第15話



「……ほう?」


 明らかに五度は下がったと思われる空気の中、アリアの趣味で用意されたカーペットが血に染まらないか、そこにいる全員が危惧していた。


 ベッドの上で胡座をかきつつ、凍るような視線を下方に向けているのはイドラ・ヴェルディだ。一に暴力二に暴力の男は悠然と問いかける。


「よりにもよって俺がついていないときに……目を離した隙に攫われ、追跡も不可能だったと?」

「すまん、頭! 罰は全部俺が受けるから!」


 ごっ! という音を響かせて平伏し、どうにか怒りを鎮めようと努力しているのはローガンだった。隣ではレオがかわいそうなくらいに震えている。

 犯罪といえばスリくらいしかやってこなかった少年に、イドラの本気の怒りは同情ものだ。倒れていないだけまだ強いと言えよう。


「言い訳になっちまうけど、まさか辻馬車まで用意するとは……レオから聞いたけど、あれって王都でよく使われてる辻馬車らしいぜ。道理ですんなりお嬢がついていったわけだ」

「何?」


 どうしてそんなことを知っている、とでも言いたげにイドラはレオを見た。彼は真っ青どころか真っ白になった顔でびくりと震えたが、なんとか口を開く。


「お、俺、昔、下働きっていうか、奴隷みたいな仕事、してて……そ、そのとき仕えてた家の人がよく、王都の辻馬車についてる模様は趣味がいいって話、してたんだ。蔓草模様の……」


 イドラはそれを聞くなり、小さく舌打ちをして頭をぐしゃりとかき回した。レオはまたしても体を震わせたが、イドラは既に少年のことなど眼中になかった。

 頬杖をつき、不意にあらぬ方向へ視線をやる。目を据わらせて底冷えのする声で呟いた。


「……覚えてろと、言ったぞ、俺は」


 その言葉が誰に向けられたものなのかは明白だった。そこにいる部下たちは息をひそめて見守っている。彼はいたずらに部下を傷つけるようなやからではないが、そのぶん機嫌を損ねるとどうなるか分からない危うさがあった。

 ざっと立ち上がったイドラは手に持っていた上着を見つめる。イドラのもので、前線に出たときアリアに被せたものだ。


 イドラの口元に嗜虐的な笑みが浮かんだ。


「行くぞ」

「へ?」


 ごく軽く投げかけられた言葉にローガンがぽかんとする。イドラは呆れたように目を細めた。


「何を呆けている。俺は無能はいらんぞ。謝罪だの罰だのと騒いでいる暇があったらアリアを取り戻す策でも立ててみろ。思考を停止するな」


 幾分か高揚した声が部屋の中に落ちた。


「心配するな。あの女がそう簡単に死ぬと思うか? どうせ今頃は誘拐犯に説教でもしてるだろうよ」


 くつくつと笑う姿は実に楽しそうだった。目が爛々と輝いている。


 拍子抜けした様子で部下たちは顔を見合わせる。怖いもの知らずのローガンが口を開いた。


「もしかして頭、お嬢の居場所分かってんじゃねえ?」

「いや? そんなことはない。が、まあ誘拐したのは十中八九フェルナンドだろうな」

「え!?」


 今度はレオが声を上げた。純粋な瞳は信じられないと語っている。


「だって、フェルナンド様って……イドラ様のお兄様なんじゃ……」

「兄だから俺が邪魔なんだろう。この家は跡継ぎの優先基準がいささかおかしい。このままだと十中八九俺が次期当主だろうからな」


 実力が十分なイドラに聡明で世話焼きのアリアが加われば、懸念があった統治の問題も無くなる。まさか戦闘狂バーサーカーと名高いイドラにここまで有能な嫁が来るとはフェルナンドも思っていなかったに違いない。


「まあ、兄上が次期当主の座を狙っているのは別に構わん。俺はそんなものに興味はないからな。だが、アリアに手を出したとなると話は別だ」


 ばさりと闇色の上着が翻る。その目は一切笑っていないのに、口元だけが三日月の如く弧を描いている。


「人妻に手を出したのなら、それ相応の覚悟を持ってもらわなくてはな」

「それでこそあたしの息子だねえ」


 出し抜けに混ざったハスキーボイスにその場の全員の視線が集まった。

 いつの間にやってきたのか、部屋の入り口にもたれかかるようにして紅花ホンファが立っていた。背に薙刀のような武器を背負って立つ姿は壮麗な騎士を思わせる。


 彼女はひとつ苦笑し、黒曜石のような瞳をわずかに曇らせた。


「悪いね、イドラ。どうやらあの子がやらかしたようで」

「……それほど答えにくい言い分もないだろうよ、母上ニャン


 勢いを削がれたようにイドラが答える。後ろでエドガーがさっと立ち上がった。


「いけません、奥様」

「おや、私はまだ何も言っていないよ」

「いいえ分かります。イドラ様の奥様もそうですが、あなたがたはどうしてそう戦場へ行こうとするのですか」

「そりゃあ、事を起こしているのが私の息子で、被害に遭っているのが私の娘だからだよ」


 あっさり答えられ、エドガーはやや驚いて目を見張った。


「奥様、もしかしてアリア様に会われたのですか?」

「何?」


 イドラが眉を寄せる。紅花ホンファは悪びれることもなく肩を竦めた。


「なんだい、姑が嫁に会ったら駄目なのかい?」

「いや、そもそもアリアは四六時中俺といたはずだが……待て。まさか昨日のか?」

「はは、女をいつまでも自分の好み通りに飼いならせると思わないほうがいいよ、イドラ」


 イドラを前にして臆さず、眉をしかめもしない人間を前に、レオや若い私兵たちは混乱した。古参の私兵たちがやれやれとため息をつく。

 紅花ホンファは抜け目なく微笑んだ。


「それで? どうにかする手立てはあるのかい、イドラ。まさか無鉄砲に飛び出すつもりなんじゃないだろうね?」

「フェルナンドが行ける場所などたかがしれているだろう。そう遠くには行っていないはずだ」


 よく似た笑みを刻む二人を見て、エドガーが待ったをかける。


「いやちょっと待ってください奥様、どうして会話に参加しているんですか。言っているでしょう、危ないんです! 本当はイドラ様のことだって押さえ込みたいくらいなんですよ!」


 悲痛な声は快活な笑い声にかき消された。


「そりゃ無理ってものだよエドガー。執着具合で分かるだろう? イドラの嫁御はあの子しかいない。ヴェルディ家の人間は自分のものを盗られることが我慢ならないのさ。奪った側がたとえ身内でも……いや、身内だからこそかね、許せないものだよ」

「奥様が行く必要はないではないですか!」

「いいや、私も行くよ。息子の不始末は親の責任だ。一発くらいは入れておかないとね」


 誰の意見も通さない、盾のような硬さがそこにはあった。エドガーは自分の分の悪さを悟って眉を下げた。参謀の名が泣いている。

 言葉で言いくるめても、本能で動くのが紅花ホンファという人間だ。だからといって知性無き獣ではない彼女は、自分が男とも十分に渡り合える強さを持っていることを知っていて言っているのだろう。

 そしてそれ以上に、ヴェルディ家の不祥事はヴェルディ家が収めるしかないことも、参謀である彼には分かっていた。


 苦労性の彼は眉間を揉んで唸る。


「……ではせめて、自分の身を第一に考えてください。誘拐犯が人を殺さないとは限らない。フェルナンド様が本当に主犯だとすれば、誰か用心棒を雇っていることでしょう」

「ああ、分かっているよ」


 流石になんの策もなくアリアを攫ったわけではないことは明白だった。フェルナンドは愚かではない。

 ぐるりと部屋を見渡し、反論の声が上がらないのを見て紅花ホンファは満足げに頷く。抜き身の剣のような鋭い瞳がにやりと細まった。


「嫁御を迎えに行く準備をすることだね、イドラ。なに、私に心当たりがある」

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