茶を飲みながら御柱を解する

矢野窮

茶を飲みながら御柱を解する

 突然電子音が鳴り響き、思わず足が止まった。救いを求めるように後ろを振り返る。この施設の職員がこちらに向かってくるのが見えた。この小娘は何をやったのかという周りの視線が痛い。職員さん、早く来て――。


「ということがあったんですよ。結局職員の人の貸し出し処理のミスだったみたいですけど」

 市の図書館で本を借り、外に通じるゲートを通ろうとした時にブザーが鳴ったのだった。無断持ち出しを防止するための装置だ。初めて聞いた音だったが、図書館が静かなだけに、主観的には館内に鳴り響くほどの大音量に聞こえた。

「行きはよいよい帰りはこわい、ですね」

「何、それ」

 千里さんが首を傾げる。千里さんは私の通う大学にある学生食堂で働くお兄さんだ。閉店後の学食で、ときどき茶飲み話をさせてもらっている。今も温かいお茶を頂きながら話をしているところだ。寒い季節、身も心もほっとする。

「通りゃんせです。童謡の。通りゃんせの中にそういう歌詞があるんですよ」

 へえ、と千里さんが相づちを打った。

「どういう意味なの?」

「ええと」

 何だったか。

「一説では確か、埼玉県の三芳野神社がモデルで、その神社はかつてお城の中にあり、庶民が詣でる際には帰りだけ厳しくチェックされるとか何とか……」

「ふうん。持ち込みには緩くて持ち出しには厳しいと。お城と図書館じゃリスクが段違いのような気もするけどね。江戸時代の話?」

「たぶん……自信ないですけど」

「きっとある程度太平の時代になっていたんだろうね」

 うろ覚えだったが、千里さんが一人で納得してくれているようなのでよかった。

「あ、そうそう、学校の図書館でもありましたよ。入退館のときはゲートを通るんですけど、ゲートは学生証を当てると開くんです。退館しようとして学生証がなくて慌ててる人がいて。出入り口そばのカウンターの上にポケットの中身全部出して」

 その時見かけた見知らぬ人は図書館で昼寝でもしてたかあくびをしながら、ポケットから出るわ出るわ。胸ポケットから携帯電話、定期入れ、ボールペン、ズボンのポケットからハンカチ、財布、等々。鞄を持たない人の様子を見ていつも思うが、服が重くないのだろうか。

 係の人の無感情な視線を受けながらその人はいつもここに入れるんですけどねと言い訳がましく言いながら、胸ポケットを何度も改めていた。

「秋月さん流で言うなら、行きも帰りもこわい?」

「あ、それ、咳をしても一人、みたいなリズム感でいいですね」

 行きも帰りもこわい。口の中で繰り返してしまう。

「しかしあの、大学全体に言えますけど職員の人たちの愛想のなさはどうにかならないですかね。私なんか気が小さいので気後れしちゃうんですよね。市の図書館は大違い」

「いろんな学生がいるからね。愛想振りまく気にもなれないんでしょうよ」

 千里さんも学食でいろんな嫌な思いをしているのだろうかとふと思う。いつか聞いてみよう。今は話したいことがある。

「話変わりますけど、私、今日早めに学校に来たんです」

 もうすぐ試験だから早めに来て勉強をしようと思ったのだ。

 今は十二月。昨晩、窓の外は雪がちらついていて、雪の少ない南関東のこの地で育った私としては積雪を期待する気持ちと、積もったら歩くのが大変だなという気持ちで揺れていたのだった。

 そして今朝、雪の痕跡は草や土の上にわずかに残すのみで、アスファルトの上などは学校につくころには完全に乾いていた。……その代わりと言っては何だが――。

「あそこは……理学部の棟かな、そこの入り口から道を挟んだ向かいの棟に、橋でも架かっているように白い紙が散らばってたんです」


 家庭用プリンターで使うようなA4サイズの紙が、蛇行しながら建物の入り口同士をつなぐようにばら撒かれていたのだ。各建物の入り口は正面に向かい合っているわけではないので、道を斜めに横切るような形である。車道をはさんで両側に歩道があるので結構な距離である。

 私は思わず立ち止まり、少し呆然とした。一筋の道のような……まるでそう、諏訪湖の御神渡りのようだ。


 たしか道の右側が理学部棟、左側が工学部棟。私は左側の歩道を歩いていたので、工学部棟に近い位置にいる。農学部所属である私は普段入ることのない建物だ。

 他学部の学生が受けるような一般教養レベルの、例えば物理学といった講義は総合校舎の方で行われるから、基本的には両学部の学生しか足を踏み入れないだろう。

 もっとも、入るのを禁止されているわけではないので、私も入学し立ての頃に探検してみたことはあった。社会性の低い私の探検とは、もちろん一人で過ごせるスペースがないかの探索である。両建物にもテーブルといすが配置されたスペースがあったように思うが、総合校舎のほうにいくつか場所を見つけているので、最初の探索以来行っていない。

 理学部棟は長方形の長いほうの辺が道に接するように建てられており、手前側の短い辺に通用口が備え付けられている。その通用口から始まり、だんだん乱雑に散らばりながら道のほうに紙が広がっているのだった。

 工学部棟は長方形の短い辺が道に接するように建っている。やはりその短い辺側に備え付けられた通用口に紙の道が続いているようだ。ただ、通用口の辺りは生垣で邪魔されているためここからではよく見えない。

 気を取り直して足を進めると、紙には細かな文字や図、表が書かれていることがわかった。どうも論文かレポートのようであった。氏名の書かれた表紙らしい紙も何枚もあり、全体の量からも、何部か印刷されたものがばら撒かれているように見受けられる。

 死角となっていた工学部棟の通用口の辺りも、進むとともに、やはり扉のそばまで先細りになりながらも紙が続いているのが見えてきて……扉の前に男性が立っていた。

 いや、準備運動みたいに体を動かしていた。その手には携帯電話があり、器用にもその画面を見ながら体操していたようである。

 画面から顔を上げ私と目が合い、驚いたような顔をする。相手も人がいることに今気づいたようだった。


 同じ年頃の、おそらくは学生であろうその人は、この冬の早朝にコートも羽織っておらず、足下も室内履きのスリッパだ。

 一日の大半を研究室で過ごす人たちは、館内をスリッパで過ごすと聞く。であればこの人は三年生か四年生か、あるいは院生なんだろう。その姿から今まさに扉から出てきたようだと想像する。

 その人はスリッパのまま階段とも言えない二、三段のコンクリートの段差を降りてきて、私を一瞥する。

「何これ?」

「へ? いや、わ、私も通りすがりで……」

 見ず知らずの人である。人見知りの私としてはこれだけ言うのが精一杯だ。

「片付けとくから行っていいよ」

 口調とは裏腹の有無を言わさぬような表情だ。私は曖昧に会釈をして、紙の隙間を選んで通った。ちょうど風が吹き、ばさばさと地面の上で舞う紙が、まるで生き物――龍がのた打ち回るように形を変えていく。

 御神渡りはそうか、龍でもあるのだろう。そんな連想をする。甲賀三郎の物語だ。

 だいぶ離れた曲がり角で直角に進路を変えつつ来た道をこっそり見てみると、先ほどの人は片付けなどしている風ではなく、体操の続きなのか、腕を振りかぶるような仕草をしていた。こちらに体を向けそうな気配を見て取り、慌てて角を曲がってその人の視界の外に出る。


「へえ、何だろうね。僕はその道は通らないからな……まあ、その男子学生が犯人だろうね」

「何の犯人ですか」

 思わず笑う。いや、笑えない気もする。

「念のため言っておくけど冗談だから。ところで御神渡りとは?」

「御神渡りの前に一言言わせて頂きますけど、千里さんがそういうこと言うと冗談に聞こえませんからね」

「そう? ま、そう思ったから念押ししたんだけどね」

 どこまでも飄々と……まあいいや。

「御神渡りって、冬の諏訪湖で起きる現象なんですけど、聞いたことないですか?」

「んー、たぶん聞いたことない」

 氷が厚く張った諏訪湖。夜間と日中の寒暖差により氷は膨張と収縮を繰り返し、ある時湖面に収まりきらなくなった氷が、堤のように隆起する。

「早朝に轟音とともにせり上がるらしいですよ。諏訪大社って、上社という方に男の神様が祭られていて、下社という方に女の神様が祭られているんですけど、その上社の神が下社の女神の元に通った道とされています」

「情緒豊かな秋月さんは紙が散らばっているのを見てそれを連想したわけだ」

「情緒豊かかどうかはともかく、まあ、そういうことです」

 上社には建御名方神が、下社には八坂刀売神が祭られているとも言われる。しかし、こと御神渡りの説明のときに、『建御名方神』が『八坂刀売神』を訪れるという言い方はされない。おそらくそれらの神の名が伝わる前からその地にあった伝説なのだろう。

 土着の信仰対象が、後から渡って来た新しい神の名で呼ばれるようになる。おそらくこの国のいろいろなところでかつて起きたことだ。

 それにしても諏訪の信仰は独特の様相をいまだに残していると思う。例えば御柱――。

「そっちは行ったきりか」

「はい?」

「早朝に轟音とともにって言った?」

 御神渡りのことらしい。

「そうですよ。もちろん私は直接聞いたことはないですけどね」

「行きはよいよい帰りは……何だろうね、その心理は」

 今度は何の話だ。

「え? 何ですか? そういうわざとらしく謎めかせるような言い方は――」

 私の抗議を遮って千里さんの携帯電話が鳴った。仕事の電話らしい。千里さんの手刀を振るような謝罪の仕草に、釈然としない気分のまま会釈を返して外に出る。寒い。慌ててコートを羽織る。


 いつものことながら、この後特に予定があるわけでもなし、神の道ならぬ紙の道がどうなっているのか、見に行ってみようか。


 果たして紙の道は跡形もなく片付けられていた。おかしな体操をしているだけに見えたがあの人、後片付けの腕は確からしい。もちろん清掃業者による清掃の結果かもしれないけれど。

 朝とは違い、人通りは多い。ぼーっと立っているのも人目が気になる。

 立ち去ろうと身じろぎしたとき、歩道脇の灌木の根本で何かが日の光を反射した。近寄って、それが四角いカードだとわかる。朝のあの人の腕を振りかぶる様子をふと思い出す。

 手に取ったそのカードは顔写真入りの学生証だった。その写真の顔は、あの朝見かけた顔に見えた。

 ……自分の学生証を投げ捨てた?

 そのとき工学部棟の扉の開閉する音が聞こえ、思わず目を向けたが、いたのは朝のあの人ではなく、連れ立って歩く見知らぬ学生たちだった。試験勉強がどうのと耳の痛い話題が聞こえる。

 なんだか不安定な気持ちになってしまい、早々に立ち去ることにした。手元の学生証を再び地面に置くのも私がポイ捨てをしているようで抵抗があり、持ったまま歩き出してしまう。


 翌日、講義室で高科三果と会った。対人面ではとても非積極的な私の、数少ない友人である。

「理学部棟ね、昨日、朝早くに救急車が来たみたいよ。六時頃って言ってたかな。

 担架で女性が救急車に搬入されてたって。女性は普通に救急車の人と話してたらしいから、大したことじゃなさそうだけど」

 運動部の知り合いが朝練でジョギングをしているときに見たという。

 朝のしじまを破るサイレンの音とともに現れた一筋の道。

「ますます御神渡りめいてきた」

「御神渡りね。相変わらずゆみえらしい」

 三果が笑う。

「なんか、そばにいた知り合いらしき人と救急車の人の間で、付き添うとか必要ないとかひと悶着あったみたいで、神様たちみたいなロマンチックな話でもなさそうだけどね。

 理学部か。他に情報ないか誰かに聞いてみよっかな」

「さすが、顔が広い……」

「拾った学生証はどうしたの?」

「学生課に届けようと思ってるけど、タイミングがなくてまだ手元にあるんだよね」

 タイミングがないのも嘘ではないが、愛想が悪いであろう職員の人の元に行くにはちょっと気合いを入れる必要もあり、つい先延ばしにしているところもある。

 どれどれと三果が件の学生証を手に取った。「工学部。渡部真二。学籍番号の採番規則から察するに四年生だね」

 あっ、と私は声を上げた。

「ばらまかれてたレポートの表紙もその名前だった」

「そうなの? よく見てたね」

 三果が感心するように言う。

「いやその、御渡り神事みたいな名前だなと思って」

 御神渡りが発生すると、諏訪大社上社の摂社である八剱神社の宮司達が諏訪湖に赴き、世相を占う神事が執り行われる。それが御渡り神事だ。「おみわたり」ではなく「みわたり」の神事。写真でしか見たことはないけど、一面氷の景色の中に神官がいる光景というのはなかなか神秘的なもので、私好みである。

 講義が始まり、会話は中断される。


「そういえば私、中学校で修学旅行が長野だったよ」

「そうなんだ。どうだった?」

「話に聞く通り、道端のちっちゃなお社にも柱が四本立ってた。私の見た限り、例外なく」

「へえ。本当にそうなんだ。面白いね」

 諏訪大社の御柱際が有名だが、同大社を始め諏訪地方の神社では、その社殿を囲むように四本の柱が立てられる。一の柱からぐるりと四の柱まで。一の柱がもっとも長く、四本の柱は順に少しずつ短くなっているという。

 その由来にはいろいろな説がある。曰く、四神すなわち青龍、朱雀、白虎、玄武を表している、仏教の四無量すなわち慈、悲、喜、捨の心を表している、四天王すなわち持国天、増長天、広目天、多聞天を表している、といった、四の数字に着目したもの。

 あるいは分界するものという考え方をする説。例えば聖俗の境界とでもいうか、境内の範囲を示すものであるという説。それから国譲り神話において力比べで負けた建御名方神が、ここより外には出ないと約定させられた、その境界であるという説。などなど。

 二十を超える説があると言われるが、決定的なものはないとされる。つまるところ、御柱の起源が古すぎて誰にもわからないということだ。

「そのあたりの説って、どうもピンと来ないよね。もっとこう、プリミティブな雰囲気がぷんぷんするんだけどな。諏訪の信仰は」

 仏教は元より国譲り神話にしても、この御柱の由来とするには新しすぎる気がする。

 諏訪大社は二社四宮からなる。上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮である。そのうち上社前宮を除く三つの神社は本殿を持たず、山や木をそのままご神体とする。原始的な信仰形態を保っているのだ。

 さらには御頭祭や蛙狩神事に象徴される血なまぐささ。農耕が始まる以前の狩猟時代の価値観を色濃く残している。

 ふんふんと三果がうなずく。

「そういうのと比べるとちょっとお行儀よすぎるよね、四無量、なんて」

「それに、いろいろ説がある中、どれも四本の柱の長さが違うことを無視している気がするんだよね」


 次の講義室に移動する。三果とは別の講義なので途中で別れた。


 そういえば、と移動しながら昨日の千里さんの意味深な言葉を思い出す。

 御神渡りを指して「行ったきり」、それから「帰りの心理」。どういう意味だろう。何もわからないのも悔しいので少し考えてみる。

 千里さんは「轟音とともに早朝に」、という言葉に引っかかっていたっけ。轟音とともに氷が隆起し、道になる。それが上社の神の移動した証なら、そう、行ったきりということなのだろう。

 では帰りの心理とは。行ったきりなら帰りも何もない。ふうむ。


 本日の講義がすべて終わった後、千里さんにご都合はと聞くと問題ないと言うので、閉店後の学食にお邪魔することにした。三果は理学部の知り合いに聞いた情報を持って後から来ることになっている。

 テーブルを挟んで正面に千里さんが座っており、目の前には千里さんが持ってきてくれたお茶とお菓子が鎮座している。

 ひとまず、昨日千里さんとの会話で中途半端になってしまった話題、御柱の話などをする。講義の後に三果と話していた内容だ。

「へえ。御柱ってそういうものなんだ。またがって斜面を滑る様子は確かにテレビで見たことあるけど、それ以上のことは知らなかった」

「そうなんですよー。その起源が謎でどの説も納得いかなくて。千里さんはどう思いますか?」

 そうだな、と千里さんが宙を眺める。

「秋月さんはスポンジケーキに生クリーム塗ったことはある?」

 何だ何だ?

「えーと、小さい頃に母がやっているのを手伝ったことはあるかもしれません。という程度ですね……」

 女子っぽくて憧れがないわけではないだけに、経験値のなさを吐露しているようで少し恥ずかしい。

「スポンジケーキにね、パレットナイフっていう板状の薄いヘラみたいな道具で塗っていくんだよ。

 ろくろみたいなくるくる回る台の上にスポンジケーキを乗せて塗っていくんだけどね。ボウルの中のクリームをパレットナイフですくって、まずはスポンジケーキの天辺に乗せる。それでパレットナイフを生クリームに当てるように空中で固定して、スポンジケーキを回しながら天辺の生クリームを平らにならしていく。ここの時点では大まかでいい。

 次は側面だね。天辺の余ったクリームをそのま側面に使う。足りなければボウルからまたすくって塗っていく。

 最後は、側面を塗ったことで上に向かって少しはみ出た縁の部分を上面の内側に伸ばすようにしながら、全体を平らにならしていく。

 うまくできれば、歪みのない、それはそれはきれいな白い円柱ができる」

「なんというか、女子っぽいというより職人っぽいですね」

「そうだね。家の塗装なんかと同じだと思う。ちなみにスポンジケーキを輪切りにして中に果物やクリームを挟む行程は省略してるよ」

「はあ、なるほど」

 お茶を一口頂く。この話の終着点やいかに……。

「それでそこに今度は飾り用のクリームを絞っていくわけだよ。クリームを入れたボウルは二重にして、下に氷水を入れて冷やしてるんだ。温度が上がるとクリームがだれちゃうからね。

 そして、僕は手際よくできるレベルではないので、飾り用のクリームを絞る前に冷蔵庫で冷やしたくなるわけだ」

 ふんふんと私は頷く。

「冷蔵庫にそのまま入れると乾燥しちゃうから、ラップをかけたいけど当然そのままラップをかけたらクリームが台無しになる。そこで登場するのが爪楊枝」

「爪楊枝ですか」

「そう。クリームの上から爪楊枝を何本か、そうだな、上面の円周近くから斜めに差し込む。爪楊枝の頭がケーキの外側に出るようにね。放射状に何本か爪楊枝を刺せば、クリームに触れないようラップをかけることができる」

「ほう……つまり御柱は、だいだらぼっち塗装工説……」

 全国各地にあるといわれる巨人伝説だ。おそらく諏訪の辺りにもあることだろう。

「でも、私が気になるのは柱の長さが違うことなんです」

「クリームもスポンジもさ、爪楊枝を刺しても手応えがないんだ。力を入れなくてもスッと入ってしまう」

「つまり力加減が難しくて不揃いになってしまったと」

「そうそう」

「ふうむ」

「ラップは古代にはなかっただろうからプリミティブではなくて申し訳ないけどね」

 相変わらず本気なんだか冗談なんだかわからない調子でそんなことを言う。

「なお爪楊枝を刺した跡は飾り用のクリームで隠せばいい。つまりその後クリームを絞る場所から逆算して爪楊枝を刺す場所を決める必要がある」

「勉強になります」

 高科さん来たよ、と千里さんが言って、三果がこんにちはーと言いながら入ってきた。


「理学部の知り合いね、氷川っていうんだけど、その子に聞いたのよ。理学部のとある研究室で、四年生が倒れてたんだって。女性。周囲には争ったような形跡があり、その女性は後頭部を強打したと思われる怪我をしていたとか。でも本人は滑って転んだとしか言わないらしい」

「争ったような形跡?」

「そう。研究室の中が空き巣に荒らされたようになってたってさ。氷川も人づてに聞いた話だから、どこまで本当かわからないけどね」

「えええ、怖いね。でもそれが本当なら注意喚起か何か、大学から出るはずだよね」

「そうねえ。やっぱり滑って倒れたのが本当で、その際に周囲のものを少しはね飛ばしたっていうのが本当のところかね。救急車は彼氏だかが呼んだみたい

 ただね、その女性は元々トラブルを抱えてたんだって。元彼がストーカーっぽくなってるって。そもそもその人って見た目はすごくいいんだけど、性格に難ありで。気に入ったものは必ず手に入れる、みたいな。それで特に男関係でトラブル絶えないらしいよ。とは氷川談」

 事情通な氷川さん。私は面識ないけれど。

「ああそれで、ここが重要なところだけど、その元ストーカーの名前が、渡部だって」

「おお、そっか……」

 その名の記された学生証は鞄に入ったままになってしまっている。

「その話なら僕も聞いたな。昨日のお昼にここでそんな話をしている学生がいたよ。渡部がやったって、声高に喋ってた」

 千里さんが会話に加わる。

「じゃあその人が噂の発信源ですかね」

「そうかもね。数人で来ていたうちの一人がね、仲間内で話しているんだけどまるで周囲に吹聴するかのような、聞こえよがしな話し方だったから。

 やけに鼻声で耳についたというのもあるけど、そうでなきゃ僕もわざわざお客さんの話に耳を澄ませているわけじゃないからね」

 最後の言葉はどうも言い訳がましくて怪しいものだと思う。この人のことだから、特に気を留めていないように見えて、その実、学食で起きている全てのことを把握していても驚かない。

「倒れてた女性の彼氏らしいその学生はね、写真も回覧してたようだったよ。聞こえてきた限り、秋月さんが見たという散らばったレポートと、落ちていた学生証を撮影したものだ」

 写真……。

「すると、あの渡部っていう人が自分の学生証を投げ捨てた後に写真撮ったのかな」

「自分の学生証ねえ」三果が言う。「本当に同じ顔だった?」

「そう言われて改めて考えてみると自信はない」

 自信満々にそう返す。

「何しろ一度会っただけの人だし、学生証の写真って、四年生なら単純に考えて三、四年前の写真ってことだよね」

「だね」

「写真見たときは雰囲気は似てると思ったんだけどね。もう実物の顔がどんなだったかも……」

 あれ?

「どうした?」

 三果が固まった私を見る。

「いつぞや図書館で学生証をなくして退館できなくなってた人がいて、その人も同じ顔だった気がしてきた。

 んー、人の顔が同じに見える病気かなんかですかね」

 私が遠い目になったのを見届け、それを意に介す様子もなく千里さんが口を開く。

「ところで、理学部棟や工学部棟って、オートロック?」

 オートロック? その言葉の唐突感に戸惑い反応しかねている私の横で三果が答える。

「平日夜間、それから休日はそうですよ。正面玄関は閉まってて、通用口はカードリーダーに学生証を当てると開錠されます。朝は七時には正面も開くし、通用口も学生証当てなくても入れるようになりますよ」

「えっ、そうなんだ。知らなかった」

 私が行った総合校舎の方はそんなことをせずとも鍵が開いていて入ることができた。いや、総合校舎も同じなのかな。時間をきちんと見ていなかったが、着いたのは七時以降だったかもしれない。

「じゃああれだ、秋月さん。行きはよいよい帰りは怖い、だ」

「な、何ですか? なんかこう、畳み掛けるように戸惑わせるのはもう少し手加減してもらえませんか……」

 二人の会話って微笑ましいよねと三果が場違いな感想を述べる。

「おや、彼だ」

 千里さんの視線は、ガラス越しの外に向いていて、そこには男子学生が一人。

「彼がここで声高に渡部を断罪してた人」

 私の目には朝のあの学生、つまり私が渡部だと認識していた学生に見えた。二人にそれを告げる。

「駄目だ、ますます混乱してきた」

「少なくとも今の人と学生証の人は別人じゃない?」

 外のその人が視界から外れるまで見送ってから、三果が言った。

「そ、そう? あ、そうだ。ちょっと待ってください」

 三果の言葉を聞いて、学生証を千里さんに見せることを思い立つ。「でもまあ同じ系統の顔だったかな」という三果の言葉を耳にしながら鞄をあさる。

「これです」

 学生証を千里さんに手渡した。千里さんは表の顔写真のみならず丁寧に裏も改める。

「そうだな、僕にも別人に見えるよ」

「そうですかあ」

 多数決で決めることでもないけど、二人がそう言うならそうなのだろう。

「ただ、秋月さんがそう思ったのは決しておかしくないんだと思う。高科さんの言うとおり、同じ系統というか、雰囲気は似てると僕も思うし。早い話が、倒れてた女性の好みのタイプということだろうね」

 好みのタイプ……。

「ええとだからつまり、私が朝見たあの人が渡部じゃない方だから、今の彼氏で、学生証の顔の方が元彼の渡部である、と。それで二人は倒れてた女性の好みのタイプだから顔が似ていてもおかしくないってことですね」

 喋りながらなんとか頭を整理していこうと試みる。

 千里さんが私に助け舟を出すように説明し始めた。

「順を追って話してみると……昨日の朝、理学部の研究室で女性が倒れていた。それを見つけた彼氏だかが救急車を呼んだ。救急車が来るころには女性は意識を回復していて、救急車には付き添いなしで乗ったわけだ」

「ん?」三果が不審気に首をかしげたが、口を挟まずに千里さんの話を聞いている。

「その彼は、何かあれば利用しようと思っていたのか、あらかじめ盗んでおいた渡部の学生証と、渡部の名前の入ったレポートをばら撒いて写真撮影をした。渡部を陥れるために」

「学生証、図書館で盗んだ?」

 学生証をなくして退館できなくなっていたのは、渡部その人だったと思ってよいのだろうか。どうやら顔がわからなくなる病気ではなさそうだ。

「そうだね、そう考えると話が通りやすくなる。

 秋月さんが見かけたときに本人が言っていた通り、いつも胸ポケットに入れていたというのなら、目星がつけやすかっただろうし、昼寝しに図書館に来るようなら隙も多かっただろうしね。学生証に比べればレポートの方はこのご時世、電子データをコピーすれば済む話だし、何なら表紙だけ捏造して、それらしく写真を撮ればよいだけだ」

「私が行き会ったのはその写真撮る前後ですね」

「それなりに時間が経ってただろうから、撮った後かな」

「時間が経ってた? なんで?」

「たぶん彼はオートロックで閉め出されていたから」

 さっき千里さんが言ってた、行きはよいよい帰りは怖い、だ。

「秋月さんが学生証を拾った直後、無関係の学生が通用口を通ったと言ったよね。その時は日中、人通りも多い中、秋月さんは扉の開閉音を聞いている」

「ああ……。それに対して、遥かに静かなはずの早朝、私が紙に気づいて近づいて、呆然としてさらに足を進めてあの人を見つけるまで、確かに扉の開閉音は聞いていない」

「渡部のレポートと学生証を持って理学部棟を出た彼は、用事を済ませた後に渡部の学生証で通用口を開けようとしたものの、カードリーダーが反応しなかった。

 なぜなら、渡部はいつも胸ポケットに携帯電話と一緒に学生証を入れていたから。磁気不良を起こした学生証は入館カードとしては機能しなくなっていた。

 スリッパでは遠くにも行けない。でも寒い。もしかしたら工学部棟の方なら開くだろうかと思ったかもしれない。

 まだ早朝は昨晩の雪が溶けた水分で湿っていた。なのでレポートの紙を道にしてスリッパでその上を通った。だから最初は紙はそんなに広範囲にばらまかれていた訳ではなかったかもね」

 当然のように入れると思った建物に入れなかったら。しかもすぐ戻るつもりだったからコートもなければ履いているのもスリッパだ。そんな状態でこの寒空に閉め出されるとは。

「当人からしたらなかなか衝撃的ですね」

 こわいこわい。

「カードリーダーではなくカード側の問題だから、工学部棟も当然扉は開かない。七時まで待てば開くのはわかっているから、秋月さんが見たときにしていたように、体操でもして体を温めるしかなかったんだろう。それでも体調は崩したか、少なくとも昼食時はここで、随分な鼻声だった」

「質問っ」と三果が挙手した。

「学生証がおかしくなってたなら、図書館にも入れないのでは? ゆみえが見かけたのは退館時だから、少なくとも入館はできたってことですよね」

「ぎりぎり最後の使用に耐えられたか、あるいは通用口のカードリーダーと図書館のゲート型のカードリーダーの機種の違いによるものかも」

 なるほど、と言った後、続けて三果が質問する。

「それから気になったんですけど、恋人だったら救急車に付き添いで乗りそうなもんですけど、なんで乗らなかったんでしょう。あ、救急者の人に断られていたみたいな目撃情報もありました」

 運動部の子が朝練のときに見かけたと三果が言っていた件だ。

「うん、まあたぶんね、女性の方が拒否したんだろう。二人の意見が一致していれば救急隊員も別に来るなとは言わないと思うし。だからそっちの彼は彼で元彼だったんじゃないかなと思った」

「え? また混乱してきました」思わず口を挟む。

「その彼が今の恋人であるという前提で話をしてきたけど、本当はその彼も渡部も、二人とも『ストーカーっぽい元彼』なんじゃないかな。わざわざ写真撮って他人にぬれぎぬを着せるという行為もちょっと偏執的な印象だし」

 ストーカーを攻撃したその人もまたストーカーであった。ありそうななさそうな……。

「国譲り神話において、力比べに負けた建御名方神は出雲から諏訪に逃げてきて、ここから出ないことを条件に許してもらったという顛末が描かれているわけですが、一方で諏訪の地には、建御名方神が外から諏訪の地にやってきて土着の神々を征服したという伝説があります」

 似てますね、と言ったが二人の反応は微妙なものであった。

「そう言えば」

 話をそらそう。

「御神渡りの話で千里さんが言ってた行ったきりって、わかりましたよ。轟音が神の移動した印なら、その日一度諏訪湖を渡っただけってことですよね」

「そうそう」

「その後が分からなかったんですけどね。『行きはよいよい帰りは何だろうねその心理は』とは?

 一年おきに行って帰ってを交互にしているってことかなとは考えたけど、その場合、行きも帰りも御神渡りという点で違いはないから、帰りの心理だけ気にするのもよく分からず」

「二人の方が詳しいだろうけど、平安時代の妻問婚? 夫が妻の元に通う風習。あれと同じと考えるとどうかなと思ってね」

「同じと考えるというか、そのものじゃないかなと思いますけど」

「そっか。なら話は早いかもしれない。

 じゃあその場合、夫が妻の元に行くのは早朝じゃなくて夜なんじゃないかなと思ったんだよね。夜に妻の元に行って、一夜を共にして翌朝帰る。その方が自然かなと」

「……あー、ね。……後朝の歌とか、ありますね」

 突然の艶っぽい話に狼狽してしまったが、何とかそれだけ言った。狼狽を隠そうと無意識に湯飲みに手が伸びる。

「なるほど、そういうことかー」と三果も感心している。

「だから、そうするときっと夜は陸路でこっそり行って、帰りは早朝に諏訪湖を渡るのかなと思ってね。だとしたらわざわざ轟音を立てるのは何だろうなというのがさっきの僕の疑問なわけだ。

 で、その後思ったんだけど、することした後に有頂天になっちゃって、この女は俺のものだぞと自慢や示威をしたくなったのかな」

「いや、聞かれても私には分かりかねますね……」

「そう思うとだ、渡部もぬれぎぬを着せられたわけではあるけど、それでも彼女との何かしらの縁が周りに吹聴されて、それはそれで嬉しかったりするのかな」

「ストーカーの心理も分かりませんって」

 ああそう、と言いながら千里さんが私と三果の湯飲みにお茶をついでくれる。私が途中から空になった湯呑みを口に運んでいたことなど先刻承知といったところか。

「今喋ってて、ついでに御柱についてちょっと思いついたよ」

「お、何ですか?」

「まあちょっとあれだけど、秋月さんと会話していく上では避けては通れないだろうからな」

「な、何ですか?」不穏な気配を感じる。

「男根」

 お茶を吹きそうになったが、すんでのところで押しとどめた。

「ああ、まあ、そうですね」

 確かに信仰やら何やらを語る上で避けては通れないテーマではある。千里さんもあくまで真面目な顔ではある。からかわれている気がしないでもないが。

 視界の端で、三果も私の様子を面白がっているように見える。

「これなら柱の長さが変わる理由もつくしね」

 理由……。長さの違う、男……生殖器。

「屹立したりしぼんだり。上社の神様の妻問いと合わせて考えるとしっくりくるでしょ。そして何より」

 何より?

「秋月さん好みのプリミティブな雰囲気」

「……ちょっとその文脈だと誤解を招くのでやめてください……」

 お、茶柱が立ってる、と湯飲みを覗いた三果が呟いた。

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茶を飲みながら御柱を解する 矢野窮 @ta1234

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