潮騒の檻

せてぃ

潮騒の檻

 人を殺すには、どうしたらいいだろう。


 この頃ぼくは、そんなことばかり考えている。


 午後の教室では、誰も本当に必要かどうかわからない授業を受けたり、受けさせたりしていた。先生はどこかそわそわしていて、何度も腕時計を見ていた。今日はこの後、予定が入っているのだろうか。どんな予定だろう。仲間と飲みに行くのか。それともデートだろうか。少なくとも、いまやっていることよりは、彼にとって重要なことなのだろう。


 窓の外に目を向ける。三階の窓から見下ろす町の景色は、眩しかった。この町は眩しい。必要以上に。太陽の光を集め、乱反射させる広大なものがあるせいだ。この町はそれに閉じ込められている。この町にはそれしかなくて、それのせいで景色はいつも白っぽく、眩しい。


 光の中を、三角形の物体が、ゆっくり右から左へと滑って行く。漁船だろう。その光景は、まるで小学生の頃に見た影絵の劇のように見える。黒い影が、光のスクリーンの中を、ゆっくりゆっくり進んで行く。と、その三角形を追い越すように、今度は長方形の箱のような物体が、同じ方向から移動して来た。動きは三角形より遥かに速い。あっという間に追い越すと、町並みの黒い影の中に消えて行った。


 あれに乗って、父さんも消えたのだ。あっという間に。


 チャイムが鳴った。


 教壇に目をやると、しきりに時間を気にしていた先生の姿は、もうなかった。





 学校の正門から、まっすぐに伸びた坂道を下って行く。坂道の先には、あの広大な光を放つスクリーンがある。午後の陽の光を集めて輝く海。ぼくは目を細め、それでもその海の傍へ向かって歩いていた。


 あの日から、ぼくが安心して過ごせる場所は海の傍だけになった。すべてが変わってしまったあの日から、変わってしまった母さんの傍にいることは出来ず、ぼくはそこから逃げ出した。


 坂を半ばほど下ったところで、突然甲高い、鐘を打ち鳴らすような音が規則的に鳴り響き始めた。眩しさに細めた目を道の先に向けると、黄色と黒の縞模様に塗られた棒が下がり、行く手を遮る様が見えた。


 棒の内側を、電車が通過して行く。たった一両しかない電車。この町と遠くの街を繋ぐ、外の世界への道を象徴した乗り物。


 父さんが、あの一両だけの電車に乗り、この町から消えたのは、去年の事だ。どこかに母さん以外に親しい女性がいて、父さんはその人との生活を選んで、この町から出て行った。母さんとぼくを、この眩しすぎる、海に閉ざされた町に置き去りにして、出て行ってしまった。


 それから、母さんは変わった。ぼくをひどく殴るようになった。ぼくはもう中学生で、身体も大きいから、母さんの力では痛くもなかったけど、殴られているところよりも、胸や、頭の奥の方が、つん、と痛んだ。


 母さんは、ぼくを殴る時に言うのだ。


 あなたはあの人に似ている。似ている。似ている。


 父さんがいた頃には、この町で一番若くて、綺麗な母親と言われていた容姿は見る影もなくなり、そんな母さんの姿を見た人たちの噂は、狭く閉ざされた町の中で瞬く間に広がっていった。噂には、尾ひれも背びれも胸びれも付いていて、それがまた母さんを苦しめた。苦しめた分だけ、ぼくが殴られた。


 ぼくが父さんに似ているのが気に入らないのだ。そりゃあそうだろう。ぼくが同じ立場でも、そうする。そうしてしまう。自分を捨てた人間にそっくりの、無防備な子供がいるのだ。手を上げない自信はない。


 だから、ぼくは母さんの行動を許していた。恨んでもいなかった。仕方のないことだと思っていた。恨んでいたのは父さんのことだ。でも、それでも、暴力を受け続けることは、疎ましく感じていた。ぼくは悪くないからだ。何もしていないからだ。悪いのは全部、父さんなのに。そう考えると、やはり耐え切れないものがあった。


 一両だけの電車は、あっという間に去って行った。本当に、あっという間だった。こんなに速ければ、父さんはぼくや母さんに対する感情を、何も抱かずに行ってしまったに違いない。電車を間近に見ると、いつもそう考えてしまう。だから去って行った電車の姿を見ないように、遮断機を足早にくぐった。


 坂を降り切り、海岸線に出ると、突然、潮の匂いが強くなった。光は一層強く、ぼくの目を射抜き、ほとんど目を開けていられないほどだった。海岸線には防波堤が続いていて、その防波堤に沿って歩いた先に、ぼくの居場所があった。


 その場所から見える海だけは、なぜか少し、違って見えた。広いのだ。閉じ込められている気がしない。ぼくにとって海は、この町を、この町にいる人たちを、生き物すべてを、閉じ込めているものだった。空の光を引き写し、時に青く、時に鉛色に、時に眩しく染め上げて、ここに閉じ込めている。誰もがここから出て行こうとは考えないし、誰もここへ入って来ようとしない。そういう狭い狭い町を作り上げているもの。それがぼくの生まれたこの町の海なんだと、ずっと思ってきた。


 でも、その場所を見つけた時、そこから海を見た時、何かが違って見えた。広かった。ただ、どこまでも続いているのだと、初めて思った。何かを閉じ込める意図はないし、何も入ってこないようにしているつもりもない。そこから見る海は、どこまでも広く、大らかで、優しかった。


 たった一人で逃げ込んだ場所。


 たった一人で避難する場所。


 遠く、どこか遠くに思いを馳せることで、自分を保っていられる場所。


 そこはそんな場所だった。


 それがほんの少し前から、二人になった。


『黒猫』は今日も、あの場所で待っている。





『黒猫』に初めて会ったのは、今から一カ月ぐらい前。そろそろ冬を感じられるようになった頃だ。


 その日、ぼくは今年初めてマフラーを出した。学生服に白と黒の縞模様をした、分厚いマフラーを巻いて、放課後、あの場所を目指した。顔の半分をマフラーにうずめて歩いた。空は低く、重い雲でどんよりと覆われていて、海から吹きつける風は冷たかった。冬の訪れを告げる潮風は、あっという間にぼくの体温を奪って行った。


 だから初めて『黒猫』を見た時は、まずその姿に驚いた。


 いつもの場所に辿り着くと、ぼくはすぐ『黒猫』の存在に気付いた。足を海の側へ投げ出すようにして防波堤の上に座り、彼女は海のずっと向こうを見ていた。その格好は、ぼくと同じ中学のセーラー服姿だったけど、それ以外の防寒着をまったく身に着けていなかった。コートも、マフラーも、手袋も、恰好を問わなければ、スカートの下にジャージを穿いている女子だって、学校にはいた。なのに彼女は、そういったものをまったく身に着けていなかった。まるで夏の海辺にいるかのように、防波堤から伸ばした足をぶらぶらとさせて、ずっとずっと遠く、水平線の彼方を見ていた。


 何となく、黒猫みたいだな、と思った。艶のある長い黒髪を海風に靡かせ、切れ長な目と鼻筋の通った白い横顔が、何となく、すごくプライドの高い黒猫のように見えたのだ。


 これまで何度もここへ来ていたけど、彼女を見るのは初めてだった。学校でも会ったことがない。もしかしたら同じ学年ではないのかもしれない。そこまで考えて、いや、そんなことはどうでもいいんだ、と訴える自分の声に気付いた。問題は、彼女がここにいることだった。


 そこは、ぼくの場所なんだ。そう言いかけて、いや、と思った。ぼくの場所、というのは、何か変だ。誰の場所でもないでしょう? 黒猫の横顔が、そう返してきそうな気がしてならなかった。初めて見た人なのに、なぜか彼女がどんな風に考え、話すのかがわかる気がした。


「何か用なの?」


 急に声がしたので、一体誰がそう言ったのかわからなかった。数秒置いて、目の前に座った彼女が、視線を遠くに据えたままで言ったのだとわかった。


「あ、いや、あの……」

「あたし以外に、ここから海を見るのが好きなやつがいるとは思わなかった」


 そこで彼女は初めてぼくの方を向いた。潮風に髪が揺れ、鉛色の空の下なのに、夕日の中にいるように輝いて見えた。


「海を見に来たんじゃないの? ここから」


 ずばり言い当てられて、ぼくが言葉を探して、しどろもどろしている間に、彼女は足を防波堤の内側に戻すと、ぼくの立っている歩道にぴょん、と飛び降りた。音もなく降り立つ姿は、本当に気高く、品のいい黒猫のようだった。


 セーラー服のスカートが、揺れていた。


「あ、ええと、なんで」


 そうなんだ、と言おうとしたつもりだったのに、違う言葉が出て驚いた。なんでぼくがここへ海を見に来たのがわかったのか。それを彼女に訊いていた。でも言ってすぐに、バカな質問だな、と思った。ここは道の行き止まりで、防波堤とその向こうの海以外には、何もない。海を見に来るぐらいしかないじゃないか。彼女が想像できて当たり前だ。バカな質問をした自分が恥ずかしくなって、ぼくは下を向いた。


「何となく、ね」


 でも、ほとんど間を置かずに返ってきた声に、顔をすぐ上げることになった。雪のように白い頬に、黒い髪が纏わりついていた。それを細い指でかき上げて押さえた彼女は、やはり猫を思わせる切れ長な目を、笑みの形に変えた。


「あなた、似てる気がしたの。あたしと」





『黒猫』は、よく話した。最初の印象と少し違ったので、初めのうちは圧倒された。けど、それもすぐ気にならなくなった。というより、ぼくには彼女の気持ちがよくわかった。なぜこんなに話さなければいけないのか、その気持ちが、痛みとなって伝わった。本当に、ぼくらは似ていた。


 ぼくらは、二人並んで防波堤に上がり、足を海の側に投げ出して座った。足をぶらぶらやりながら、水平線の彼方を見据えて、話し続けた。


 彼女はやはりぼくと同じ中学校の生徒だった。それもぼくと同じ学年で、すぐ隣の教室にいるらしい。親はこの町の小さな商店街で、定食屋をやっている。言われて、ああ、と思い出せる程度しか店のない町だ。ぼくにもその場所はすぐに思い浮かべることができた。


「あそこはお母さんの実家なの。あたし、生まれは結構都会なのよ。でもお父さんがね」


 彼女の父は、仕事に忙しく飛び回るサラリーマンで、とてもよく働く人物だった。しかし、一歩家に入ると、ひどく暴力を振るう人だったのだ、という。怒鳴り声が響く家で、母はいつも顔を腫らして泣いていて、彼女自身も、それを見ながら怯えて暮らしていた。父親は彼女にも手を上げようとし、その度、母親は彼女を必死で庇い、いつも泣いていた。


「それでついに耐え切れなくなったお母さんがね、五年前にあたしを連れて逃げ出したの。どこにも行く当てがなくて、結局生まれたこの町に逃げ帰って来た。絶対に帰るもんか、って思っていた場所だったらしいけど、結局最後の最後に頼れる場所がここしかなかったなんて、皮肉というか……」


 声が止まったので、ちらりと横を見ると、彼女は何かを考えるように水平線の彼方の、さらに遠くを見るような目をしていた。


「滑稽よね。そう、滑稽。滑稽っていうのよ。最近知った言葉なの」


 ぼくが見ていることに気づいていたのか、突然ぼくの方を見て彼女は言った。一瞬目が合った。ぼくは慌てて顔を海に戻した。


「……でも本当に滑稽なのはそんなことじゃなくて、あたしのお母さんなんだけどね」


 少し間があった。波が打ち寄せて、彼女は続けた。


「最近になって、再婚するとか言い出してさ。今度の相手はいい相手なんだって。あなたにも父親は必要だから、とかなんだとか言って、毎日、会ってくれ、会ってくれ、ってうるさいのよ」


 波が起こす風の間に、彼女の吐息が聞こえた。


「前にあんな嫌な思いをしたのに、もう忘れたのかな。あたしがいるから、みたいなこと言って、勝手にあたしのせいにしてるけど、誰もそんなこと頼んでない。だいたい、もう一度同じにならない保証がある? あたしは嫌なの、あんな生活は。だったら父親なんていないほうがいい」


 それで家に帰るのは嫌なのだ、と彼女は言った。母親は自分を守ってくれた。その母親のことまで嫌いたくない。だからここへ来て、少しでもそうなるおそれのある、一緒にいる時間を減らそうとしているのだ。そう言った。


 僕は声をかけることができずにいた。でも、何か言葉を探しているわけでもなかった。ただ、全然違うことが頭に浮かんでいた。


 同じなのだな、と思った。出て行かれた方も、出て来た方も。同じように悩み、同じように苦しむのだ。


 だからこの町は、この海に閉じこもったのかもしれない。その方が楽だから。出て行ったものを嫌い、出て行かれたものを嘲笑う。空の輝きを引き写した海の光に包まれ、白く輝いていても、本物の空の輝きからは程遠い、幻に包まれた町。幻影の町。


 ねえ、あなたは、と彼女が訊いたので、僕は自分の話をした。なぜここへ足を運ぶようになったのか、その理由を話した。少し嫌そうな顔をして見せながら、僕はひとつひとつを丁寧に、時間を追って話した。


 本当は、嫌な事なんてひとつもなかった。これまで誰にも話すことの出来なかったこと、海に向かって無言で吐き出し続けていたことを、ぶつけられる似たような存在を見つけられたことは、この上ない喜びだった。彼女がよく話したのも、同じ理由だったはずだ。


 海からは、冷たい風が吹き付けていた。それでも寒さは感じなかった。黒いハイソックスとスカートの間に見える彼女の白い足が、余計に白く見えた。けれど、きっと彼女も寒くはなかっただろう。


「なんか、あれよね。そう、滑稽よね」

「滑稽、かな」

「滑稽よ。だって、出て来た方も、出て行かれた方も、同じようなことで悩むのは本人じゃなくて、結局子供なんだから」


 彼女が僕が思ったことと同じことを口にして、微笑んだ。それは明らかに自嘲気味の笑顔だったけど、冷たい潮風の中で、春の日差しのような温もりを感じた。





 それから僕らは、ほとんど毎日、あの場所で会った。初めに名前を訊き忘れたのに、その後も、お互いに訊ねようとはしなかった。それを訊いてしまったら、なぜかもう、会えなくなるような気がしていた。彼女は本当に隣のクラスにいたから、知ろうと思えば簡単にできた。でも、それもしなかった。それどころか、学校で顔を合わせても、挨拶も交わさなかった。まるでそう話し合ったように、あの場所以外ではこれまで通り、赤の他人であり続けた。


 学校にいると、どうしようもなく一人になりたくなり、放課後にはあの場所を目指した。そして、そこに『黒猫』はいるのだ。一人になりたくて向かったはずなのに、彼女がいる。それでも、それについて何も思わない僕は、いったい何を考えているのか。自分でも不思議に思えてならなかった。


 彼女が突拍子もないことを言い出したのは、約束のない密会をするようになって、半月程経った頃だった。


「来月、お母さんの再婚相手がこの町に来るの。あたしに会いに。あなた、あの男、殺してくれない?」


 あまりにもあっさり言われたので、彼女が何を言っているか、わからなかった。


「交換殺人って知ってる? ある人物に殺意を持ってる二人が、お互いの対象を入れ替えて、相手を殺すの。警察は犯人を見つけようとするけど、犯人との関係性がわからないから、犯人へは絶対辿り着けない」


 彼女はいつものように僕の隣で防波堤に腰かけ、いつも以上の笑顔で話している。まるでテレビの中でショッピングを楽しむ女優みたいに、目を輝かせていた。


「あなたがあの男をなんとかしてくれたら、あたしはあなたの母親をなんとかする。それで交換成立。どう?」


 なんとかする。


 その言葉が、頭の中で渦を巻いていた。彼女がいう『なんとかする』は、つまり、相手を殺すということだ。


 人を殺す、ということだ。


「あなただって、毎日が嫌で、ここへ来てるんでしょう? 親も誰も信じられないから、一人になりたくてここへ来てる。そう言ったじゃない。暴力を振るう母親の、その暴力は痛くはないけど、精神的に辛い、って、言ってたじゃない」


 母さんの行為は日増しにひどくなっていて、その度、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。あの人に似ている、似ている、似ている。そう繰り返し、手を上げる母さん。その姿は憐れで、惨めで、僕は言葉を無くしてしまう。


 でも、だからといって、僕は母さんにいなくなって欲しいのだろうか。死んでもらいたいのだろうか。そこがわからない。母さんは母さんだ。死んでしまって、殺してしまっていいのだろうか。あんな憐れな人を、あんな惨めな人を、助けもせず、救いもせず、死なせてしまっていいのだろうか。


「あたしはうんざりなの。あんなお母さんを見るのは。あんな思いをしたのに、まだ男に愛想振りまくバカな女、そんな風にお母さんを見たくないの。だからもう二度と、誰もお母さんに近づけないようにする」


 黒猫の背中の毛が、逆立っているように見えた。彼女から、言い表すことのできないマイナスの感情が流れ出していた。なのに、これは悪い感情だ、とわかるのに、僕はそれを温かいと感じていた。すごく温かい、人の感情だと感じていた。


 それでも僕は、その場で何かを答えることは出来なかった。結局、無言のままでいると、彼女は小さなため息をついて、視線を水平線の彼方へ戻した。隣にいる僕だけではなく、世界中のすべてに興味を無くしたような横顔で、彼女は、


「なんてね。冗談よ、冗談。そんなことが出来たら、簡単に楽になれるのにね、って思っただけ」


 と、つぶやいた。


 彼女の声は、波の音と共に、波の音のように、僕の耳に何度も何度も打ち寄せた。





 それが先週の初めだった。


 それからも毎日、この先の場所で、僕は彼女と会った。でも彼女は、交換殺人の件について、あれ以来、何も口にしなかった。


 それでも僕はあの日から、ずっと考えていた。人を殺すには、どうすればいいのか。それが彼女の望みならば、やってみる価値があるのではないか。その上、僕自身の辛い今を変えることができるのならば、これ以上の方法はないのではないか。そこまで考えていた。


 防波堤の向こうから、打ち寄せる波の音が聞こえた。この音のように、何度も何度も、考えては引き、考えては引く僕の想い。やらなければ何も変わらないのではないか。決心しかけると、都合よく彼女の横顔が現れ、冗談よ、と言ってくれる。そう言って、僕を決断から逃がしてくれる。彼女は本当は、どこまで本気なのだろうか。どこまでも本気なのだろうか。僕は俯き、足を運びながら、あの時、何も言えなかった自分と、今、何も決断できない自分を呪う言葉を思い浮かべていた。


「今日は、遅いんだね」


 気が付くと、僕はもうその場所に立っていた。いつもと同じように、ろくな防寒着を身に着けていない彼女は、艶やかな黒い髪を潮風に靡かせて、遠く水平線の彼方を見つめていた。


「踏切に引っかかって」


 僕は答えたけど、彼女は何も言わなかった。顔も向けなかった。それはいつものことだから、そんなに気にならなかった。けど、何かがいつもと違う気がした。違う気がして、僕は彼女の横に座ることを躊躇った。


「座ったら?」


 そう言われて、やっと彼女の隣に腰かけた。緊張した足を防波堤の外へ出し、海風に晒す。隣に並んだ彼女の足を見ると、今日も黒いハイソックスだけで、スカートとの間に見える白い肌は、透き通るようだった。


「あの……」

「先週だったかな、話したこと、まだ覚えてる?」


 僕は心臓が、突然頭の中に移動したのかと思った。鼓膜の裏でどくんどくんと鼓動する音が、急に大きくなった。


「先週、って、いろいろあったけど……」

「交換殺人。してくれない、って言ったじゃない」


 僕が考えていたことを、彼女も考えていてくれた。喜びは、初めて会ったあの日、ふと思いついたことを彼女も考えていた、あの時と同じだった。


 でも緊張は、まったく別物だった。


「覚えてる?」

「ああ、うん、言ってたね。でも冗談冗談、って……」


 そこで彼女の横顔を見た。潮風に靡く黒髪は、今日も艶やかで、猫を思わせる切れ長な目は、相変わらず遠くを見つめていて……


 その高い鼻に、これまで見たことのない斑点のようなものが浮かんでいることに気付いた。不均等に、規則性なく、ぽつぽつと現れた斑点は、僕の座る彼女の左側よりも、どうやら右側の方に多くありそうだった。よく見ると、綺麗な黒い髪も、今日はところどころからがり、張り付いている。


 ふいに、ものすごい恐怖が胸を競り上がって来た。


 急に息が足りなくなったのに、まったく新しい空気が胸に入ってこない。


 彼女が僕の方を横目で見た。


 目が合った。


 こちらを見ようとしている。


 見ないでくれ。こっちを向かないでくれ。


 見たくない。


 そう思うのに、僕の身体はもう、動かなかった。


「あれ、やっぱり、やってくれないかな」


 こちらを向いた彼女は笑顔だった。これまでに見たことがないほどきれいな笑顔を、海から反射する陽の光に輝かせて、笑っていた。


 身体の右半分を、真っ赤に染めて。


 人を殺すには、どうしたらいいのだろうか。


 波の音が、近づいては、引いて行く。

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潮騒の檻 せてぃ @sethy

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