第3話 魔子爵の攻防

 魔法とは何だろう。例えば、まだマッチが発明されていない世界に私がいる、そこで、ひと手間で火をつけることが出来る術に思いを巡らせたならば、それを私は魔法と感じるだろう。しかし、私は、マッチを魔法だと感じたことはない。それは、火薬という粉の性質を、自然界の条理として学んだからだろう。今もなお、剣の魔法や盾の魔法が、魔法として畏怖されているのは、それがあまりにも不条理だからかもしれない。どこか恣意的なのだ。魔書が伝来する以前から、魔法はこの世界に身を潜めていた条理なのだろうか‥ それとも、ある日、この世界に齎された不条理なのか‥ こんなとりとめのない問答を反芻しなければならないほどに、私は動揺していた。女の子に怪我をさせてしまったのだ。



 傾奇者の女、メド=マ=リシテンの治療のため、私たちは幽閉されていた場所に戻らなければならなかった。恐蟲を着地させるのに戸惑ったシロウさんだったが、髭面の男の―― いや、髭面の御医者様の指示に従い、見事に恐蟲をを着地させてみせた。メド=マ=リシテンは、恐蟲から滑り降りると一人で歩きだした。私は彼女に手を差し伸べたが、彼女は私の手を叩く様に振り払って一人で歩いた。その背を追う私の方が、足が震えて転びそうだった。

 「傷は浅い、少し縫ったが‥ 意外と小心者なんだなあ‥ あんた‥」

 医務室の前でとしていた私に、御医者様はそう声をかけてくれた。

 「ごめんなさい」

 私は、御医者様にそう謝った。

 「お医者様とは知らず‥ ごめんなさい」

 「そっちかい‥」

 「――テトさん居んのか ?」

 医務室からメド=マ=リシテンの声が聞こえた。

 「――はい ――よろしいので ?」

 返事を返した私は、顔色を窺うように御医者様に訊いた。

 「いいよ」

 私が医務室へと入ると、私についてきたシロウさんが壁を向いて天井に目をやった。寝台に腰かけた娘が、シャツのボタンを留めているところだったのだ。シャツの隙間からは、まだその素肌が見え隠れしている。身なりを整え終えた娘は、そんな私の家来に声をかけた。

 「いいぜ、おっさん」


 ――反応が無い。


 「――シロウ」

 娘の言葉には応じないシロウさんだったが、私が促すと、シロウさんは壁を背にして娘に目をやった。傾奇いた化粧を落とせば、やはり、同い年くらいに思えた。

 「マ=リシテンさん、私たちはカビリアの自警団で――」

 「待った 」

 私の弁明の言葉をメド=マ=リシテンは遮った。そしてシロウさんを見て言った。

 「おっさん、お前、中央警察のシロウか ?」


 ――え !?


 「シロウ、そうなのですか ?」


 ――有名人 !?


 「おっさん、答えなくていいぞ‥ 鼻が利きすぎたって話は常識だもんな‥ ここに辿り着けたのは、お前が中央警察のシロウだからだ。テトさんはそこそこ良家のお嬢だな。だが、フラミンゴでお前ほどの剣の腕があって、私が知らないはずがない。つまり、テトさんは外国人だな ?」

 「はい、私は――」

 「待てって‥ その剣の腕を買われて自警団に雇われて、そこで二人は知り合って恋をした‥ そんなところか ?」


 ――ロマンチストっ !!


 「恋をしたというの以外は、ほぼ、正確です‥」

 私はそう答えた。

 「――もしそうなら、嫌疑は晴れるわけだが‥ なあ、おっさん‥ 昨日、私が一緒に寝た男が誰だかわかるかい ?」


 ――え、えっち !


 「確かめるには、あんたに無礼をしなければならなくなる‥」

 「どうぞ」


 ――無礼‥


 私はシロウさんにお尻を嗅がれたことがあるけど‥ 


 ――え‥ 嗅ぐの‥ この娘の‥


 不意に、私の手がシロウさんの上着の裾を引っ張った。


 ――‥


 「なんだよテトさん‥ 恋仲じゃないんだろ ?」

 メド=マ=リシテンは意地悪そうにそう言った。私とシロウさんは恋仲ではない。しかし、私の手はシロウさんの上着の裾を掴み続けた。

 「この娘さんを確かめてもよろしいでしょうか ?」

 その言葉を聞いて、私は彼の上着の裾を掴んでしまった事を後悔した。こんな大人の男性が、傍から見れば小娘でしかない私にこんなことを聞くだなんて、恋仲でないのなら不自然だし、メド=マ=リシテンは、私の嘘くらい見抜いてしまいそうに思えたからだ。

 「そんなこと、私に聞く必要なんてないでしょう ?」

 私はそう言って、不機嫌そうに上着の裾から手を放してみせた。シロウさんは私に頭を下げると、寝台に腰かけたメド=マ=リシテンに――


 ――ちょっ‥


 接吻でもするかのように顔を寄せた。

 「あなたは !」

 咄嗟にそう言葉を吐いた。

 「――なんで私が良家の出だとわかったんです !」

 たぶん、最初はシロウに吐いたはずの言葉だった。しかし、頭が真っ白になった私は、気付けばメド=マ=リシテンにそう言葉を吐いていた。彼女は、見透かしたような目で私を見て言った。

 「直ぐ態度に出るな、テトさんは‥」

 「‥」


 ――耳裏まで嗅いで‥


 こんなの、態度に出るでしょ ! あ ! もしかして‥ 私、育ちが滲み出てしまっているとか‥ だから‥ いや、そんなわけない‥ 私、小さい頃から、農園とかの実務ばかりで、社交界のマナーなんて知らないから、父様に夜会に連れてってもらったって、お菓子抱えて歩き回っちゃって‥


 ――もー ! 反対側までええっ ! 


 あ ! 火打ち剣かな‥ 父様から貰ったこのピーシン社製一〇式火打ち剣‥ これ、普及品じゃなくて、たしか初期に製造されたもので、ものすごく高価だったって‥ 留め具の質が普及品と違っててわかるって‥ 上の空とはこういう事だろう。私が頭の中で綴った言葉はまるで魔文字だった。その言葉の水面下で私は、さすがにお尻を嗅いだら、蹴飛ばしてやろうと思いながら、シロウを見つめていた。


 ――え、ええええっ !!


 思わず叫びそうになった。メド=マ=リシテンに着いた男の痕跡を嗅ぎ取ったのか、シロウさんは、髭面の御医者様に歩み寄ると、今度は、本当に接吻でもするかのように、その髭面に顔を寄せたのだ。それだけではない。ここにいる男達すべてに、シロウさんはそうして周りはじめた。シロウさんへの理不尽なはどこかえ消し飛んだ。今は、彼が不憫でならない。


 ――不憫 !


 一通り男達を嗅いで終わると、シロウさんは、頭をかきながら、意外にも困った様子で医務室へと戻った。

 「ここには居ないよ」

 そして彼はそうメド=マ=リシテンに告げた。

 「確かに男の唾液のにおいがするが、若くはないな‥」

 「ほお‥」

 メド=マ=リシテンは表情を変えることなくそう言うと、シロウさんにハンカチーフのようなものを投げ渡した。

 「誰かの臭いがすると思うが当ててみな」

 ハンカチーフをひと嗅ぎすると、シロウさんは、それを綺麗に折りたたんでメド=マ=リシテンへと返した。そして、徐に、私の背後に立った彼は、私の両肩に手を置いた。

 「この娘だ」


 ――へ !?


 メド=マ=リシテンが両腕を突き出すようにして手を叩いた。

 「あんたらは、我々のベヒモ・スイレンに乗ったはじめてのだ、是非、その体験談を世に広めてほしい」

 「軍事機密ではないのですね ?」

 私はそうメド=マ=リシテンに尋ねた。

 「我々はガーメの直参であって軍隊ではない。むしろ、ベヒモ・スイレンの宣伝のために、ああやって飛んでるんだよ」

 「ガーメというのはカモメの豪商か ?」

 そう尋ねたのはシロウさん。さすが元中央警察。

 「そうだ」

 「なら、あんた外国人か ?」

 「いや、私はこの家で生まれたフラミンゴ人だよ‥」 

 この建物は、もともと旅宿であり、彼女の生家だったらしい。ペリカン山脈の南路が、交易路としての役目を終えゆく中で、旅宿の経営も成り立たなくなり、借金を抱えた彼女の両親は、あの戦争に出征して財を築こうとしたが、帰ることはなかった。まだ、幼かった彼女は、兄によって育てられのだという。身につまされる話を、武勇伝かのように意気揚々と語れば、化粧を落としてもなお、傾奇者に思えた。



 カビリアに飛来した黒い巨体の恐蟲は、べルチル・ゴンゲという種だとメド=マ=リシテンは教えてくれた。それが、彼女たちの仲間の別部隊から強奪されたものだとわかったのは、シロウさんのスケッチにあったにあるシンボルが、別部隊のシンボルだったからだ。メド=マ=リシテンは、医務室前の廊下に、部隊員を集めて、私を暗殺しようとした男の顔絵を皆に見せた。しかし、その顔を知る部隊員はいなかった。

 「クィンはどうする ?」

 「どっちでも‥」

 御医者様の言葉にメド=マ=リシテンは素っ気なく答えた。

 「おい ! クィン ! いつまで其処で項垂れてんだ ! ちょっと医務室に来い !」

 御医者様の大きな声が、廊下の奥の倉庫に響いた。倉庫の入り口にのあたりで項垂れていた男は、身を起こすと、白い尻を見せて倉庫へと消えた。しばらくして、男は、ズボンを穿いて現れた。私を抱きたいという欲望に支配され、メド=マ=リシテンを裏切り、無様な姿で床に転がったあの男だ。医務室の手前まで来ると、男は立ち止まり、目を合わさずに私に頭を下げた。

 「――どうした ? 入れよ‥」

 「――すいません‥」

 男は、微かな声で御医者様にそう答えると、そのまま、黙り込んでしまった。医務室に入ろうとしない男を、半ば強引に、御医者様が医務室へと押し込む。男は、倒れるように、メド=マ=リシテンに土下座をした。

 「ごめんなさい‥ ごめんなさい‥」

 男が許しを請う。メド=マ=リシテンは、深く溜息をついた。

 

 ――え、粛清とかやだよ‥ ?


 「――遊びたいならさ、遊郭にでも通えよ‥ 何の為の給料だよ‥」

 「ごめんなさい‥」

 「――まあ、お兄ちゃんがそうだってわかって雇ってるのは私だから‥ 頭上げなよ‥」


 ――お、お兄ちゃん‥ !?


 「――えっ !?」


 ――思わず、声が !


 「メっちゃんが‥ 怪我するなんて‥ 思わなかったから‥ ううう‥」

 「大丈夫だから‥」


 ――え‥ この人‥ メドさんのこと、とか言ってなかった !?  これは‥ 問題がある人ランキング一位の守備頭取さん超えた !!


 「お兄ちゃんさ、こいつ知ってる ?」

 メド=マ=リシテンは、項垂れて泣いているクィン=リシテンの顎を手で押し上げると、スケッチブックの顔絵を見せた。

 「‥」

 「知ってる‥ かも‥」


 ――え ?


 「えっ !?」

 おそらく、その場にいたほぼ全員が、そう驚嘆の声をあげた。

 「お兄ちゃん、嘘はバレるよ ?」

 「こいつの、政治塾にいたことがある‥」


 ――政治塾 ?


 その吐露に、場が静まり返った。

 「――なんだよ‥」

 こんな男でも、この場の空気を察したのか、クィン=リシテンは、不安げにその背筋を伸ばした。

 「どこで ? 誰なの ?」

 メド=マ=リシテンが兄を問い詰める。

 「ナス=ツーだろ ?」

 「――誰 ?」

 医務室の外でタバコを吸いはじめた御医者様にメド=マ=リシテンは尋ねた。

 「――え ? ナス=ツー ? ああ、菖蒲谷の温泉の番頭か ?」 

 「それは、二日前に会った‥」

 「何処にでもいる名前だからなあ‥ あ、活動家でそんなのいたな‥ いた。いや‥ あいつは、終身刑で投獄されてるんじゃなかったか ?」


 ――活動家 ?


 「そんなのと‥ 何処で会ったんだ ?」

 メド=マ=リシテンがさらに兄を問い詰める。

 「――刑務所‥ カモメの‥ 入ってたんだ‥ ごめんなさい‥」

 「お兄ちゃんが‥ ? ま、それはいいけど‥ そいつは、活動家みたいなやつだったのか ?」

 「たぶん‥」


 ――活動家がなんで‥ 


 「――あの、クィンさん、その方が、何か大切していたものとか覚えていませんか ?」

 私はそう尋ねた。あの写真乾板のことである。カモメの国の活動家らしい男が、私を暗殺しようとした男ではなく、他人の空似か、そうでなければ、もう、この男の嘘であって欲しいと私は思った。クィン=リシテンは、しばらく考えてから首を横に振った。

 「マ=リシテンさん、それ、返してください‥」

 「――ほい」

 私は、メド=マ=リシテンからスケッチブックを返してもらうと、あの写真乾板の精密な模写をクィン=リシテンに見せた。

 「こんなを持っていませんでした ?」

 今度は考える間もなく、クィン=リシテンは首を横に振った。

 「それは ?」

 そう私に聞いたのはメド=マ=リシテンだ。

 「私を殺そうとした男の遺品で、写真乾板です」

 「なるほどねえ‥」

 彼女も、写真乾板を知っている様だった。

 「――お兄ちゃん、硝子製の絵だよ‥ 覚えていない ?」

 「いや、知らない。女の肖像画を見せびらかす様な奴じゃないし‥ ナス=ツーは‥」

 私を暗殺しようとした男が、カモメの国の活動家である証明にはならなかったが、クィン=リシテンが嘘をついている様子もなかった。

 「――他人の空似ではないか‥」

 髭面の御医者様がそう云うと、ふと、メド=マ=リシテンが私を睨んだ。

 「終身刑で投獄されている活動家を、暗殺者として差し向けられたのか、テトさんは――」


 ――しかも、カモメの国から‥


 「――テト=マ=リッサーか ! 剣で私に勝るテトなんて娘が然う然う居てたまるか ! そんな娘はマーロの剣聖くらいだぜ !」


 ――うあぁあぁあぁ‥


 皆の視線が私に集まるのを感じて、私は、シロウさんに歩み寄り、どうしていいかわからない童女のように首を傾げてみせた。唇を噛んで。


 ――全権委任 !


 シロウさんは私から一歩控えてみせた。私が背筋を伸ばすと、シロウさんはメド=マ=リシテンを見て言った。

 「彼女はテト=マ=リッサー様です」

 「――リッサー ? 嘘だぜ !」

 困惑の声をあげたのは御医者様だった。

 「いや ! マーロの剣聖だ ! 間違いない ! なははっ ! そうか ! マーロの剣聖と、紙一重の勝負で負った傷だぜ !」

 歓喜の声をあげたメド=マ=リシテンが、寝台から腰をあげようとした。

 「おい‥ 浅いとはいえ、縫ってんだぞ !」

 御医者様がそう注意するよりも早く、私はメド=マ=リシテンに駆け寄り、立ちあがろうとした彼女の手を握った。

 「ごめんね‥ 隠し事して‥」

 「隠すだろ ? 普通‥」

 「はい‥ でも‥」


 ――そうだ、シロウさんはどうして、私がマ=リッサーだと確信したんだろう‥


 「剣の腕だけで、私をマ=リッサーだと判断したのではないのでしょう ?」

 「――いや」

 「――しかし、主任‥ そのお嬢さんがリッサーだとしたら、お館様がリッサーをされてしまわないか‥」

 メド=マ=リシテンは、しばし黙った。御医者様が危惧するように、あの夜、あの場所に、ペリカン・ヘラルド・トリビューンの記者がいたのであれば、いづれ、私が襲撃されたことが公になるはずだ。

 「テトさんは、これからどうするんだ ?」

 メド=マ=リシテンは、御医者様には応えず、私に訊いた。

 「――ううん‥ シロウ、ナス=ツーという活動家が収監されていた監獄に行ってみますか ?」

 「北路は、南路のようには治安がよくはありませんよ ?」

 「そうなんだ‥」

 「――フラミンゴ人の印象ほどじゃない」

 メド=マ=リシテンは、シロウさんにそう反論した。

 「今日までに知り得たことを、自警団に報告することは出来ますけど‥ ナス=ツーの正体を見極めておかなければ、マ=リシテンさんのお館様に汚名を着せてしまう事になります‥」

 「――んー‥ 保安官の要る宿場を拠点にするなら‥ まあ‥」

 「なら、決まりね !」

 「――姫君、計画は立てましょうね‥」

 「うん !」

 そういってはしゃいだ私の脚が、何かにぶつかり転びそうになった。クィン=リシテンさんだった。

 「――お兄ちゃん、いつまで土下座してんだよ‥」

 リッサー本家を、皇帝家に次ぐ家柄だと誤解しているのだろう。クィン=リシテンさんは、床に頭を擦るようにして土下座をしたまま固まっていた。

 「――そ、相当な、身分の方だそうで‥」

 「クィンさん、ありがとう」

 私はそう言って、クィン=リシテンさんに握手を求めた。じわりと伸びたクィン=リシテンさんの手が逆の手だったので、私は両手でその手を包んでみせた。

 「――お兄ちゃん、何処の刑務所 ?」

 「だから‥ カモメの‥」

 「カモメの何処 ?」



 この日は、泊めてもらうことにした。木に繋いでいた馬を連れて戻り、餌をやり、私たちもパンと肉をご馳走になった。そして歯を磨いて、二段式の寝台の上によじ登り、就寝の準備をして寝ころんでいると、寝室にメド=マ=リシテンがひとりでやってきた。

 「夜明け前にはカモメに発つから、挨拶をしておこうと思ってね‥ あ、寝てていいぜ」

 「お気をつけて、マ=リシテンさん」

 言葉に甘えて、私は寝ころんだままそう言った。

 「――ああ‥  ――ポーチンタオコンウェイについたら、ジョナサンってフーテン野郎を頼るといい‥」

 「ジョナサン」

 二段式の寝台の下にいるシロウさんがそう応えた。

 「そうだ、ジョナサンだ‥ ――あ、テトさん、これやるよ‥」

 そう言って、メド=マ=リシテンは、手にした小物を私に差し出した。受け取ってお礼を言うと、それはマーロ宗の寺院でよく売ってあるようなだった―― 恋愛成就――


  ――恋愛成就 !?


 「――え !?」

 「仲良くな ! お休み ! ――にっひっひっ !」

 「お、お休みなさい‥」

 悪戯っぽく笑うと、メド=マ=リシテンは医務室の方に帰っていった。私は寝台に寝そべり、そのお守りをしばらく眺めて、大事に懐にしまった。


  ――恋愛成就って‥ 誰と‥


 「お守りを貰いました‥」

 「いい人でしたね‥ 厄除けですか ?」

 「――うん。ねえ、ハンカチーフ、なんで私の匂いがしたの ?」

 「ああ‥」

 「怒らないから‥」

 「――鞄を調べたときに、手が汚れたんじゃないですか‥」

 「そういうことか‥」



 翌朝、メド=マ=リシテンのお兄さまに見送られて、私とシロウさんは、彼女たちの生家だった場所を発ち、カモメの国の国境を目指してペリカン山脈の南路を下った。幾日か前に、岩肌を削っていた澤は、いつの間にか水面を湛えた穏やかな川となり、現れてはまた消え、その度ごとに川幅を増し、カビリアを発ってから十日目、ついに運河となった。その運河沿いに南路を下っていると、大破した一隻の帆船と出くわした。マストが折れている。小舟が取り囲んで、積み荷を運び出している。

 「恐蟲ですかー !?」

 私は、馬を下りて、忙しそうな水夫に声をかけた。

 「――おおー ! 嬢ちゃんも気を付けろよー !」

 「黒い体をしていましたかー !?」

 「――おおー! 黒い ! 大きいぞー ! ――運河の向こうがな ! 昔は生息域だったからな ! 気を付けろよ !」

 「はい !」

 運河の向こう岸は、もうカモメの国らしい。

 「あ、もう、退治されたのですかー !」

 「――いや ! 川下に飛んでった ! 南路を下るんなら気を付けろよ !」

 「ありがとう !」



 カビリアを発ってから十二日目、クチナシ街道への分岐点を通り過ぎた頃、馬車の集団の長い列と出くわした。幌をつけた馬車の中に、ケ・ツァルコアトの家具が見えた。貴族の輿入れだろうか、しかし、幌の下で鞄を抱えて揺られる人たちの顔からは、幸福が微塵も伺えない。ただ、 ぼんやりと揺られている。従者を従えた立派な馬車を通り過ぎた。貴婦人がひとり、その広い馬車の中に腰かけていたように見えた。

 長い列を追い越して、暫くの後、一人の従者が私達を追ってきた。私が馬を止めると、従者は私の火打ち剣を見て言った。

 「――ドブロイまで、用心棒がわりに同行してくれませんか‥ 三万銀でどうです ?」

 「恐蟲ですか ?」

 私がそう訊き返すと、その従者は頷いてみせた。

 「ご覧になりましたか ? 帆船が、あんなことに‥」

 「ええ‥ 」

 私は快く、三万銀でこの一団とドブロイまで旅をすることにした。貴婦人の乗る馬車の少し後ろで馬を歩ませていると、ふと、馬車の窓から貴婦人が顔を覗かてこちらを見た。私は驚いた。彼女も驚いた様子だった。

 「テトちゃん !?」

 「先生 !!」

 私にも、彼女にも、それは懐かしい顔だったのだ。リンキリー先生は、馬車の一団を停めさせると、私をその立派な馬車に招いた。私は、従者のひとりに馬を預けると、リンキリー先生荷馬車に飛び乗るようにして、リンキリー先生のお膝に顔をうずめた。先生の柔らかな手が私の背中に触れた。

 「そっか‥ ごめんね‥ テトちゃん‥」

 「――うん‥」

 しばらく、私はそうして泣いた。その間、先生は私を撫でてくれた。幼い頃に母さまを亡くしてから、甘えられるのは先生だけだったのだ。父様に内緒で、二人で葡萄酒を飲んだりもした。大人にしてみれば、よい先生ではなかったのかもしれない。だから、ある日、先生は辞めさせらた。私は、二度も、母親と別れたのだ。

 「大きくなったね‥」

 「――うん !」

 私は、先生の膝から身を起こすと、笑顔でそう言ってみせた。

 「――あれ、旅行か何か ?」

 「うん‥ そんなとこ‥」

 「――お供は、あの人だけ ? フラミンゴの警官みたいだけど‥」

 リンキリー先生は、馬車の脇を並走するシロウさんを見て言った。

 「カビリアで、知り合って‥」

 「まあ !」

 嬉しそうに胸元で手のひらを合わせると、先生は、馬車から身をのりだしてシロウさんを二度見した。

 「――そっか‥ テトちゃんも、家を継ぐ準備か‥」

 「えー」

 「ああいう、若いお父さんが欲しかったわけだな‥」

 「そういう関係じゃ‥」

 先生は、あの頃と同じだった。気さくで、ちょっと意地悪で、優しくて――

 「ねえ‥ もう、キスくらいはしたの ?」

 「手にね‥ キスしてもらった‥」

 私は、シロウさんに口づけを貰った手の甲を撫でてみせた。

 「なるほど‥ 家来か‥」

 「そう」

 「テトちゃん‥ 男を本気にさせるなら、さっさと寝ちゃうのも手だよ !」

 「もー‥ そういうのじゃないってー‥」

 「ごめんごめん‥ ねえ、ビスケット食べようか ?」

 「うん !」

 先生は、肖像画の脇にあった綺麗な缶箱を手にした。馬車の中には、肖像画の他にも、旅には不似合いな貴重品があった。

 「先生、お嫁に行くの ?」

 「――あー、えへへ‥ 先生、離婚したの‥」

 「あ‥」

 「子供が出来なくてね、これから船でマーロに帰るところ――」

 「ごめん‥」

 「――でも、いい人でさ、もう困らないくらい慰謝料をくれたから‥ 遊んで暮らすわ !」

 「帰ったら先生と遊びたい !」

 「なら、一緒に酒でも飲むか !」

 「うん !」

 私は、先生と一緒にビスケットを食べた。しばらくして馬に戻った私は、リンキリー先生の用心棒として、ペリカン山脈の南路の終点、港町のドブロイを目指した。

 リンキリー先生にを言われたものだから、その道すがら、私はシロウさんのことが気になってしょうがなかった。シロウさんは大人だから、愛のキスだって経験あるのかなとか‥ だから‥

 「ねえ、シロウ、恋人とかはいなかったの ?」


 ――なんとなく‥


 ただ、なんとなく、私はそう聞いてみた。

 「――え‥ ああ、いましたよ‥ 恋人というか、婚約者なんですけど‥ 左遷されることになって、破談になりましたけど‥」

 私は焦った。残酷なことを聞いたかもしれない。直ぐにそう思った 。

 「――でも、手も握ったことありませんでした‥ 俺には不釣り合いなほど、良家のお嬢さんでしたから‥」

 「フラミンゴの国で良家というと‥ パルサー家ですか ?」

 「いえいえ‥ 庶民です‥ あ、でも、今の俺なら釣銭が来ますね‥ なんせ、テト=マ=リッサー様の家来ですから !」


 ――家来、なんだよね‥


 シロウさんは、今でも、その婚約者の事を想っているではないかと、ふと、私は思った。



 カビリアを発ってから十五日目、ドブロイの標識を、私とシロウさんは、何事もないまま目にした。そこから半時ほど歩んで、ついに潮風を受けると、運河の向こうに岸には、カモメの国の町並みが見えていた。

 ドブロイの港で、私は、リンキリー先生に別れの挨拶をした。実は、これが初めてするお別れの挨拶になる。リンキリー先生は、報酬の入った紙包みを私に手渡してくれた。先生と別れて、紙包みの封を切ると、中には、壱拾萬銀が入っていた。

 餞別を懐に抱え、私は、シロウさんを連れて関所を訪ねた。南路と北路がつながる港町の関所は、まるで市場のようにごった返している。甘い匂いがして誘われると、絵の具で描いたかのような黄色い果実が籠に積まれていた。それは、を幾つも束ねたような姿をしている。見たこともない品に、見聞の未熟さを感じた。

 この、カビリアを発ってからの道中、商人の馬車の荷台に、私の家に山ほどある木箱を見かけることが何度かあった。木箱の中には、をつけた葡萄酒が入っているはずだ。それを一瓶買って、彼の褒美にしようと思ったのだ。関所の広い屋根の下を歩き回った末に、馬車の荷台に、あの懐かしい木箱を見つけた。木箱を覗くと、葡萄酒の瓶にの文字が見えた。私は、商人に葡萄酒を一本分けてもらえないかと交渉した。すると、どういうわけか、弐千銀そこそこの葡萄酒が一瓶で壱拾弐萬銀もするというのだ。

 「――これで足りると思ってた‥」

 「――蔵元を出るときは参千銀そこそこのもんだがね‥ まあ、悪いのがいるから、方々で品物を抜かれて、まあ、時価相場だな‥ それが無くっても、まあ、フラミンゴまで運べば参萬銀にはなるけどね‥ 父ちゃんにプレゼントかい ?」


  ――親子じゃない !


 「シロウ、これ、飲みたいですか ?」

 「――え‥ !? へえ、ガルガンチュアなんて名前の葡萄酒があるんですね‥ いつか、マーロで乾杯したいです‥ !」

 「その方が新鮮だもんね‥」

 「――はい‥」

 私は、シロウさんに決断を委ねたことにしてみせて、その場を立ち去った。母さまの名前の葡萄酒なら、それは特別だから、お酒を呑ませてあげられると思ったが、今の私には、壱拾弐萬銀の品はだった。


 ――そっか‥


 「わかりました、シロウ‥ !」

 「――はい‥ ?」

 「ベヒモ・スイレンのような技術が普及すれば、世界の何処でだって、弐千銀で葡萄酒を飲めるようになるから――」


 ド ン ッ


 ――突如、剣の魔法のような爆発音が響いて地揺れが起きた。地揺れがおさまると、再び爆発音がした。

 「シロウ !」

 「はい !」

 私は、関所の外へと駆けた。建屋の外から、次々に人が逃げ込んで来る。その人波を避けながら外へと出ると、眩い空に黒煙の塊が漂っていた。あの、金切り音のような羽音が響いていたので、私は、建物の影から空をのぞくようにして、その羽音の主を探した。すると、港の方角に、あの黒い巨体が、ふらふらと不規則に飛んでいるのが見えた。

 「だめ !」

 私は悲鳴を上げた。


 ――先生が‥


 港にはリンキリー先生がいる。私は駆けた。恐蟲が降下したのだ。建物の陰を抜け、視界に海が開けると、波止場で乗船を待つ馬車の一団のひとつを、恐蟲が押し潰したのが見えた。


 「絶対防壁盾よ !!」


 剣を抜いた。私は、魔物かのように蠢く黒い恐蟲へと駆けた。血の色が見えた。ほんの少し前まで、私の傍で優しく匂ってくれた、あの上品なドレスが血に染まり乱れている。ドレスを嬲るように、肉塊を喰らい蠢く恐蟲に、私は、渾身の力で斬りつけた。しかし、剣は、岩石を叩きつけたかのように火花を散らす。 


 ――おのれ !!


 「おのれ !!」


 ―― !!


 三度目の斬撃を放とうとしたとき、恐蟲の脚が私を跳ねた。木や鉄の砕ける音がした。近くの幌馬車に叩きつけられたのだろうか、ケ・ツァルコアトの家具の残骸の中で転んでいた私は、恐蟲が飛び立ったのを仰ぎ見た。


 ――そんな‥


 「――なんで‥ うそ‥  ――母さま‥  ――母さまが‥ なんで‥」

 「――姫君 !」

 「――母さまが‥  シロウ‥ かあしゃまが‥ かあしゃま‥ かあしゃまああ‥ ううう‥ うわあああああああああ‥ ううううう‥ あああああ‥」

 息を切らして駆けつけたシロウさんの胸に抱き着いて、私は、大泣きした。



 恐蟲は、まだ腹を空かしている様だった。人のが集まるからか、関所の屋根の上を飛び回っている。  

 「動物の血の匂いでおびき寄せますか‥ 餌を食わせてる隙に、背中によじ登って、左の減速桿をめいっぱい踏み込めば沈黙するはずです‥」

 「私がよじ登るから」

 「――はい‥」

 私達は、家畜を手にいれようと関所の建屋へと戻った。建屋の中は、荷馬車とともに、商人や旅人が、犇めくように身を潜めていた。関所の役人は、こんなときでも通常の業務をしている。羊を運ぶ商人がいたので、私が声をかけた。シロウさんが値段の交渉をしている間に、私は、魔符を作っておく。肩口にある魔男爵はまだ使えそうだったが、汗が滲み始めていたので、剥いでおいた。慎重に、丁寧に、魔文字を記しながら、方々で立ち上る不満を耳にしていると、いま、恐蟲に剣の魔法が効かず、こうして足止めを喰らっているのは、自警団の訓練が足りてないからだという声が広がっていた。ときおり、金切りるような羽音が天井の上を横切ると、そういった不満も押し殺されて、人々は静まり返った。私は、三枚の魔符を書き上げ、一枚はシロウさんに渡した。そして、一頭の羊を壱拾萬銀で買い取った。



 激しく嫌がる羊の、その首に巻かれた綱を、二人がかりで引いて、私達は、関所の風上にある防風林の向こうの砂浜へと向かった。食肉として飼育された羊とはいえ、その命の生々しさに、ふと、躊躇いそうになる。

 「姫君は、屠殺されたことは ?」

 「ありません」

 「なら、俺がやりますんで‥ 浜に着いたら、剣を研いでおいてください」

 「――シロウは‥ 料理が得意でしたね」

 「羊はないですけどね‥ 鹿が畑を荒らすんで、捕まえて肉にするくらいはやります」

 砂浜につくと、切先の欠けてしまった火打ち剣を丹念に研いで、そして、シロウさんに手渡した。目を閉じて待つ。下手な管楽器のような羊の声に、カビリアで自決した、あの活動家の、あの断末魔の声がよぎった。ほどなくして、潮にまじって血の匂いがした。恐るおそる目を開けると、首と体が切り離された羊が横たわっていた。私達は、羊の亡骸を挟むようにして、待った。ふと、防風林がそよぎはじめた。

 「罠にかからなかったら‥ どうします ?」

 羊の死骸を見て、私は、そう言った。

 「焼いて食いますか ?」

 「まだ、お肉には見えませんが‥」

 「まず、傷みやすい内臓をとります‥ 膀胱を破らないように、内臓と体を包丁で切り離して、大腸の端は摘まんでおきます、一気に出して、皮を剥いで、そしたら、見慣れたお肉になりますよ」

 「そうか‥ 下手にすると、臭くなってしまうわけか‥」

 「そうです」

 「――なんでもそうですね‥」

 「上手く、出来ますよ」

 「うん」

 血の匂いが潮風に乗ったのか、関所にある半鐘塔のあたりを不規則に飛んでいた黒い巨体が、一直線に、こちらへと進路を取ったのが見えた。

 「来たっ ! シロウ !」

 「来ましたね !」

 私たちは、ひとまず、後方の防風林へと退避した。あの金切り音が防風林を掠めるように響いた。そして、ドスンと砂地を響かせ、落ちるかのうように降り立った黒い巨体が、羊の腹に喰らいついたのが見えた。私たちは、防風林を通って、黒い巨体の真後にまわった。

 「左が、減速幹ですね」

 「はい」

 あの巨体を眠らせる装置の位置をシロウさんに確認した私は、魔男爵を手にして、その黒い巨体へと駆けた――


 「絶対防壁盾よ !」


 ――盾の魔法を纏い、黒い巨体へと迫る、そして、その凶器のような脚に飛び乗った、その瞬間だった、凶器のような脚が、私の体を撥ね飛ばした。私の体は、激しく打ち付けられ、砂の上に転がった。


 ――怪我はない‥


 口に入った砂を吐いた。肩口に目をやると、魔男爵が破れてしまっていた。


 ――はずだが‥


 ふと、シロウさんが黒い巨体へと走るのが見えた。

 「だめ !」

 思わず叫んだ。しかし彼は、黒い巨体の正面に周り込むようにして走ると、転がっている羊の頭を掴み、そして、一目散に退避した。たしか、恐蟲には、奪われた獲物を執拗に取り返そうとする習性があると、リンキリー先生に習った――

 「シロウ ! 危ない !」

 「無理です ! 姫君 ! 半鐘塔へ !」

 私は彼を追い、防風林の向こうの半鐘塔へと駆けた。


 ――シロウさんならば‥ 算段があるはずだ !


 「半鐘塔の ! 中階のテラスに ! この頭を置きますから ! 姫君は ! 上から飛び乗れますか !」

 「わかった !」

 ふと、背後を見ると、こちらを向いた黒い巨体が、羽を広げようとしていた。私は、二枚目の魔符を火打ち剣に刺して、柄の撃鉄を引いた、足止めにはなる――


 「地中貫通火剣貫け !」


 ズ ゴ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ ー ン


 ――剣先から放たれた猛烈な火炎放射が、黒い巨体を殴りつけた。爆炎とともに、大規模な砂煙が巻き起こり、余波は海面を抉り、大波が、沖合を打ち付ける。それを背に、防風林を駆け抜け、半鐘塔に駆け入って、階段を駆け上がる。まだ、日常的に恐蟲の脅威があった時代の建築のようで、堅牢な外壁をしている。シロウさんが中階のテラスに羊の頭を置こうとすると、頭上で金切り音がした。私は、咄嗟に彼の手を引いた。ドスンと音がする。羊の頭を抱えたまま、彼と私は、重なるように倒れた。仰ぎ見ると足が震えた。恐蟲がいた。その黒い姿は、不条理を手にして奢る人間を、地獄に引きずり込むために顕現した魔王のように巨大に思えた。ドスンと半鐘塔が揺れる。なるほど、テラスの入り口が狭いので、その黒い巨体は、こちらに入ってこられないのだ。しかし、その黒い巨体が壁にぶつかる度、この堅牢な石造りの壁が砂埃をあげる。

 「姫君、急ぎましょう !」

 「ええ !」

 羊の頭を恐蟲の目前に置いて、私と彼は、屋上へと駆け上がる。ドスンという音とともに、幾度となく半鐘塔が揺れる。屋上へと駆け抜けて、中階のテラスを見下ろすと、高さがあった。


 ――あまり高いと‥


 あまり高さがあると、魔子爵の、おそらく魔子爵の、その盾の魔法に跳ね飛ばされてしまう恐れがあった。

 「高いですか ?」

 「少し」

 「なら、俺が、ぶら下がります‥ 姫君は、俺を梯子にすれば、俺と姫君の背丈分は稼げます」

 シロウさんはそう言って、魔男爵を私に差し出した。私は頷いて、彼から魔男爵を譲り受けると、彼は、鉄製の柵をこえて宙ぶらりんになった。私は、火打ち剣を鉄製の柵に立て掛けると、同じように、彼の傍らで宙ぶらりんになり、じわりと、その背にしがみついた。シロウさんの手に私の体重がずしりとかかるのが見えた。私は彼を梯子にして、じわりと体を沈めた、そして、彼の足首を掴むと、再び、宙ぶらりんになった。見下ろすと、恐蟲の背中の座席が近くに見える。

 「シロウ、少し揺らします」

 「は、いっ !」

 私は前後に体を振って、荒れ狂う恐蟲の座席へと飛び込んだ。


 ゴンッ


 魔子爵にはじかれることなく、恐蟲の背の中に私は落ちた。私はすぐさま減速幹を踏み込んだ。しかし、恐蟲は荒れ狂い続けた。半鐘塔の壁が崩れる音がして、そして、羊の頭を噛み砕く音がした。私は、座席の中に魔符がないか探した。それは、操縦桿の付け根の、柔らかい部分に張り付いてあった。


 ――あった !


 その魔文字は、魔男爵に似ていたが、しかし、違うようだった。魔子爵を剥がして懐にしまうと、食事を終えたのか、恐蟲の羽が広がっている。恐ろしいほど強靭に震えはじめたその羽を避けようにして、私は、恐蟲の背中から跳び退いた。半鐘塔の中に転がると、飛び立った恐蟲の腹が見えた。

 「姫君 ! 怪我はありませんか !」

 屋上へ続く階段からシロウさんが火打ち剣を手にして降りてきた。

 「シロウ ! 火打ち剣を ! 仕留めます !」

 火打ち剣を受け取った私は、再び、半鐘塔の屋上へと登った。恐蟲の黒い巨体は東の空にいた。その遥か先にはクチナシ高原がある。帰巣本能なのだろうか―― 去来する感情を払うかのように、私は、に思考を巡らせて、火打ち剣に魔符を刺し、柄の撃鉄を引く。そして、に腕を添えて腰を沈めた。あの腹に、リンキリー先生の血肉がある――

 

 「地中貫通火剣さようなら


 トリガーを引くと、発火した魔符が猛烈な火炎放射となって空に走った。


  ゴ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ ー ッ


 ――この世界に、躍進と災禍をもたらした不条理の火炎は、今度こそは、恐蟲の、その恐ろしく強靭な体を霧散させ、火炎もまた、東の空へと霧散した。その不条理を見ながら、私は、放心してしまった。ふと、温もりがした。シロウさんの片腕が、私の肩を抱いたのだ。悪くない気がした。



 ドブロイの自警団に、恐蟲の駆除を報告を済ませた私は、テト=マ=リッサーとして、リンキリー先生の葬儀に立ち会った。葬儀は、ドブロイの港で行われ、先生の僅かな肉片は、壊れた馬車や、ケ・ツァルコアトの家具と共に荼毘に付された。

 使用人の多くは、この地に残ることを選択したようだった。しかし、幾人かの従者は、先生が最期まで身に着けていた遺品を抱えて、マーロへと船で旅立った。私は、彼らに、リッサー本家の当主に宛てた書簡を持たせて、別れを告げた。



 石造りの高層の雑居が連なる海沿い繁華街には、すでに日常が戻っていた。貝や魚を焼く香ばしい匂いが、潮に混ざって漂ってくる。

 「――あ、姫君、ここ、浜焼きやってますよ、ほら !」

 「そうね‥ お葬式の後は、贅沢をしなきゃね‥」

 「――はい‥ あれ、姫君‥」

 私は、海鮮丼のある飯屋を素通りして、ひとつ裏の路地に入った。その路地には、宿が軒を連ねていた。男女が、情事を交わす宿だそうだ。私は、頃合いの宿を決めて立ち止まる。

 「――姫君、この通りは‥ ――ああ、呑み屋ならあるのか‥ ああ、でも姫君、俺、酒は、飲まないですよ‥」

 「シロウと、ここに入りたい」

 そう言って私は、シロウさんの小指を軽く握った。

 「――えっ‥」

 私は、指の皮が捲れて痛そうなシロウさんの手を引き、連れ込み宿の暖簾を潜ると、その中へと歩んだ。番台にも暖簾があり、顔が見えないようになっている。番台の暖簾の向こうから「半時、弐千銀ね」と、女らしき声がして、私は、花の絵札のついた鍵を受け取った。俯き気味で暖簾を潜るシロウさんの顔は、どこか不安げに思えた。私は、上の階へと続く、薄暗い階段を上った。彼もついてくる。ひとつの階には、ひとつの部屋があるようだった。何度もおりかえし、六階まで来ると、絵札とおなじ花の絵画が飾られていた。暗い廊下に、その奥の部屋から光が差し込んでいる。部屋の奥の窓の向こうには海が見えた。部屋には、幾つもの極彩色の蝋燭と、ひとつの寝台が置かれている。シロウさんが、何時になく緊張した様子で部屋に入ってきた。私は、部屋に鍵をかけ、カーテンを閉じ、寝台に腰を下ろした。

 手のひらで、寝台の感触を確かめていると、シロウさんは正座して私に頭を下げた。何事かと思った。

 「俺は、姫君の家来です‥ 姫君を、その‥ ここで、抱かせて頂くわけには参りません‥」

 「シロウは、家来という身分が欲しいのですか ?」

 「――え ?」

 「破格の報酬を約束しました‥」

 「違います‥ はじめて顔絵を取らせて頂いたときから、俺は姫君に恋しています‥」

 「はい」

 「その‥」

 「なによ ?」

 「姫君は、ご不安だから‥」

 シロウさんは、何か言葉を選んでいるように思えた。

 「――あ、お酒と同じか ‥」

 「え ? ――そ、そうです !」

 「シロウ、私は、お酒ではありませんよ‥」

 「ご無礼を‥」

 「もういいから‥ 頭を上げなさい‥」

 私がそう言っても、シロウは頭を下げたまま口を噤んだ。

 「シロウ !」

 「あの‥ お見苦しいほどに‥ 股間が‥」

 私は、寝台から腰をあげて、シロウさんに歩み寄った。そして、正座して頭を下げた彼の間近にしゃがんでみせる。私が黙っていると、ふと、シロウさんは頭をあげた。私は言った。

 「ヴァカ !」

 「あっ‥」


 ――唾、飛んじゃったし !


 褒美でも貰ったかのような面持ちで、彼は、額に飛んだ私の唾を手で拭った。私は、懐から魔子爵の記された紙を取り出して彼に見せる。

 「魔子爵です」

 「――え ?」

 「こういう場所なら‥ 都合がいいと思ったから‥」

 私の言葉を察したのか、シロウさんは、胡坐をかき、耳を赤らめて項垂れた。

 「――ご容赦を‥ 姫君‥」

 私は、彼の体に触れるような距離で、その傍らにおなじように胡坐をかいて、ふたりの間に魔子爵の記された紙を置いた。すると、シロウさんは姿勢を正し、その魔文字に目をやった。


   ――3変数アッカーマン関数を以下のように定義する。

    Ack(0,0,z) = z+1        

    Ack(x,0,z) = Ack(x-1,z,z)     

    Ack(x,y,0) = Ack(x,y-1,1)      

    Ack(x,y,z) = Ack(x,y-1,Ack(x,y,z-1))

    x : 0以上の整数

    y : 0以上の整数

    z : 0以上の整数――


 「操縦桿の、付け根のところにありました‥」

 「似ていますね‥ 全体的に‥」

 「そうなんです‥」

 私は、魔男爵を記して、魔子爵と並べてみせる。


  ――アッカーマン関数を以下のように定義する。

    Ack(0,n) = n+1

    Ack(m,0) = Ack(m-1,1)

    Ack(m,n) = Ack(m-1,Ack(m,n-1))

    m : 0以上の整数

    n : 0以上の整数――


 「『3変数この文字列』が増えて‥ 『xこの文字』と‥ 『yこの文字』と『zこの文字』が入れかわるか、増えるかしてるのか‥」

 「私も、数字のような気がしてきました‥ 桁が大きくなったとか ?」

 「そうですね‥ 姫君‥ 『,これ』と『: これ』は文字の一部なんでしょうか ?」

 「さぁ‥」

 「姫君、以前、ぼんやりと疑問に思ったことが、今まとまったんですが‥ いいですか ?」

 「どうぞ」

 「はい‥ この、二行目から五行目を数字だと考えたら、『xこれ』と『yこれ』と『zこれ』は、特筆されています‥ で、必ず『0これ』もしくは『: 0これ』と組になっています」

 「――はい‥ はい !」

 「例えば‥ 魔男爵の『nこれ』を、魔子爵の『zこれ』に置き換えて、魔法は正常に動くでしょうか ?」

 「その実験は、怖いですね‥」

 「盾の魔法でも ?」

 「うん‥ どちらも、動くか、動かないか‥ 暴発するかです」

 「――そうですか‥ もし、置き換えて、魔男爵が、魔男爵として動くとしたら、単純な数字ではなくて、なにかの算術かもしれません‥」

 「――算術‥ ねえ、シロウ‥」

 「はい」

 「――やはり、あの恐蟲は‥」

 「軍事的なもの‥」

 「うん」

 「――そうだ、姫君は、なぜこれが魔子爵だと ?」

 「――ああ‥ 魔伯爵が実在するとは、今は考えていないからです‥」

 「ロマンチストの姫君が‥ ですか‥」

 「はい」

 「それは、何故、実在しないと ?」

 「魔男爵の写本とされる本を閲覧したことがあるからです‥ 内緒でね‥」

 「――それは、さすが、テト=マ=リッサー様だ‥」

 「ううん‥ 私が凄いんじゃなくて、リンキリー先生が司書をしていたから‥ マーロ宗の総本山にある大図書館‥ でね、そのあとがきによると、魔子爵には無限に版があって、ある版には、必ず上位の版があるのだそうです‥ だから、この魔文字を数字だと考えると、理に適っています」

 「――詩だと、優劣が自明ではないですね」

 「そうです‥ しかし‥ 魔伯爵と、魔子爵の間には、この世界に持ち込んではいないが‥ 無限冊を超える数の魔書があって、ある魔書には、必ず上位の魔書ある‥ そして、それらが永遠に到達できない魔書が、魔伯爵であると‥ 魔文字を数字だと考えると、そんな数がありますか ?」

 ぽたりと、魔子爵に涙をこぼしてしまった。私の知った風な言葉は、みんな、リンキリー先生の受け売りだからだ。ふと、私は驚いた。それが溢れてしまいそうな感情を留めた。涙に濡れた魔文字は、涙に濡れてもなお、滲まないでいた。


 続く。

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