」
出自……?
唐突な方向転換に首を傾げた。
「『取り替え子』だったということなら知っています」
彼はアリアの答えににやりと笑った。そろそろ癪に障ってきた。
「それだけでは十分な情報とは言えない。まあ仕方がないか、ヴェルディ家の汚点だからな」
「……汚点?」
違和感が増した。この家は……ヴェルディ家は、何かをアリアに隠している?
不意に
アリアはぐっと背筋を伸ばした。凛とした雰囲気にフェルナンドの眉がぴくりと動く。
「なんのことかは分かりませんが……イドラも
アリアの声は不思議なほどに強く響いた。フェルナンドは一瞬怯んだように息を呑む。
「……さすが、私の妻になるべき淑女だな」
そこは全力で否定したかったがぐっとこらえる。ここまで人の神経を逆なでできるのはもはや才能だと思う。
「だが、これは聞いてもらわなくてはならない。俺の妻になるためにもな」
あなたの妻になるつもりは来世でもありませんけどと言いそうになり、アリアはぐっと唇を噛み締めた。
彼はにやりと笑って語り始めた。
「俺の母上が異国の出身だということは知っているだろう? 会ったことはないだろうが、母上はイドラととても似た髪と目の色をしている」
「ええ、そうですね」
「だがな、母上の出身地ではそれほど珍しくない色なんだよ、あれは」
「? まあ、そうでしょうね」
この国には比較的様々な髪色、虹彩色の人間がいるが、
そこでふと、違和感がアリアの中に落ちた。何か嫌な予感がじわりと広がったとき、急にフェルナンドがずいっと身を乗り出した。その目はぎらぎらと光っている。
「つまり……母上の国から子供を無作為に選べば、比較的高い確率でイドラのような目と髪の色の子供が出てくるわけだ」
「……まさか」
アリアは馬鹿ではない。凝った空気に呼応するかのように泡立つ肌が何かを訴えているのを感じていた。
懸命に頭を動かし、フェルナンドが言わんとするところを口にする。
「まさか……取り替え子だというのは嘘なのですか?」
「まあ、一歩事実に近づいたな」
まるで自分が教師であるかのような物言いに呆れそうになったが、それより重大なことにアリアは頭を回した。イドラはなんらかの理由で適当に選ばれた子供だったのだろうか。つまり、イドラはヴェルディ家の血を引いていない?
フェルナンドは癪に障る笑みをおさめ、どこか悼むような眼差しでアリアを見た。
「俺の本当の弟はな、アリア嬢……死んでいるんだよ。死産だったんだ」
「……つまり、
しかし、言った直後にそれはないなとアリアは思い直した。
あの高潔な人が、我が子を亡くしたからといってそこまで錯乱するとは考えられない。子供を宿しにくい体質ならともかく、当時はもう二人も息子を産んでいる。
そして何より、イドラの性質が全てを物語っている。貴族や権力に固執しないアリアとて、父からの教えは心に留めているのだ。
いわく、ヴェルディ家にはときたま戦いに取り憑かれた者が生まれる、ということ。
イドラが持つ戦いへの異様な執着心。あれはどう考えてもヴェルディ家のものだ。足掻いても逃れられない血の執着だ。
イドラはヴェルディ家の血を引いている。それは確かな事実だ。
表情から少しはアリアの考えていることを感じとったのか、賞賛するようにフェルナンドは手を数回叩く。
「お前はやはり聡明だ。そう、母上の子供は死んだ。だがしかし、イドラは何処の馬の骨とも知れない者ではない。腹立たしいことにな」
吐き捨てるように言う。
歪んだ笑みで彼は嘲った。
「もうひとつ手がかりをやろう。父上は母上が子を生むとき、必ず母上を母国に帰らせていた。そして自身もそれに付き添っていたんだ。子供を生む不安を和らげるためらしい。本当に溺愛しているよな」
その言葉にはともすると、イドラへの憎しみより強い思いがこめられているようにアリアは思った。
「まさか……」
ありえない想像が膨らむ。しかしそうだとすると、かちりかちりとピースが嵌っていくのだ。
最後の、どうしても嵌らないひとつのピースを除いて、その仮説は明らかに真実に近かった。
「まさか……あなたの父は……ヴェルディ伯爵は……
考えたくない可能性だった。思わず顔が青ざめる。まさか。
しかし、イドラはどう考えてもヴェルディ家の血を継ぐ者だ。それが
そうだ、とフェルナンドの笑みが歪んだ。
「父上は……父である前に、母上の夫である前に、一人の男だった。愛情と不貞は両立するわけだ」
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