キエンギ葬送

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今日という日が、昨日のためにあるのだとしたら。

 ウル第三王朝、第二代アマル・シン王の治世下のことである。


 エリドゥの神官にして、偉大なるキエンギの王に仕えし書記ジウスドゥラは、人類最初の都市で神々に仕えてきた。老いたるジウストゥラは、古の神々と諸王の偉業を昨日のことのように知っている。常々粘土板を携えてこそいたが、彼にとって暗唱しえない記録など考えられぬほどには、記憶術と書法の秘伝には通じていた。


 ウルの都を訪れていたある日のことである。神官の一人として、神々に捧げられる詩歌を聴講する機会があった。シュメール文化最後の黄金時代が花開き、その余波がこのような形で彼の聖務に影響を与えていることを、彼が知ることはない。




『すべてを見たるひと』と、その詩は呼ばれた。遥か未来、『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれることになる叙事詩だった。詩歌が語られると、聴衆の間には並みならぬ興奮と畏怖が引き起こされた。初めて歌われたものではない。諸国に伝わる多くの伝承が、一つに物語として編まれていた。既に市井の間では広く膾炙した叙事詩である。それでも彼らに感動を引き起こさせるのは、ひとえに筋書きの巧みさと表現の妙にあるのだろう。耳の肥えた王の臣民たちも、こぞってこの詩歌を誉めそやした。なるほど美しく壮大優美にして教育的でもある、我々ウンサンギガの名と共に後の代まで伝わるだろう。




 ジウスドゥラは歓声に沸く神殿を一人静かに抜け出していた。確かに素晴らしい詩であった。だが朗々たる吟詠のさなか、一抹の疑念のようなものが彼の頭をかすめたのだが、それが何なのかは皆目見当がつかなかったのである。やがて夜が更けてきた後も、彼はその考えを捨てられずにいた。


 古の偉大な王の物語だった。大筋であれば子供でさえ学校で習っているだろう。家路についたジウスドゥラは真っ先に書庫へと足を運んだ。最も古い粘土板の一群を慎重に取り出し、松明の光が数十年ぶりに掘りこまれた線と点を照らした。


 あの叙事詩と同じ、一人の王についての記録である。ジウスドゥラの生まれるはるか昔に書かれた記録であり、古の書法は一行読み進めるにも熟練を要した。読みやすさや表現の巧拙において、間違いなくあの詩歌はこの記録より優れているのだろう。それでも、あの詩歌からは記録からあるべき何かが失われていることを、彼は感じずにはいられなかった。


 あの美しい詩歌が語っているのは、詠われるために意味付けされ、作り替えられ、

 精製された物語であって、過去ではなかった。読み聞く者にとって、偉大なるギルガメシュ王はかつてこの大地を歩んだ人の子ではなく、物語の装飾品になり果てていた。あの詩歌が称えていたのは、王ではない。それは本当のところ、何者も称えてはいない。神々と王に捧げられたのではなく、ただそれを読み聞く者のために編まれた夢物語。ジウスドゥラは、この時代には存在しない言葉の意味を今や知っていた。偉大なる王を称える詩歌は全きエンターテイメントとなり、偉大なるギルガメシュ王は消費されゆくキャラクターとなったことを知った。


 ジウスドゥラは、それが意味する不都合な事実を理解し始めた。


 あの『すべてを見たるひと』は、今この瞬間にもウルの民に受け入れられ、これからも偉大な詩として記憶され続けるだろう。詩が、記録を圧倒していた。詩が記録に忠実であり、かつそれらよりも技巧において優れているがゆえに、詩は生きた過去を後にして、良く出来た分かりやすい空想として飛び立つだろう。あの詩によってギルガメシュ王を知る者は、決して我らのように王の偉業を知ることはない。おとぎ話の中で、架空の王の姿が生き生きと描かれるほどに、かつて確かに息づいていた王の姿は現実から遠ざかっていく。伝えるべき過去は、永久に失われていくではないか。


 それからジウスドゥラは、親しい神官や書記、知者と目される者には誰にでもこのことを話すようになった。理解を示す者もあったが、反応は冷めていた。今を生きる者にとって過去の在り方など大した意味はなく、知恵ある者を悩ますのは未来だけで十分だと言う者がいた。歴史など儚いものだ、いつかはすべて失われるのだから、それが書き換えられようが変質しようが構わぬと言う者もいた。百年に一度しか顧みられぬ記録よりも、万人を楽しませる詩歌こそが優れた存在であると言う者もいた。


 ジウスドゥラは、途方もない迷宮に迷い込んだ心地がした。生ける人間が過去を意のままに語り、詩歌のごとく嗜むことは、それほど害の無い行いなのだろうか?ジウスドゥラという人間がこの瞬間に存在するのは、そこに至るまでの過去が確かに存在する故にである。現実を意のままに変えられぬ人間が、どうして過去を書き換えられよう?


 ジウスドゥラは、病床に伏せるようになった。物語るという行為と失われる過去にまつわる問いは彼の思考を捕らえて離さず、うわ言のようにそれらは口から洩れた。エリドゥの人々は、ジウスドゥラに悪霊がとりついたのだと噂し合った。


 あくる日、神殿の書庫で冷たくなっているジウスドゥラを、神官の一人が発見した。奇妙なことに、いくつかの粘土板が書庫から姿を消していた。偉大なるギルガメシュ王についての記録が失われた。ジウスドゥラの死骸の傍らには、真新しい粘土板が転がっていた。


「泥土より生まれしものどもは、泥土へと消えるべきである。」


 彼の謎めいた遺言を理解した者はいなかった。


 ジウスドゥラの怪死が、エリドゥの人々にそれ以上顧みられることはなかった。程なくして隣国エラムの軍勢がなだれ込み、シュメール最後の王国は跡形もなく滅び去ったためである。

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