眠れぬ夜には、恋歌を

羽鳥(眞城白歌)

眠れぬ夜には、恋歌を


 視界をふさぐ、白。

 牙をく獣のように肌を傷つけ体温を奪う、色のない闇を、必死の思いでかきわけて。

 永遠のような、一瞬のような……、

 いったいどれだけの時間をさまよっただろう。


 ――もう、ダメ。助けて……。


 凍りついた声は吹雪に呑まれて散らされた。

 膝をついて座りこむ。

 容赦なく荒れ狂う冷たい風が、少女の小さな命の火を吹き消そうとしていた。



 さくり。

 鋭い風の音の中、なぜかはっきりとこえた、足音。

 顔をあげる力はなかった。

 まぶたすら凍りついて、目を開けることも叶わなかったのだから。



 ふわり。

 雪ではない、柔らかい何かが、頬に触れた。

 あたたかくはないけれど、優しい何か。

 すうっと身体が浮遊する感覚。うるさかった風の音が、なんだか今はとても遠い。



   ☆ ★ ☆



 深い水の底から浮上するような、意識の覚醒。

 ぼんやり開けた視界はやはり白い闇だった。ただ、さっきと違いひどく静かな。

 瞳を瞬かせ、見回してみる。凍てつく風で傷ついた全身が、いつのまにか癒えているのがわかった。怖々こわごわ動かした指にも、痛みや不自由はない。

 ゆっくりと身じろぎして上体を起こすと。


 ——ふわり。


 少女の全身にまとついていた白い羽毛が、はらはらと舞い落ちた。


『起きたかい』


 ふいにかけられた不思議な響きの声に、少女はびくりと震えてそちらを見る。そして、息を飲んで固まった。


 雪のように白い、大きな獣が、そこにいた。

 狼に似た姿だけれど、馬や牛よりずっと大きい。

 背にはハクチョウに似た白く大きな翼。

 鼻は黒く、瞳はサファイアのような青で、じっと少女を見つめている。


「あ……、あ……」


 さいはての地に住むという氷の魔物。命を凍らせひとをらうという大人たちの言い伝えを思いだす。恐怖で声の出ない少女を獣は見て、サファイアの瞳を瞬かせた。


『ここは北の最果て、人の来る場所ではない。早く戻らねば死んでしまうよ』


 穏やかな双眸そうぼう、低く優しい声。

 全身を包んでいた白い羽毛がこの獣のものだと、ふいに気がついた。

 小さな命があのまま凍えてしまわぬように、と。

 心をとらえていた恐怖が、熱を浴びた雪のようにじわりと解けていく。

 この獣は、死にかけていた自分を助けてくれたのだ。



「……帰らない」


 喉の奥にりあがる何かを吐きだすように言ったら、涙が零れた。

 獣は両目を瞬かせ、頭を傾げる。


『なぜ?』

「だって、あたしはいらない子だから……」


 産まれながらに不思議な力を持っていたため、うとまれ忌まれ、ついには『さいはての島』に送りだされて捨てられた。

 助けてくれるひと、愛してくれるひと、少女は誰も思い浮かべることができなかった。

 それを言葉にしたら、せきを切ったように涙があふれて止まらなくなった。

 服の袖で目をこすり、しゃくりあげながら泣き続ける少女を、白い獣は黙って見ていたが。


『そんなに泣くんじゃない、身体が冷えてしまう』


 いっこうに泣きやむ気配がないことに困惑したのだろう、呟いて立ちあがる。

 そして羽毛に埋もれて泣く少女のほうへ、一歩、二歩。


 ――かつん。


 雪を固めた氷の床に響く足音が、変化した。


「温かくなくてすまない」


 鼓膜を震わせ届く、声。思わず顔をあげたら、細い両腕が自分を抱える。


「この姿の方が人への害は少ないはずだからね。中途半端だけど」


 ぎゅっと抱きしめる指先と、ふわり、身体を包む大きな白翼。

 白い獣はいつの間にか背の翼はそのままに、長身痩躯そうくの若い男へ姿を変えていた。


「あなたは……氷のマモノ?」


 驚きに、涙のとまった少女が、尋ねる。


「うん、そうだよ」


 穏やかな笑みを含んだ声音が、答えて言う。


「私は氷狼ひょうろうSelewnセレーン。友人からはセンと呼ばれているけどね」


 マモノなのに名前がある、というのは、不思議な感じがした。

 彼の身体は温かくはなかったが、冷たいわけでもなかった。肩ほどまでの長さの銀髪と、短くて三角形をした狼の耳。口もとからは鋭い牙が覗いている。

 人ではないけれど、――少女が知っている誰よりも、彼は優しい気がした。

 だから思わず言ってしまったのかもしれない。


「……あたし、センと一緒にここに住みたい」


 彼は驚いたように彼女を見、そしてさみしげに笑った。


「それは無理なことだよ。人と魔物、住む場所も生きるすべも違う。私は君を養ってあげられないだろう」

「でもあたし、帰る場所なんてないもの」


 必死の瞳で見あげる幼い少女を氷狼は優しく撫でて、床に立たせる。

 自分もしゃがみ込み、視線を合わせてさとすように言った。


「いいかい。ここは北の最果て、生き物が住めない氷の地なんだ。ここに君の食べられるようなものはないし、炎もないから水も作れない。私は君を温めてあげることができないし、衣服を用意することもできない……」


 ぽろり、と、少女の目から涙が零れる。


「だからごめんね。君は、君が生きるべき世界へ帰りなさい」


 少女は黙って首を振った。そして、小さな両腕で彼の首をぎゅっと抱きしめる。


「……セン、さみしかったんだね」


 幼い声に耳もとでささやかれ、彼は一瞬目を見開いてから、切なそうに瞳を揺らす。


「私は大丈夫だよ。生まれたときからずっとひとりだから、慣れているから」

「うん、でも、かわいそう……」


 少女は自分に重ねたのかもしれない。

 氷狼は黙って、もう一度少女を抱きしめ、優しく頭を撫でた。



   ☆ ★ ☆



 この大陸には元素エレメントを司る柱として、九つの魔物がいる。

 風の天狼てんろう、氷の氷狼ひょうろう。月の夢魔、炎の火竜。水のみずち、木の世界樹。光の光翼鳥こうよくちょう、闇の妖精猫、土の大地蛇。

 そのおのおのが強大な魔力を持つ者たちで、それぞれに意味を付された名と聖域を与えられている。

 さいはての島は、氷狼であるセレーンの聖域だった。

 この辺境に人が迷いこんできたのは、思いだせないほど遠い昔以来のことだ。


 セレーンは人の住む地を訪れたことがない。

 強すぎる氷の魔力は周囲の元素エレメントに影響を及ぼし、夏には冷たい雨を、冬には豪雪を人の住む場所へもたらしてしまう。

 それは人間にとって、命に関わる災害だ。

 だから彼ははじまりの時よりさいはての地を望み、そこで自ら眠りにつくことを選択した。

 眠ることで、世界への影響は最小限にとどめられる。

 それを後悔したことはなく、セレーンは人間が好きだった。

 ただ……。

 夢とうつつ狭間はざまの時間は、限りなく白い透明な記憶だけだった。

 この雪と氷に閉ざされた地で、ただ眠って過ごすだけの自分には、夢で巡らせるような想い出が何ひとつなく。

 それゆえに、眠りの中で漂う意識は、いつでも白い闇に閉ざされていた。


 腕の中で泣き疲れて眠る、幼い人間の少女。

 彼女のため何かをしてあげたいと思っても、セレーンは何をしてやればよいのかまったく分からなかった。

 ぬくもりすら与えられぬ自分の身体が、今は切なかった。



   ☆ ★ ☆



 朝、目覚めると、かたわらにリンゴが幾つか置いてあった。


「……セン?」


 驚いて声をかけると、離れた場所で翼をたたんでうずくまっていた白い狼が頭をあげてこちらを見た。


『こんな物しか見つけられなくてすまないね。水は運ぶ前に氷になってしまって、持って来れなかったんだ』


 申し訳なさそうに、悲しそうに、彼は言う。

 じわんと、胸に熱がしみこんで広がってゆく気がした。


「……ありがとう、セン」


 どれほど遠くまで探しに行ってくれたのだろう。

 彼は食べる必要などないのに、少女のためにわざわざ、遠くまで。


「センは、優しいね」


 彼女はそう言って、ふわりと笑った。

 喉の奥が苦しくて泣きたかったけど、もう絶対に泣くまいと思った。

 この優しい獣をこれ以上困らせてはいけないと、その時とても強く思った。


『そうだ、……君の迎えは、たぶん今日中には来ると思うよ』


 氷狼が感情を抑えたような声で言う。


「うん、わかった。ありがとうセン」


 少女は答えて、リンゴを皮のままさくりと噛んだ。



   ☆ ★ ☆



 少女を迎えに来たのは、黒髪を長く伸ばして一本に束ねた、大柄な男だった。

 黒目がちの双眸が鋭い、野生の狼のように隙がない雰囲気の。


「彼は私たちを造ったひとで、人間に似ているけど竜族なんだよ」


 人の姿のセレーンが少女に説明する。

 この世界ほしを造ったと言われる、いにしえ時代の伝説びと。会うのなんてはじめてだったし、本当にいるとも知らなかった。

 少しだけ怖く思って、セレーンの翼を握りしめたまま見あげたら、彼はにこりと人懐っこく笑った。


「さあ、帰ろうか。娘」




 竜族は空間の隔たりも関係なく、世界を渡れるらしい。

 少女を抱きあげた彼は、瞬くほどの間に大きな街へと移動していた。


「おまえの身に宿る特別な力、それは魔法を操る力だ。それはおれたち竜族や、センが持つ力と同じものなんだぜ」


 だから、決して忌むべきものでも、恐れるべきものでもないと。

 魔力を制御し自分のものにするすべを教えられる人のもとへ連れていってやろうと、彼は言ってくれたのだった。

 そうして今、二人は大きなお屋敷の前に立っている。


「さあ、ここが今日からおまえの家だ。若くはない夫婦だが、権力と財力は持っている。おまえに向くだろう好奇や差別の目から、必ず守ってくれる人たちだ。だからもう、独りぼっちだなんて思わなくていい。……あの、さいはての島のことは忘れてしまいな」


 おまえとセンのために。そう言い含められた気がして、少女は思わず彼の服をつかんで叫んだ。


「あたし、もうそんなこと思わない! 約束するから、だから……!」


 白い闇の中で眠り続ける、あの優しい魔物に比べたら。

 愛されていないという心に負けたくないと、強く思った。独りぼっちだなんてもう思わない。そのぶん誰かをより深く愛そうと、胸の中に決意を固める。


「忘れたくないの、絶対、忘れたくないの!」

「……そうか」


 うなずく彼の夜空をめ込んだような双眸は、笑うように細められていた。



   ☆ ★ ☆



 さいはての島に、わずかばかりの夏が巡る。

 夏といっても緑が芽吹くことはなく、凶暴な吹雪がなりを潜めるだけだが。


「まったく、お嬢様の無謀には呆れるを通り越して敬服しますね」

「うるさいわね。ついてきてなんて頼んでないわよ?」


 こごった雪を踏みしだいて、二つの人影が賑やかに氷原を歩いている。


「お嬢様に何かあったら、俺が叱られますから」

「何もないわよ。あるわけないでしょ? ……だって」


 吹雪の中で道を失っていた少女は今ではすっかり成長し、上質で慎ましい衣服と防寒用に毛織りの外套がいとうを身にまとって、雪凍る大地を迷いなく進んでいた。

 彼女はふと立ち止まり、唐突に氷原に膝をついてうずくまった。従者が慌てる。


「何をなさってるんですか! 膝がしもやけになりますよっ」

「うるさいのっ、ちょっと黙ってて」


 彼女は強い瞳で白い地表を睨みつけながら、氷原に手をつき一心に叫んだ。


「セレーン! セン! こえてる!? いにきたの、ここにるの! お願い、出てきて!」


 雪混じりの風が氷原をかけてゆき、彼女の髪を舞いあげた。


「……仕方ないですよ。さあ、帰りましょう」


 返らぬ答えに居たたまれなくなったのか、従者が小さく声をかける。北の果てに眠る魔物の伝説を、彼もまた知っていた。


「セン……あたしのこと、忘れちゃった?」


 彼女の目から涙が落ちて、雪に染みる。


「あたしは、忘れなかったのよ。あなたはひとりで、さみしかったのに、とても優しかった……。あたしはあなたが助けてくれたから、生きてこれたの」


 ざ、と白い風が通り過ぎる。

 蒼く抜けた空からきまぐれな雪がちらつき、陽光を弾いて輝いた。




 さくり。

 うつむいた彼女の耳に、雪を砕く足音ひとつ。

 彼女は顔をあげ、そこに立つひとを見て、泣き顔のまま笑った。


「セン……!」

「寝起きの私には何がなんだか……。おかえり? ようこそ? 久し振り?」


 白翼を背負った人の姿の氷狼は、困ったように陽光ひかりの下で微笑んだ。その姿は本当に真っ白で魔物じみていたけれど、彼女はもう驚かない。


「逢いたかったの、セン!」


 駆け寄った勢いのまま抱きつかれて、氷狼は彼女の背に腕を回し困ったように従者を見る。彼はくすりと笑った。


「セレーン様。お嬢様はあなたに逢うため、頑張って魔法の勉強をしたんですよ」

「……そうなのか。ありがとう」


 穏やかに囁くと、氷狼もまた彼女を抱きしめた。相変わらず温度のない身体だけれど、彼女は温かく、数年前よりずっと大きくなっていた。


「セン、あたし、センが淋しくないように遊びにくるから! センにたくさんの話を聞かせてあげるから、だから……ここにきたら逢ってくれる?」


 彼女がまっすぐに見あげて尋ねかける。

 セレーンは答えられなかった。自分と彼女、魔物と人間。生きる時間軸も、ことわりも、何もかもが違う存在。


「君は人の世界で、人が得るような幸せを求めるべきだよ。私は、大丈夫だから」


 答えたら、いっそう強く抱きしめられた。


「だって、あたしはセンが好きなんだもの……!」




 出逢いは真白い闇の中。たった一夜をともに過ごしただけの、ほんのつかの間に終わった時間。

 けれど――、少女の胸には温度が残った。

 それは辛い時でも苦しい時でも彼女を支え、前に進む力を与えてくれた。

 ひとはそれを初恋とか、想い出とか呼ぶのかもしれないが――……彼女にとってはどちらだって良くて。


「センは、さみしくないの?」


 濡れた瞳に問いかけられ、氷狼は答えに詰まって、ただ切なげに笑った。

 満たすすべのない飢えに気づいたところでかなしいだけなのだと、宝石のような瞳が訴えている。


 どちらも、どうしていいか分からなかった。

 世界のこわりというものは、ひとりひとりの思惑を超えたところで動いているのだと知っていた。



 ――と。そこへ。


「それならセン、人になってみるか?」


 ふいにかけられた声に、二人と従者は驚いてそちらを見る。空中に、黒髪黒目の大柄な男が立っていた。


「グランパ、どういう意味ですか?」


 氷狼が首を傾げてくと、魔物の頭グランパと呼ばれる彼は面白がるように笑って答えた。


「おまえの魔力をしばらくの間、おれが預かってやるよ。その期間あいだ、おまえは人間の身体で、彼女が寿命を全うするまで一緒に年を重ね生きてみたらどうだ?」



   ☆ ★ ☆



 真白い嵐が、さいはての島をかけぬける。

 氷の聖域でまどろんでいた氷狼のもとへ、黒髪の竜族が現れた。


『久し振りです、グランパ。その節はありがとうございました』


 眠りから覚め頭をあげた氷狼に、彼はにこりと笑みを向けた。


「いや。かえって、祭りの後のさみしさに沈んでるんじゃないかと心配でな」

『……いいえ』


 氷狼のサファイアの瞳が、温かな感情いろを映して細められる。


『愛しい者をおもって過ごす、冬もまた、いいものですよ』


 その言葉を聞いて、闇色の竜は優しげな瞳で穏やかに笑った。




 百年にも満たない、人間としての生ではあったが。

 うつつと夢の狭間はざま、白いだけの闇はもう、なかった。


 時は容赦なく人の命を過ぎ去らせてゆくが、彼の中には記憶という名の熱が残り、それは日ごと夜ごと姿かたちを変えて眼裏まなうらによみがえり、こころを温める。

 それは彼にとってかけがえのない宝であり、いとおしい想い出だ。


 優しい過去きおくを夢に想いながら、白い獣はさいはての島で眠り続ける。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠れぬ夜には、恋歌を 羽鳥(眞城白歌) @Hatori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ