本編

第1話 姫と警官

 ペリカン山脈の南路を歩む旅の途中、モズの国からフラミンゴの国へ至る国境沿の宿場で、私は用心棒として雇われた。しかし、用心棒といっても、ならず者を相手にするわけではないようだった。

 男が、密生する笹を鉈で払う。ときおり、夏文旦の木と思しき枝が鉈を邪魔をした。その枝を鋸で切ろうにも、今度は笹が鋸を邪魔して、一歩進んだ頃には、足腰の良さそうな自警団の男でも、汗だくになって力尽き、交代を余儀なくされた。彼らの孫か娘ほどの年恰好の私は、腰に火打ち剣を携えてそれを見ているだけだが、漂う腐敗臭にたえなければならなかった。

 一時ほどして、笹の向こうに空間が開けると、そこには腐敗した肉塊が散乱していた。馬の蹄のようなものがいくつも見えた。一頭や二頭ではない。突然、一人の男が泣き崩れた。その手には、血肉に塗れた女物の柄の衣服らしきものがあった。有史以来、このペリカン山脈の南路で恐蟲が目撃されたことは無いと私は習った。もっとも、馬や人を襲ったのが恐蟲なのかはわからない。しかし、笹や枯れ木を押し倒し、この廃園の中に、こうしてぽっかりと広場を作ったが居るのだ。宿場の自警団の男たちは、それが恐蟲の仕業であると確信し、恐れおののいた。私は、その恐蟲を退治すべく雇われたのだ。恐蟲が飛来することのないペリカン山脈の南路では、今も、火打ち剣を備えてない宿場がある。

 山狩りをして十日の後、国境を越えたフラミンゴの国から、十本の火打ち剣と、百数十枚の魔符が届いた。私の見たところ、魔符はきちんとしたものであったが、魔文字が滲んで使えそうにないものも在った。宿場の総代に頼まれて、を実演してみせた。火打ち剣が放つ火炎が、私の身の丈の五倍はありそうな大岩を、あたかも水風船かのように粉砕すると、宿場の自警団の男たちは驚き、安堵し、ついには、お払い箱となった私は、用心棒らしい活躍をすることもなく、日銭の五萬銀を貰って、国境沿の宿場を発った。



 フラミンゴの国の南路の玄関であるカビリアの町の関所では、顔絵を取るための長い列が幾つも出来ていた。入り口の側にある列に並んだ私は、魔法に関わる所持品の届け出を書いておくことにした。しかし、半時が過ぎても、人の動く気配がない。欠伸が出かけた頃、どういうわけか、私のいる列だけが動き始めた。背伸びして列の先端を見た。明らかに関所の役人ではない男が顔絵を取っていた。格好から警官だとわかった。そして、半時と言わずの間に、私は、その警官の前の椅子に腰かけていた。

 今日は、顔絵を取るのがわかっていたので、山岳服を背負いの鞄に仕舞い込み、可愛い一張羅を着込んでいる。

 「見学してもよろしいですか ?」

 顔絵を済ませた私は、警官の手元を覗き込んでそう訊いた。それは、いつか博覧会で見た写真乾板かと思うほど美しい絵だった。

 「──うん」

 警官は、私に目を合わす事なくそう頷いた。私は、顔絵を取る警官の手元をその傍らで眺めた。ふと、懐かしい香水の香りがしたので警官の顔を見やると、その顎先に無精髭が見えた。そうして、一時ほど、その指先を見ていただろうか、警官が道具を片付けはじめた。先刻までごった返していた商人の姿は、もう、疎らになっていた。

 「──あの、お名前、私、テトと云います」

 咄嗟に、私はそう声をかけていた。警官が、立ち上がりどこかへ行こうとしたのだ。しかし、警官は、逃げるように何処かへ行ってしまった。私が、彼を追わなかったのには理由がある。床に置いておいた鞄が見当たらないのだ。


 ──盗まれた。


 私は、懐の僅かな小銭と、火打ち剣を抱えて、呆然とした。



 警察署に向かえばあの警官さんに追いつくだろうと考えたわけではないが、適当な役人に声をかけ、警察署のある場所を聞いた私は、彼女の指さした先、山間に折り重なる家々の向こうに聳える警察署へと向かって走った。しかし、結局、彼に会えることなく息を切らしただけだった。

 私は、書類の整理をしている暇そうな署員に声をかけ、盗まれた鞄の特徴について話した。その署員が手を止めることはなかった。片手間で話を聞いているのか、いや、話を聞き流しているのかもしれない。その男は、外から聞こえて来た声に言葉を返して私の話を遮った。

 「なんだ !」

 「遺体が見つかった ! すぐに来てくれ !」

 「ああ、今行く !」

 そう言って、台の上にあったラッパを男は吹き鳴らした。

 「──ここに署名をしてくれ」

 署名をするとインクが跳ねた。私は懇願する。

 「路銀が鞄の中にあります‥ 探してくれませんか ?」

 「──盗んだ奴がわかれば逮捕しにいくよ」

 男はそう言って、仲間を引き連れて出動してしまった。閑散とした警察署で、私は、また呆然とした。無一文になるなんて初めてだった。水筒も、ランタンも、着替えも、歯ブラシもない。何もない。

 いつしか、わんわんと泣く声が警察署に響いた。

 「──あんた、探し物ならシロウくんに探してもらい」

 私は、涙を拭って声の主を見た。それは市井の女だった。

 「──シロウ ?」

 女は、私の袖をつかんで、私を警察署から連れ出すと、谷の向こうにある山間を指さした。

 「あそこにマーロ寺院があろがな、参道が見えろ、石段の──」

 「はい」

 「──麓にチャムって居酒屋があるけん、そこに行ったらシロウくんおるから、頼んだらええわい」

 「お知合いですか ?」

 「警察官よ‥ 仕事しとらんけどね‥」



 谷底の盆地に自生したかのようにカビリアの街は広がていた。盆地といえど、至る所に石段があって、あの街を散策するのは難儀に思えた。その盆地の向こう、切り立つ谷の中腹にあるマーロ宗の寺院を目印にして私は谷を下る。その道すがら、あちらこちらに、焼失した家屋の跡らしきものを見かけた。戦争の跡かと感慨にふけったが、ふと、恐蟲のことが頭をよぎった。魔符を作る道具がなければ、火打ち剣があってもしょうがない。


 ──遺体って、恐蟲かな‥


 警察署での出来事を思い返す私の足取りは重い。



 殊の外、はすぐに見つかった。マーロ宗の寺院へと続く参道の麓には、呑み屋と思しき店が立ち並んでいた。チャムと書かれた看板の店の戸を引くと、軽やかな鈴の音が鳴って、四十に近そうな女の気さくな声が飛んできた。

 「ああ、ごめん、今ねえ、酒の肴になるもんしか出してないんよ‥ ランチやろ ?」

 「いえ‥ あの‥ お金が無くて──」

 「アルバイト ?」

 「──シロウという方を探しています」

 「ああ !」

 店主の女は、私の言葉を察したかのような素振りで、間仕切りの向こうの誰かに話しかけた。

 「シロウくん、シロウくん、若い娘がお呼びやで‥」

 何やら話しているようだが、聞こえてくるのは店主の大きな声だけだ。

 「はじめて見る子‥ まさか、隠し子やなかろな‥ ──え ? 彼女 ? ちょっと若すぎんか、シロウくん‥」

 気さくと言うには度の過ぎた店主が、間仕切りから顔をみせて手招きをしたので、私は居酒屋の奥へと歩み入った。


 ──え ?


 間仕切りの奥のテーブルに警官らしき男が突っ伏していた。まだ、昼過ぎだというのに、葡萄酒の空き瓶が二本も転がっている。

 「──え !?」

 思わず、私が困惑の声を上げたのは、そんな体たらくの警官を見たからではない。身を起こして頭を掻きむしる不精髭のその男が、私の顔絵をとってくれた、あの警官さんだったからだ。

 「──テトさん、だっけ ?」

 「覚えていてくれたんですね‥ テト=ゴッパトスです」

 私は、警官の向かいの席に腰を下ろした。

 「なんで逃げたんです‥ 暇なのに‥」

 「ごめん‥」

 「逃げたんだ‥」

 「──絵のこと聞きたいの ?」

 「いや──」

 私は、盗まれた鞄について、ここを訪ねた経緯について話した。

 「旅行で来たん ?」

 そう私に訊いたのは店主の女だ。このお姉さん、常連からはチャムちゃんと呼ばれているようだった。

 「はい」

 「ほやろ‥ 思たんよ‥ 流行りやもんねえ‥ ゴッパトスさんの家も、お金持ちなん ? ごめんね名字で‥」

 「紙問屋なので、お金持ちかもしれません‥」

 「紙問屋‥ すごいやん‥ シロウくん、お嬢様やで──」

 チャムさんの言葉を遮るように警官は話をつづけた。

 「それ、火打ち剣だね ‥ 魔符は‥ 自分で作るの ?」

 「はい」

 「魔符を作る道具も鞄に入ってる ?」

 「はい」

 「そう‥ ──椅子の横に、立ってもらえる ?」

 警官は、何か了解したかのように頷くと、そう私に言った。私は、椅子から腰を上げた。すると、警官も腰を上げた。警官は私の背後に歩み寄り、そして、どういうわけか屈み込んだ。警官の顔がお尻にあたりそうになった。

 

 ──え ?

 

 私が誤解をしていなければ、警官は、今、私のお尻を嗅いでいる。私が、こんな、こんな無礼をされるなんて、ついぞ思いもしなかった。

 「シロウくん‥ ちゃんと説明せんと、ゴッパトスさん泣きそうになっとるで‥ ごめんねえ‥ そいつ、鼻だけはええんよ‥」

 「鼻‥」

 「チャムちゃん──」

 私のお尻の後ろから、チャムさんを呼ぶ声が聞こえた。

 「‥ん ?」

 「──このお嬢さんを、泊めてあげてくれないか ?」

 「シロウくん‥ ここは宿じゃないで‥ あんたの家に泊めたげや‥」


 ──それは‥


 「こいつの家な、そこの参道に──」

 「お金は払います !」

 「お金‥」

 「水仕事でも何でもします !」



 その日は、チャムさんの温情で、店の間仕切りの奥に椅子を並べ、そこで寝させてもらうことになった。夕暮れに、歯ブラシと手拭い、そして握り飯を、チャムさんが差し入れてくれた。遠慮してみせたが、チャムさんによると、どうもあの警官が、握り飯を拵えてくれたそうだ。

 「テトちゃん、お尻を嗅がれたん、まだショック ?」

 握り飯に手を付けずにいると、チャムさんが私にそう訊いた。

 「──頂きます」

 私はそうとだけ答えて、握り飯を手に取り大口で食らいついた。ふわりとした米の中に、庭蟲の肉を甘辛く醤油で煮詰めた具が入っていた。それは、懐かしい味だった。

 「美味しいやろ ?」

 「はい」

 「あたしも好きなんよ、それ」

 「郷土の味なんですか ?」

 「定番の具じゃろ ?」

 「──かあしゃま、母さまがフラミンゴの出なんです‥ 懐かしい味‥」

 「鞄がみつかったら、はよ帰りや‥」



 歯を磨き、寝支度をしたが、夜が訪れると店は繁盛した。寝られないわけではなかったが、意識が微睡むこともなかった。訛りの強い方言で聞き取れないことの方が多いくらいだが、聞こえてくる世間話の大半が、恐蟲に関する事だったのだ。例えば、恐蟲に食われたと思しき遺体が見つかったらしいだとか、蟲を追い払おうとして火事になっただとか── どうも、この街の自警団は、剣の魔法に慣れてないらしい。私は幸運だと思った。恐蟲への恐れよりも、路銀を稼げるという希望が勝った。

 それから二日後の昼時だった‥ あの警官が再び現れたのは。私はチャムさんに頭を下げ、炊事場で皿を洗っていた。警官は、自らの意思で来たというよりも、同僚に連れてこられた様子だった。その同僚の手には私の鞄があった。

 「それ、私の鞄 !」

 「この被害届にある品でないものがあるのだがね‥」

 警官の同僚はそう私に言った。

 「お金は ?」

 「無い、だから、これがお嬢さんのものか証明しなきゃならんから、このシロウに確認してもらって、捜査を終了したいがかまわないかね ?」

 「終了って、参百萬銀ですよ‥」

 「金額のことはわからんね‥」

 「そうですか──」

 私は警官の同僚から目をそらす様にしてそう嘆いた。

 「──わかりました‥ お願いします‥」

 そして、シロウという名の警官にそう告げた。すると、警官の同僚は、書き入れ時の店の台に、私の鞄の中の品々を並べはじめた。生活用品や魔法の道具の他に下着もある。人目が気になった。警官の同僚が鞄の中身を並べ終えると、警官が私の所持品に目をやった。しばらくして、警官の手が動いた。その手は、私の下着を取ろうとして躊躇ったように見えた。そして、下着ではなく、魔符に使う小瓶を手にした。私は動揺した。顔が熱くなるのがわかるほどに。警官は瓶のコルクを抜くと、中の液体を嗅いだ。

 「うん、このお嬢さんの小便だ‥」


 ──は ?


 「お嬢さんの方は嗅がなくてもいいのか ?」

 「ああ‥」


 ──はあ !?


 「おい、食うとんのぞ、小便とか外でやってくれんか‥」

 客の誰かがそう言った。

 「ち、違います ! 私の鞄じゃない !」

 私はそう叫ぶと、壁に立てかけていた火打ち剣だけを手にして、その場から逃げるように店を飛び出した。空には、薄い雨雲が漂っていた。



 行く宛てもなく参道を歩く。あまり辺鄙なところに行くと、鞄を取りに戻らなければならなくなると思ったからだ。とぼとぼと歩きならが、幾度か、参道の麓を振り返り見た。鼻の奥がつんとする。お母様に叱られて、部屋の暗がりでひとりで拗ねているような気分がした。しばらくすると、私の鞄を抱えて、あのシロウという名の警官が追ってきた。

 「ごめん」

 私の後ろで、息を整え終えた警官は、そう謝った。いや、私は怒っているわけではない。ただ、恥かしくて、あの場所にはいられなかったのだ。

 「お握り、美味しかったです‥ まあ、かあちゃまには劣るけど‥」

 私は、警官にそう言ってみせた。

 「──え‥ ああ‥ ──あ、この鞄、受け取ってもらえないか‥」

 「私の鞄には、三百万銀が入っているんです‥ それは私の鞄ではありません」

 「君のにおいがする」

 「おしっこの臭いなんて、し、ま、せ、ん !」

 歩みを止めた私は、警官に向かってそう怒鳴った。

 「ごめん」


 ──私は怒っているわけではない。


 むしろ、私はこのシロウという名の警官に、啻ならぬ関心を持ちはじめていた。あれほどの仕事をこなせる警官が、警察署の総動員がかかるほどの事件の捜査に参加することもなく、なぜ、昼間から酒を呑んでいたのだろうか‥ しかも、この男は、魔法のような鼻を持つらしいではないか、本当だろうか‥ ふと、私は試してみたくなった。

 「受け取って欲しい ?」

 「君のだからな‥」

 「では、かくれんぼをしましょう」

 「は ?」

 「目を瞑って、六十数えて、隠れるから、百二十数える間に私を見つけられたら、その鞄を受け取ってあげるわ ‥ はい ! 始め !」

 「え !?」

 「いーち ! にー ! ほら目を瞑って !」

 「ええ‥ ん‥ さーん‥ よーん‥ ごー‥ ろーく‥」

 警官が、私に急かされて目を瞑ると、私は参道から伸びる細い路地に跳び込んだ。石畳の路地を縫って走る。細い路地からさらに脇に伸びた生活路の階段を上ってゆくと、ふと、剪定もしていなさそうな夏文旦の木が見えた。私はその庭に忍び込んで、夏文旦の暗い株元に身を隠した。夏文旦の黄色い果実に混ざって、花のつぼみが匂いはじめていた。


 ──そんな男なら、家来にしてみたい‥ でも‥


 「‥まさかね」

 私は、夏文旦の影で息を潜めた。そして数を数えた。六十を三回ほど数え終わった頃、足音が迫ってくるのが聞こえた。胸が高鳴る。足音が止んだので、私は、夏文旦の枝を持ち上げて外を覗いた。すると、あの警官がそこにいた。少し照れた様子で私に頭を下げた。私は、平静を装って夏文旦の株元から這い出た。

 「残念‥ 六十を三回も数えたところでした‥ 私の勝ちですが‥ 褒美を取らせましょう‥ そうだな‥ あなたには、この国の道中の鞄持ちを命じます」

 「は ?」

 「暇なのでしょ ?」

 私がそう言うと、警官は、困ったように頭を掻きむしった。

 「ねえ、自警団で用心棒をしたいのだけれど、何処へ行かばいいかな ?」

 「用心棒‥」

 「恐蟲が出るのでしょ ?」

 「出たっぽいな‥」

 「え ?」

 私は、半鐘の音が鳴り響くいていることに気付いた。


                 !


 突如、頭上に金切り音が響いた。家々の狭間から仰ぐ曇天を、巨大な何かが横切ったのが見えた。続いて人の血のようなものが降ってきて、私の顔や服を汚した。その影を追うように、私と警官は、参道まで駆け出した。参道からカビリアの街を見下ろすと、その家々の屋根を掠めるようにして、その黒い巨体は飛んでいた。案山子のようなものを咥えている。図鑑の絵で見たことはあったが、それが私がはじめて見る恐蟲の姿だった。目を凝らすと、案山子のようなものに頭は無く、すでに絶命している様だった。地上から空に猛烈な火炎が走った。しかし、剣の魔法は恐蟲を掠めることなく、彼方の空で霧散した。また火炎が走った── その剣の魔法は今度は地上を舐め、石造りの家々が線上に抉られ、翻る恐蟲を燻すかの様に黒煙が上がった。

 「下手くそ !」

 「戦争でみんな死んでしまったからな‥」

 警官はそう呟いた。その頬にも血がついていた。三つ目の火炎が再び地上を舐めたのを見て、私は警官の持つ鞄に手をかけた。

 「借ります」

 「ああ、返すよ‥」

 警官から鞄を受け取った私は、三枚の紙、尿の入った瓶、インク、小皿、そして筆を取り出した。小皿に尿を注いでインクを溶き、異世界のものとされる魔文字を紙に記してゆく。


  ――アッカーマン関数を以下のように定義する。

    Ack(0,n) = n+1

    Ack(m,0) = Ack(m-1,1)

    Ack(m,n) = Ack(m-1,Ack(m,n-1))

    m : 0以上の整数

    n : 0以上の整数――


 これが『魔書』によりもたらされた魔男爵アッカーマンの知恵を借りたとされる魔法だが、それはお伽噺かもしれない。腰に下げた火打ち剣を抜き、一枚目の魔符をその剣先に刺す、黒煙から逃れるように曇天を漂う恐蟲に剣先を向け、柄の撃鉄を引く── その剣先の奥の山々が白くなっているのが見えた。雨が近い。

 「警官さん‥ 射撃の許可を頂けませんか ?」

 「暴発しないだろうな ?」

 「しません‥」

 「──ああ !」

 私から十分な距離をとると、警官はそう私に答えた。私は叫ぶ。


 「地中貫通火剣貫け !」


 火打ち剣のトリガーを引くと、剣身に走った火花が魔符を発火させる、その火は忽ちのうちに、猛烈な火炎放射となって空に走った──


 ゴ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ ー ッ


 ド ゴ ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ ン !


 恐蟲が爆炎に包まれた。頬に焼けるような感触を感じたかと思うと、方々で窓ガラスの割れる音がした。それは想定外の現象だった。火炎は恐蟲をはずだった。しかし、恐蟲が、眼前の爆炎から飛び出すのが見えた。残骸ではない。すぐさま、二枚目の魔符を剣先に刺し撃鉄を引いた──


 「地中貫通火剣貫きなさい !」


 ゴ オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ ー ッ


 二発目の剣の魔法も、確実に恐蟲を射抜く軌道をとった。


 ド ゴ ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ ン !


 「そんな‥ !?」


     


 地響きに混ざるように、私の脚は震えた。二度の直撃を受けても、その恐蟲は、羽音を響かせているのだ。二歩、三歩と後退さる。私はその姿を見失っていた。


                 !

 

 参道の陰から、黒い巨体が浮き上がる様に私の眼前に現れた。私はに異様なもの見た。それは恐蟲の背の中に潜んでいるかのようだった。奇妙な被り物をつけたそれは、人の姿をしているように見えた。恐蟲の脚が参道の端にとりついた。その脚は、煉瓦で出来た参道の壁を、まるで麩菓子かのように砕いてしまった。火打ち剣の切先を、その巨体に向けるようにして後退ると、私の背中が誰かにぶつかった。


 ──シロウ‥ !


 私と恐蟲を遮るようにして警官が叫んだ。

 「──逃げて !」

 「──あなたも逃げるんです !」

 私は、警官の手を引いて駆けた。恐蟲の羽音が遠ざかってゆくのが聞こえた。ぽつぽつと雨が降り始めていた。鼻先に落ちた雨雫が唇にたれる。血のにおいがした。

 「助かった‥」

 私の後ろを駆けていた警官がそう言った。恐蟲の羽音は、いつしか遠く聞こえなくなっていた。



 鳴りやまない半鐘の音を聞きながら、私と警官は、参道の路地裏で雨宿りをした。とくに言葉は無かったが、居心地は悪くなかった。

 「血がついてる‥」

 雨が疎らになった頃、私の鞄を抱いた警官がそう呟いた。その顔を見やると、彼は、私の頬を見て言った。

 「髪にも‥ 服にも付いてる‥ 俺の家で風呂にでもはいる ?」

 「うん‥」

 「ああ‥ 俺の家‥ そこの参道にある旅宿なんだ‥ 変な、意味じゃない‥」

 「ねえ‥」

 「──ん ?」

 「用心棒の話だけど‥ お願いできる ?」

 「豪気だな‥ あんな経験して‥ 話を通してみるよ‥」

 「ありがとう‥ 路頭に迷う方が、怖いもん‥」

 その参道沿いの旅宿は、雨戸が閉められていた。警官は、閉じられた雨戸を開いて周ると、最後に戸口を開いて、暖簾をかけた。

 「どうぞ、姫君」


 ──姫君 ?


 「いや、なんて呼ぼうか困ってたんだけど‥ 大切なお客さんだし、マーロの紙問屋の御長女とあらば‥ 嫌なら変えます‥ ゴッパトスさん」

 「姫君でよい」

 「はい」


 ──姫君かあ‥


 実のところ、私は生まれてこの方として扱われたことは、私からすれば皆無だった。幼い頃から、剣術やら農園のことばかりを習わされて育った。何人かいる使用人も、としか私を呼ばない。小さい頃、ロロ・リッサー家の娘たちを見たことがあったが、彼女たちの傍らには、常に荘厳な近衛隊の隊士がいて、私から見ても確かにお姫様だった── 髪と体を洗った私は、そんなことも懐かしく思いながら湯につかっていた。聞こえていた薪割りの音がふと止むと、警官さんが私に尋ねる。

 「姫君、何か、食べたいものはありますか ?」

 「なんでもいい」

 「なんでも‥ ですか‥」

 「あー、あのお握りの具でね、ご飯、いっぱい食べたーい」

 「はーい」

 湯から上がると、服が置かれていた。見たところ、年代物の型に思えたが、まだ、誰も袖を通していないように見えた。袖を通すと、樟脳の匂いがした。胸まわりが小さく感じたが、丈は丁度いい。二階にある大座敷に上がると、私の一張羅が干されていた。血の跡はすっかりと消えていた。大座敷からは一段と街が見渡せた。自警団の誤射による火事の黒煙が、夕空にまだ残っていた。畳に大の字になると微睡んだ。



 何処からか、諍う声が聞こえてくる。ふと、目が覚がさめると、大座敷は蝋燭のしっとりとした明かりで満たされていた。大座敷から見える闇には、赤や青のぼんぼりが妖艶に浮かんでいた。気づかなかったが、参道から宿をこえてさらに奥に入ると遊郭街があるのだ。酒盛りの声が聞こえてくる。しかし、諍う声は参道の方から聞こえた──


 「なにがえ ! 喧嘩なんかしに来とらまいげえ ! 儂は話をしに来ただけじゃが !」

 「帰れ ! そんなに酔うてなにを話すんぞ !」

 「お前に言われとうないわ !  儂わな! お前のそういうところが嫌いじゃ ! 儂をバカにしとる !」

 「おお、しとるよ‥」

 「なにお ! 儂もお前も同類ぞ ! まだの ! 儂は自警団を頑張っとる ! お前は警官のくせにの、金だけもろての、毎日チャムでの呑んどるだけやろが !」

 「ええから‥ もう帰れて‥」

 「儂に命令するな ! 守備頭取は儂やからの ! 勝手なことは許さんのやけんの ! のう‥ 頼むわいシロウ‥ みんなの前で、儂に頭下げさせるだけじゃが‥ のう‥ 儂の立場にもなってくれや‥ ゴッパトスさーん ! おるんじゃろ ! ゴッパトスさーん !」


 ──警官さんと、自警団の男との諍いはその後も続いた。酒がまわったのか、男は、叫び倒したあげく溝に落ち泣き散らかした。しばらくして、自警団の若い衆と思しき数人かがやってくると、男は揶揄われ、そして担がれて帰って行った。



 諍いが終わると、戸を閉める音がして、井戸水を汲み上げるポンプの音が聞こえた。階段の軋む音が上がってくると、廊下の床の穴から警官さんの頭が浮き上がり、こちらを見て言った。

 「夕食の支度が出来ていますが‥ 食べますか ?」

 「はい」

 「ご案内します‥」

 「ですが、そのまえに‥ あの遊郭を見学してみたい‥」

 「──やめた方がいいです」

 「どうして ?」

 彼は、しばらく考えてから答えた。

 「──俺が、剣の魔法の許可を出したのを気に食わないのが、自警団にいるみたいで、今、酒盛りをしています‥ 姫君に‥ とばっちりが行くといけない‥」

 「自警団が‥」

 私は頷いてみせ、そして腰を上げた。その様子を見てか、警官さんが階段を下りて行く。私も、彼にの後ついて薄暗い階段を下りた。直ぐに一客のお膳が目に映った。小座敷の四隅に置かれたオイルランプで、煌びやかに照らされていたからだ。お膳には、おひたしに椀物、そして、あの庭蟲と思しき煮物があった。しかし、私は、小座敷に案内しようとする警官さんを他所に、下駄を履き、宿の戸を開けて外に出た。

 「姫君 !? ‥えっ !?」

 慌てた様子で警官さんが追ってくる。私は、遊郭街に続く道を歩んだ。石畳の窪にいくつも水たまりが出来ていた。

 「喧嘩になると、逮捕をしないといけなくなる‥」

 「──頭取さんのことですか ?」

 「──聞かれてましたか‥」

 「用心棒で稼ぎたいし‥ 自警団とは話をつけたい‥」

 私がそう言うと、彼は黙って後をついてきた。足音だけが響いた。ふと、警官さんは私に訊いた。

 「──以前にも、何か諍いに巻き込まれたことはありましたか ?」

 「いいえ」

 「そうですか‥」

 路地の闇をぬけると、赤や青のぼんぼりが誘う街並みには、御香と酒の香りが満ちていた。酒席の喧騒、女たちの盛り声、場違いだと知っても声を張った。

 「おい守備頭取 !  文句があるなら出てこい !」

 私の声は忽ちのうちに遊郭の喧騒に消えていった。

 「私がゴッパトスだ ! 私の剣の魔法に文句があるなら出てこい !」

 「俺が‥ 話を通しましょう‥」

 私の傍らで、警官さんが、そう私に言った。遊郭に漂う気配に煽られてか、思いのほか喧嘩ごしになってしまって、内心、後悔していた。

 「‥頼めますか ?」

 「はい──」

 「小娘じゃないか‥ お前か ?」

 彼の言葉に被さる様に、その声は聞こえた。遊郭からひとりの華やかな長身の遊女が出てきた。しかし遊女とはまた違う箔があった。

 「テト=ゴッパトスです」

 私は、上目でその遊女の顔を見て言った。すると、遊女が手を差し出してきた。その手の中指はなく、人差し指の先もなかった。私が握手を返そうとすると、その手は私の顎を掴んで、しゃくり上げた。

 「──ん‥」

 「ほお‥ シロウ、お前の女か ?」

 「マーロの良家お嬢さんが、俺と情事を交わすわけないでしょ‥ お接待させてもらってる‥」

 遊女の鋭い目が私を睨んだ。

 「──自警団の総代を任されているロクサーヌ=レ=ベッカだ‥ 守備頭取に喧嘩を売られたらしいな‥ お礼参りにきたんだろ ?」


 ──恐蟲レ・ベッカ


 「私には、お礼に参られる筋合いならあります」

 「おお、云うたな !」

 私の顎をつかんでいた遊女の手が、するりと肩にまわった。

 「シロウ、を借りるぞ ?」


 ──借りる ?


 「ああ‥」


 ──え ?


 「えっ ?」

 思わず声に出た。その言葉に動揺を隠せない。私は、遊女に背を押されて、遊郭へと誘われようとしているのだ。

 「ちょ‥ え‥ ?」

 ふり返ると、警官さんは手を振っていた。

 「あなたも来なさい !」

 「俺の姉さんなんだ‥ 良い人だよ‥ !」

 「──お姉さん !?」



 遊郭に入ると、蝉しぐれのような酒席の喧騒に混じって、男たちの憂さを晴らすような盛り声も響いていた。

 「家出か ?」

 「そう、見えますか ?」

 「ああ」

 恐蟲を名乗る遊女に連れられて奥の小座敷に入ると、そこには布団が敷かれていて、布団の傍には、酒と肴だけの膳が二客だけあった。背後で襖を閉じる音がする。私は、遊女にうながされて上座に腰を下ろした。

 「酒を呑んだことは ?」

 ロクサーヌは本名だろうか‥ 遊女は私にそう訊いた。

 「先生と、こっそり飲んだことはあります‥」

 「男か ?」

 「家庭教師のリンキリー先生です‥ お姉ちゃんみたいで‥」

 遊女が酒瓶を手にしてこちらに向けたので、私は盃を手にし、両手を添えて遊女に差し出した。盃が酒で満ちる。私も、遊女の盃を酒で満たした。童女の頃に、お父様の宴席でよく遊んでいたので、こういった作法は知っていた。私は、唇を酒で濡らしてから盃を膳台に置いた。

 ふと、遊女が「チンポが欲しければ用意するぞ」と囁いた──


 ──え ?


 「え ?」

 「好みの男を五人ほど裸にしてそこに立たせる‥ お前は好きなだけチンポをねぶって酒を呑む‥」

 「いえ、おちんちんは、結構です‥ 嫌いじゃないけど‥」

 「ほう‥」

 「いや‥ 形としては、可愛くないですか‥ ?」

 「はっはっは、済まん !」

 遊女が笑った。眼前に漂う遊女の手の、その恐ろしい怪我には似つかわしくない優しさを、私はロクサーヌに感じた。

 「その、指はどうされたんですか ?」

 「ああ、これな‥ 魔伯爵を騙る偽物をつかまされてな‥」


 ──魔伯爵カントール


 「はっはっは ! 暴発に巻き込まれたが、運よくこの程度よ‥ だがな、案外と痛くないもんだったぜ‥ はっはっは !」


 ──ぜったい痛い !


 それは恐ろしい話だが、用心棒で稼ぎたい私には風向きの良い話だった。というのも、実際の所、私はあの恐蟲を仕留めることが出来なかった。しかし、私の狙いは正確だ。もし、あれが魔男爵による盾の魔法であれば、次は仕留められる自信が私にはある。


 ──それが魔子爵タロウでなければだけど‥


 「──あの、もしかしてあの恐蟲‥ 魔伯爵カントールとかその、つまり、そういうことって考えられますか ?」

 一瞬、きょとんとしたロクサーヌはその先のない指を袖に隠してしまった。

 「──あれ以来、魔伯爵なんてのは戯作だと思うようにしておる‥」

 「私も、あれは作り話だと──」


  “ロクサーヌ”


 ふと、座敷の外から遊女を呼ぶ声がした。

 「ロクサーヌ、たすけてよ‥」

 「自警団の客人だ‥ ! 後に出来んか !」

 ロクサーヌが言葉を終える前に、襖から女中らしき女が顔をのぞかせた。座敷の外からはどたばたと足音が聞こえる。

 「なんでこんな娘を、ケレンケン商会はよこすんです‥」

 「ロクサーヌさんですね !」

 その女中を押しのけるようにして、遊女には思えない身なりの娘が座敷に入ってきた。足音の主らしい。私と同年代くらいだろうか、娘は、ロクサーヌの傍らに膝をついて頭を下げた。

 「私、稼ぎたいんです !」

 「お前、親に売られたんじゃなかろうな ?」

 「否定はしません‥ でも、稼ぎたいんです ! お願いします !」

 「名前は ?」

 「テト=ドガドナです」

 私と同じ名前だった。よくある名前なので驚きはしない。

 「ドガドナ、ここで働くということは、父ちゃんみたいな男と寝ることになるんだぞ ?」

 「もう、経験はある」


 ──修羅場ぁ !


 「──女中として働かせてやれ‥」

 座敷の外で待つ女中にそう告げたロクサーヌは、ドガドナを座敷から追い払うように、先のない指先を泳がせた。ドガドナの不満は目に見えてわかった。

 「知らない男とだって、寝たことはあるし──」

 「あのな、ドガドナ、若いだけの娘はとうが立てば相手にされん‥ 女中として、お前の人となりでファンが出来るようになってからだ、嫌ならケレンケン商会につき返す」

 最後まで納得したようには見えなかったが、娘は、女中に連れられて座敷を後にした。

 「いや‥ すまんすまん‥」

 ロクサーヌはそう言って笑った。私は、ここぞとばかりに、膳台から下がり、正座して三つ指を付いてみせた。

 「総代さん、私を用心棒として雇っていただけないでしょうか ?」

 「はあ‥ !?」

 「いえ‥ 路銀を盗まれてしまって、その‥ 私も稼ぎたいんです‥ !」

 「お前、そのつもりで来たのか ?」

 「はい」

 「ううん‥」

 三つ指を付いたまま、私は深く頭を下げてみせた。

 「用心棒な‥」

 「はい‥」

 「まあ、剣の魔法の腕は確かだ‥」


 ──っヨシ !


 「しかし、あれではな‥」

 「盾の魔法なら何とかなります‥ !」

 ロクサーヌは、先のない指先で、その妖艶な頬を撫でながら笑った。

 「──守備頭取のことだよ、自警団のことは協議会で決まる。喧嘩を売ってしまったのは良くなかったな‥」


 ──あっ‥


 「──私‥ なんてこと‥」

 「まあ、土下座くらいは覚悟しておけよ‥」

 「あの‥」

 「──ん ?」

 「ロクサーヌさんは私の味方ですよね ?」

 「何故‥」

 「警官さんの、シロウさんのお姉さんだからです‥」

 「お前──」

 「お姉さん‥」

 「‥」

 「シロウさん、すごい人なのに、どうして昼間から酒浸りなんですか ?」

 「お前、シロウに惚れているのか ?」

 「はい、家来にしたいくらい !」

 「──ぷっ‥ はっはっはっはっ‥ 家来にしたいのか‥ !」

 「‥」

 「ゴッパトス家というのは豪気な家柄なのだな‥ はっはっはっ‥」

 「そうかもしれません」

 「あいつはな、中央にいた頃に誰よりも事件を解決してみせた‥ が、鼻が利きすぎたんだな‥ 平たく言えば左遷だ‥ まあ、悪党ってのは──」

 ふと、襖の向こうで鳴った鈴がロクサーヌの言葉を遮った。

 「──はい‥」

 ロクサーヌが襖の向こうに声を返す。静かに襖が開くと初顔の女中がいた。その傍らには、私の服と、荷物と、そして火打ち剣があった。

 「シロウくんがお客さんにと‥」

 「宿替えか ?」

 ロクサーヌが女中にそう訊き返すと、女中は二つ折りの紙をロクサーヌに手渡した。その紙に目を通した彼女は、私にその紙を寄越した。そこには、恐蟲の臭いのする男が後をつけているので用心するようにと書かれてあった。

 「様子をみてきます」

 腰を上げようとした私に、ロクサーヌは魔符を作っておくようにと言った。そして、彼女は座敷を出て行った。借りた服をインクで汚してしまわないように着替えると、まだ、仄かな湿湿り気がある。魔符を拵える。魔文字が滲んでしまわないように、幾重かに魔符を紙で包んで懐に仕舞った。そして私は遊郭の玄関に向かった。



 遊郭の玄関に戻ると、丁寧に置かれた私の靴の傍らで、警官さんが腰を下ろして晩酌をしていた。私は、その背中に、囁くように声をかけた。

 「シロウ‥」

 私がそう呼ぶと、彼は、咽せてしまった。

 「──名前で呼ぶんですか‥」

 「大丈夫ですか ?」

 「わかりません‥ 男の顔を──」

 「お酒のことです」

 私が諫めると、彼は、手にしていた御猪口を床に置き、晩酌台にしていたスケッチブックを手に取った。

 「水です」

 「水‥ 顔絵を描いたのですか ?」 

 「はい」

 酒瓶を手に取って嗅いでみた。確かに水の様だった。

 「この男です」

 警官さんはそう言って、私にスケッチブックを手渡すと、靴を脱いで、遊郭の玄関を上がった。私は、彼に連れられて、灯りのない二階の座敷に入った。座敷には、座布団や台などが所狭しと積まれていた。障子戸を少し開いて警官さんが外を覗く。彼に促されて私も外を伺った。

 「顔に、見覚えはありますか ?」

 その男は、向かいの遊郭の軒先にある腰掛にいた。旅人には思えない身形をした、体格のある男だった。

 「自警団の方ですか ?」

 「いいえ」

 「私を‥ つけているのですか ?」

 「勘ですけど‥ はい‥ ひとつ罠を張ってみますか ?」

 「うん」

 私は迷うことなく、彼の申し出に賛成していた。それは、参道の麓にあるチャムさんの店まで歩いて、男が何者かを見極めるという単純な罠だった。

 支度を整えた私と警官さんは、遊郭を出て、男の鼻先を横切るようにして歩いてみせると、参道へと帰る暗い路地へと入った。欲望と喧騒が遠ざかるほどに、心臓が高鳴った。勇んで来たときは気づかなかったが、暗い路地から生える狭い袋小路にも、呑み屋の提灯が鈍く光っている。

 路地を抜けて参道を下る。警官さんの実家の旅宿にさしかかったとき、ふと、懐かしい匂いがした。だからなのか、いや、黙って歩くよりは、この際いいと思ったからなのかはわからないが、私は、この旅について話そうと思った。

 「──私ね‥」

 「はい」

 「──本当は家出なの‥」

 「そうでしたか」

 「気持ちの問題よ‥ 父様の許しは得てるわ‥ 剣術の友達とさ、魔書を探す冒険を旅行しようって、計画してたんだ‥ でも、父様は絶対にダメだって、ずっと言ってたのに、結婚したとたんにこれよ‥」

 「結婚ですか ?」

 「私とひとつしか違わないのよ‥」

 「それは、離縁されたということですか ?」

 「ううん‥ 母さま、死んじゃったの‥ 小さい頃にね、でも、寂しくはなかったよ‥ 家庭教師のリンキリー先生は優しかったし‥」

 「そう‥ でしたか‥」

 「でね、友達も、みーんな花嫁の修業だなんだって、結局、ひとりで旅行することになっちゃった──」

 ふと、鼻水をすする音が聞こえた。振り返ると、私の鞄を抱いた警官さんが、立ち止まって泣いていた。

 「泣かなくてもいいのよ‥ 私も、もう泣かないし‥」


 ──ちょ‥


 「‥な、涙が移るじゃない、バカ‥」

 「──済みません」

 「──ねえ、シロウ」

 「──はい」

 「私と旅しない ?」

 「は ?」

 「暇なのでしょう ?」

 「姫君がカビリアにいらっしゃる間は、俺がお仕えしますよ‥」

 彼はそう答えた。

 「もしかして、迷惑だったりする ?」

 「俺だって、独身の男なんです‥ 間違いがあるかも知れませんから‥ お断りします」

 「間違い‥ とは ?」

 「あなたに恋するかもしれない」

 「──なーんだ‥」



 昼間、恥かしくて逃げ出してしまったチャムさんの店の扉を開くと、すぐにあのチャムさんの大きな声が聞こえた。

 「いらっしゃい ! ああ、ゴッパトスちゃん ! ごめん ! 奥しか空いてないんよ ! かまん ?」

 「──はい !」

 私が、警官さんを連れて店へと入ると、チャムさんはにやりと笑った。

 「──ゴッパトスちゃ~ん、昼間、ごめんなー‥」

 「いえ‥ 水仕事の途中で‥ 私こそ‥」

 「かまん、かまん」

 チャムさんに案内され、私と警官さんは、間仕切りの奥の席に向かい合って座った。注文を取ろうとするチャムさんに、警官さんは、申し訳けなさそうにスケッチブックを差し出す。

 「──チャムちゃん‥ ごめん、今日な‥ 仕事できたんよ‥」

 「なになに ?」

 チャムさんは驚いたような顔で聞き返した。

 「そのな、顔絵の男なんやけどな、このあたりにおると思うんじゃ‥ ちいと見て来てもらえんやろか ?」

 「──あたしが ?」

 「お願い‥」

 「──ええけど、悲鳴が聞こえたらすぐ来てよ‥」

 チャムさんは、スケッチブックを確かめ終えると、鈴の音を鳴らして店の外へと出て行った。しばらくして、また、鈴の音が聞こえた。間仕切りの向こうから、こちらへと足音が近づいてくる。私は、火打ち剣に手をかけた。

 「シロウくん、おったよ‥ 体格のええ、おっちゃんやろ‥ ?」

 間仕切りの向こうからチャムさんの声がした。戻ってきた彼女は、確かめるようにスケッチブックを手にして言った。

 「前のな‥ 防火水槽のとこで、煙草吸うとったで‥ この辺の人やないな‥」

 「ありが

 そう、警官さんは、地元の人と話すときは言葉が訛るようだ。がとうの抑揚も、私と少し違う。昔、そういえば、母さまがそんな言い方をしていたような記憶をふと思い出した。

 「──もう、ええの ?」

 「うん」

 「──なら、なんか注文してや‥」

 「──あ、姫君に、夏文旦のジュースかなんか、出してあげたって‥ 金は俺が払うけん‥」

 「はーい、夏文旦、ね !」



 果肉の入った夏文旦のジュースを啜りながら、私は、あの恐蟲について思い返していた。あの恐蟲の背の中に、私は、奇妙な被り物をつけた人影を見た。それは、警官さんも、はっきりと覚えていた。

 「──軍事機密なんじゃないかな ?」

 「‥」

 私は言葉を続けた。

 「私、博覧会で蟲を操る技術を見たことがあってね‥ いつか、恐蟲も操れるんじゃないかって思った‥ そうなったら、ペリカン山脈だって飛び越えることが出来るでしょ‥ リンキリー先生が言ってたの‥ 世界大戦で、ペリカン帝国の町がひとつも焼けなかったのは、ペリカン山脈のおかげだって‥ 私ね、魔子爵は作り話じゃないって、今日、思ったんだ‥」

 「まあ‥ 魔男爵が世に出てまだ半世紀ですからね‥ ファンタジーだとは、俺も思いませんけど‥ あの人影が盾の魔法を使ったかもしれません‥」

 「手練れが三人いたら魔男爵では手に負えないはずだし‥ 魔子爵があるから、ああいった武器が成立するんじゃないかな ?」

 「あれが軍事機密なら、俺も監視されてるか‥」


 ──しかし、だ‥


 この警官さん、さっきからずっと、抱きかかえた私の鞄を嗅ぎ続けている。

 「私の、いい匂いがします ?」

 「姫君のですからね‥ それに、あの恐蟲の臭いと、あの男の臭いがするんです‥」


 ──買い換えるー !!


 「え !? あいつが泥棒ということですか !?」

 「姫君、声をおさえて‥」

 「な、なら、軍事機密だからというのは違うし‥ カビリアに来るまでに、なんかあったかな‥ いいえ、何も騒動なんてなかった‥」


 ──私の素性を知っている ?


 「──ねえ、とりあえず、逮捕してみたら ?」

 「それは、出来ません‥」

 「では、もうひとつ罠を張ってみてはどうでしょう‥ あなたの宿に戻って、私は小座敷で夕食をとって、寝たふりをします‥ シロウは出かけたふりをして‥ どうです ? 家に入ってきたら、逮捕できるでしょ ?」

 「怖くないのですか ?」

 「怖いですよ」

 「──そのわりには‥ ずいぶんとお楽しそうで‥」



 お勘定を済ませて私と警官さんはチャムさんの店を後にした。たしかに、防火水槽の所にその男はいた。何本目かの煙草を吸おうと、男が擦った燐寸が、ぼわりとその顔が浮かび上がらせる。私と警官さんは、酔ったふりをして帰路についた。

 宿に戻ると、井戸を汲んで手を洗い、お膳のある小座敷に腰を据えた。警官さんは、報告書を作らなければならないと言って参道を下りたふりをする。彼が、遊郭から応援を連れて戻ってくるまでの間、私は彼が拵えてくれた、庭蟲の甘辛い煮もので白飯を食べた。御浸しも、お吸い物も、みんな平らげた。

 台所の勝手口から警官さんが戻ったのを確認して、私は畳に大の字になった。小座敷の襖は開けたままにしてある。暖簾をくぐれば、オイルランプに照らされた私の上半身が見える状態である。靴は履いたまま、襖の陰には火打ち剣を忍ばせてある。手はすぐに届く。土間にはカムフラージュの靴を脱ぎ捨てておいた。酔いもなく、緊張からか、意識が微睡むことは無かった。

 と土間を踏む音がした。一歩、二歩、三歩、怒声がした。目を開けると、あの奇妙な被り物の異様な風体が、自警団の男たちに取り囲まれていた。その手には短剣があった。


 ──短剣‥ !?

 

 「動くな ! 動くな !」

 「叩き斬るぞ ! 動くな !」

 自警団の男たちが怒声で侵入者を威嚇する。

 「外にも自警団はおるのぞ ! 刃物を捨てえ !」

 警官さんも、訛り交じりで怒鳴る。

 「おい ! 動くな !」 

 しかし、その異様な風体の侵入者は懐に手を入れた。私は身を起こし火打ち剣に手をかける。彼奴が懐から何かを取り出したのが見えた。

 「魔あああああーっ 符 !」

 私は叫んだ。自警団の男たちがたじろぐ。私も身を隠す。人家に押し込んで剣の魔法でも使おうものなら死罪ものだが‥ しかし‥


 「無敵防壁盾よ


 それは盾の魔法だった。魔符を肩に張り付けてると、その異様な風体は外へ向かって走った。暖簾の外を固めていた自警団の男たちが慌てて道を空ける。私も外に向かって駆けだす。警官さんに叫ぶ。

 「桶に水 !」

 「──え、あ‥ はい !」

 異様な風体が、躊躇うことなく参道の壁を跳び越える。私は参道から身を乗り出して、眼下の薄闇を見やった。地面までかなりの高さがある。落下して建物が壊れるのが見えた。そして道沿いの家屋を、ところどころ壊しながら、遠ざかってゆく。闇雲に走ってぶつかっているのだろう。私は参道を駆け上りながらそれを追う。

 「姫君 !」

 警官さんが水の入った桶を抱えて追ってきた。私はその桶を受け取り、全力で参道を駆け上る、そして魔符を取り出し──


 「無敵防壁盾となれ !」


 ──参道の壁を跳び越えた。

 曇天の切れ目に照らされて、あの異様な風体が駆けるのがくっきりと見えた。

 私の体は、その頭上に舞っていた。地面が迫り──


 ドンッ ! 


 ──着地の衝撃で石畳が砕けた。私は駆けた。

 そして、鉢合わせた異様な風体の、その肩にある魔符めがけて桶の水を浴びせた。

 盾の魔法を解く──

 異様な風体のその大きな体が、決死の間合いで短剣を振りかぶろうとするのが見えた。

 私は鞘を引いて火打ち剣を抜き放つ。

 ──剣の魔法の撃ち合いになってはならないからだが !


 キンッ !


 互いの剣が弾く。力負けして後退ると、異様な風体の男は、威嚇するかのように息を荒げて歩み寄って来る。私は、敵に肩を見せるように、半身になって、下段に剣を構えた。すると、異様な風体の男が、その力に任せて斬り込んできた。

 私はさらに半歩身を引いて、

 その斬撃を交わし、

 死に体となったその暴漢を、その短剣を持つ手を狙い、斬り返す !


 「いぎぃいっ‥ !」


 男が呻き声をあげた。その短剣と数本の指が転がり落ちる。私は次の斬撃の構えをとる。深追いはしない。異様な風体の男は、後退りし、逃げようとしたが、駆けつけた自警団の男たちによって、一斉に取り押さえられた。

 「動くな ! おら !」

 「動くないうとろが ! おら !」

 私は安堵して、倒れ込むように片膝をついて息を整えた。

 「ハァ‥ ハァ‥ ハァ‥ ハァ‥」

 半鐘の音が鳴り響いている。続々と自警団が集まってきた。

 「うぐ‥ ぐええええああああ‥ ああ‥」

 突如、取り押さえられた男が奇声をあげて体を震わせた。奇妙な被り物から血がしたたり落ちる。

 「おい !」

 「おい !」

 「おおい !」

 「毒でも噛んだんか ?」

 困惑する自警団の男たちに割り入った警官さんが、その奇妙な被り物を剥ぎ取ると、あの顔絵の男が、口から血を吐いて絶命していた。私は身を起こし、その肩にある魔符を見た。文字が滲んでしまっているが、それは、魔男爵の文字列と変わらないように見えた。

 「よおい! あんたがゴッパトスさんけえ !」

 聞き覚えのある声が私を呼んだ。警官さんよりも十歳は年長に思える男が、よたよたと歩み寄ってきた。

 「──はい」

 「なんぜえ、思たより若いのお‥ まあええわい‥ もう、儂はだいぶ呑んどるけん、今日は剣の魔法は使えんのやけんの‥ 任したぞ‥」

 「──守備頭取さん ?」

 「ほうよ──」


                 !

 

 頭上に恐蟲の羽音が響いた。自警団の男たちが慌てて方々に散らばった。足がもつれて転んだ守備頭取を、私と警官で抱き起し、建物の陰に退避する。


 ドスン !


 舞い降りて来た恐蟲が、顔絵の男の亡骸に食らいついた。その恐蟲の背には、あの奇妙な被り物の姿は無かった。

 「おい、ゴッパトスさん、何しよんのぞ‥ 見とらんで、はよ、撃たんか‥」

 「──地上にいたら撃てない‥」

 私は、懐から残りの二枚の魔符を取り出して確認した。汗で滲んで使い物にならないことがあるからだ。恐蟲が食事を終えるのをじっと待った。守備頭取は、その凄惨さに耐え切れず吐き出した。

 恐蟲の羽根が広がりはじめた。私は、魔符を火打ち剣に刺して撃鉄を引いた。

 恐蟲が飛翔する。


 ──そうだ、高く飛べ‥


 爆炎のことを考えると高度が欲しかった。私は、片膝をついて、火打ち剣を高角度に構えた。そして、闇夜に浮かぶ漆黒めがけて剣の魔法を放つ。爆炎が家々を照らした。目を曇らせてはいけないと暗闇に顔を向ける。やはり、仕留められてない。私は、見通しの利く場所へと駆けた。羽音は今も聞こえる。しかし、その姿は見失っていた。

 「──東の空 !」

 警官さんの指さす彼方に恐蟲らしき陰があった。私は慌てず、最後の魔符を剣先に仕込んで撃鉄を引いた。この魔男爵で、あの恐蟲を仕留めることはできない。しかし、この一撃は、魔子爵の実在を語るものだ。

 

 「地中貫通火剣貫け !」


 爆炎が、カビリアの夜を照らした。止むことの無い羽音は、東の空へと、次第に、遠くなっていった。



 警察署に事情を聞かれた後、新聞屋から逃げるように、自警団の総代であるロクサーヌさんのいる遊郭に戻った。遊郭はすでに店仕舞をしていたが、守備頭取と幾人かの若い衆が酒盛りをしていた。二階の小座敷へ通されると、隣り合うように並べられた二客の御膳の傍らには、二人分の布団が寄り添って敷かれていた。動揺したのは警官さんだった。

 「すぐに片づけます‥」

 一組の布団を廊下へ放り出し、御膳を向い合うように置き直す彼の姿がおかしくてつい笑ってしまった。

 「この布団を‥ 二人で使うのですか ?」

 「俺は、廊下で寝ます」


 ──からかっちゃった。


 私が上座に腰を据えると、警官さんもお膳の前に腰を下ろした。

 「手酌で失礼します」

 そういって、彼は晩酌をはじめた。

 「やっと呑めましたね」

 私がそう言うと、彼は照れたような顔をみせる。

 「今日は、長い日でした‥ 何年ぶりだろうな‥ こんな日は‥」

 彼はそう言った。だから私は警官さんに語りかける。

 「あなたは凄い人です」

 「──照れます」

 「そうだ 一日、五拾萬でどうでしょう ?」

 「五拾萬 ?」

 「私と、旅をしませんか ?」

 「ああ‥ 紙問屋ってのはすごいもんだな‥ え ? 真面目な話ですよね ?」

 「さっきとは真剣さが違います‥ あんな思いをしたわけだから‥」

 警官さんが頭を掻いた。

 「──俺は、剣の腕が立つわけでもありませんから‥ 五拾萬は多すぎます‥ 壱萬でどうですか ?」

 私は身をのりだして、警官さんの鼻先に指で触れた。目が合った。顔をそらす彼の、その瞳がかすかに涙ぐんだように見えた。

 「──では‥ 三萬‥」

 「働き次第では‥ 五拾萬でも受け取ってくれますね ?」

 「ええ‥ それなら‥」

 「では、シロウ、立ってください」

 「──え ?」

 腰を上げて私は彼を待った。彼は盃の酒を空にすると、立ち上がって、そして、照れた様子でこちらを向いた。

 「こちらへ」

 「はい」

 私は、彼を傍に寄せた。

 「これより、あなたはリッサー家の家来です‥」

 「はい」

 「伝統に則って──」

 「ちょ、ちょっと待って‥ リッサーというのは、リッサー御三家ですか ?」

 「御三家ではありません‥ ニカやロロのリッサー家とマーロのリッサー家は格式が違うんです‥ リッサー本家と呼びなさい」

 「それは、失礼しました‥ え、何故、おひとりで‥」 

 「話したでしょ‥」

 「えええ‥ ははっ‥ アハハハ‥ ハハハ‥ アッハッハッハ‥ 姫君っ‥ まだっ‥ か‥ 紙問屋の方が‥ 信じられますよ‥ ハッハッハ ! ペリカン帝国の、本物の姫君が、一人で旅なんかするわけないじゃないですか‥ ハッハッハ‥」

 この男、腹を抱えて笑っている。

 「そんな‥ 涙を流すほど‥ おかしいですか‥」

 「済みません‥」

 彼は謝ると、ハンカチーフをとりだして鼻水を拭った。

 「シロウ‥」


 ──泣いてたんだ‥


 「──いや‥ 枯れゆくだけの人生かと思っていましたが‥ 自らの使命なるものに再会できました‥」

 「中央でご活躍されていたと聞いています」

 「俺を、家来にさせてください」

 「では、伝統に則って‥ このテト=マ=リッサーの左手にキスをしなさい」

 「──姫君の御意に従います」

 警官さんは、私の左手を授かるようにして、その甲に、お辞儀してキスをしてくれた。

 「ありがとう」

 私が礼を言うと、彼は身を起こしてが鼻を啜った。


 ──あっ !


 「そうだ‥ そのお鼻で、私の匂いを正確におぼえておいた方がいいと思います‥ やっぱり‥ その、おしっこがいいのでしょうか ?」

 私はそう言って、ポンと手を合わせた。

 「いや‥ 下着です」

 「ヴァカッ !」

 言葉の終わらぬうちに悲鳴をあげてしまった。唾が飛んだかもしれない。警官さんが申し訳なさそうに額を拭った。

 「本当なんですよ‥」

 「本当かも知れませんが‥ 真顔でいうことか‥」

 私は、スカートの両裾をまさぐり下着に手をかけた。ふと、警官さんに目をやると、真顔でこちらを見ている。

 「こらっ‥」

 「──え ?」

 「目をつぶりなさい !」

 「──え ? ──や ! おまちください ! 俺は、リッサー家の家来です‥ それは‥ この世から左遷されてしまいませんか !」

 「しないわよ‥」


 ──しかし、だ‥


 私とこの警官さんは、すでに行きずりの関係ではない。初めての家来にはしゃぐ気持ちをおさえて身なりを整えると、警官さんは、安堵したように息を吐いた。

 「では‥ シロウには荷物持ちを続けてもらいます‥ 必要があれば、下着なり何なりと嗅ぎなさい‥」


 ──だからというわけではないが、


 「あの‥ 姫君‥」

 「なんです ?」

 「これだけ、御傍にご一緒させて頂けたのです‥ 例え全世界の人々に紛れても、俺はテト=マ=リッサー様にたどり着いてみせます‥」


 ──私は、この男のお姫様として、


 「ですので‥ 荷物持ちは‥」

 「わかりました」


 ──そう答えてみせた。


 続く。

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