戦場の大釜
三津凛
第1話
私たちは、戦争というといつもあの大きな映画館のことを真っ先に思い浮かべるのです。大抵、筋骨隆々の首の太い熊のような男たちがいっぱいに出てきて、憎い敵兵どもをなぎ倒していくのですよ。戦争というのは、多分そんなものなのだろうと私は勝手に思い込んでいました。戦争にはたった一つの顔しかない。そこにいるのはほとんどが男たちで、女はせいぜい看護師くらい……なんて思っていました。
アレクサンドラお婆さんは、ちょうどあの大きな戦争の頃に夜戦食堂で働いていたそうです。私はある時、何の気なしに聞いてみたことがあります。それが、なんだかとっても私の知っている戦争とは違っていて……悲惨なことはありませんでした。いいえ、もしかするとお婆さんは若い私に気を遣って隠しているだけかもしれませんが、血なまぐさい戦争のことを……。
お婆さんの語る戦争には、見てきた戦争には銃声も包帯も血潮もありませんでした。それが私にはなおいっそう物哀しくて、戦争というものの取り返しのつかなさ……それから、お婆さんの青春を奪ってしまったものという「顔」が私の前にも現れたのです。たくさんの人たちが、お婆さんの青春を通り過ぎて行きました。でもそれは、一方通行で……誰一人としてお婆さんの元には「ただいま」と帰っては来なかったのですよ。
お婆さんは静かに、むしろ懐かしそうに語ってくれましたわ。それが私には不思議で、そして少しだけ憐れでした。私は戦争を知りませんけれど、お婆さんは逆に戦争しか知らなかったのですもの……。
ラジオの一声で、歴史が動く。
あたしはまだほんの子どもで、後になってあれが歴史の変わり目だったのだと知った。でもあの朝はミルクを温めるのに必死で、ラジオの内容も半分は聞き流していた。
おぶった弟はよく寝ていて、母はじゃがいもの皮を剥いていた。父はすでに仕事に行った後で、男はあたしの家にちっこい弟だけだった。あたしはまだまだこんな風に朝が続いていくものだと思っていた。
昼頃になると、なんだか街がおかしくなっていることに気がついた。誰もかれもが叫んでいるのですもの。
「戦争だ!戦争だ!戦争が始まった!」
まだあたしとそう歳の変わらない男の子たちが、叫びながら街中を駆け回っていた。大人たちは鉛のように重い顔をしていた。騒いでいるのは子どもたちばかりだった。あたしは弟をおぶったまま、その騒ぎをただ眺めていた。段々と、あたしも何かしなければ!と力が湧き上がってきた。近所の男の子たちはほとんどが前線に志願して行った。
男の子たちは戦場へ行ける。でも女の子は?あたしは?
あたしは料理がいくらかできた。だから夜戦食堂に勤めようと決めた。母に言うと、はじめは打たれた。
「大釜の中にすっぽり入っちまうほど小さなお前に何ができるんだい!戦争は大人のものだ!男のものだ!女の子のお前がやることじゃない」
でも父は止めなかった。それで母も諦めた。あたしは夜戦食堂にその足で向かったのだ。あたしは料理ができたから、ただそれだけの理由でそこへ行ったのだ。まだ小さくて銃を握ることができなかったから、あたしは兵士たちのお腹を満たすことで祖国を守ろうとしたんだ。
初めのうちは大きな肉の塊でビーフシチューなんかをこしらえた。何人かの大きな獅子のような顔をしたおばさんたちに混じって、あたしも大鍋をかき回したし、山盛りの野菜を切り刻んだ。この頃にあたしはイヴァンという若い兵士と知り合った。彼はまだ訓練中で前線には派遣される前だった。まだそういう兵士たちがわんさかいた。戦争の足音はこういう兵士たちを見てもあたしの耳元にはまだ聞こえて来なかったんだ。多分、あのおばさんたちにも兵士たちにもまだそんなに聞こえていなかったに違いない。だって、まだみんな笑っていたもの。
夜戦食堂たって、何かの寄宿舎の食堂みたいだった。
戦争が終わったら一度大学へ戻るって人もいたし、恋人にプロポーズするって人もいた。あたしは一番ちっこかったから、可愛がられた。よくチョコレートをもらった。初めの頃はそれで鞄がいっぱいになったほど……。
やがて、だれも笑わなくなった。次第に夜戦食堂に戻ってくる人の数は減って行った。前線へ送られたまま帰って来なかったのだ。おばさんたちも、冗談を言わなくなって無心で野菜を切ったり煮込んだり、大釜をかき回すだけになっていった。
イヴァンも、もうすぐ前線へ送られるはずだとあたしに打ち明けた。彼は綺麗な顔をしていたけれど、疲れ切った横顔をしていた。10歳は老け込んだようだ。
この頃になると軍から支給される野菜も肉も小麦も少なくなって、あたしたちは味の薄い具の少ないスープしか作れなくなった。兵士たちは苛立ち、あたしたちも辛かった。でも次第に、大釜の中のスープは余るようになっていったんだ。
前線にごっそりと送られたまま、帰って来ない人がたくさんいたからだ。
あたしたちはそれでも必死に大釜の中にスープを作り続けた。初めの頃は底をこそげてまでビーフシチューを器についだのに、今では薄いスープすら余ってしまう。何が起きているのか、小さなあたしにも分かった。戦争はすぐそこまで来ているのだ。若い兵士たちの命を食い尽くしながら……。
イヴァンも前線へ送られたきり、二度と見ることはなかった。
そうしてある日、並々と作った大釜のスープは朝まで手つかずのままだった。
誰も、人っ子ひとり、帰っては来なかったのだ。
戦争っていうと、銃弾とか包帯とか捕虜とか勲章とか……そんなものをよく思い浮かべて語る人がいる。でもあたしにとっては戦争ってのは、やっぱりあの大釜なんだ。誰も食べる人のいなくなったあのスープで満たされた大釜なんだ。
……あんた、分かるかい?
誰ひとり、帰っては来なかったんだから。
アレクサンドラお婆さんは、年が明けてすぐに亡くなった。最期はよく若い頃のことを独り言のように呟いていた。誰も真面目には聞かなかったけれど、私は時折それを聞いていた。ピアノの練習の合間に、食事の合間に、祈りの最中に……。
私の家にも釜がある。お婆さんが使っていたあの大釜に比べると嘘のように小さな釜だ。だって、4人家族用の釜なんだもの。それだって、空にならないなんてことはない。必ず食べる人たちがいる。
お婆さんの見た戦争。大釜いっぱいに残ったスープ。それを作り続けたお婆さんたち……。
見たことはないけれど、戦争はそんなちっぽけなものさえ奪っていったのだ。
戦場の大釜 三津凛 @mitsurin12
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