エピローグ 全ては闇の中に (2)


 閑静な住宅街の一角を、一台の乗用車が走っていた。

車は住宅街の奥地―――赤い屋根の屋敷へと続く、長い坂道へとさしかかる。


フロントガラスの向こうに見える、

登り始めた太陽の光に、朱道は目映さを覚えていた。

時刻は早朝。朝焼けがあたりを包んでいる。


―――違和感を、見失とすな。


朱道にそう教えてくれた宍色は、あの日、彼の目の前でバケモノに変身して以来、

全く姿を見せなくなった。


それどころか不可解なことに、

自分の身の回りの誰もが宍色鴇也のことを覚えていないという、

まるでホラー映画のようなことが朱道の周囲で起きるようになった。


自分の認識と、周りの人たちとの認識に相違がある。

それは朱道が、先月の巳隠学園の事件の際、被害者の数に違和感を感じていたことと全く同じ構図だ。


トリックは分からないが、あの時と同じことが今、朱道の身の回りで起きている。

宍色さんのためにも、その違和感を手放す訳にはいかない。


全ての謎は、『長い黒髪の女』に行き着くのだろう。

まずは彼女に話を聞かなければ何も始まらない。


朱道の中で、凄惨な事件の犯人を捕らえようとする正義感が燃えた。

彼の魂は研ぎ澄まされ、清らかな心へと純度を高めていく。

それは朱道に、『鬼』のチカラに対抗するだけの『霊力』を備えさせた。


「赤月、美桜……」


朱道が向かっている先―――『赤月邸』には今、その女の手がかりがあるかもしれない。

全ての事件の鍵を握る『長い黒髪の女』を探るため、朱道はアクセルを踏み込んだ。




 綺麗な赤い紫陽花が、庭に咲いていた。

巳隠学園の付近にある花屋で買ったその苗は、

ようやく大輪の花を咲かせるほどにまで成長していた。


ももかと出逢ったのが4月の中旬。

あれから月日は流れ、もはや5月が終わろうとしている。


先月まで茫々ぼうぼうと生えていた草木たちを刈り取り、

花を愛でようなどと思い立ったのは、

ももかと出逢ったおかげで美桜の心境が変化した故なのだろう。


彼女の血液を定期的に摂取しているお陰で、人里に下りて買い物をしていても、

特に食欲ほんのうに苛まれることなく生活できている。

この短期間で沢山の肉を喰らえたことも大きな要因かもしれない。


人避けのための『幻惑』は施したままであるため、

『霊力』を持たぬ者が赤月邸の庭を見れば、

そこには茫々の草にまみれた廃墟が映し出されることだろう。


屋敷の真の姿を見られるものは『幻惑』に対抗するチカラを持った者だけだ。

美桜が庭の手入れをしようと思ったのは、『幻惑』の通じないももかに、

散らかった家の庭を見られるのを恥ずかしいと思うようになったからに他ならない。


ももかの魂は以前よりも穢れをまとい、"バケモノ"の美桜好みに染まっていった。

だがももかは、未だに美桜の『嗅覚』も『幻惑』も通じない程度のチカラを有しているし、

『鬼』の妖力によって存在を奪われた人間のことを、一人たりとも忘れては居ない。


『霊力』の根幹を担うものは、大まかに分けて二つある。

一つは、清らかな心だ。彼女の『霊力』も心が穢れるのに比例して衰え、

以前ほどのチカラを持たなくなっている。


未だに鬼のチカラを受け付けないのは、

もう一つの要因によるところが大きいのだろう。


それはつまり、体質だ。H県の周囲―――とりわけ清衣市にて、

強大な『霊力』を持つ家系に、美桜は心当たりがある。


―――もしもあの子が、『供物の一族』の血を引く者ならば……。


美桜がぶるり、と体を震えさせる。

もしそうだった場合、それがどれほど自然の摂理に背くことか理解しているからだ。

ともすれば、ももかに近づいたことこそが己を滅ぼす原因となってしまうかもしれない。


それでも美桜は、ももかに触れずには居られなかった。

たとえその結果、自分が滅びたとしたとしても。

美桜はももかの暖かな命に、柔らかな光に、触れていたかった。


だが所詮、彼女は触れるものを皆穢していく邪悪なバケモノでしかない。

触れるもの全てを金に換えるミダス王が、愛する者にすら触れることが出来なくなったように。

美桜がももかに触れてしまったことで、ももかはその柔らかな光を失ってしまった。

バケモノではない美桜の人間の部分が、そのことに胸を切なくさせる。


朝露に包まれた、2階の部屋を見上げた。

自分の部屋のベッドでまだ寝息を立てている"恋人"の姿を想像して、美桜は口元を緩める。


柔らかな日差しが、美桜を包み込む。

大事な人がそばに居ると言うだけで、

この世の全てが自分を祝福してくれているように感じる。

世界をこんなにも美しいと思えたのは、何年ぶりのことだろうか。


愛するあの子にとって、自分がどれほど有害な存在なのだとしても。

彼女のそばに居ることで得られるこの幸福感を、美桜は手離したくない。


―――私にはきっと、大事な花を枯らせる才能がある。


目の前の紫陽花たちも遠くない未来で枯れてしまうのだろうな、と美桜は思った。



そんな、静寂に包まれた平和な早朝。

門の前から突如、美しい世界に似つかわしくない、

ひどく醜いエンジン音と、排気ガスのニオイが漂ってきた。


黒い乗用車から、一人の青年が顔を出す。

ドアを閉めてこちらに向かってくる細身の青年。

彼はスーツの中から黒い手帳を取り出し、美桜にそれを見せつけた。


「陰泣署捜査一係の朱道という者です。……赤月、美桜さんですね?

お聞きしたいことがあるので、署までご同行願います」


朱道と名乗った青年に、美桜はなんだか見覚えがあるような気がした。

陰泣署の刑事と言えば、先日喰らったばかりの宍色鴇也もそこに所属していたはずだ。

美桜は宍色の記憶を辿り、目の前の若い男のことを探る。

―――ああ、宍色鴇也の相棒バディか。


「あの……私が、なにか?」

「一ヶ月前の巳隠学園失踪事件についてはご存知ですよね?

被害者達が発見された現場で、貴女らしき人物を見たという証言があったんです」


朝から、うっとおしい男だ。

認識を操作して適当に撒いてしまおう。


そう思った美桜は、世界そのものに『幻惑』をかけて、

現実を歪ませようとその身の内から妖力を放出する。


だが美桜は、目の前に居る男の気配に気づいて妖力を止めた。

そんなことをしてもこの男には通用しないだろうと感づいたからだ。


目の前の男からは、欲望のニオイが感じられない。


「貴女には聞きたいことが山ほどあります。先月の失踪事件についてはもちろん、

3年前、この屋敷に遺棄されていた遺体について、

それから……行方不明になった宍色鴇也という僕の先輩についても、

貴女はなにかご存じのはずだ」


消されたはずの宍色鴇也のことを、その男は覚えている。

それは目の前の朱道という若い刑事が、

ももかと同じく『霊力』に恵まれた存在なのだということを示していた。


だが体質が及ばないのか、その『霊力』はももかに比べると微弱なものだ。

ちょっとしたきっかけで脆くも消え去ってしまうものだろうと美桜は読んだ。


"ちょっとしたきっかけ"―――例えば、瞳から直接、美桜の『幻惑』を喰らうことだとか。



「ふふ。ふははははは……!はは……!」

「……どうされました?赤月さん」


美桜は笑っていた。

警察に拘束される寸前で笑い声を上げる女。

端からた美桜の姿は、まるで安っぽいサスペンスドラマの犯人のように見えることだろう。

だが美桜は、今自分を取り巻いているこの環境のことが、おかしくて仕方なかった。


―――最近、私の周りには『霊力』を持つ者が現れやすくなった。

全ての歯車が、私を滅ぼするために回っているような気すらする。

『アイツ』が再び私の前に現れるのすら、そう遠くない話かもしれない。

……まるで、20年前を彷彿とさせる。


今後を考えれば、今この場でこの男を殺しておくことが最善に違いない。

だが美桜はそれを選ばない。欲望のニオイを発して自分を苛めてくることのない人物を喰い殺すことは、

美桜のプライドが許さないからだ。


美桜は嫌いではないのだ。むしろ憧れを抱くほどに、

"彼ら"の存在を愛してやまない。

ももかや朱道のように、清らかな魂を有する者のことを。

『鬼』である美桜を滅ぼしかねない、『霊力チカラ』を持つ者のことを。


だからまだ殺さない。朱道が必ずしも美桜を滅ぼしに来るとは限らないからだ。

―――なるべくなら殺したくはない。彼のような、穢れなき命のことを。


美桜の両目が赤く発光し、朱道の瞳を眩ませた。





朱道が再び目を開けると、目の前には絶世の美女が居た。

美女は柔和な笑顔を浮かべて、じっと朱道を見ている。

なんとなく気恥ずかしくなった朱道は、視線を逸らした。


「……って、あれ?僕は今、一体何をしているんだっけ?」


美桜の瞳から直接幻惑を喰らった朱道は、この家に来た真の目的を忘れてしまっていた。

彼の頭の中からは、事件のカギを握る『長い黒髪の女』を捕らえようと言う意思はもう無くなっている。


「うふふ……お兄さんったら、もうお忘れになったんですか?

綺麗な紫陽花を見かけたから、もっと近くで見たくなったんでしょう?」


そうだった、と朱道は思った。


"仕事に行く道すがら、綺麗な紫陽花が咲いているのを見かけて、

もっと近くで見たかったから、他人の家の庭に勝手に上がりこんでしまって、

その様をこの女性に見られてしまった"のだった。


―――25歳にもなってそんな子供みたいなことするなんて、なんとも格好つかないな。


朱道の中で、羞恥しゅうちの情が湧いてきて、彼の頬を赤く染めた。


「ご、ごめんなさい!それじゃあ、僕、仕事に戻りますから……」


「いいんですよ。紫陽花が見たくなったら、いつでもここに居らして下さい。

枯らさないように頑張りますから。

……貴方とは、なんだか長い付き合いになりそうな気がします」


車の元へと帰っていこうとする朱道に、"綺麗なお姉さん"は手を振り続けてくれていた。

その柔和な笑顔からは、どこか育ちの良さを感じさせる。

ウチの職場には居ないタイプだ、などと朱道は思った。


―――綺麗な、人だな。

"長い付き合いになりそう"とか言ってた。あの子、彼氏とか居るのかな?

連絡先とか聞いた方が良かったかな?


もしかしてあれは、彼女なりのアプローチなのではないだろうか?

そんな都合のいい考えが朱道の頭を巡る。いかに刑事と言えども男なのだ。

美人に優しく接してもらって、浮かれないはずが無い。


去り際にもう一度彼女に会釈するため、朱道は屋敷を振り返る。

そこにある風景に、彼は絶句するしかなかった。


「え……なんで……?」


朱道の瞳には、廃墟が映っていた。

さきほどまで庭を輝かせていた綺麗な紫陽花はなく、

そこには枯れた草木だけが茫々と生えている。


当然、女の姿など無い.―――否、見えていない。

美桜は依然そこに居続けたが、『幻惑』を喰らったことで、

彼女を捕らえようという意思を―――『霊力』を失った朱道には、

もう見えなくなってしまっていた。


"『赤月邸』は無人の廃墟である"という『幻惑』が、

朱道のまっすぐな瞳を曇らせ、真実を闇に隠した。

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ケガレナキ クモツ 仙崎サルファ @salpha

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