第4話 悪党とべルチルゴンゲ
ペリカン山脈の南路を歩む旅は、その終点の港町で帆船に乗り、ペリカン帝国にある故郷のマーロまで帰るつもりだった。この旅は、未知の魔書を探すという夢を巡る旅であり、それは、冒険小説『六番目の魔書』に憧れてはじめた、いわば、観光だったのだ。それは、南路に連なる古都群の、古来からの治安の良さあってのひとり旅だった。しかし、南路の終点を目前にしたカビリアの街で、この旅は一変した。私は、カモメ国の活動家と思しき輩に、襲撃を受けたのである。そして私は、その事件から延びる線の上で、未知の魔書である『
その海沿いの峠にある宿場は何処かしら荒廃していた。商人の往来は、南路の宿場とは比較にならないほどの賑わいをみせていたが、まだ朽ちるには早い建物が、もう夏が近いというのに、秋草に埋もれているのを幾度となく見かけた。つい今しがたも、雨戸の桟に塵の積もった宿らしき建物を後にしたばかりだった。西の空には、黒い雨雲が懸かり始めていた。カモメの国へと入ってすぐの頃、建てかけのまま、野ざらしとなった凱旋門の下で、俄雨が止むのを待ったことがあった。そこで居合わせた商人によると、雨の日を狙って旅人を襲う恐蟲の群れがいるらしく、雨の日は昼でも宿に籠るという。
遠い雷鳴に急かされて宿を探していると、まだ生活の匂いのする飯屋を、共に旅をするシロウがみつけてくれた。開いていた戸口から中を覗き見ると、土間の奥で、老人が小麦を練っている。私は、その老人に声をかけたが、しかし老人は、黙って小麦を練り続けた。
「あのー‥」
「おめえら、商人じゃあねえな‥」
「いえ‥」
私は、訝しげそうにこちらを見た老人にそう応えた。すると老人は、私の火打ち剣に目をやった。
「旅するならはじきは欠かせねえが、本身ぶら下げてるやつなんてのは、悪党か保安官くらいなもんだ‥ 今日はこれしかねえぜ‥ これ食ったら次の宿場まで行くこったな‥」
「雨が近そうなので‥ ここで、泊めては頂けないでしょうか‥」
「そこの土間で筵引いて寝るなら銭はいらねえが、少々雨に濡れても、次の宿場に行くんだな‥ この宿場は何もねえぜ‥」
「もしかして‥ 恐蟲が出るのですか‥ ?」
しかし老人は、答えることなく黙々と手を働かせた。練った小麦を麺にして茹で、それを炒めた燻製肉と絡めると、腹の空く匂いが立ちこめたので、私もシロウも黙って腰を下ろした。大皿に盛られた麺は、庭蟲の卵黄で艶やかに和えられていた。私とシロウは、黙ってそれを食べた。
バタン
音がした。老人が、雨戸を落としたらしかった。開いたままの戸口から、湿った風が吹き込んできた。その戸口に手をかけた老人が外の誰かに向かって叫んだ。
「降りだす前に帰りな !」
「おお、飯屋、少し邪魔するぜ 」
男の野太い声がした。
「とうに酒はおいてねえぜ‥ てめえがろくに仕事もしねえから、この宿場はもうおしめえよ」
「腹が減った、飯だ」
野太い声の主と思われる男が、老人を押しのけるようにして戸口に姿を現した。その、でっぷりとした腹の男の腰には、私と同じピーシン社製の火打ち剣が携えられていた。
「おお、先客か‥」
男は入るなり私を見てそう言った。
「こいつがろくでなしでよ‥ 保安官のくせに仕事もしねえが、酒癖と女癖は最悪ときてやがる‥ おめえは、娘に手つけられねえように、寝ずに番しなけりゃあ、ならねぇぜ」
老人はシロウにそう告げると、土間の奥へ戻り麺を刻み始めた。
──保安官‥
椅子の軋む音がした。不意に目をやると、椅子に腰を下ろした保安官と目が合ってしまった。
「遠くから来たのか ?」
保安官が声をかけてきた。その息からは酒の悪臭がした。私は、知らんぷりして、麺をフォークでからめとり、口へと運んだ。
「役人にもいろいろある、保安官なんてのは、暇に越したことはねえ‥ なあ、お嬢ちゃん‥」
「そいつは働き者の言葉だぜ !」
土間の奥で、笑い交じりに老人が怒鳴った。
ふと、シロウに目をやると、なにやら気まずそうに俯いてしまった。フラミンゴの国の警官であるシロウは、まるで恐蟲かのような鋭敏な嗅覚の持ち主だが、それがあだとなり、故郷に左遷されてしまったと聞く。それからというもの、シロウは、出勤簿に印をするだけの日々を過ごしていたらしいが、私の家来となってからは、精一杯に働いてくれているし、大好きなお酒も我慢している。
「あんたの娘か ?」
保安官がシロウに訊いた。
「ああ、俺はこの子の父親だ‥」
──え ?
シロウがそう答えたのは、この宿場町の保安官の女癖に用心してのことだと、すぐに察しがついた。シロウは私の家来だ。お父様ではない。カビリアの街で、命を狙われたあの夜から、野山を歩むときも、食事をするときも、眠るときも、常に、私の傍らに居てくれている。しかし、どこか、お母様のようだと感じることはあった。あれは、ドブロイを発つ三日前のことだ‥ 路銀の節約のために自炊をすることになって、シロウは、釣り人から鯛を買って、その場で血抜きをした。帰りに干した昆布と米を商店で買い求め、民宿の調理場で、鯛の鱗を剥ぎ、エラと内臓を取り出し、血合いを丁寧に拭き取ったのち、湯で洗った。そして、米を研いだ鍋に昆布を敷き、七輪で焙った鯛を昆布に載せ、そこに塩を加えた。ご馳走の匂いが立ちこめて米が炊き上がると、鯛の身を解きほぐして、丁寧に小骨を取り除き、鯛の身とご飯とを、木製のしゃもじで混ぜあわせた。私は、その一部始終を傍らで見ていて、私が手伝ったことといえば、木製のしゃもじについたご飯粒を指で集めて食べたくらいだ。こんな思い出は、シロウかお母様くらいなものだ。
「お父ちゃん、雨、降って来たね‥」
「そうだね‥」
私は芝居をしてみせた。しかし、市井の娘と父という卒爾な間柄に言葉が見つからず、シロウもそうなのか、その手のフォークは、麺を巻き上げては、皿へと還すばかりで、お互いに黙り込んでしまった。天井の奥では、ばらばらと雨音が強まり始めていた。
「ほう‥ おめえの娘にしては、すいぶんと別嬪だな‥ この記章の手前がある、名前と職は聞かせてもらうぜ‥ ?」
──そんな仕事しなくていいから !
「すまない‥ ここのおやじがあんたの女癖を忠告するんで嘘をついた‥ 俺はマーロの紙問屋で番頭をしているシロウだ‥ 拾われなんで姓はない‥ こちらは跡目のテト=ゴッパトス様だ‥ 見聞を広めるために北路を旅されている」
「そうかい──」
シロウの言葉に満足したかのように、早々に仕事を終えた保安官は、土間の奥で料理を拵えている老人に声をかけた。
「──おい飯屋、そいつは折詰にしてくれ‥ 本降りになる前に
そう言って、料理代の五百銀と折箱代の百銀を台に置くと、保安官は、そのでっぷりとした腹を持ち上げるかのように、椅子からその体を起こした。そして、折詰を受け取って、雨音の中に消えていった。
「嬢ちゃん、わりいが、そこ閉めといてくれ !」
「──はい」
店主の老人に頼まれて腰を上げようとすると、シロウが立って、雨の沫く戸口を閉めてくれた。
「あの野郎、疑ってやがるぜ──」
老人は、どことなく上機嫌な面持ちでそう語り始めた。確かに、紙問屋のお嬢さんと、年の離れた番頭さんが、二人きりで旅をしているというのは、どこか、如何わしくはある。
「──おめえさん、中央の役人だな ?」
「え ?」
老人の読みに、シロウが面食らったような声を出した。
──わりと当たってる‥。
「いけねえや‥ まだ、駆け落ちってほうがそれらしいぜおめえ‥ な、おめえさん、ジルの目付役として来たんだろ ? ザンパノは一緒に帰って来たのか ? 」
「俺は、カモメの国の役人ではないです」
「へへ‥ 酒は隠してある‥ 欲しけりゃあ、出すぜ‥」
「いや‥」
結局、この誤解が解けることはなかったが、私とシロウは、二階の空き部屋を宿として使わせてもらえることとなった。
雨戸を開くと、雨雲の薄明かりが部屋に滲んだ。部屋には、寝台と化粧台が置かれていたが、触れると、一様に埃が積もっていた。化粧台にあるオイルランプが使えそうだったので、持っていたマッチで灯りをともす。部屋の外で、シロウが老人と話しているのが聞こえた。その話しぶりから察すると、老人は避妊具を差し入れに来たようだった。シロウは遠慮してみせたが、押し問答の末に負けたように聞こえた。
「何か頂きませんでしたか ?」
「え‥ いや‥」
部屋に入ってきたシロウが、手ぶらの様子だったので、私はそのことをシロウに尋ねた。すると、シロウは、困った様子で頭を掻きはじめた。
「そうですか‥ あなたは、主人に隠し事をするのですね‥」
私が意地悪を言ってみせると、シロウは観念して、懐から紙袋を取り出して床に置き、そのまま土下座した。
──こんなのに入ってるんだ !
「これ、もしかして──」
「はい」
私は、土下座するシロウの前に屈んで、紙袋を手に取ってみた。
「金平糖 ?」
「避妊具です ! ごめんなさい !」
紙袋の中を覗いてみると、腸詰めに使えそうなものが入っていた。この二階は、連れ込み宿として使っていたのかもしれない。経験が私にあるわけではないが、そういった情事は、様々な小説に記されている。そう、シロウは、私の家来であることに一途であろうとしているが、心の内では、私との情事を願っている。それは、カビリアの街で出会った日からずっと、私とシロウとの公然の事実だが、しかし、譜代のように一途に仕えてくれるものだから、ふと、こうして思い出されるのだ。
「これは、私が預かっておきます」
「え ?」
私は、避妊具の入った紙袋を鞄にしまい込んだ。
「いつまで土下座してるの‥ 掃除をしないと、寝そべることもできませんよ‥」
「ああ、桶と雑巾がいりますね‥」
顔を上げたシロウの前髪に埃がついていたので、私は手で払ってあげた。悪く言えば、私はシロウの恋に付け込んで甘えている。
真夜中になっても、雨は降り続いていた。いつものようにシロウに起こされて、眠るのを交代する。オイルランプがある夜は、夜が明けるまでの間、
――3変数アッカーマン関数を以下のように定義する。
Ack(0,0,z) = z+1
Ack(x,0,z) = Ack(x-1,z,z)
Ack(x,y,0) = Ack(x,y-1,1)
Ack(x,y,z) = Ack(x,y-1,Ack(x,y,z-1))
x : 0以上の整数
y : 0以上の整数
z : 0以上の整数――
しかし、まだ、試し撃ちをしたことはなかった。暴発するかもしれないからだ。ただ、
――3変数アッカーマン関数を以下のように定義する。
Ack(0,0,z) = z+1
Ack(x,0,z) = Ack(x-1,z,z)
Ack(x,y,0) = Ack(x,y-1,1)
Ack(x,y,z) = Ack(x,y-1,Ack(x,y,z))
x : 0以上の整数
y : 0以上の整数
z : 0以上の整数――
例えば『
――3変数アッカーマン関数を以下のように定義する。
Ack(0,0,z) = z+1
Ack(x,0,z) = Ack(x-1,z,z)
Ack(x,y,0) = Ack(x,y-1,1)
Ack(x,y,z) = Ack(x,y-1,Ack(x,y z-1))
x : 0以上の整数
y : 0以上の整数
z : 0以上の整数――
例えば『
――あ‥
清書し終えた紙を金物の桶で燃やしていると、ふと、大変な思い違いをしたのではないかという考えが去来した。私は、避妊具の入った紙袋を鞄から取り出し、シロウの枕元に押しかけて、揺さぶり起こす。
「シロウ ! シロウ !」
「ん‥ はい‥」
薄目が開いたかと思うと、すぐにシロウは身を起こした。
「おしっこですか ?」
「これ !」
私はシロウに紙袋を差し出した。
「‥え ?」
「これ!」
「い ! いけません ! 姫君 ! 夜這いは !」
「ヴァカ !」
「姫君‥ 唾‥」
額に飛んだ私の唾を、人差し指と中指で拭うシロウに、私は、紙袋を突き返した。
「これは、シロウに返します」
「ああ‥ 化粧台の引き出しにでも、入れといたらどうですか ?」
「私だって、男子のいろはくらい、文物で読んで知っているのですから、恥ずべきことではありませんよ‥ 持っておきなさい‥」
――自分で致すんだよね !
「姫君、お心遣い、ありがとうございます‥ でも、俺、初体験は、嫁さんもらえたときの楽しみにしてるんで‥」
――噛み合ってないけど‥ 童貞さんだった !
「でも、私に恋してたらお嫁さんもらえないよ」
「姫君の御傍にいられるのなら、本望です、おやすみなさい‥」
「おやすみ‥」
私がそう言うと、シロウは、布団にもぐり込んだ。私は、避妊具の入った紙袋を化粧台の引き出しに隠すと、再び、
三度目の清書を終えた頃、雨音に紛れて、雨水を蹴る馬の蹄の音が聞こえた。そして、矢継ぎ早に、悲鳴のような声を聞いた。私は、雨戸を開いて、闇夜に目を凝らした。しかし、雨音の向こうには、馬の蹄の音が響いているだけで、何も見えない。化粧台のオイルランプを手にして、再び闇夜を見渡すと、眼下に、人が倒れているのが見えた。叫ぶように声をかけた。返事はなかった。私は、
「保安官を呼びましょう」
女の様子を見るなり、シロウはそう言った。
「え、ええ‥ !」
私は、飯屋の戸口から、真っ暗な土間の奥に向かって声を張った。
「怪我人が倒れてる ! 保安官に通報してください !」
まだ、夜は深く、店主が起きているわけはなかったが、何度も声を張っていると、土間の奥でオイルランプの灯りが揺れた。店主の老人が目を覚ましてくれた。
「どうかしたのか ?」
「矢を受けて、倒れていて ‥」
「倒れてる ?」
「すぐ、外です‥」
「そりぁあ、いけねえ !」
老人は、私を押しのけるようにして戸口から駆け出した。
「おい、息はあるのか !?」
そして、雨の中で女の脈をとっているシロウにそう尋ねた。
「脈がない ! 保安官に通報してください、お願いします !」
「おお、わかった ! ジルは峠の上だ、少々時がかかるぜ !」
そう言うと、老人は、合羽も着ずに、雨の中を小走りで駆けて行った。よく見ると、女は、三本もの矢を背に受けていた。
私とシロウは、飯屋の軒先で雨をしのぎながら、女の亡骸の番をして保安官を待った。しかし、待てども、保安官はやって来ない。いつしか雨が止み、雲の切れ間に星が見えた。早出の商人たちが、訝し気な目を向けて通り過ぎて行く。その商人たちの姿も途切れることがなくなった頃、荷馬車に紛れて、あの、でっぷりとした腹の保安官のジルはやってきた。雨はすっかり上がって、今日は快晴になりそうだった。
ふと、視線を下ろすと、朝の太陽に照らされた亡骸の髪が、雨に濡れて艶やかに思えた。しかし、顔は青白く、血の気は無い。落馬で腕を折ったのか、あらぬ方向に腕がねじれて、目を向けるのも辛かった。保安官のジルは、人通りも気にせず、亡骸となった女のスカートをめくりあげ、その女性器の中に、ごつごつとした指を深く差し込んで、そして掻き回しはじめた。
「な、なにをしているの‥」
「あ ? これ見てわからねえのか、下着がねえだろ‥ 乱暴されてねえかな、調べてんだ」
抉るように女性器から指を抜くと、保安官のジルはその指を嗅いだ。
「ああ、臭せえ」
「え ?」
「精子の臭いがするって言ってんだ‥ 精子、男の精子、嗅いだことあるか ? 栗の花みてえな臭いだ‥」
――栗の花‥
「男に乱暴されて、口封じで殺されたんだ」
そう断定した後も、保安官のジルは、己の捲ったスカートを整えようとはしなかった。そればかりか、亡骸となった女の陰部を晒したままにして、汚れた手を洗いに厠へと消えてしまったので、私は、その陰部を彼女のスカートで隠してあげた。シロウはというと、飯屋の看板にもたれかかり、眠ってしまっていた。起こすのは不憫だと思ったが、しかし、厠から戻ってきた保安官のジルに肩を叩かれ、シロウは目を覚ました。
「すいません、姫君‥」
慌てたのか、シロウが口を滑らせて私をそう呼んだ。
「はっはっ ! 姫様よばわりとは ! ずいぶんと拝んでやがんな ! おい、そいつを荷馬車に載せるの手伝ってくれ」
「ああ‥」
さぞかし眠いのだろう、シロウは、ときおり頭を左右に振っている。
「テト様が‥ 馬の走る音を聞いてる、早く通行止めにして、蹄の跡を追った方がいい‥」
「そういうのはな、顔絵をとってからだ」
本職でもあるシロウの言葉を無下にた保安官のジルは、女の亡骸を荷馬車に積み終えると、その傍らで煙草を一服した。そして、調書を取り終えるまでは
暫くして、飯屋の店主が頭を下げてきた。飯屋は閉めると疲れた様子だった。あの怠惰な保安官のことだ、この宿場を発つのは、明日になるかも、明後日になるかもしれない。シロウが、炊事場で持ち合わせの米を炊いて、眠かろうに、握り飯を作ってくれた。その握り飯を頬張りながら、私は、あの亡骸となった女が乱暴をされていたことを、寝落ちして聞いていなかったシロウに話した。私は、あのような捜査をするものなのかと尋ねた。すると、シロウは、眠そうな目でそうだと答えた。それ以上は訊かなかった。
海産物を仕入れたいとシロウがいうので、大通りから眼下に見えた海辺の集落に出向いた。しかし、港らしき所に船はなく、造船所は鉄柵で閉ざされ、その鉄柵を錆が蝕んでいた。石造りの家の屋上に、木が根を下ろしていたりもした。結局、海蟲の這う波止場に腰を下ろし、持参した握り飯でまた腹を満たすと、眠いのは峠を越したと言っていたシロウも、私の傍らで眠った。
何処からか、ひとりの老婆が、木の荷車を押して、私たちの所へとやってきた。
「新婚の旅行で来なさったのかね ?」
「わかりますか ?」
――もちろん、そうではない。
「親子かなあと、見とりましたが、随分と仲がよろしいのでなあ‥ どうですか、自慢の干物でございます」
老婆の木の荷車の中には、魚の干物が並べられていた。知らない魚が多かったが、どれも脂が乗って美味しそうだった。私は、見覚えのある魚の干物を二尾だけ選んで、老婆九百銀を払った。
この干物売りの刀自によると、戦前、この町は、漁村であったという。男たちは、海で漁をして生計を立てていた。ところが、一獲千金を信じ男たちは、戦争に志願し、皆、死んでしまった。戦後、この町は、宿場を営むことで再興したという。大通りには酒場や遊郭が軒を連ねた。しかし、あの保安官のジルがやって来ると、博徒が大通りを闊歩するようになり、悪評が立ち、客が他の宿場へと流れ、歓楽街は斜陽を迎えた。その窮状を訴えに、中央へと馬を走らせた者もいたが、皆、この町に帰ってくることはなかった。刀自の息子と孫娘もそうだった。ふと、波止場で休む私とシロウの姿を目にして、その姿を自分の息子と孫娘だと願って、この干物売りの刀自はやってきた。
一時ほどしてシロウは目を覚ました。私が、刀自から買った干物を見せると、シロウは、戻って夕食を拵えましょうと喜んだ。しかし、私の脚は、あの怠惰な保安官のジルが住む屋敷へと向かっていた。一言、申してやらねば、刀自の拵えた折角のこの干物が不味くなってしまいそうだったからだ。
宿場町を一望できる峠の上にその屋敷はあった。使用人を雇わねば管理できそうにないほどの大きな屋敷の、その絢爛な鉄柵には、至る所で蔓草が這い上がってしまっているようだった。鉄柵の門をくぐると、そこは草叢だった。畦道のように踏み固められた一本の道が、屋敷の玄関まで続いている。顔にかかりそうな草の穂を払いながら私は歩んだ。そして、私は、客人がそうするように、扉の鐘を鳴らして返事を待った。シロウは、私が喧嘩を売るのではと心配したのか、私がお行儀よくしていると、すこし安堵した様だった。
三度、鐘を鳴らしても返事がなかったので、扉に手をかけて屋敷の中を覗き声をかけた。
「ごめんください」
しかし、返ってきたのは歯車の音だった。機械仕掛けだろうか、オイルランプが灯り、薄暗かったその中を照らした。そこには、四階の天井の高さまである吹き抜けの廊下が奥に延びていて、その左右の各階には、綺麗なガラス窓の扉が並び、シンメトリーとなっていた。
「監獄には見えないですね」
シロウがそういった。
「ええ、あのランプが全て灯ると、さぞ綺麗でしょうね」
灯ったオイルランプはひとつだけだったが、灯っていないオイルランプがいくつもある。本来は、その全てが灯るのだと思わせた。
きゃああ !
物静かな屋敷の何処から、悲鳴が聞こえた。
「御夫人‥」
シロウがそう言った。
「やっぱり、あの保安官が犯人なのでは ?」
「え‥」
私が、心の片隅にあった偏見を吐露すると、シロウは拍子抜けしたような声を出した。
「シロウ、二手に分かれて、あの悲鳴の主を探します !」
そう命じるなり、私は駆け出していた。ガラス窓から部屋を覗いては、中を確かめてゆく。どの部屋も、綺麗な調度品が整然としているだけで、人の気配はない。そうして四階まで至ったとき、雨戸が閉じられているのか、一際、暗い部屋を見つけた。ガラス越しに目を凝らすと、闇の中に女の姿が浮かんだように見えた。私は、干物の入った紙袋を廊下に置き、腰の火打ち剣に手をかけ、そのガラス窓の扉をそっと押した。すると、歯車の音がして、オイルランプの灯が部屋の中を照らした。
―― !?
今度は、私が悲鳴を上げそうになった。部屋の中には、十数人の若い娘がいたのだ。彼女たちは美しく着飾り、椅子に腰かけて、まるで能面かのように、じっとこちらを見ている。
「あ、あの‥ 悲鳴がして‥ それで‥」
「おい」
女の声が私を呼んだ。しかし、その声は私の背後から聞こえた。声は、まだ斬撃の間合いにはない。私は、振り向くなり抜剣することを覚悟して、体ごと振り向いてみせた。そこには、使用人のような身なりの中年の女がいた。私が抜剣をとどまったのは、その女の後ろにシロウがいたからだ。
「ここの住人の方です‥ さっきの悲鳴は、この方が、家蟲に驚いたみたいです」
「そ、そうでしたか‥ あ、部屋に女の子が‥」
「それは人形‥」
女は、怪訝そうにそう言った。
「え‥」
私は、もう一度、その部屋を確認した。すると、確かにそれは人形のようだった。その瞳は、ガラス玉だろうか、オイルランプに照らされて揺らめいている。
「おい、娘‥」
振り向くと、女が干物の入った紙袋を指さしていた。
「これ、玄関の外に置いといてくれないか‥」
「あ、臭いますか‥」
「臭う‥ 姑の婆の臭い‥ くっさ‥ おえ‥ ほんと嫌だから、そこに置かないで‥」
――姑 ?
「はい‥ あの、ザンパノさんの奥様ですか‥」
「は ?」
「麓の、漁港の方で、干物売りのお婆さんに孫と間違われたんです‥」
「間違われたって、髪の色も違うだろ‥ あの家のことはいいから、さっさと外に出しといて‥ くっさ‥」
私は干物の入った紙袋を玄関の外に置いた。すると、女は、保安官のジルの寝所へと、私とシロウを案内してくれた。廊下の奥に螺旋階段があり、そこから五階へと上ったところに寝所はあった。五階には、酒の臭いが立ちこめていた。女に案内されて寝所に入ると、長椅子に横たわり、大きな腹と、その、おちんちんまで出して、保安官のジルが寝ていた。
「ジル !」
女がその腹を揺さぶったが起きそうにはなかった。すると女は、徐に、そのおちんちんを撫でまわし始めた。おちんちんはみるみると膨らみ、保安官のジルは半目を開いて、赤ん坊のような声で懇願した。
「ママ‥ おっぱい‥ ほちい‥」
女が、その耳元で囁くと、保安官のジルの目がじろりと私を向いた。しかし、保安官のジルは、私に構わず、女の乳房を弄った―― その後は、シロウに手で目隠しをされ、そのまま寝所を連れ出されたので、二人がどうなったかはわからないが、暫くの後、保安官のジルに呼ばれて寝所に戻ると、二人は酒を飲んでいた。
「おい、嬢ちゃん姫様が、こんな所に何の用だ‥」
「今から、調書を取って頂けませんか‥ あなたは、もっと仕事をすべきです‥」
私が窘めると、保安官のジルは壁を指さした。壁には顔絵が張られていた。それは、一目に、あの殺された女だとわかる出来栄えだった。
「今日はもう酒を呑んでる‥ シラフじゃねえと仕事は出来ねえ‥ 明日だ‥ おめえらの調書は明日取る‥ なんか文句あるか‥」
「確かに精巧な顔絵ですが、出来る者であれば、半時とかからず描けるものです‥ その程度の仕事で、このような贅が尽くせるのですから‥ 良い御身分ですね‥」
「売り言葉は買わねえぜ‥ だがな、俺にこんな銭はねえ‥ この屋敷はな、ジョナサンて芸術家が、お人形さんために建てた屋敷だぜ、こんな空き家を放置してたらな、博徒の溜まり場になっちまうのがおちだぜ‥」
――ジョナサン !?
「ポーチンタオコンウェイのジョナサンですか !?」
「あ ?」
――あ !?
「すみません ! 確認したいことがります !」
そう言って私は、螺旋階段を駆け降り、再び、あの人形たちが住む四階の部屋へと駆け上った。そして、彼女たちの住む部屋の、そのガラス窓の扉を押し開けた。機械仕掛けのオイルランプが人形たちの顔を照らし出す。シロウが、息を切らして私を追ってきた。
「姫君‥」
「シロウ‥ この人形たち、みんな、同じ顔をしています‥」
「人形ですからね‥ あ――」
シロウが、ひとりの人形に歩み寄った。そうに違いない。あの傾奇いた化粧の印象が強かったから、気づかなかったけれど。
「――少し幼いですけど‥ 姫君、これ、メド=マ=リシテンさんですか ?」
「はい」
結局、私たちの調書は、明日までお預けとなり、私とシロウは、宿にしている飯屋へと戻ることになった。保安官のジルによると、この宿場町では、過去にも、娘が乱暴されて殺害される事件があったのだという。この宿場町の人々から疑いの目を向けられたのが、あの人形たちのために屋敷を建てた芸術家のジョナサンだった。迫害を受けるようになったジョナサンは、いつしか身の危険を感じ、あの屋敷から去ってしまった。同じような事件はその後も起きていて、今も犯人は捕まっていない。
――ポーチンタオコンウェイのジョナサン
私とシロウが、このカモメの国に入ったのは、ポーチンタオコンウェイのジョナサンが、メド=マ=リシテンさんのお館様ではないかと思ったからだった。
「――しかし‥ 人物像に、差がありすぎませんかね ?」
七輪で干物を焼きながらシロウはそう言った。私は、食台に肘を立て、ご飯が炊き上がるのを眺めながら、ジョナサンの正体に思いを馳せていた。
「んん‥」
「ジョナサンが、そのお館様だとすると、メド嬢とは、どういう関係なんでしょうか‥ かなりの偏愛ですよ‥ あれは‥」
「愛人かな ?」
「姫君の記憶からすると、歳が離れすぎています‥」
童女の頃に、万国博覧会で蟲買いの商人と出会ったことがある。私は、あの商人がお館様ではないかとも思った。
「そういう趣味の殿方は珍しくはありません‥」
「すみません‥」
「シロウのこと言ったんじゃないわ‥ お父様、もうお爺ちゃんだけど、お母様、私と一回りくらいしか歳が違わないから‥」
「――そうなんですね‥」
「――だから‥ シロウのこと父親みたいだなんて思ったことないよ‥」
「――俺もです‥ 姫君のことそんな、そんな恐れ多いこと、思ったことは御座いません」
「あら、私に恋するのは恐れ多くはないのですか ?」
「それは、どうしようもないです‥」
――揶揄かっちゃった ‥
シロウが焼いてくれた干物を、炊き立ての白米で頂き、就寝の支度をすると、先に失礼しますと頭を下げて、シロウはやっと眠りについた。私は、オイルランプの灯りを、いつもよりも幾許か絞ると、
そう、シロウがお母様のようであるのは料理だけではない。童女だったころ、私はお母様の寝台で寝ていた。夜中におしっこをしたくなると、いつも、お母様を起こして、厠まで連れて行ってもらっていた。今、それをシロウにしている。いや、おしっこの音を聞かれるのは恥かしいが、それ以上に、なんというか、安心していられるのがよかった。
シロウが眠りに就いて一時ほど経っただろうか、私は、ふと尿意を感じた。そして、いつもそうするように、シロウを起こそうと、その肩に手を当てたが、深い寝息が聞こえたので、私はひとり、部屋を出て、暗い階段を下りた。食台でオイルランプが灯っていた。飯屋の戸口を開いて、オイルランプで曇った眼を闇にならすと、飯屋の左隣にある離れの厠へと私は歩んだ。厠の戸に手をかけようとしたときだった。人影が私に歩み寄ったのが見えた。その体躯から男だとわかった。私は、身を翻し、腰の火打ち剣を抜こうとしたが、しかし、私の両手が掴んだのは夜風だった。
――剣を、忘れた。
その一瞬の動揺がなければ逃れられたかもしれない。私は、背後から物凄い力で口を塞がれ、大声の出せぬまま、両足を何かで縛られ、暴れようとしてよろけると、そのまま、幾人かに抱えられてしまった。
束の間だった。私は、あの宿場の、どこかの建物の地下に連れ込まれてしまったようだった。オイルランプが照らし出す地下室の石床には、手錠やら、なにやら如何わしい器具が、幾つも、無造作に置かれていた。手足を縛られ、猿轡を噛まされ、どうしようもなく項垂れていると、ふと、大腿部に雫が垂れる感触がした。下着も、スカートも、おしっこで濡れていた。
地下室の外からは、私を攫った男たちの声が聞こえてくる。その声の中に、どこかで聞いたことのある声があった。その声の主は親分と呼ばれているようだった。
地下室の扉の開く音がした。恐ろしくて震えた。男たちは、取り囲むようにして私を押さえつけると、私の足を縛り付けていた縄を解いた。そして、私の、尿で汚れた下着を剥ぎ取り、ついには、私の股を開こうとした。不意に抵抗すると、親分らしき男は猛烈な怒声を浴びせてきた。私は、強姦されると悟ったが身を委ねた。殺されると思ったからだ。男は、私の股の内に白髪頭を寄せると、そのやんごとなき処に指をあてがい、開いた。
「思ったとおりじゃねえか‥ 生娘だぜおい‥ 綺麗な色してやがるな‥ へへ‥ おめえら ! 外に出てろ !」
――え‥
その男は、飯屋の店主の老人だった。男たちが地下室の外に出ると、老人は男性器を出して私に見せた。
「なあに、おめえさんは別嬪だ‥ 破瓜させたりはしねえよ‥ ほら、股とじて力入れろ‥」
私が股を閉じたのは本能だったかもしれない。しかし、孫娘にそうするように、老人は、柔和な顔をして私の頭を撫でた。そして、覆い被さるようにして、私の大腿部の狭間に男性器を挿し込むと、激しく
「親分さん大好きって、言ってごらん‥ 言ってごらん‥」
「‥」
「言ってごらん‥」
「‥」
口を噤んでいると、老人は、恐ろしい声色で怒鳴った。
「弓で撃たれてえのか ! この
「親分さん‥ 大好き‥」
声が、震え、涙が出た。私の声に興奮したのか、けたたましいほどに息を荒げた老人は、その肥溜めのごとき吐息をあたりに充満させた。そして、私の大腿部の狭間に、蛞蝓が這ったかのような感覚が溢れた。
行為を終えた老人は、己の体液で汚れた私の大腿部を布で拭った。私は悔しくて泣いていた。剣聖と囃されて天狗になっていた。剣がなければ、こんな老人にすら、成すすべもなく、謂われるがままに従うしかなかった。
「ああ、惜しいくれえに別嬪だな‥ おめえは‥」
――剣さえあれば‥ こんな‥
「私のことも、殺めるおつもりですか‥」
私は、侮蔑を込めて言った。しかし老人は、柔和に微笑んで答えた。
「此処いらの宿場は、皆どっかの親分の傘の下にある‥ 中でもよ、ウマグマ一家の代紋のある宿場は安泰だ‥ だがよ、一度でもウマグマの代紋に肖ったら最後、まるで恐蟲みてえによ、骨まで喰い尽くそうとしてきやがる‥ 宿場の経営に失敗しようが関係ねえ‥ 俺も歳でよ、明日にはウマグマの大親分に顔合わせねえといけねってときにおめえ、上納金代わりに手に入れた女逃しちまった‥ しかし、おめえさんなら半年、いや、一年分の上納金にはなる‥」
老人の服の下でまた男性器が蠢いたのが見えた。
「やっぱり、我慢できねえや‥」
今度は私の処女を奪わんと、老人がその暴虐な手を伸ばしたときだった。地下室の外から緊迫した声が聞こえた。
「親分 ! 親分 !」
「ああ !? どした !?」
「へい ! 葡萄酒の樽に穴あいてやして !」
「なに‥ 後にしろ !」
「それが、ひとつやふたつじゃねえもんで‥」
「なんだと !?」
我に返ったかのように表情を険しくした老人は、立ち上がり、地下室を出ていった。
「おめえ ! 鍵かけとけ !」
「へい !」
直ぐに施錠する音がした。しばらくして物音が途切れると、私は、深く息を吐いて、冷たい石床に倒れ込んだ。そして、ぼんやりとしながら、短絡的な自分を反省した。保安官のジルさんを、内心、悪者だと思ってしまったことだ。小説に登場する来る保安官はいつも悪役だったし、その、印象どおりの保安官がジルさんだった。
しかし、こうして反省しても、私の突撃的な性格はおさまりそうにはなかった。あの愚かな老人は、私の足を縛らずに地下室を出ていったのだ。老人の口ぶりからすると、私を失えば、彼らに上納金の充てはない。暴れてみせたところで、弓を射られることは無いかもしれない。わからない。しかし、私は身を起こし、立ち上がり、壁に背を預けた。後ろ手に縛られてはいるが、走る事は出来る。ふと、剥ぎ取られた下着が目に映った。シロウであれば、私の匂いを追って、例え、世界の果てに居ようとも、私の許に駆けつけてくれるはずだ。けれど、何時になく、深い寝息を立て、シロウは眠っていた。頼ってばかりでは、生き延びることはできない。
――シロウ‥
私は意を決した。
――敵は四人だが、正面に急所持っている、各個撃破なら‥
音ひとつない地下室に、鍵を開ける音が響いた。扉が開き切る瞬間を狙って、私は駆けた。そして、現れた男の股間を目一杯の力で蹴り上げてやった。男は呻きながら倒れた。その足首を踏みつけて動きを封じようよとした私は、既の所で、それが、シロウであることに気付いた。
――シロウ‥ !
「姫君、お元気そうで‥ なにより‥」
「ごめん‥」
脂汗を滲ませながら身を起こしたシロウは、私を後ろ手に縛りつけていた縄を断ち切って、その火打ち剣を私に手渡してくれた。
「申し訳ございませんでした‥ 姫君‥」
私は、謝るシロウの懐に潜り込み、その胸に頭を預けた。シロウは、私を優しく抱きしめてくれた。大好きな匂いがした。
地下室を出て、建物の外へと駆け出ると、まだ夜は明けていなかった。そこは、あの雨戸の桟に塵の積もった宿らしき建物だった。その建物の向こう側から、老人の怒鳴り声が聞こえてきた。やれ桶を持ってこいだの、やれ大切なしのぎだのと、子分の男たちに怒鳴り散らしていた。赤い水が、小川のようになって、大通りへと流れていた。葡萄酒だろう。私とシロウは、ひとまず飯屋に戻り、荷物をまとめた。私は下着を履き替え、そして、ジルの住む峠の上の屋敷へと二人で駆けた。
屋敷の扉の鐘を三度鳴らし、扉を開くと、機械仕掛けのオイルランプが廊下を照らした。薄灯りの廊下を奥へと歩み、螺旋階段の暗闇へと入った。転ばないように、壁に手を這わせながら螺旋階段を上ると、寝所から漏れるオイルランプの光が見えた。寝所ではジルが使用人の女と裸で寝息を立てていた。床には、使用済みと思われる避妊具が散乱している。それを避けるようにして、寝台へと辿り着いた私は、使用人の女の肩を揺さぶった。女はすぐに目を覚ました。
「ジル‥ お嬢ちゃんだよ‥」
酒が抜けたのか、今度は、ジルは直ぐに目を覚ました。
「どうした‥ 只事じゃあねえな ?」
「昨日の、ご婦人を弓で殺めた犯人がわかりました‥ 飯屋の店主です‥ ジルさん、亡骸の精液を確認させてください‥」
「まて‥ 服ぐらい着させろ‥」
「すみません‥」
服を着ると、ジルは長椅子に腰を下ろして私に訊いた。
「精液なんか確認してどうする ?」
「飯屋の店主の配下に攫われて‥ その‥ 私の腿に、あの老人の精液がついています‥ このシロウなら、臭いでわかります」
「体は ?」
「え ?」
「嬢ちゃんの体は大丈夫なのかって聞いてんだ」
「はい‥ 強姦されるすんでのところで、シロウに‥」
「そうか‥ しかし、臭いでわかるってのは、どういうことだ‥ フラミンゴの中央警察にそういう警官がいたって話は聞いたことあるが‥ たしか‥」
ジルが寝所の入り口にいるシロウに目をやった。
「お前、そのシロウか‥ ?」
「そうかもな‥」
――有名人 !
「シンシア、俺の精子とそいつの精子をそれぞれ小匙一杯、同量の水に溶いたものを二十ほど用意してくれ‥」
「ああ‥」
「木の器がいい‥ 誰のかわかる様に、裏に印をつけておくんだぜ‥ 器の配分は任せる‥」
「いいけど、その男の精子はどうするんだ ?」
使用人のシンシアがシロウを見て言った。するとシロウは、困ったような顔をしてジルに言い返した。
「待ってくれ、それは、精子じゃなくてもいいだろ‥」
「精子を嗅ぎ分けられるかの実験だ、精子の必要がある、精子だ、精子でやるんだ‥ !」
使用人のシンシアは、枕元にある避妊具の紙袋を手に取ると、シロウに歩み寄って手渡した。そして、床に落ちている使用済みの避妊具を拾い集め、寝所の外に出ていった。ジルも長椅子から腰を上げて寝所を後にした。私は、今しがた替えたばかりの下着を脱いで、避妊具の紙袋を手にして茫然としているシロウに差し出した。
「え ?」
「使いなさい‥」
「や‥」
「これでは、興奮できませんか ?」
「しますけど‥ そのような、姫君に無礼を働くわけには‥」
「これは、褒美です‥ 受け取りなさい‥」
「はい‥」
私は手渡しでシロウに褒美を授けると、寝所から出て、シロウの背を押し、扉を閉閉じた。
――失礼なのは私だ。
テト=マ=リッサーの危機を救った褒美に、その恋心に甘えて、下着を差し出すだなんて‥ シロウ‥ 本当は、悲しんでたりして‥
「シロウ‥」
私は、扉ごしにシロウに語りかけた。
「――はい」
「褒美だなんて言って‥ ごめん‥ でも‥ 今の私には‥」
「――姫君」
「ん ?」
「――もう、顔をうずめてしまいました‥ 済みません !」
「ヴァカ !」
使用人のシンシアさんが、木製の器を食台に無造作に並べた。嗅いでみたが、これといって栗の花の臭いはしなかった。シロウは、木製の器をひとつ手に取ると、その水を嗅いでみせた。そうして、最終的に、三つの組に木製の器を分けた。シロウはそれぞれ、十二の組がシロウの精子、七の組がジルの精子、一の組は二人の精子だと結論づけた。ジルは、その水を桶に捨てながら、ひとつひとつ、木製の器を裏返していった。木製の器の底には名前が彫られてあった。その名前は、シロウの予想と、全て一致した。
「すごい !」
感嘆の声を上げた使用人のシンシアさんが、ジルに何かを耳打ちした。ジルは頷くと、徐に腰を上げて言った。
「亡骸は厩舎にある‥ 案内する」
ランタンを手にしたジルに連れられ、螺旋階段を下り、屋敷の裏へと出ると、屋敷の庭園ほどは荒れていないようだった。厩舎は離れにあった。厩舎の闇に踏み入ると、小蟲の羽音が聞こえた。小蟲の羽音がする方へと連れられると、ランタンの灯りに照らされて、女の亡骸の足が見えた。小蟲が集っていた。
「掻き出そうか ?」
「いや‥」
ジルの提案を断ったシロウは、ランタンの灯りに照らされた亡骸の股間に顔を寄せた。小蟲の羽音に混ざって、深い呼吸が幾度か聞こえた。
「顔が見たい」
シロウがそう言うと、ジルは亡骸の顔にランタンを近づけた。私は怖くなり、目を瞑った。
「――姫君、よろしいですか ?」
「はい ?」
薄目を開けると、シロウとジルが私を見ていた。
「姫君‥ スカートを、その‥」
「捲れとよ」
「はい‥」
股間の少し下あたりまでスカートをたくし上げると、露わになった私の腿にジルがランタンを寄せてきた。
「どのあたりですか ?」
そう云いながら、シロウは、私の前に屈んだ。私が腿の内側を指さすと、そこにシロウは顔を寄せた。一瞬だった。シロウが身を引いたので、私はたくし上げていたスカートを下ろした。それを見てジルが言った。
「もういいのか ?」
「ああ、その亡骸の膣についてる精液と、姫君の足についている精液は、同じものだな‥」
「だが、まだだ‥ まだ、証明しなきゃならねえ事がある‥」
「俺が、真実を言ったかどうか‥ ということか ?」
「そうだ‥」
保安官のジルは、夜が明けるのを待たずして、一連の出来事の証書を取ってくれた。そして、執務のため、かつて人形が暮らしていた部屋のひとつに入った。私とシロウには、早急に
私は、疲れてはいたが、眠くはなかったので、長椅子に寝そべり、壁にかけられた年代物の火打ち剣を眺めていた。
剣の魔法は、この火打ち剣を使わずとも、例えば剣を模した棒に魔符を巻き、松明で火を付けてもいいのだが、着火は遅れるし、制動にも難がある。仕込んだ火薬で火花を刀身に走らせ、魔符に着火させることが出来るのが火打ち剣だが、剣の姿でなければならないというのが、実に、恣意的だと思う。
そんな恣意的な世界において、あの魔文字だけは
――
私が、恐怖の板挟みに、思わず息をのんだとき、寝台で眠ったはずのシロウが、ふと、身を起こして私に言った。
「姫君、もうひとつ、褒美を頂けないでしょうか ?」
「寝なさい‥」
「お願いします‥」
――シロウの願いが私にはわかった‥
「
――心の片隅でそれを待っていたからだ‥
「姫君、
「ダメです‥」
「俺の目には、姫君の魔符は完璧なように見えます‥ これからの姫君の御身のことを思うと、すぐにでも
私も、転写は完全だと思っている。たた、なんとなく逃げているのだ。あの、殺されかけたカビリアの街から、遠ざかるほど安堵したように。逃げている。
「姫君への忠義を形にさせてください」
シロウは、寝台の上で、そう言って深く頭を垂れた。
――恋とは‥ かくも‥
「わかりました‥」
「――ありがとうざざいます !」
私の返事をシロウは喜んでくれた。いや、喜んでみせたのかもしれなかった。そうに違いないとまで思った。だが、埃のように、気付けばそこかしこに積もっていた不安と恐れは、冷酷なまでに、私をシロウに甘えさせた。私は、避妊具の紙袋やら避妊具の紙袋が散乱している台を片付け、鞄から魔書を記す道具一式を取り出した。そして、インクを尿で溶き、魔文字を書き綴った。
――3変数アッカーマン関数を以下のように定義する。
Ack(0,0,z) = z+1
Ack(x,0,z) = Ack(x-1,z,z)
Ack(x,y,0) = Ack(x,y-1,1)
Ack(x,y,z) = Ack(x,y-1,Ack(x,y,z-1))
x : 0以上の整数
y : 0以上の整数
z : 0以上の整数――
私とシロウは、屋敷を後にし、海が臨める近くの丘へと登った。私は、腰に下げた愛用のピーシン社製六式の火打ち剣を抜き、空打ちして火薬を確かめると、それをシロウに手渡した。シロウは、私の身を案ずるように距離を取り、持って来たランタンを地面に置き、懐から魔符を取り出した。
「魔文字を傷付けないように !」
「はい !」
ランタンの灯りを頼りに、火打ち剣に魔符を刺したシロウは、その切先を闇夜に向かって突き立てた。
「腰を落として ! 脇を閉めて ! あの月を狙って撃つのですよ !」
「はい !」
撃鉄を引く音が響いた。その、瞬間、私は駆け出していた。魔子爵を手にしたあの日、私は、シロウの手を引いて連込み宿に入った。それは、内緒話をするのによいと思ったからだが、心の内では、もうひとつ理由があった。ひとりで旅するのが怖いのだ。シロウとは、高々、一日五萬銀の契約でしかない。いや、例えそれが、五十萬銀だろうと同じことだ。だから、私は、抱かれようと決めた。しかし、この男は私を抱かなかった。私の家来でいたいと頭を下げた。私は、このシロウを只の家来にしておきたくはない。この思いが恋だとは思わない。ただ、今ここで駆けなければ、シロウは、生涯、私の家来のままでいる気がした。
「待って !」
私は、シロウに駆け寄ると、背伸びをして、シロウの構えた火打ち剣に両腕を添えた。
「姫君‥」
「これは、私とあなたが、命がけで手に入れた
シロウが、構えた火打ち剣を少し下げてくれた。私は背伸びすることなく、火打ち剣に両腕を添えることが出来た。
「私がトリガーを引きます‥ シロウは、剣を支えていてください‥」
「姫君の、御心のままに‥」
――貫け !
火打ち剣に走った火花は、忽ちのうちに魔符を発火させ、一条の火炎を生んだ。その火炎が遥か夜空で霧散してもなお、私とシロウは、夜空を仰ぎ続けた。東の空が、微かに、朝を湛え始めていた。
屋敷に戻ると、螺旋階段へと続く廊下に硝子の破片が散乱していた。ジルさんが執務をしている四階の一室の、その扉のガラスが砕けているように見えた。ガラスが砕けていたのは扉だけではなかった。部屋の奥の窓のガラスが砕けていた。床には一本の矢が転がっている。只事ではない。執務台には幾つかの書類と書置きらしきものがあった。酷く折り目のついた紙にはこう書いてあった。
――女は預かった
命は風前の灯
紙問屋の娘と番頭を連れて
造船所に来られたし――
そして、ジルさんと思しき書置きにはこう書いてあった。
――直ぐにふたつ先の宿場に発て
三日して俺がその宿場に現れねえときは
台にある討伐状を
その宿場の保安官に渡してくれ――
西の空を、また、あの黒い雨雲が覆いはじめていた。造船所を閉ざしていた鉄柵に、人がひとり通れるほどの隙間が出来ていた。私は、造船所の中に踏み入った。岬に沿うように造船所は広がっていた。しかし、木材は朽ち果て、鎖は錆に蝕まれ、石材だけが、まだ辛うじて風化を免れていた。岬をひとつ越えると、砕石場のようなところに出た。回廊のような砕石場を歩むと、岩壁の向こうで人の声がした。その岩壁を越えたとき、ジルさんとシンシアさんが地面に横たわっているのが見えた。それは、一目に、死んでいるとわかる姿だった。二人の頭は、胴体から切り離され、血だまりの中に転がっていたのだ。その亡骸の周りに七人の悪党がいる。飯屋の店主の老人、子分と思われる男たち、見覚えのある顔もある。あの、干物売りの老婆もいた。皆、本身の火打ち剣を手にしていた。
「おめえら! あの娘を他所のシマに行かせちゃあならねえぜ ! 遠慮はいらねえ ! 殺せ ! いいな !」
老人はそう子分たちを怒鳴りつけた。
「話し合いましょうよ !」
私は声を張った。その声の主が私だと知ると、老人は、驚いたような目で私を睨みつけた。
「おめえ !? 魔符なんか肩に貼って何のつもりだ !」
「私は殺されたくはありません !」
「俺の嫁になるなら生かしておいてやるがよ !! へへ!! こっちははじきが七本ある !! 魔符なんて無駄だぜ !! 十数えてやるから服脱いで 又開きな !! 一つ !! 二つ !! 三つ !! 四つ !! 五つ !! 六つ !! 七つ !! 八つ !! 九つ !! 十 !!」
老人は、手にしていた火打ち剣に魔符を刺して私に向けた。そして撃鉄を引いた。配下の者たちも其れに倣った。
「おめえは別嬪だがよ ! 肉片になれば惜しくもねえ !」
老人はそう叫んで火打ち剣のトリガーを引いた。切先から延びた火炎が私の眼前で炸裂した。爆炎が恣意的なほどに私を避けてゆく。熱さすら感じなかった。火炎は次々に飛来して炸裂した。そのうちの数発が地面を粉砕し、私の体は落下した。巨大な岩石片が頭上に崩れ落ちてきたが、
「シロウ ! 止血をしてあげて !」
「はい !」
岩壁の向こうで
「指詰めて足を洗う ! 許してくれ !」
砂利に塗れた老人が、土下座して赦しを乞うてきた。
「あなたの親分に指を詰めさせたら赦してあげてもいいわ‥」
「――んだと ! この
私の売り言葉に激高した老人は、砂利もろともに火打ち剣を握りしめると、真っ赤に憤怒した頭を起こした。私は、その無防備な急所を蹴り上げてやった。老人は、雨水と砂利の中で悶絶した。
「
「ひとつ、正直に話してくれたら、私のことは咎めません‥ 昔、ジョナサンという芸術家が、乱暴した娘を殺めたという噂があったとジルに訊きました‥ その犯人も、あなたなのですか ?」
「待ってくれ‥
「殺し合いをしてるんですよ !」
「待、待ってくれ‥ ジョナサンてのは誰だ ?」
「誰 ? ジルが住んでいた館の主だった芸術家です‥」
「人形館の野郎のことか‥」
「そうです」
「やめてくれ‥ あれは俺じゃあねえ‥ 俺の孫娘だぜ‥ 人形館の野郎に目を付けたのはジルだ‥ あのきちげえかも知れねえし、ジルかも知れねえ‥ わからねえ‥ 俺じゃあねえ‥」
そう言って、老人は泣き崩れた。その涙は、雨に紛れてわからなかった。ふと、採掘場の奥から男の悲鳴が聞こえた。
――羽音 !?
――恐蟲 !?
その羽音はひとつではない様だった。岩壁の向こうから、あの黒い巨体が姿を現した。それは、初めて対峙する野生の恐蟲だった。私は、仕込んでいた
「シロウ ! 逃げて !」
「はい !」
横目に映った男の肩には、私が書いた
私とシロウは、ジルの遺言となってしまった討伐状を持ち、ふたつ先の宿場の保安官を訪ねた。保安官は直ぐにも討伐隊を集めたが、私が斬った男を除けば、皆、恐蟲に喰われてしまったらしかった。ジルの遺体も、シンシアの遺体も、皆、その衣服と、僅かな肉片しか残らなかった。その惨状を見た保安官の関心は、事件の解明よりも、恐蟲の群れの駆除に向いた様だった。
討伐隊の手を借りて、ジョナサンの屋敷の庭園に墓を掘った。弓で殺された女の墓、シンシアさんの墓、そして、この宿場の保安官だったジルの墓。ジルの墓には、寝所に飾ってあった年代物の火打ち剣を立ててあげた。シロウが、葡萄酒の瓶を鞄から取り出して私に見せた。一党が、行商人から徴収していた葡萄酒の中に見つけたらしい。シロウは、私に断りを入れ、マーロ・リッサーの葡萄酒をジルの墓に酌むと、その空き瓶をジルの火打ち剣の袂に供えた。
結局、シロウがまともに休むことが出来たのは、実に三日ぶりの夜だった。翌日は休日にして洗濯をした。甘えてばかりではいけないと、自分が使った食器は、洗うことにした。そして、私とシロウは、ポーチンタオコンウェイを目指して、ジルの眠る峠の上の屋敷を後にした。
続く。
五つの魔書の物語 長谷川由紀路 @ailinko
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