第2話 葡萄畑の空中戦

 私がその蟲売り商人に会ったのは、大戦前夜のまだ私が童女の頃だった。ペリカン帝国のニカで開かれた万国博覧会には、我々の文明が到達しうる限りの世界の、その文化や技術が集まっていた。人は蟲に捕食されるばかりではない。古来より、庭蟲を飼育し、食してきた。万国博覧会では、人工交配によって作られた新品種の庭蟲も数多く展示され、スープや揚げ物といった料理も販売されていた。パビリオンは山脈のごとく連なり、氷河のような人ごみをのりこえた先に、そのパビリオンはあった。看板に描かれた蟲の気味の悪いこと。お父様の手を引いて勇んで入ってみると、パビリオンは閑散としていて、何のことは無い、数匹のあの庭蟲がいるだけだった。ひとつ違ったのは、その庭蟲にはが生えていた。死んだように動かない庭蟲に、クチナシ高原の遥か東から来たという男が小瓶の液体を塗ると、ぶるぶると蠢く。そしてそのを押すと、押した方に向かって庭蟲は歩いた。また、を逆に押すと、今度は歩くのをやめた。お父様が「なんだこの角は?」と訊くと、その男は「これは蟲のだ」と答えた。今はこの庭蟲しか加工できないが、そのうちもっと大きな蟲を加工できるようになる、そうすれば、馬や牛には不可能な仕事をさせることが出来ると熱弁をふるった。お父様は「それはすばらしい」と感嘆し、壱拾萬でその庭蟲を譲って欲しいと男に云った。男は、これは最先端の技術なので壱千萬はすると云い、お父様は驚いて「では、大きな蟲を加工できるようになったら買おう」といってパビリオンを後にした。ニカに滞在中、私はその蟲が頭からはなれず、何度もそのパビリオンに遊びに行った。その頃は、頭にがあることよりも、蟲にがあるのが私は驚きで、今でもときおりこの体験を思い出す。そんなある日、その商人は現れた。私が蟲で遊んでいる脇で、男はいつもの熱弁をふるう。するとその商人は「ぜひ見学させてほしい、その技術が本物ならば私が壱百億で買おう」と云ったのだ。その姿は、今でも鮮明に蘇る。



 路銀の入った鞄を盗まれてしまって、私は途方に暮れてしまった。剣の魔法に自信のあった私は、カビリアの町の自警団の用心棒として働こうと考えたが、そこで私は命を狙われた。逆に、自警団に命を救われたのである。

 この自警団に雇われるにしても、協議会で承認されなければならず、次の協議会が開かれるまでの間、私は、私の家来となったカビリアの警官、シロウさんの実家の旅宿に戻っていた。閑古鳥が鳴いている旅館は、暗殺者に備えて籠城するにはこの上なかったが、いざ閉じこもってはみたものの、あの日のことばかりが胸の内に去来して耐え難く、参道の傍らに一反と四畝ほどの夏文旦の畑があるというので、シロウさんと二人、弁当をぶら下げて夏文旦の畑に出かけた。



 夏文旦の畑は、どの木も全く剪定をしたことが無いかのように見えた。この木も主枝が見当たらない。本来なら主枝になったであろう枝の先端は地面を擦り、その枝の背から伸びた立枝が、逆に伸びて天を突いている。とりあえず、この邪魔な枝をごっそりと鋸で切り落とすと、木の中に太陽が差し込んできた。

 「あれえ‥ 姫君、もう一列くらい剪定してないですか‥ 俺なんか、一本剪定してやれやれって言ってるのに‥」

 「ここの畑、傾斜があるから‥ 思ったより大変‥」

 「いやー、すごい‥」

 昼になると、参道の石畳に胡坐をかいて弁当を食べた。シロウさんの拵えた弁当は、にぎりめしにしても華やかで、この日は、山椒の利いた川蟲の天ぷらが、はみ出るように入っている。

 「これなら南路を歩けるわけだ‥ 俺は‥ 歳かな‥」

 「そんなに‥ 歳ですか ?」

 「ええ‥ ――はは、姫君なら、帰りも南路を歩けますね‥」

 「無精ひげを剃れば、もっと若く見えますよ 、きっと !」

 「あはは‥ そうかな‥」

 「はい ! ――さすがに帰りは、南路の終点で船に乗るつもりだったけど‥ 帰るべきかな‥ 早めに‥」


 ――なんで私が命を‥


 「――姫君、お時間、よろしいですか ?」

 「時間だけはあるから、こうして剪定をしているのでしょ‥」

 「そうでしたね」

 私とシロウさんは参道を下った。チャムさんの店のある繁華街を抜けて、幾度となく石段を下ると、風雨で朽ちた建物が目立ち始めた。増築を重ねたのか、木箱を乱暴に積み重ねたように、小屋が連なっている。至る所に宿があったが、みるところ、馬小屋もなく、旅宿では無い様だった。路上に座り込む人を多く見かけるようになった。皆、襤褸を着ていて、近くを通るだけで臭った。

 「ここは、日雇いとか、流れ者が多いんです‥」

 シロウさん―― いや、警官さんはそう言った。

 「へえ‥」

 警官さんが、路地の曲がり角にある薄暗い宿に踏み入る。私も、土埃を被った木箱や、黴臭い布団の束を避けながら、彼の後について廊下を歩んだ。

 「連れ込み宿です」

 そう、警官さんは言った。

 「――連れ込み‥ ?」

 「男女が情事を交わすための宿で――」


 ――え‥ !?


 私は歩みを止めた。


 ――ええ‥ !?


 「――私‥ まだ‥ まだ‥」

 「――え ? いや !? いや !? いや !? 違いますよ !?」

 「――母しゃま‥」

 「ああ、姫君、御免なさい‥ 泣かないで‥ あの‥ こういう宿は、顔を合わせなくていいので ‥ 潜伏するのにいいと思ったんですよ‥ !!」


 ――からかっちゃった !


 「冗談です‥ シロウ‥ えへ !」

 「――なんだ‥ 冷や汗出た‥ ああ、でも、御免なさい、姫君、いきなり‥」

 彼は悪びれながら、廊下の奥にある扉を開いた。そこは、寝台があるだけの殺風景な部屋だった。寝台の傍らには鉄製の桶があって、何かを焼いたような跡があった。寝台の下を覗いた警官さんが、木箱を引きずり出した。小さな瓶がいくつも入っている。酒瓶ではない。よくみると、瓶には二種類あって、どれも空のように見えた。寝台にある鞄を手に取って警官さんは言った。

 「生活感のないやつで、これが、姫君を襲撃した犯人の形見です‥」


 ―― !?


 「私の路銀‥ !」

 「―― は‥ たぶん‥」

 警官は、鉄製の桶を指さした。

 「――ああ‥」

 「木箱の瓶は二種類あって、ひとつは恐蟲の臭いが強烈です‥ もうひとつは何かの薬品かな‥ よくわからない‥」

 「なんでしょう‥」

 寝台に置かれていた遺品らしき鞄の中から、警官さんが小さな木箱を取り出して開いてみせた。そこには、硝子だろうか、大鋸屑で守られるようにが入っていた。貴婦人が描かれたその絵は、驚くほど精巧だった。

 「――これ、絵には思えないんですよね‥」

 警官が、そう言った。

 「描けませんか‥ ? シロウにも‥ ?」

 「――時間をかければ‥ ただ、こんな精巧な絵は見たことがない‥」

 「――写真乾板 !」

 「――しゃしんかんぱん ?」

 「これ、物凄く高価なものです‥ 博覧会で母さまと描いてもらったことがあります‥ たぶん、そうです !」

 「では、この絵の御婦人は、かなりの身分なのでしょうか‥」

 「――うん」


 ――そのはずだけど‥


 「姫君‥」

 「はい ?」

 「姫君が、皇帝に即位される可能性は、どのくらいありますか ?」

 「可能性は、ありますが――」

 ペリカン皇帝は、男系男子で継承されてゆく。皇帝家の男子が途絶えたとき、皇帝家の分家である、ニカ・リッサー家もしくはロロ・リッサー家から皇帝家に養子に出すことになっている。この男系男子による継承が途絶えざるをえなくなったときは、ペリカン帝国の太祖の生家、つまり、我がリッサー本家の当主の子供がペリカン皇帝を即位し、新たな皇帝家を起こすとされていて‥

 「――継承順位は三桁は下らなかったと思います‥」

 「では、お家騒動は考えにくいですね‥」

 「はい‥ ――ねえ、シロウ、私は、今すぐにでも家に帰るべきでしょうか‥」

 「――姫君、ご無礼を承知でお尋ねしますが‥ もし、御父上が亡くなられたとしたら、リッサー本家の当主を御継ぎになるのは‥ ?」

 「私です」

 「その次は ?」

 「父さまに新しい子が出来ればその子か、出来なければ従妹になるのかな‥」


 ――まさか、父さま、あの後妻ガキに騙されて‥


 「姫君のお父上は、どういった身分の方と再婚されたのでしょうか ?」

 「町の踊り子‥ 市井の子‥」

 「うん‥ お家騒動はないですね‥」

 警官さんは言った。

 「――そ、そうですよね !」

 「姫君、もう一カ所だけ、お時間よろしいでしょうか ?」

 「――うん」



 次はどこに連れ込まれるのだろう期待したが、あの警察署らしかった。下った数だけ石段を上り、さらに谷の上まで歩かなければならない。ペリカン山脈の南路を歩いてきた私には苦のないことだったが、警官さんには堪えた様だ。何度も袖で汗を拭い、ついには谷の中腹で座り込んでしまった。しばらくして腰を上げたのが見えたので、私は谷を駆け下り、彼の手を引いた。

 「もう ! 情けないんだから !」

 「――姫君みたく‥ ――若くないんですよ‥」

 「あなたが昼間から酒を呑むような生活をしていたからです ! ほら ! いっちに ! いっちに !」

 「――姫君‥ ――俺‥ ――断酒しようかと思います」

 「いっちに ! ――頑張って !」

 「はい !」

 そんなつもりで言ったのではなかったが、警官さん―― いや、シロウさんは私にそう誓った。



 「警部 ! 警部 !」

 彼が声をかけたのは、盗まれた鞄の相談をする私を追い払うかのように、出動のラッパを吹いたあの署員だった。同僚であるはずのシロウさんを無視して男は書類の整理を続けた。

 「警部 !」

 「警部さん !」

 私が声をかけると、警部は手を止めて私に目を向けた。その視線の間に割り入るようにしてシロウさんは警部に申し出る。

 「新聞社のリストを見せてくれないか ?」

 警部は目をそらし、再び、書類の整理をはじめた。

 「――それは出来ないことになってる」

 「そんなこともダメなのか ?」

 「――意地悪をしているわけじゃない‥ 理解してくれ」

 警部が、シロウさんの顔を見てそう言った。シロウさんは、かつてフラミンゴの中央警察で幾つもの事件を解決した英雄だったのだが、警察内部の腐敗した連中は彼の才能を恐れた。彼は、故郷であるカビリアの町に左遷され、こうして意地悪をされている。殴ってやろうかと思ったが、シロウさんは、二つ折りにした紙を警部の手元に差し出した。

 「自決した男の遺留品を見つけた」

 シロウさんがそう言うと、警部は静かに息を漏らした。そして、シロウさんの差し出した紙を手にとって開くと、徐にラッパを手に取り吹き鳴らした。

 「見るだけなんだ‥ 頼むよ」

 「――忙しいんだ、お前と話している暇はない」

 警部はそう言うと、部下を引き連れて警察署を出て行った。その行動が温情なのか私欲なのかはわからなかったが、警察署に取り残された私たちは、警察署の資料室から『恐蟲飛来事案』と書かれた事件簿を持ち出して閲覧することができた。

 事件簿には、日付ごとに出来事や証言が記されていて、その中には、テト=ゴッパトスという娘が、剣の魔法を恐蟲に命中させたことも書かれてある。あの日の出来事を目で追って行くと、末尾に、事件の取材に来た新聞社の名前が書かれてあった。カビリア新聞、フラミンゴ中央新聞、フラミンゴ市民新聞、数十の新聞社の名前の中に、少なくともひとつ、場違いな新聞社の名前を見つけた。ペリカン・ヘラルド・トリビューン。ペリカン帝国のロロにある新聞社だ。他の事件簿にも目を通してみたが、過去に、ペリカン・ヘラルド・トリビューンが取材に来た記述は見当たらない。


 ――もし‥


 もし、あの事件がお家騒動であるならば、その関係者がペリカン・ヘラルド・トリビューンに情報を流すことはないはずだ。しかし、謀略が漏れ、それをペリカン・ヘラルド・トリビューンが掴んだと考えることも出来る。だが、私の暗殺に、あのような恐蟲が関わるだろうか。であれば、私は、ペリカン帝国内の何某かの謀略に利用されたのかもしれない。何れにせよ、今、ペリカン帝国に戻ることは、早急な判断に思えた。



 その日の夕べ、私は、協議会のある遊郭の大座敷に赴いた。すでに、役員が集まっていて雑談に華やいでいた。自警団の総代である遊女、ロクサーヌ=レ=ベッカは、その傍らに私の腰を下ろさせた。しかし、見知らぬ土地の世間話に入る余地があるはずもなく、俯き気味で黙っていると、一人の男が中腰で歩み寄ってきて、私の傍らに膝を下ろした。

 「あんたもテトさんいうらしいな ?」

 「はい」


 ――あんた‥ !


 「儂はな‥ シロウくんには、子供の時分に、そーとーお世話になったんよ‥ ま、中央でいろいろあってな‥ 今はのらりくらりしとるけれども‥ ええ人やから、頼むで‥」

 「――はい‥」


 ――なんだろう‥


 訛りが強くて正確には聞き取れないが、男は、私がシロウさんの家にお嫁に来たかのような口ぶりで話しかけてきた。

 「――そう、自警団のことやけど、今後、もし入ってくれるんなら‥ 入れとはゆうてないんよ‥ もし入ってくれるんなら、守備頭取の話が来るかもしれんから、それは覚悟しといてや‥」


 ――えええ‥


 「――はい」

 「そろっとりますか ?」

 傍らにいた総代が役員連中に声をかけた。すると、守備頭取がまだ来ていないとの声があがった。確かに、座敷に姿はなかった。役員連中がまた騒ぎ始めた。

 「あ、昼間みかけたで‥ ! チャムの前で‥ !」

 「――よい、それ、またどこぞで倒れとらせんか‥ 誰で、守備頭取にあいつおしたん ?」

 「名誉職やったんやから‥ 守備頭取は‥」

 「――クワチさん、クワチさん、あいつに名誉はない‥」

 「やる人がおらんのやから‥」

 「ははは‥ これからは若いもんにまわすのよ‥ ロクサーヌちゃんみたいに、女性にもっていくのも手よ‥ 総代でも、はや、三回目の話が来よるのやから‥」

 「――総代さん、シロウくんには頼めんか ?」

 「――警察官じゃからの‥」

 ロクサーヌさんはそう答えた。

 「――シロウくん、警察署にもいっとらまい ? 今の守備頭取は辞めさせないかんわい‥ 戦時賠償があるゆうても、命は戻らんけんの‥ 死人が出てからでは遅いで‥」

 「え‥ ! あれ戦時賠償になるん !?」

 「――後十年はの、失火でも請求できる条約よ‥」

 「マジで‥ ! えぐ‥ !」

 「儂の襤褸屋も焼いてもろて、建てなおさないかんな‥ ははは‥」

 「いやいやいや‥ ! ははは‥ !」

 「ははは‥」


 ――聞き取れない‥


 が、外面のいい話ではないと思った。ロクサーヌさんが二つ手を叩いて役員たちを黙らせたからだ。協議会がはじまり、役員が一通りの報告を終えると、ロクサーヌさんは、カビリア新聞の記事を紹介した。カビリア新聞によると、ここから更に南路を下った地方でも、度々、恐蟲が目撃されているという。そこで、恐蟲の調査を目的として、自警団で私を雇うことが、総代であるロクサーヌさんにより提案された。実は、私がカビリアに訪れる以前から、恐蟲に関する調査費は計上されていたものの、調査に手を挙げる役員がおらず、計上された使にも、人を雇う話があったらしかった。それは守備頭取の仕事だという年配の役員もいたが、その守備頭取が協議会にすら来ない有様では、話にならなかった。

 ロクサーヌさんの紹介を受けて立ち上がり、挨拶をしていると、大座敷の襖のあたりで胡坐をかいていた薄毛の男が、配布された資料を見ながらおもむろに手を挙げた。

 「どうぞ」

 私がそう応えると、男は顔をあげて私を見た。

 「――あ、ごめんごめん、続けて‥」

 男が手を下げたので、私は挨拶を済ませ、今度は私から男に声をかけた。しかし、男は、私ではなくロクサーヌさんを向いて口を開いた。

 「シロウくんが調査に同行することになっとるけど‥ これ、調査予算の四十萬銀にシロウくんの人件費は入ってんの ?」

 「入っとらん」

 ロクサーヌさんは答えた。

 「――え ? シロウくん、自警団に入ってないのにどうすんの ? 経費で落ちませんよ ? 自腹 ?」

 「本人が、頑固での‥」

 「いやいや、ロクサーヌさん‥ 例外を作ったら、今後、もめることになりますよ‥ 形だけでも入ってもらわんと‥」

 「そうかの‥」

 「――私が、シロウに自警団に入る様に命じます」

 私がそう宣言すると、役員連中が目を丸くしてこちらを見た。

 「よい、もう嫁の尻に敷かれとるが‥」


 ――え ?


 年配の役員の言葉を皮切りに、また、役員連中に笑いが起きはじめた。薄毛の男はさらにロクサーヌさんを問い詰める。

 「そもそもシロウくんは、なんで自腹のつもりなん ? え ? 公金で新婚旅行したとか言われるのが嫌で ?」


 ――え !?


 不意に、ロクサーヌさんが二つ手を叩いた。

 「ああ‥ では、このテト=ゴッパトスさんを自警団で雇うことに賛成の者は、拍手をお願いします」

 拍手が起きた。

 「――賛成が多いようですので‥ 自警団で雇うことで、本日の協議会は〆たいと思います」

 役員連中の笑いが静まらない中、足早に協議会を終わらせたロクサーヌさんは、私の腕を引くと、私を大座敷から廊下へと連れ出した。



 遊郭の廊下では女中達が酒席の支度をはじめていた。ロクサーヌさんは、廊下の奥の小座敷に私を連れ込むと、襖を閉じ、先のない人差し指を唇にあてがって私に言った。

 「そういう建前にしてある」

 「建前って‥ シロウは、知っているのですか ?」

 「余所者を嫌うのがおるのでな‥ そのくらいの芝居はできるだろ ?」

 「嫌です‥」

 「気持ちはわかるが‥ 」

 「――私は男性と建前で仲良くするつもりはありません」

 遊女が私を見つめた。

 「――あはははっ !」

 呆気にとられた顔というのは、こういう顔なのかと思うような表情を浮かべたと思ったら、遊女は、腹の底から笑いはじめた。そして、笑いを堪えながら、戸棚から札束を取り出し、私に手渡してくれた。

 「四拾萬ある‥ お前への報酬だが、結果は問わん‥ 調査したというのが、自警団にとっては重要なのでな‥」

 「総代さん、私は本気で調査をするつもりです――」

 「頼む」

 「――むしろ、渦中にあるのは私なのかもしれないのですから‥」

 「姫君――」

 「はい」

 「――シロウをよろしくな‥」

 「当然です、私は彼の主人ですから」

 遊女の手が艶やかに小座敷の襖を開けた。大座敷に戻た私は、役員ひとりひとりに挨拶とお酌を済ませ、頃合いを見計らって、酒席を抜け、遊郭を後にした。



 ペリカン山脈の南路は、ペリカン帝国の西端にある山間の町ミードナッツから、八萬尺とも言われる最高峰パイパーレーレの南側を迂回し、フラミンゴの国の東端にある港町ドブロイに至る、古くからの交易路である。私とシロウさんは、足の良さそうな馬を二頭調達し、この山脈の南路を下った。五日目、旅は、その自然の厳しさを除けば平穏だった。魔男爵の伝来の後、北路やクチナシ街道が開墾されたことで、この南路は、交易路としての役目を終えつつあるようだった。崩落した道の復旧ものんびりとしたものだし、閑散としつつある宿場町も見受けられる。

 しかし、スイレンの町の西にある菖蒲谷の宿場はそうではなかった。宿場には天然の温泉が数多くあり、湯治や観光で客を呼び込んでいた。

 私とシロウさんが、この宿場に宿を構えてたのは、何も、遊ぶためではない。宿場の中心にある三階建ての老舗の宿の屋根が、岩でも転がり落ちたかのように壊れているのを見かけたからだった。宿の女中によると、真夜中に、突如、ドスンという大きな音がして、大きな揺れを感じたという。三階の天井は抜け、部屋には屋根の残骸が崩れ落ちていた。しかし、岩のようなものは、どこにも見当たらない。それが、私がカビリアで恐蟲を追い払った翌日の夜だというのだ。

 あの恐蟲の仕業に思えたが、二日かけて宿場の周辺を走り回っても、恐蟲の痕跡を他にみつけることはできなかった。

 明日にはこの宿場を発つことにした。日の沈みきらぬうちに宿場に戻り、夕食をとった。山芋を摩り下ろしたものに出汁をくわえて、それを白米にかけたものと、山菜の天ぷら。山菜の天ぷらは二人で分け合った。


 ――あらら‥


 「――姫君、突撃はなしですよ ?」

 「――ええ‥」

 料理屋の外で、喧嘩が起きた様で、まじまじと見ているわけではないが、二人組の男が声をかけた女が、酔っぱらいの集団の男の恋人だったらしい。それはいい。そこに、二人組の男のと思われる、年の頃なら私とそう変わらなそうな娘があらわれて、喧嘩の矢面に立って、酔っぱらいの集団と口論をはじめたのだ。それが酔っぱらいの集団の火に油を注いだ。酔っぱらいの集団の男のひとりが娘の胸ぐらをつかんだのを見て、今しがた、シロウさんは私に念を押した。


 ――やばいのでは‥


 私は我慢ならず腰を上げた。シロウさんも腰を上げていた。酔っぱらいの集団のひとりが剣を持ち出したのだ。

 ところが、料理屋の外に出てみると、酔っぱらいの男が三人も地面に転がって呻いている。娘の手には、酔っぱらいの男が抜いた剣があった。


 ――峰打ち‥ 凄い‥


 そうこうしている間に、宿場町の自警団がよってきて、この喧嘩は治まることとなった。意外にも、和解をもちかけたのはその娘だった。そしてと思われる二人組の男と、叩きのめした酔っぱらいの男三人を連れて、私達のいる料理屋で酒盛りをはじめた。酒が運ばれてゆく度に、ちらりとシロウさんの目が蠢くのがわかった。

 「いいのですよ ? 一杯くらい呑んでも‥」

 私は、満面の笑みでシロウさんにそう言った。

 「――え ? やー‥ お恥ずかしい‥ でも、姫君をマーロにお連れするまでは呑まないと心に決めておりますので‥」

 「そうか‥ ならばよい」


 ――まじめ !


 食事を済ませて宿に戻り就寝の支度をした。カビリアを発ってからの夜は、私はシロウさんと同じ部屋で夜を明かしている。私が寝ている間はシロウさんが番をし、シロウさんが寝ている間は私が番をするのだ。この日は、夜中に番を交代して、私が夜明けを待った。

 こうして夜の薄明かりにひとり佇んでいると、ふと、胸の奥底に居座る不安が滲み出て来ることがある。


 ――私、カビリアで死んでいたのかな‥


 しかし、怯えは無いはずだ。あの日、初めての実戦で、想像以上に剣を操れたことで、この腕に自信がついた。マーロでは剣聖と煽てられてはいたが、男子と試合をすることはなかったし、実戦では、格好よく立ち回ることは出来ないだろと思っていた。



 カビリア発って九日目の昼過ぎ、切立つ山々の原生林を割くように流れる川沿いの道を下ると、ついに山がきれて、視界に葡萄畑が広がった。

 「ただいまー !」

 私は馬上から叫んだ。

 「姫君はー、来たことがありましたかー ?」

 「あの地平線に言ったのです !」

 「――ああ、ずっと南路を歩いていらっしゃったから !」

 「そうです !」

 葡萄畑は地平線まで続いている。その地平線にむけて馬を歩ませると、どころどころ、葡萄の葉がボルドー液で白くなっているのが見えた。ボルドー液をかけると、銅剤の青みで、葉の青さが増したように見える。南路を旅してきたせいか、こうしてきちんと管理された木々を見ると、長閑で懐かしい。背負いのポンプでボルドー液を散布する農夫の姿も見えた。マーロにいたなら、この季節は私も、夏文旦や酒造りに使う葡萄にボルドー液を散布させられていただろう。


 ――ん ?


 ふと、シロウさんが手綱を引いて止まった。私も手綱を引いて馬を宥める。シロウさんを見やると、空を仰いで耳裏に手を添えていた。私も耳裏に手を添えた。

 「羽音がしませんか ?」

 「羽音 ?」

 彼の言葉に、私も耳を澄ましたが、あの金切り音は聞こえない――


  ‥ゥウウウウウ

    ‥ゥウウウウウ

   ‥ゥウウウウウ


 ――いや、微かに、何か唸るような音が響いている。しかし、カビリアに飛来した蟲のあの金切り音とは違っていた。

 「姫君 !」

 シロウさんが山間を指さした。

 その指の遥か先、空に、何か煌めいた。

 目を凝らすと、整然と、三角形を成して、がこちらに飛んでくるのが見えた。

 「シロウ !」

 私は叫んだ。地平線へ向けて馬を全力で駆けさせた。シロウさんが私の後に続く。しかし、唸るような羽音は大きさを増してくる。


 ‥ゥ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ

   ‥ゥ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ

  ‥ゥ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ


 ぐんぐんと唸るような羽音が迫る。


  ――速い !


 「なんっ‥」


 ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥

   ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥

  ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥


 私は恐怖した。全力で駆ける馬の頭上を、三匹の、おそらく恐蟲が、矢のように追い越していったのだ。

 「なんです ! あの蟲 !」

 「姫君 ! 後ろ !」

 シロウさんの声に背後を見やると――


  ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥

 ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥

   ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥


 ――さらに三匹が飛来して、またしても私たちの頭上を越えていった。そして六匹の、おそらく恐蟲は、地平線の手前で旋回して降り立ったように見えた。手綱を引いて馬を宥めようとするが、馬は興奮して前のめりになっている。暫く走らせ、馬の興奮が冷めるのをてから、私は宥めた馬をカシアラの木に繋いだ。シロウさんの馬は、私よりもずいぶんと先まで駆けていったようだった。



 彼が戻ってくるのを待たず、私は、魔符を作っておこうと鞄から道具を取り出した。しかし、小瓶の尿が足りていなかった。ここ数日、厠から出るたびに、この瓶が空であることが頭がよぎってはいた。今さら後悔しても遅い。

 私は、彼がまだ遠いのを確認して、木箱などが置かれた小屋の陰に行き、意を決めて下着を下げ、屈んだ。


 ――出ない‥


 下腹部を力ませて尿意を待つ。


 ――ん‥


 ――ああ‥


   ジョボッ


 「姫君ー !」

  

 ――ええええっ‥ !


 シロウさんの呼び声がしたのは、やっとおしっこが出始めたと瞬間だった 。絶句せざるを得ない。しかし、鼻が利くのか、草を踏む音が近づいてくる。出始めたものを止められるはずもなく、小瓶に溜まるおしっこが、ジョボジョボと音を立て、恥かしくて泣きそうになった。

 「――あ、いま ! ダメ !」

 「――え ? ああ‥ 小便でしたかー !」

 「いわなくていい !」



 ヴァカシロウの鼻は、すぐに恐蟲の匂いを嗅ぎつけたようだった。葡萄畑から少し山手に入った森の奥に開けた土地があった。そこには、山賊と合戦でもするのかといわんばかりの、農舎にしては堅牢すぎる建物があって、その建物から少し離れた広場に、あの恐蟲の群れがいた。数えると十二匹、それは、カビリアで見た恐蟲とは種が違うようで、赤と白の毒々しい色合いだった。何かを食べているようだ。それは動物の肉に見えたが、人が捌いたような肉だった。藪に潜んでじっと観察していると、建物から人が出てきた。私は息をのむ。その姿は、カビリアで私を襲撃した異様な風体の男と同じ格好をしているのだ。

 「多勢です‥ 突撃はなしですよ‥ 姫君‥」

 「わかっています」

 異様な風体が六人、それぞれに恐蟲に這い上がった。そしてそのに入り、恐蟲の背中から、あの奇妙な被り物だけを覗かせた。


 ――ん ?


 ふと、息を吸った音が聞こえた。

 「姫君‥ この臭いです」

 「――ん ?」

 私も鼻を利かせてみるが臭うはずもない。

 「――あ !」

 私は感嘆した、六匹の蟲がぶるぶると蠢きはじめたのだ。それは、童女の頃に万国博覧会で見た庭蟲を思い起こさせる。

 「――この臭い、雌の分泌液かもしれません‥」

 「――雌の‥ そうか、雌の分泌液で興奮して‥ なんか、どこかの警官みたい‥」


 ――酷いこと言っちゃった !


 「――ええ‥」

 「ごめん、気をわるくしないで‥」

 「いえ‥ あっ !」


 バシッ バシッ バシッ


 恐蟲の群れが羽ばたきはじめる。

 

 バババッ バババッ バババッ

  バババッ バババッ バババッ

   バババッ バババッ バババッ

 バババッ バババッ バババッ

  バババッ バババッ バババッ

 バババッ バババッ バババッ


 その羽に、指先で触れでもすれば、私の体などは、ただの肉片になると思えるほど、その羽ばたきは強靭に感じられた。さらに強靭に羽ばたくと、その大理石のような足がふわりと浮いた。巨大な体躯が軽々と飛び立ってゆく。赤と白の毒々しい体が陶器のように艶めかしい。私は茂みの中からじっと天を仰いでいた。

 「女の臭いがします‥」

ふと、シロウさんがそう言った。


 ――女 ?

 

 その六匹の恐蟲は、遥か頭上を旋回したのち散開し、木々の向こうに消えた――  が、羽音は大きく迫ってくる。


 ドスン !


 背後で地鳴りがした。ふり向くと、赤と白の毒々しい蟲の巨体が藪の向こうに見る。


 ドスン !

  ドスン !

 ドスン !

   ドスン !

  ドスン !


 右、左、あちらこちらで地鳴りが続く。


 ――取り囲まれた !?


 足元に違和感がしたので見ると、ワイヤーを強く踏み込んでいた。古典的な警戒の罠に見えた。ふと、私は肩を抱かれた。

 

 ――シロウ‥


 「俺を捨て駒にしても、姫君は生き延びてください」

 「――それは、最悪の場合ですか ?」

 「はい」

 「――テト=マ=リッサーは家来を捨て駒にはしません‥ !」

 私の肩を抱くその腕に、私はそっと両手を添えた。


 ――あとがとう‥


 「――ありがとう、シロウ」

 言葉にした。藪を踏みしめる人間と思しき足音が、いくつも迫ってくる。藪の向こうから声がした。女の声だ。

 「こちらには魔符が十分にある、盾の魔法を使えば命を落とすぞ」

 忽ちのうちに、私とシロウは、異様な風体の一団に取り囲まれてしまった。藪から現れたその女だけが、腰に剣を携えている。しかし、女だけは市井のいでたちをしていた―― いや、目元には傾奇者の化粧をしている。

 「――宿場の手練れの女です」

 シロウがそう囁いた。そして、抱いた私の肩から手をほどいて、迫る傾奇者の女に立ちはだかった。

 「シロウ、下がりなさい」

 「――はい」

 私が声を張ると、シロウは私の傍らに下がった。迫る傾奇者の女が、剣で斬り会える間合いにまで入ってくる。


 ――こいつ‥


 「ここで何をしている」

 傾奇者の女はそう詰め寄った。


 ――背丈は私よりもある‥


 「――私は、その‥ 冒険旅行をしています‥」

 傾奇者の女が、チラリとシロウに目をやった。

 「こんな歳のはなれた男と‥ お嬢さんが二人旅かね‥」

 「――いけませんか‥」

 傾奇者の女が、私とシロウの関係を怪しむと、異様な風体の一団の誰かが「駆け落ちか ?」とぼやいた。また他の誰かが「だろうな」と答える。その話しぶりは、私のことを知らないように感じられた。自分たちの仲間が、カビリアで命を狙った人物だということには、まだ気付いていないのか―― 傾奇者の女が私に言葉を続ける。

 「近頃、物騒なんでね‥ 取り調べさせてもらうよ ?」


 ――物騒 ?


 この異様な風体の一団が、私を手練れだと知って、警戒して芝居をしているとすれば、十分に魔符があるというのは嘘ではないはずだ。ここで抗えば確実に死期を早めるだけだろう。私は、傾奇者の女に従うことにした。



 裸にされて穴という穴を調べられるような念入りなことはなかった。しかし、火打ち剣と魔符、鞄まで没収され、私とシロウさんは、眼前の建物に連行された。私の把握した限りでは、異様な風体の一団は十二名で、それは、あの赤と白の毒々しい恐蟲の群れと同じ数だ。

 建物に入るとそこは宿舎のように感じられた。まっすぐな廊下の両側に並んだ小部屋に寝台が見えた。廊下の奥は倉庫らしく、棚や木箱いくつも置かれている。薄暗くてよく見えないが、棚は日用品で溢れているようだ。その棚の奥に歩まされると、オイルランプの灯りの下の円台で、二人の男が寛いでいた。彼らは、市井のいでたちをしていて、そう、菖蒲谷の宿場で、酔っぱらいの集団と騒動を起こした、あの二人組の男だ。

 倉庫の奥には扉があり、私とシロウさんはその部屋に幽閉された。ほどなくして、複数の恐蟲が飛び立つ羽音がした。天窓しかない部屋にはこれといった物もなく、おそらく厠のかわりに使えとでも言わんばかりの桶が、部屋の隅に置かれている。これで、どうしろと。私は、扉と向かい側の壁に背をあずけて胡坐をかいた。


 ――ああ、もう‥


 「シロウ、何か面白い話をしなさい」

 私はそう言ってシロウを傍らに座らせた。

 「面白い話ですか‥ んん‥ んんんんー‥」


 ――悩んじゃった‥


 こんなときに、無体とも思える要求をしたのは、腹の上に圧し掛かるような不安を紛らわそうとしたからだ。そう、フラミンゴの中央警察にいた頃の話を聞いてみたい。恋人がいたのかとか‥。

 「そうね‥ 例えば――」

 「あ‥ 魔男爵の魔文字について、思ったこととか‥」

 「――おお、それが聞きたい‥」


 ――残念 !


 「はい‥ 専門家の姫君に、恐縮ではありますが‥ あれって、複雑な文字と簡単な文字が混ざっていますよね‥」


  ――アッカーマン関数を以下のように定義する。

    Ack(0,n) = n+1

    Ack(m,0) = Ack(m-1,1)

    Ack(m,n) = Ack(m-1,Ack(m,n-1))

    m : 0以上の整数

    n : 0以上の整数――


 「複雑な文字って、つまりディアトリマ文字みたいだってことでしょう ?」

 「姫君は、考古学も嗜まれているのですね !」

 「文字そのもに意味があるって‥ リンキリー先生に習ったの !」

 「はい、複雑な文字は、ひとつの文字に単語としての役割があります‥ で、魔男爵の、複雑な文字のある上の一行と下の二行は、何かを語っている文章に思えますが、複雑な文字のない中の三行は、これは文章ではなくて、何か、例えば数字かもしれません‥」

 「数字‥ 数字ですか‥」

 「はい」

 私は、魔男爵の魔文字は、悪魔か精霊に関する大仰な詩だと思っていたので、数字という発想は新鮮だった。

 「何の数字だろう‥」

 「さぁ‥ ふと、思っただけなので‥」

 「――住所かな ? 魔男爵の ?」

 「ああ、そうかもしれませんねえ‥」

 「でもさ――」



 しかし、現実は、否応なく目の前にある。扉の外からの音沙汰はまるでなかった。不安にまぎれてお腹が空き始めていた。私は業を煮やして扉を叩いてみせる。

 「いつまで待たせるのですか !」

 少し間をおいて、部屋の外から声が聞こえた。男の声だ。

 「人がいない !」

 「人って、あなたがいるでしょ !」

 「きちがいな化粧がいただろ !」


 ――あの傾奇者の女がいないのか。


 諦めて扉から離れようとすると、ふと、扉の向こうで話声がしたので、私はそっと扉に身を寄せた。シロウさんが腰をあげて私の傍によってきた。

 「――なぁ、あの娘とやっちまおうぜ‥ もうさ、ご無沙汰なんだよ俺さ‥ 声聴いたら勃っちまったよ‥」

 「おいおい出すなよ‥ くっせぇなあ‥」

 「あの警官には勿体ねぇよ‥ そこの柱に縛り付けといてさ‥ 見せつけて、寝とっちまおうぜ‥ なぁ、縛るロープねぇか‥」

 「牛舎に行なきゃねぇよ‥」

 「とって来いよ」


 ――最低‥


 私は、シロウさんの袖を引いて扉から離れた。今なら戦力は半分以下だ。

 「ここを突破して、可能であれば、あの恐蟲を奪取します」

 「賛成です‥ が、どうやって ?」

 「道具を隠し持ってます」

 私は上着の襟元を開いてみせる。

 「――おっ‥」

 感嘆の声を上げてシロウさんが顔をそむける。私は、乳房の隙間から小さな筆を取り出した。筆の柄には、丸めた紙と、インクの入った――


 ――あっ‥


 シロウさんに目をやると、そっぽを向いて顎の無精ひげをさすっている。

 「インクがありません」

 シロウさんが部屋の隅の桶に目をやった。

 「ヴァカッ ‥」


 ――ここでおしっこは無理 !


 「顔料がいるのです‥ あっ、そうだ‥ シロウ、血です」

 「血ですか‥」

 「むかしは血で書いていたのです」

 それは、私とシロウさんの主従関係からして、と言ってるのと同義な、きわめて無体な言葉だと思われるかもしれないが、しかし、私には、彼に苦痛を与えない妙案があった。

 「――はい、俺が出します」

 「お願いします‥ 私のスカートの中を見れば‥ 出るでしょ ?」

 「――な、なにが‥」 

 「鼻血です」


 ――ここは、主人である私が身を切る !


 「くッ‥」


 ―― !?


 なぜか、シロウさんは笑いを堪えている、堪えているように私には見える。


 ―― 見える !!


 「出ないです」

 「――ああ、下着の中じゃないと‥ 無理です ?」

 「いや、姫君、それは作り話です‥ 興奮した男が鼻血を出すのは作り話です‥」

 「――えっ ?」


 ――えっ !?


 「ですが、鼻を穿じれば血は出ます」

 シロウさんはそう言って、私に背を向けて胡坐をかき、片鼻に指を突っ込んだ。

 「そ、そんな惨いこと‥ シロウ‥」

 「――痛っ !」

 ポタポタと血が床に滴り落ちてゆく‥ 惨い‥ 思わず私は、その背中に抱きついていた。

 「ちょっ、ちょちょっ‥ 姫君っ‥」

 私の乳房に押されて、前かがみになったシロウさんに私は囁いた。

 「さっきの、仕返しです‥」


 ――何のだ !


 「姫君っ‥ 血、血が乾かないうちに‥」

 「あ、そうですね」

 私は、滴り落ちたシロウさんの血に小さな筆の先をつけ、紙に魔男爵の魔文字を書いていった。本寸法の魔符を完成させ、ふとシロウさんの顔を見ると、のぼせたような顔をして、その両鼻から、穿っていないはずの鼻からも、微かに血を垂らしていた。


 ――ねっ ! ほらっ !


 「シロウ、私が看守の下心を煽って扉を開けさせます‥ 看守は私が制圧してみせますから、シロウは貴重品を取り返してください」

 「――御意」

 拵えた魔符を半分だけシロウさんに手渡した私は、立ち上がって扉にへばりつき、そして扉の向こうに話しかけた。

 「あの‥ 聞いてください‥ 私は、この警官に弱みをにぎられて、ずっと、連れ回されています‥ もう嫌です‥ お家に帰りたい‥ お願い‥ 助けて‥」

 ふと、シロウさん見やると、鼻血を拭う手の向こうの目が悲しそうだったので、私はめいっぱい愛くるしい顔をしてみせる。

 「――警官は ?」

 部屋の外から声が聞こえた。私への乱暴を企てた男の声だ。

 「いま、寝ています」

 「そいつと、いっぱいセックスしたのか ?」

 「――は、はい‥」

 「んー‥ そうだなあ‥ なら、俺とセックスしてくれるなら‥ 君を助けてあげるよ ?」

 「セ、セックス‥ ですか‥」

 「セックスくらいさせてくれないと‥ この扉を開ける勇気は持てないなあ‥」

 「一夜だけなら‥」

 「いいのかい‥ へへ‥ まってな‥」

 遠ざかる足音がして、すぐに、細かな金属の擦れる音とともに戻ってくる。鍵を刺す音がした。私は扉から距離をとる。鍵の開く音がする。扉が開いたと同時に――


 「無敵防壁盾となれ !」


 ――その男に体当たりをかけた。盾の魔法にはじかれた男が撥ね飛んで、円台にぶつかり、円台に立てかけられていた私の火打ち剣が床に転がった。その男のはすでに露出していた。床に転がった男の怒張したが無様に揺れる。私を追って部屋から駆け出たシロウさんがあたりを嗅ぎまわる。

 「畜生‥」

 男が、無様な姿で呻いた。

 「騙したな‥ 畜生‥ ぶっ殺してやる !」

 男は、転がった火打ち剣を手にして立ちあがり、怨念めいた表情で斬り掛かってくる。しかし、盾の魔法は寸前のところで剣先を寄せつけない。

 「畜生 !」

 今度は、めいっぱい、大振りで斬り掛かってきた。私は、盾の魔法が身をかわし、剣を持つその両手を掴んだ。男は怒り狂っている。その怒りに合わせて体を押すと、男は重心を崩した。私は男を投げ飛ばし、その手から火打ち剣を奪い返す。

 「ごめんなさい‥」

 無様な格好のまま、男は、涙を流して命乞いをしてきた。いつの間にか縮こまったからは、小便が垂れていた。

 「ごめんなさい‥ ごめんなさい‥」

 「ここでじっとしていれば、惨いことはしません」

 男は、怯えるように頷いた。

 「姫君 !」

 シロウさんの呼ぶ声がした。鞄を二つ抱えている。私は、無様な男を開放して、鞘を拾い、剣を納め、廊下へと駆けた。騒ぎに気付いたか、小部屋から、あの異様な風体のひとりが姿を見せ、髭面で恫喝してきた。

 「おおおい !!」

 私はそのまま体当たりをかける。

 「――盾っ !?」

 鬚面は、盾の魔法に撥ね飛ばされながらも受け身をとり、即座に身を起こした。その手には魔符があったが――


 「無敵防壁盾ぇええ !!」


 ――私は、かまわず鬚面に歩み寄る。怪我をするような攻撃でなければ、盾の魔法に阻まれることは無い。もし、あの魔符が、魔子爵ならどうなるかはわからないが――


 「此奴こいつっ !?」


 ――鬚面が身を引いた瞬間、私の居合術は、鬚面の男の魔符だけを切り裂いた。背を向けて逃げようとする鬚面の男を蹴り倒す。

 「うがっ‥ おおおい !! みんな起きっ‥ !!」

 私は、倒れてうつ伏せになった鬚面の喉元に火打ち剣を添えた。

 「蟲まで案内しなさい」

 「教える‥ 教えるから‥ 殺さんでくれ‥」


 ――手練れに思えたが‥


 私とシロウさんは、鬚面の男に案内させて建物を出た。すると、牛舎までロープを取りに行ったと思われる男が、手にロープを持って帰ってきた。

 「――あれ ? 取り調べ‥ は ?」

 その男は髭面の男にそう言った。

 私は、火打ち剣の柄で鬚面の男の尻を突く。

 「ああ、もう終わった‥ しかし、お前はなんで持ち場を離れているんだ ?」

 「――あ、いや‥」

 尻を、もう一度突いた。

 「――蟲の餌が足りてないようだったからやっておいてくれ‥」

 「へ、へい‥」

 髭面の男がそういうと、ロープを手にした男は残念そうに去って行った。



 まるで、巨大な岩石を触ったかのようだった。全身で押してみたがびくともしない。それだけで、静かに佇む恐蟲に幾ばくか恐怖できた。なるほど、剣の魔法でなければ貫けないはずだと思った。

 「シロウ‥ 乗ってみてください」

 「はい」

 凶器のような恐蟲の脚を踏み台にしてシロウさんがその背に這い上がる。

 「へえ‥ 腰掛けがある‥ 姫君も入れそうですよ !」

 シロウさんはそういって、この岩のような恐蟲の背に入り込んだ。

 「――これは、体を固定するベルトか ?」

 「そうなのですか ?」

 シロウさんの質問に答えようとしない髭面に、私は、腰の火打ち剣の柄に手をのせて、脅した。

 「――そうだ」

 髭面は答えた。私はさらに脅した。

 「操り方を教えなさい‥ さもなくば、斬り捨てて、他の者に吐かせます」


 ――嘘 !


 「――貴様の股間のところに棒があるだろ‥」

 髭面はシロウさんにそう言った。

 「ある」

 「それで操る‥ 操縦桿という‥ 引けば上に飛んで、押せば下に飛ぶ、右に押せば右旋回、左に押せば左旋回だ‥」

 「――なるほど‥ 弄らなければ前に飛ぶのか ?」

 「賢いな‥ そうだ‥」


 ――あ !

 

 「それって、蟲のおちんちんですか ?」

 そう私が訊くと、鬚面の男は照れたような顔をして答えた。

 「――そうだが‥」

 「この、足元のはなんだ ?」

 「右が加速桿で、踏めば興奮剤が噴射されて速度が出る。左は減速桿、毒が注入されておとなしくなる」

 「――では、左の減速桿を踏み過ぎると落下するな ?」

 「そうだ」

 「右の加速桿を踏んで蟲を興奮させて、この棒を引いて‥」

 「ですよ ! シロウ !」

 「――はい、この操縦桿を引いて飛び立たせる‥」

 「やってみましょう !」

 「――え !?」

 私の提案に、シロウさんは驚嘆の声を上げた。私は、戸惑う彼を他所に恐蟲の背に荷物を放り入れた。その背に這い上がると、シロウさんの股の間に、恐蟲のが見えた。ゴムのような質のもので覆われている。シロウさんの背側には、少し高い位置に腰掛けがある。そこに入り込む。

 「――おい ! 無理だ !」

 鬚面の男が呼び止める。

 「姫君、ベルトをしてくださいよ !」

 「しました !」

 「行きます !」

 私は前を覗き込んで観察した。シロウさんが足元の加速桿を踏むと、死んだように佇んでいた恐蟲がぶるぶると蠢いた。鬚面の男が慌てて退避する。今度は、加速桿を踏みながら、脚の間から突き出た操縦桿を引いてみせる。恐蟲が羽ばたきはじめた。


 バシンッ バシンッ バシンッ


 「一気に踏み込んでみますよ !」

 「はい !」

 シロウさんが加速桿を深く踏み込む。その羽ばたきが恐ろしいほどに強靭さを増して行く、そして一気に上昇した。

 「ううっ‥」


 ――なにっ‥ !?


 ついぞ感じたことのない感覚が体に圧し掛かった。それは浮遊感とも違う不快さがあった。これが飛翔なのかと私は感嘆した。体が楽になった。シロウさんが、加速桿と操縦桿を元に戻して、恐蟲を水平に飛ばぜたのだ。

 「――飛んでる !」

 「すいません ! 姫君 !」

 「大丈夫です ! それより ! すごい !」

 葡萄畑が、まるで運河の様に緩やかに流れてゆく。

 「見て ! 世界が模型のよう !」

 それは、ペリカン山脈から遥か遠方のマーロを見たのとは違った、手も届きそうなところに、模型のように集落が広がっているのだ。しばらく景色に見とれていた私は、ふと、魔符を剥いでおいた。荷物を確認すると、没収された二枚の魔符まできちんと入っている。

 「姫君 ! これなら半日でカビリアに着きますよ !」

 「そんなに !」

 操縦桿を右に傾けると、恐蟲はゆっくりと旋回して、そして南路を下る進路をとった。

 「シロウ ! 馬を放してあげないと !」

 「そうでした !」

 繫いだ馬を放そうと、再び旋回をしたときだった。


 ――ん !? 


 ふと、空中に影を見た。


 ブ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ウ゛ゥ゛ゥ ‥


 一匹の恐蟲が頭上を掠めていった。そして、急旋回し、後方、左斜め上から迫って来る。その恐蟲の後部には、あの傾奇者の女がいた。

 「ははーっ ! 早めに解放してやろうと戻ってみたらこれだー !」

 「乱暴されるっ ! 寸前だったのですー !」

 「あん !? どっちが乱暴だああー !!」

 傾奇者の女が乗った恐蟲が私たちの前方に飛んだ――


 「シロウ ! 追い越せますか !?」

 「めいっぱい踏んでます !」

 「ははーっ ! それでは逃げられんぞ ! 蟲も疲れているからなあ !」


 ――私たちの行く手を塞いだかと思うと、急上昇をかけた、仰ぎ見ると、後方に向かって宙返りをしていた、何かが煌めいた、傾奇者の女が剣を構えている。


 ――剣だと !? 


 「よけろ ! シロウ !」

 「ええっ !?」

 「――うわっ !」


 体が大きく横に振れた。次の瞬間、私たちを掠めるようにして――


 ゴ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ ー ッ


 地上に向かって猛烈な火炎が走った。


 ド ゴ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ ー ン


 葡萄畑が、豪雨で大地が抜けたかのように抉られる。ビリビリと大気が震えた。考えるよりも早く、私は火打ち剣を抜いて魔符を突き刺し――


 「火炎を狙い撃ってやる‥」


 ――柄の撃鉄を引いた。


 「今度は叫んだ方向によけるんだぞ ! シロウ !」

 「は、はい !」


 後方上空の傾奇者の女の恐蟲が状態を傾けた。瞬間、追撃の火炎が伸びる――


 「左だ ! シロウ !」

 「左 !」


 ――猛烈な火炎が降ってくる。


 「地中貫通火剣あたれ !」


 ガ コ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ ー ン


 降ってきた火炎に、私の放った剣の魔法が直撃して、空に爆炎が広がる。その爆炎を避けるように飛ぶと、再び、傾奇者の女が乗った恐蟲が、私たちの前方まで降りてきた。傾奇者の女が剣を鞘に納めたので、私も火打ち剣を納める。

 「射撃の腕は、まあまあかな―― 」

 「どうも !」


 ―― !?


 「そんな !」

 私は驚嘆した、傾奇者の女が恐蟲の背で立ちあがり、ふわりとこちらを向いて飛び掛かってきたのだ、私もベルトを外して剣の柄をつかむ――


 「シロウ ! 頭を下げて動くな !」


 ――正面に飛び乗った傾奇者の女が剣を抜いて、上段に振りかぶろうとした、私は剣の峰を上に返した。シロウの背を踏み台にし、そのままその手で剣を逆手に抜く。そして利き腕で剣の峰を一気に押し、傾奇者の女の腹に剣先を押し当てた。こいつ、盾の魔法も使わずに‥。

 「――お前、めちゃくちゃ強いな‥」

 傾奇者の女は、そう言って振りかぶった剣を手放した。剣がするりと落ちてゆく。私も剣を戻す。剣先に微かに血がついていた。恐蟲を跨ぐように、傾奇者の女が腰を下ろす。

 「カモメで我々の仲間を襲ったのはお前か ?」


 ――あ、そういうこと‥ 


 「カビリアで私を襲ったのはあなたの配下なのですか ?」

 「は ?」

 「はあ ?」

 負けじと言い返す。

 「――どういうことだ‥ 小娘好きのおっさん」

 「お、おっさん‥」

 「失礼な !」

 私は、憮然としたシロウに代わって言い返した。そして、踏みつけてしまっていたその背中を優しくさすった。それは「よしなに」という合図だったりすもる。

 「――親子ほどは離れていそうだぜ ?」

 「カビリアの町は、恐蟲の被害にあっていて、それがどうも、あんたの連れの被り物と同じ姿の男の仕業らしいとわかった。その男に、このお嬢さんは殺されかけたんだ、だから、カビリアの自警団で調査をしている」

 シロウは、食い気味にそう言った。

 「そうです !」

 鞄からスケッチブックを取り出したシロウさんは、カビリアで私を殺そうとした男の顔絵を傾奇者の女に見せた。

 「――あぁん‥」

 傾奇者の女が身を乗り出して眉をひそめた。

 「こいつは‥ 痛っ‥」

 服に血がにじんでいる‥ 傾奇者の女は、ことのほか出血しているようだった。

 「シロウ ! 戻って ! 治療をしてあげてください !」

 「はい !」

 「すまない‥」

 

 続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る