これは、恋じゃない
藤崎珠里
1
彼の姿を見た瞬間、心が震えた。
「なぜ――なぜお前がここにいる、オレール・ブラン」
* * *
前の世で、私は化け物と呼ばれるほど強大な魔力を持った魔法使いだった。物心つくころにはすでに戦争にかりだされており、幾人もの人を殺めた。敵も、味方も。
別に、そのことに対して何か感慨を覚えるわけでもない。ただ、この平和な日本という国に……そして、魔法というものが存在しない世界に生まれたことは、幸せなことだとは思っている。
人との接し方などわからなくて、少し苦労もした。けれど、それなりに馴染めて、人間らしく、女の子らしく過ごしていた。
「鈴野」
――こいつと、再会するまでは。
私はあからさまに顔をしかめながら、話しかけてきた者へ視線を向ける。
「なに、織原」
「この問題教えてくれないか? ここの条件付けで、判別式がいらない意味がわからなくて」
「……それ、まだやってないとこでしょ。どうせ先生が教えてくれるんだから、私に訊かないで。それに、二度と私に関わらないでって何回も言ってるよね?」
「……ミラベル」
いらっとしたので、手元にあった日本史の教科書で頭を叩いてやる。「いった!」と声を上げているが、自業自得だ。
どうだ、痛かろう、と自慢げにすれば、彼は恨めしげな目でこちらを見てくる。
「大分思いっきりやっただろ」
「自業自得。……ほんっと、ずるいんだから。で、どこからわからない? 条件に判別式入れても入れなくても、そこで出てきた範囲は答えに影響してないっていうのはわかってるよね?」
一応、と曖昧にうなずく織原に、私は解説するべく体を向けた。
織原――
彼は、敵国の剣士だった。化け物と呼ばれた私でさえ敵わない、最早化け物という言葉が相応しくないほどの化け物だった。小さな国だったとは言え、一国を滅ぼした私の魔法を、オレールは剣を何振りかするだけで消し去ったのだ。……私だって常人では即死しただろう彼の剣技を魔法で防いだし、お互い様だとは思うが。
多くの人々を巻き込んだ壮絶な戦いの結果、私はこの男に敗れ、
そんな私と彼が再会を果たしたのは、高校の入学式だった。友達はできるか、勉強についていけるか……そんな、ただの高校生らしい不安を抱きながら入った教室に、彼がいた。姿も名も違ったが、見た途端にわかった。彼だ、と。
『なぜ――なぜお前がここにいる、オレール・ブラン』
彼にも記憶があるなんて確証もなかったのに、私は思わずそう口にしていた。前の世での言葉遣いが出てしまったのは失敗だった。というより、教室に入ってからの第一声がそれだったのが悪かったのだろう。その日は女子が寄ってこなかった。この世界で培ったコミュニケーション力のおかげで今では仲のいい友達もできたし、それほどの失敗ではなかったのかもしれないが。
『……もしかして、ミラベル・カリエか?』
織原は、オレールとしての記憶を持っていた。まあ、私という例もあったし、記憶があったということ自体は不思議ではない。しかし、私の名前を覚えていたというのは驚きだった。今思えば私の名は全世界へ轟いていたし(もちろん、彼の名も)、彼が覚えていてもおかしくはなかったのかもしれない。
私は彼に殺されたが、彼を恨んでなどいなかった。けれども彼はそのことについて申し訳なく思っているらしく、ことあるごとに絡んでくるようになった。
なぜ、と思う。私は数え切れないほどの人間を殺したし、彼もまたそうだった。彼は殺した人間全員に対して、申し訳ないとでも思っているのか。きっとそうなんだろうな、と思うし、だからこそ苛々する。一緒にいると無性に消えたくなってしまって、私は彼に「今後一切、必要なとき以外関わらないでね」と頼んでおいたのに。
「もうさー、付き合っちゃえばいいのに」
どうしてこうなった。
目の前の友人は「みんなでいつ付き合うか賭けてるんだよ?」なんてのたまいながら、箸を私に向けた。そんな賭け事が許されてたまるか。というより、人に箸を向けるな。行儀が悪い。
彼女の発言からもわかるとおり、私と織原は、なぜかそういう関係なのだと勘違いされている。確かによく話すし、一緒に帰ったりすることもあるが、そんな甘い感情は一切存在しない。
口の中のものを飲み込んでから、口を開く。
「何回も言うけど、別に私、織原のこと好きじゃないから」
「はいはい。でも嫌いじゃないんでしょー」
「……嫌いじゃないから好き、っていう理論はおかしいよ」
えーでもさ、とまだ食い下がってくる彼女にばっさりと言う。
「これは恋じゃない」
彼女――
「ごめんごめん、怒った?」
「別に」
「……恋って言うのがみらいらしいよねぇ。あんまり言わなくない?」
「そうかな」
そうだよ、とうなずいて、理紗は卵焼きを口に入れた。そして飲み込む前に口を開こうとしたので、にらんで止める。人に箸を向けたり、口にものが入っているときに話したり。行儀が悪いことこの上ない。
仕方ないなぁ、という顔で彼女は卵焼きを飲み込む。
「じゃあ、恋じゃないって言い張るみらいちゃんにこんな情報をあげましょう」
ウインナーを咀嚼しながら目で促すと、理紗は自分から言い出したくせに口ごもった。少し視線をさまよわせて、「えーっとね」と切り出す。
「織原君、好きな人いるよ」
「鈴野?」
織原の声に、はっと我に返った。いつの間にか、歩みが遅くなっていたらしい。
「ごめん、何の話だっけ」
「秋はつい食べすぎちゃって困るよなーって話」
「あ、うん、そうだったね」
「残念、そんな話してませーん」
え、と固まる私を、織原は笑った。
しかしすぐに表情を曇らせて、私の顔を覗きこんでくる。
「体調悪い? 大丈夫か? 鈴野が人の話聞いてないなんて珍しいじゃん」
「……大丈夫だよ」
頭痛とか喉の痛みもないし、だるくもないし。
そう言うと、「ならいいけどさ」とまだ納得していない顔で引き下がる。……理紗も、このくらいあっさり引き下がってくれたらいいのだが。
織原はまた話し始めたが、こちらのことをちらちら気にしている。
お前のせいだ、ともしも言ったら、彼はどんな反応をするだろうか。それはあまりにも直球すぎるか、と考えて、織原の話が一段落ついたときに尋ねてみた。
「好きな人がいるなら、こうして私と一緒に帰るのは誤解を生むんじゃないの?」
ぶっ!? と面白いくらい盛大に噴き出した織原は、ぱくぱくと口を動かす。彼が立ち止まったので、横を歩いていた私も自然と立ち止まる。そこまでおおげさな反応をするとは思っていなかった。
ちょっと驚いていると、織原は勢いよく深呼吸をした。意味がないのでは、と思ったが、案の定深呼吸のスピードは徐々に遅くなる。
そこでようやく落ち着いたのか、織原はおもむろに私に視線を向けた。
「……御影か?」
確信を持った訊き方だったので、「そう」と普通にうなずく。
織原は呻きながらうなだれた。もしかして、理紗が口ごもったのはこういうことになることを予想してだったのだろうか。
腕時計を見ると、いつもここを通る時間より十分ほど遅い。私がぼんやり歩いていたせいもあるが、これではいつも乗る電車に間に合わないだろう。
スマホで時刻表を確認しようとも思ったが、話している最中にスマホをいじるのは失礼だ。諦めて、織原が何か言うのを待つ。
「……ちなみに、それを訊いてきたのはなんで?」
「私がぼんやりしているのは織原のせいだ、と直球に言うのはちょっとあれかなと思ったから、遠回しに言ったつもりなんだけど」
「十分直球だよ!?」
あれ、そうだっただろうか。
少し首を捻っていると、織原はため息をついた。
「もうすでに誤解を生んでるみたいけど、それはまあ……決心がついたときにでも俺から説明するから、鈴野はなんも気にしないでいいよ」
「……わかった」
私には関係ない話、と言われているようで、思うことがないわけでもなかった。けれど、それを口にする資格も勇気も私にはない。
織原はこう言っているが、一緒に帰るのは控えたほうがいいかもしれないな。そもそもが、二度と関わるなと言ってあるのに、こうして織原の部活がないときはいつも一緒に帰っていること自体おかしいだろう。
その考えを見透かしたのか、じとっとした目で見られる。
「だから、気にしないでいいんだって」
「わかってるよ」
「わかってないよ、ミラベル」
「……ずるいってば」
「はっ、ずるくて結構!」
いわゆるドヤ顔というものをされたので、肩を軽くどついておく。……軽くだ、軽く。いっ!? とか痛がっているが、別に私はそんなに力を入れていない。力を入れたのではなく、力が入ったのだ。
私はその名に、親しみを込めて呼ばれたことがない。……だから。そんなふうに呼ばれたら、どうすればいいかわからなくなる。単なる喜びとも言えない感情が、胸の奥から湧き上がるのだ。
それがわかっているから、何かお願いを聞いてほしいとき、そしてそれを私が渋るときには、織原は必ずミラベルと呼んでくる。本当にずるい。……私は、最初の一度以来、怖くて彼の昔の名を呼んだことがないというのに。
「……織原のせいで、電車を二、三本逃したよ」
「え、マジで!? 悪い」
心底申し訳なさそうだった表情だったので、ため息一つで許してやった。
……そう、私はまだ、前世を引きずっている。
だから、これは恋じゃない。ただの、前世への未練だ。
だって、そうじゃないと、こんなに胸がざわめくはずがない。目で追ってしまうはずがない。
これは、恋じゃない。
* * *
短い秋はすぐに過ぎ去り、冬が来た。空気が冷たい。それを胸いっぱいに吸って、はあっと吐き出す。白い息がふわりと消えた。
少し震えながら、マフラーに顔の半分まで埋める。最近本当寒くて、耳当てを買おうか真剣に検討している。今日なんて雪雲が出ているし。今にも降り出しそうだけど、その前に帰りたいな。
一人だったら、体を温める意味も込めて走って駅まで行きたかったのだが。あいにくそうはできなかった。
今日も今日とて、私は織原と一緒に帰っているからである。なぜだ。
しかしいつもと違うのは、織原の口数が少ないということだった。普段は織原ばかりが話して私は相槌を打っているだけなので、今日はすごく静かだ。ここは私が何か話すべきだろうか。とは言っても、話題など見つからない。女子相手なら話題はたくさん出せるが、織原相手に何を話せばいいのか。
「……なあ」
考えていると、織原が口を開いてくれた。よかった、これ以上悩まずにすみそうだ、と思いながら「なに?」と尋ねる。
「オレールとして、訊きたいことがある」
そんなことを言われたのは初めてだったから、思わず身構える。
「ミラベルを殺した俺を、恨んでいるか?」
「……少しも気にしてないって、前に言わなかった?」
「……本当に?」
「くどい」
なぜ今更その話をほじり返すのか。ふんっと鼻を鳴らすと、織原は「じゃあ」と言って、押し黙る。
……何が言いたいのだろう。
急かしたくはないので、織原の言葉をじっと待つ。
以前訊かれたときにも、私は同じ答えを返した。あのときも確かに納得していないようだったけど、まさか今更また訊かれるなんて思わなかった。
長いようで、短い時間が過ぎる。ああきっと、また電車を一本逃してしまったな。……電車なんていくらでもあるし、数本逃すくらい、本当は気にしないのだが。
「……決心が、ついたんだ」
「決心?」
なんのことだ、と眉をひそめると、織原は緊張した面持ちで言う。
「好きな子の、誤解を解く決心」
「……ふーん」
「ふーんって、そんな興味なさげな」
それ以外にどう返せと言うのだ。
というより、まだ解いていなかったのか。あれからもう二ヶ月くらい経っている。誤解を解くだけなのに、決心するまでそんなに時間がかかるだろうか。
呆れた視線を思わず向けてしまうと、織原がうなだれる。
「……なに、どうしたの?」
「いや、その、予想はしてたけど覚悟が足りなかったっていうか」
もごもごと言ってから、織原は目を瞑った。そして大きく息を吸って、「よし」と言うと目を開ける。
「俺の好きな人は、鈴野みらいです」
「……は?」
頭が、理解を拒んだ。
織原は真剣な表情で、冗談を言っているようにはまるで見えない。でも、今のは、だって。
自分の息が、やけに大きく聞こえた。わけのわからない感情が、ぐっと私の中を満たす。とにかく熱くて、この熱を逃がすために今すぐにでも寒いところに行きたいと思った。そうだ、コートを脱ごう。マフラーもいらない。
「え、鈴野?」
織原の困惑した声が聞こえてきたが、知ったことか。
コートとマフラーを脱いで、少しだけ頭が冷えた。
「――ふざけるな」
気づけば、そう口にしていた。
え、と声を漏らす彼に、もう一度言う。
「ふざけるな。お前は……お前だけは、駄目だ。許さない。絶対」
「駄目って、」
「駄目だ」
この熱い感情は、なんだろう。
怒りか、失望か、不安か……それとも、ほんの少しの喜びか。駄目だ。喜んではいけないのだ。こんなことを、許してはならない。
「お前は私に、私なんかに惹かれたら、駄目だ」
「……どういうこと」
泣きそうな、情けない顔から一転。織原はすっと鋭い目で、私を射抜いた。息が止まる。
ああ、本当に。彼は変わらない。
「なあ、どういうことだよ。どうして俺が、鈴野を好きになっちゃいけないわけ?」
それは。
「お前が、私と違うから」
「……違う?」
「違う」
何もかもが、私と彼とでは違いすぎている。
「一つ、馬鹿な化け物の話でもしようか」
唐突に、私は――ミラベルは、話を始めた。
織原は言いたい言葉を飲み込んで、静かに聞いてくれる。
「とある国に化け物がいた。その化け物は、幾人もの人を殺めた。なぜ自分が生きているのか、その意味も見出せずに、化け物はただ言われたとおりに人を殺め、国を滅ぼした」
少し寒くなった気がして、コートを羽織り直す。
「そして、自分と同じように化け物と呼ばれる男に出会った」
それって、と織原は小さく声を上げたが、無視して続けた。
「化け物は、ようやく気づいた。自分は、彼と出会うために生きていたのだと。彼は、化け物とはまるで違った。その目は、誰かを守るという意志を持って、輝いていた。何もかもが、化け物には眩しく見えた」
――本当は、目があったときには惹かれていた。
私と同じように化け物扱いされていたはずなのに、それでも国を、誰かを守るという、強い意志がそこにはあった。見た途端、からだが熱くなった。どうしようもなく、彼を欲した。
でもそんなこと、認めるわけにはいかなかった。あってはならなかった。
私のようなただの化け物が、あんなに輝いている人に焦がれるなんて許されてはいけない。
そもそも、敵同士だったのだ。言葉を交わしたのは、名乗りを上げたそのときだけ。殺し合いをして、私は負けた。ここにいるということは、彼も死んだのだろうが。できれば、その理由は老衰であってほしい。同い年なのは、ただの時空の歪みであってほしい。……だから私は、再会したときに尋ねてしまったのだ。なぜお前がここにいる、と。
「溢れんばかりに輝いている彼に、ただの化け物が焦がれるなどあってはならなかった。だから化け物は、全力をもって彼と戦い、そして敗れた。しかし生まれ変わってなお、化け物は彼に焦がれ、欲し、会いたいと願った」
「っそれなら!」
織原は、私の言葉を遮った。
「なんで駄目なんだよ! 俺たちはもう化け物じゃなくて、普通の高校生だろ!?」
「……そうだな。そうなのかもしれない。でも私は、まだミラベル・カリエなんだ。鈴野みらいというただの少女には、なれない」
こんな感情は、恋ではない。恋なんていう、かわいらしい言葉では表せない……もっと汚い、他の何かだ。
「お前は、幸せになるべき人間だ。だから私に、もう二度と関わるな。こんなに近い距離を許した、私が間違っていた」
「……なんだよそれ」
「では言おうか。私は、お前が好きだ。初めて出会ったときから。どうしようもなく惹かれた。お前と戦っていたあの時間だけが、前の世での唯一の幸福な時間だった」
素直な気持ちを伝えれば、織原は固まった。
その様子を愛らしいなと思いながら、コートのボタンを一つずつ留めていく。
「それで私は、もう十分なんだ」
寒い。コートもマフラーも脱いだ私は馬鹿だった。くるりとマフラーをもう一度巻いて、息をつく。
そういえば、わざわざ化け物の話、と他人のことのように話したのに、結局私のことだとはっきり言ってしまった。そうぼんやり思ったが、別にいいか、と織原を置いて歩き出す。どうせ、もう関わることはない。いじめられたとでも言って、転校しよう。でもそれだと架空の加害者を作ることになって、みんなに迷惑をかけるかもしれない。だとしたら、勉強についていけない、とか。……駄目だ、学年五位以内をキープしてるんだった。
困った、意外と転校は難しそうだ。
そこまで考えたところで、いきなり腕を強く掴まれた。
「いたっ……何するの、織原」
もう彼に、ミラベルとして接することはない。鈴野みらいとして文句を言うと、織原はぼそりと何かを言った。この近距離で聞き取れなかったので、相当小さくて低い声だったようだ。
腕に込められた力は、まだ緩まない。
「何?」
「……っざけんなよ!」
え、ときょとんとすれば、織原は今までに見たことがないほど苛立った顔で吐き捨てる。
「ふざけんな」
それは、私が先ほど彼に投げつけた言葉で。
「なに勝手に満足してんだよ! 俺はこれから先だってお前と一緒にいて、幸せになりたい。確かにこういう気持ちは変わりやすいし、いつかは鈴野を好きじゃなくなる可能性も、少しは……本当に少しはある。けど、今の俺にとって一番幸せなのは、お前といることだ。幸せになるべき人間とか言うなら、お前が幸せにしてみせろよ!」
彼の言葉がまったく理解できなくて、思考が止まる。
しばらくして、ぽつりと一言だけ返せた。
「……滅茶苦茶だ」
「……俺も思った」
「そんな恥ずかしいこと言える人だったんだ」
「わあぁー! ちょっ、突っ込むな! 自覚はあんだからさらに恥ずくなるだろ!」
顔を真っ赤にさせた織原は、ようやく腕を放してくれた。それから、ほんの少し躊躇って、また腕を掴んできた。今度は優しく。
「……ミラベル・カリエとか、鈴野みらいとか、そんなの関係ない。俺は、お前が好きなんだ」
ぱく、と。私は空気を求めて口を開いた。けれど十分な空気は取り入れられなくて、結局息を吐いて終わる。苦しい。
「……本当、恥ずかしい人だね」
「だから言うなって!」
いまだに顔が赤い織原に、くすりと笑いがこぼれた。
どこまでも真っ直ぐで、輝かしい。その輝きを少しでも鈍らせてしまうことを恐れていたけど、それこそおこがましいことだった。私なんかのせいで、彼の輝きが損なわれるはずがない。
「いいよ、私も恥ずかしい人になってあげる。これが最後の、ミラベルとしての言葉だ」
少し冗談っぽく。そうでもしないと、恥ずかしくて死にたくなる。
「私の愛は、重いぞ。お前に耐えられるか?」
あ、駄目だ。死にたい。消えたい。
我慢できなくて、マフラーをおでこまで上げて手で押さえる。もっと大きいマフラーにすればよかった。
顔を見られたくないという意思表示をちゃんとしたというのに、織原はぐいっと私のマフラーを下げた。
「ははっ、真っ赤だ」
「……お互い様だよ。それで、返事は?」
「もちろん、って言いたいところだけど、自信はないなぁ」
「まあ私も、ずっと織原を好きでいられる自信はないけど」
期待していた反応と違ったらしく、織原はがーんという表現がぴったりの顔をする。
「だって、来世でもまた記憶が残ってるかなんて、わからないでしょ?」
記憶がなくても、きっと私は織原に惹かれるだろうけど。これ以上恥ずかしいことを言うつもりはない。
織原はちょっと黙って、それから悪戯っぽく笑う。
「そうだ。鈴野みらいとしての恥ずかしい言葉は?」
「……欲張り。鈴野みらいでもミラベル・カリエでも関係ないんじゃなかったの」
「それとこれとは話が別」
どこが別なのだ。
うー、と唸り声を上げてみたが、知らんぷりされる。にこにこと言葉を待たれてしまえば、もうため息をつくしかなかった。
「好きだよ、馬鹿。ちゃんと、幸せになってよね」
「……『なろう』でも『する』でもなくて、『なって』なのか?」
「私と一緒にいるのが幸せって言うなら、勝手にずっと幸せでいれば?」
プロポーズのようになってしまったけど、それはそれで構わない。
またも固まる織原を置いて、すたすたと歩き出す。ああ、いったい何本の電車を逃したんだろう。しかも通学路でこんな恥ずかしい話をするとか、馬鹿だ。私も織原も。
……消えたいなぁ。
ちらちらと降ってきた雪を見上げる。幸せすぎて、消えたい。幸せなまま消えていきたい。
「織原」
くるりと振り返って。
「ほら、早く」
そう言って促すと、織原は勢いよく私のほうへ走ってくる。そして、そのままの勢いで私に抱きついてきた。
まったく予想していなかったので、後ろに倒れそうになってしまった。ぐっと足に力を入れて何とか耐えたが、文句代わりに頭を叩いておく。
織原はそんなことを気にもせず、泣きそうな声でぽつりと言葉を落とした。
「……うん。ずっと、死ぬまで……死んだ後だって幸せでいる」
馬鹿、とだけ言って、私は織原をほんの少し抱きしめ返した。
賭けは、理紗の一人勝ちだったらしい。
「理紗の手のひらの上だったんだね」と苦笑いをしながら、私たちは今日も一緒に帰る。
これは、恋じゃない 藤崎珠里 @shuri_sakihata
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