南蛮寺忍伝
伊賀谷
南蛮寺忍伝
(序)
--「南蛮寺荒廃記」--
天正五年(一五七七)。烏爾干伴天連すなわち、神父オルガンティーノは
(一)
天正十年(一五八二)五月。
京都の北西の出入口に位置する丹波に
「お
女が廊下で平伏していた。
年は十八。芯の強そうな切れ長の目と少女らしさの残った顔の輪郭。ふんわりとした唇がなんともいえない色香を醸し出している。
「すまぬな。またおまえに無理をたのむことになった」
「それがわたしの役目です」
「ふむ。信長さまがな、南蛮寺の聖人を手に入れたいと言っておる」
お毬の眉がわずかに動いた。
「不思議な力を持つものといううわさだ。病気を治したり、天候をあやつることもできるそうだ」
お毬の先ほどのかすかな心の動きは消えている。
「まあ、わしはそのような戯言など信じておらぬがの。信長さまはなんでも手に入れぬと気がすまぬお方であるからな」
光秀は快活に笑った。
「だが先だって南蛮寺に送った二人の忍びが帰って来ぬ。そこで、わしが最も信頼するおまえにたのむしかなくなった」
「もったいなきお言葉」
光秀は筆を持つ手を止めて、廊下に顔を向けた。
「もう十八になるか」
「はい」
「この役目が終ったら、おまえの夫となるものを探さねばな」
「え」
お毬の恥じらった様子を察して光秀は笑みを浮かべる。
「わしはおまえを本当の娘のように思うておる。それとも、甲賀の里に想いをよせるものがおるのか」
「いえ」
お毬は京都に向かった。
◆◇◆◇◆◇
南蛮寺の礼拝堂で
オルガンティーノは五十歳になっていた。京都に南蛮寺を建立するまでの長い苦難のために痩せてはいるがまだ精気に満ちていた。
「まだ南蛮寺の聖人を嗅ぎまわっているものがいると」
日本に来てから十二年くらいになるので、ややアクセントは奇妙ながら、日本語は使える。
「ハイ。スデニ、フタリシマツシマシタ」
「マタ、ベツノモノガ」
祭壇に向かうオルガンティーノの背後に二人の伴天連が立っていた。
「日本人に聖人を渡してはならない。わたしがイタリアにつれて帰る」
「デハ」
「伴天連妖術師アキーレ、クラウディオ。聖人を狙うものはすべて殺せ」
「ワカリマシタ
◆◇◆◇◆◇
木漏れ日の差す森の中。お毬は修道服姿の伴天連妖術師アキーレと対峙していた。
お毬は南蛮寺を探り、聖人と思われる青年を追って森の中に入った。そこにアキーレが待っていた。つまりおびき出されたのだった。
アキーレは円盤型の金属--楽器のシンバルを両手に持っている。右手を振ると、シンバルが飛ぶ。陽射しを反射しながら飛来する円盤の縁は鋭い刃になっている。
お毬は後頭部が地面につくほど反り返ることで、かろうじてシンバルを躱した。
だが、シンバルの取っ手には紐が装着されており、アキーレがその紐を手繰ると戻ってくる。まさにヨーヨーの原理だ。伴天連妖術師の恐るべき攻撃は何度も繰り返されていた。
(動けるのはあと一度)
お毬は身体の数か所に切傷を負っていた。中でも左腕の傷は深く出血もひどい。すでに意識が朦朧としはじめていた。
アキーレはお毬の様子を見透かしたように青い瞳の顔でにやりと笑うと、両手のシンバルを投げた。
(ここで、やる!)
お毬は膝を落し、伸びあがる勢いで一気に跳んだ。頭上三メートルの高さの木の枝をつかむ。そのまま振り子のように前方に身体を振る。まだ枝をつかんだままの右腕がありえない角度で弓なり曲がって伸びている。まるで骨が硬いバネであるかのように。
これがお毬の忍法
しなった右手を離してアキーレの前に着地する。同時に、十分にたわんだ反動で右腕がすさまじい速度で振り下ろされる。
アキーレがシンバルで受けようとするが間に合わず、鋼鉄を仕込んだ革手袋を着けたお毬の拳がアキーレの脳天を砕いた。
「デウスサマ。アキーレ
目と鼻と口から血を噴出させてアキーレは倒れた。
乱れた呼吸のまま、お毬はアキーレの後方を見やった。
一人の青年が静かにこちらを見ていた。浅葱色の着物。背中までのびた黒髪と透き通るような白い肌は中性的で神秘的な印象を与える。
「--
お毬の意識が途切れた。
(二)
お毬と
四歳になると忍びの修行が始まった。お毬と夕多はみるみる忍びの才を開花させていったが、切人は凡庸であった。
いつしか切人は修行から外され、けが人や病人の家に連れて行かれるようになった。お毬はよくわからなかったが、切人にはけがや病気を治癒する力があるらしい。
あるらしいというのは、お毬が修行中に崖から転落した時のこと。足の骨を傷めたかもしれないと不安で泣いていると、切人が現れた。痛めた足に切人が手を触れると、たちまち痛みが消えてしまったのだ。
切人は優しくてどこかさみしげな笑みをみせて、姿を消した。
それ以来、切人とは会っていない。
天正七年(一五七九)。織田信長は甲賀を京都の南蛮寺の寺領とした。まもなく南蛮寺の神父オルガンティーノに切人は連れて行かれたからだ。
◆◇◆◇◆◇
「気がついたか」
若い男の声でお毬は目覚めた。小屋の中に筵をひいて寝かされていた。
「……夕多」
「二年ぶりだな。美しくなった」
優しく微笑むのは甲賀五十三家の宗家次期当主である甲賀夕多。年はお毬よりひとつ上の十九。精悍な野生児然とした青春の結晶のような青年だ。
お毬は二年前より明智光秀に仕えていた。その間、甲賀からは離れている。
夕多の瞳を見つめていたお毬ははっと、太ももが露わとなっている丈が短かい山吹色の着物の裾を手でかくした。
「ははは。おまえまだ男を知らぬな」
「だまれ」
赤面しつつ身体を抱くように縮こまると、お毬は身体の傷が消えていることに気づいた。
(--切人)
切人が治してくれたのか。お毬はしばらく考え込んだ。
「お毬、どうした」
「いや」
「おまえが倒れていたそばに伴天連の死体があった。明智光秀様の命か知らぬが。南蛮寺には手を出すな」
「おまえの指図は受けぬ」
「甲賀は南蛮寺の寺領だ。寺に万が一のことがあれば甲賀が滅びる」
お毬は少しためらった様子をみせてから続ける。
「切人」
「あいつがどうした」
「切人が聖人なのか」
「何を言っているんだ」
「夕多。甲賀宗家のおまえなら知っているんだろ。なぜ切人がオルガンティーノにつれて行かれたか」
夕多はしばらく黙考した。
「おれにもよくわからぬ。だが、切人が南蛮寺にいるおかげで、甲賀は年貢を幾分か免除してもらい、ようやく生活が成り立っているんだ」
「つまりオルガンティーノにとって切人はそれだけ大切な存在なんだな」
「お毬、聖人がいったいどうしたというのだ」
「光秀さまが、いや、信長さまが南蛮寺の聖人を欲しているんだ!」
「織田信長が」
覇王織田信長の名を聞いたら誰も逆らうことなどできない。
「だが、聖人が切人だとしたら」
夕多は考えた。
切人を失ったら、南蛮寺への年貢免除の特権も失われて、甲賀の生活が厳しくなる。さらにオルガンティーノの怒りにふれたら、それこそ甲賀が滅びるかもしれない。
だが、信長が切人を手に入れることができなかったら、お毬はどうなる。
さらに切人が甲賀者で、甲賀が切人の争奪を阻止したと知られたら。
ならば--。
「夕多」
「おまえは切人を奪え。おれは切人を守る。甲賀の命運をおれたち二人に賭けてみよう。これはおれとおまえの聖人争奪戦だ。」
夕多は立ち上がって小屋を出て行った。
お毬は夕多の背中が消えた空間をしばらく見つめていた。
(三)
それから数日後。五月も終わろうとしている日の夜に、お毬は南蛮寺に忍び込んでいた。忍法弓張月で音もなく三階まで昇ることは容易であった。
二階に降りて、外壁にとりつけられた見晴らし用の廊下に出る。
切人が立っていた。京都の町並みを眺めている。その姿は月明かりを浴びて青白い光を放っているかのように見える。
「切人」
切人はお毬へ顔を向けた。
「久しぶりだね。お毬」
「この前、いや子供のころも、おまえはわたしの怪我を治してくれた」
切人は優しい笑みでお毬を見つめている。
「切人、おまえは聖人なのか」
切人の笑みにさみしげな色が浮かぶ。
「わたしはずっとお毬を待っていた。だけど、いまのお毬は……」
お毬は背後に気配を感じて前転しつつその場から離れた。
刀を持った忍び装束が立っていた。顔を頭巾で覆っているが夕多とわかる。
「お毬、去れ。さもなくばここで始末する」
「夕多。おまえと戦いたくない」
「情けないぞ。忍びの心得を失ったか」
夕多は忍び刀を上段に構えた。
お毬は腰の刀の柄に手をかけて後ずさる。
夕多の刀の刀身がぎらりと鋭く発光した。月明かりを刀身で反射した光はお毬の瞳を射抜き、残像がお毬の視界を奪った。
「甲賀忍法
夕多が斬り込むと同時に、お毬は南蛮寺の廊下から空中に身を投げた。
(--忍法弓張月)
落下したお毬の身体は建物や地面に打ちつけられたが、バネのように弾んで衝撃を吸収して擦り傷程度で済んだ。
夕多は、姿を消したお毬が落下したあたりを見下ろしていた。
突如、脇腹に鋭い痛みをおぼえる。
(針か)
部屋の暗がりに伴天連が立っている。
「ネズミガハイリコンダカ」
伴天連は右拳を握りしめて前に向かってのばす。指のすき間から数本の銀光がほとばしる。
夕多は跳びあがって天井にはりついた。欄干に数本の針が刺さっている。
(やむを得ない。忍法月光剣)
ふたたび夕多の刀が月光を放つ。
だが、伴天連は動揺した様子がない。
(ばかな)
伴天連が進み出て月明かりの中に姿を表す。両目をひどくひっかかれた古傷がある。
(しまった目が見えぬのか。月光剣が効かぬ)
夕多は音もなく廊下に降り立つと、そのまま欄干を乗り越えて地上に降りて行った。
「ニゲタカ。ダガ、ニオイハオボエタ。クラウディオカラニゲルコトハデキナイ」
切人は、お毬と夕多が逃げて行った京都の町をただ静かに眺めていた。
◆◇◆◇◆◇
夕多は目を覚ました。ひんやりとした洞窟の中。天井には穴が空いており、陽光が降りそそいでいる。
夕多の着物ははだけられ、お毬が脇腹に唇をおしあてている。
(そうか。あの針には毒が仕込んであって、おれは意識を失ったのか)
お毬は必死に毒を吸いだしている。夕多はしばらくその様子を眺めていた。
「気がついたか」
お毬が優しい声をかける。
「すまない。おまえのおかげで一命をとりとめたな」
「大げさなやつだ」
「なぜおれを助けた」
「夕多と切人はわたしの兄弟みたいなものだ。見捨てることはできぬ」
夕多は幼なじみの少女が美しく成長したと感じ入った。
「おれと切人はおまえのことが好きだった」
「え」
夕多はお毬を抱きしめた。
「お毬。おれとともにどこかに逃げよう。そしてふたりで静かに暮らそう」
「夕多」
お毬は慈しむように夕多のたくましい背に両手を回そうとした。
(切人!)
洞窟の入り口に切人が立っていた。優しくてどこかさみしげな笑みを浮かべて。
「どうした」
夕多が振り返る。
切人の姿は消えていた。
「いま、切人がそこに」
「まさか。おれたちを追って来ることができるわけがない」
「やはり切人は不思議な力を持っているんだ」
「そんなわけがない! あいつはただの幼なじみだ。忍法も使えない。なんの力もない」
「ではなんで! 切人はいつも、わたしたち甲賀の犠牲になって。なんのために生きているの」
お毬は泣きくずれた。
「お毬。おまえは切人のことが」
夕多は小さな肩をふるわすお毬の姿をしばらく見つめていた。
「ココニイタカ」
伴天連クラウディオが洞窟に入ってきた。鼻をひくつかせている。
「ニオイガスルゾ」
(四)
「お毬。ここはおれにまかせて行け。今夜、切人をつれて行く。おまえは光秀に切人を差しだせ」
「夕多、甲賀を裏切るのか」
「いいから行け」
数瞬、お毬は夕多の瞳を見つめてから、洞窟の天井の穴の外へ跳んで行った。
「ヒトリニゲタカ」
夕多は刀を抜いて構えた。ぎらりと刀身が輝く。
「グワ!」
クラウディオが見えないはずの目に手をあてた。
「わが忍法に陰陽あり。これぞ甲賀忍法
言うや、夕多はクラウディオの首を斬り飛ばした。
忍法陽光剣。刀身で反射した陽光は脳を焼く。
洞窟の入り口から大勢の人の声が聞こえてくる。伴天連や
「いたぞいたぞ」
「南蛮寺に歯向かう不届きものめが」
逃げ場もなく絶望的な状況の中、夕多の心にはお毬の笑顔があった。
夕多は咆哮とともに南蛮寺の一団に向かって行った。
◆◇◆◇◆◇
夕焼けの中、二人の青年が歩いていた。
一人は浅葱色の着物の裾をはためかせて流れるように歩く。切人であった。
もう一人は全身に傷を負い、満身創痍の忍び装束の夕多。よろめきながら歩いている。
夕多はついに木の根元に寄りかかって倒れた。
切人が近づき、夕多をのぞき込むようにかがむ。
「夕多」
「この道を行けば明智光秀のいる亀山城だ。お毬が待っている」
「夕多。おまえの望みはなんだい」
「お毬、そして二人で……」
切人はそのままの姿勢でだまって夕多を見つめていた。
夕多の命の火は消えていた。
◆◇◆◇◆◇
南蛮寺で祭壇に向かって祈りを捧げていたオルガンティーノが十字架の彫像を見上げた。
「おお」
十字架に磔にされた茨の冠をかぶった男の目から赤黒い涙が流れていた。
「聖人を日本人が手にしたらこの乱世が終わらない。日本が
オルガンティーノは必死に祈りを捧げた。
◆◇◆◇◆◇
天正十年六月一日夜。
かがり火を焚いた亀山城の庭で、頭をさげてお毬と切人はひかえていた。
廊下に数人の家来をしたがえた戦装束の明智光秀が現れた。
「でかしたぞお毬。信長さまのご
庭まで降りて来た光秀は、切人の前に立つ。
「切人とやら
切人は平然と顔をあげた。
「
お毬はその様子をじっと見つめている。
「ひとつ不思議な力とやらをみせてくれぬか。戦勝祈願でもしてくれると助かるのう」
光秀は快活に笑った。
「光秀さま。あなたさまのお望みはなんでしょう」
「なに」
「光秀さまのお望み。なんでも叶えてみせましょう」
光秀は大笑した。
「面白い。その方にわしの望みがわかるか」
光秀は切人の顔をのぞき込んだ。
切人は静かに目を閉じる。
地の底から地鳴りが聞こえてくる。突如、大地が揺れ始めた。
「うわあ」
「なんだなんだ」
それは立っていられぬほどの大き揺れとなった。光秀と家来たちが悲鳴をあげて地面に転がった。
切人だけは平然と立ったまま、南東の方を指さす。
天が輝く。切人が指す方角のはるか先に轟音とともに巨大な雷が落ちた。
大地の揺れがおさまった。
城内はまだ騒然としている。
「大きな雷が落ちたぞ!」
「あれは京都の方角だ」
「京都の本能寺には信長さまがおられるぞ!」
家来たちが騒いでいる。
光秀は立ち上がって刀を抜いた。
「この妖怪!」
切人を斬った。
「わしの望みが信長さまを弑することだと!」
お毬の瞳に切人がゆっくり倒れる姿が映っていた。いつもの優しくどこかさみしげな笑顔が。
我にかえった光秀がお毬に目を向ける。
「これはいかなることだ。お毬!」
「明智光秀さまに叛意あり」
「……なにを言っておる」
「わたしは信長さまの忍び。信長さまの命は明智光秀さまの真意を見極めること。果たして叛意があるや、なしや」
「お、お毬……」
お毬は氷のように無表情であった。背を向けると、たちまちつむじ風のように城門を越えて消えた行った。
光秀はお毬の消えたあとを呆然と見つめていた。そして己の口から発したとは思われない言葉がこぼれた。
「敵は本能寺にあり」
参考文献:「甲賀南蛮寺領」山田風太郎
南蛮寺忍伝 伊賀谷 @igadani
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