抱虚の徒・第五天河道路

安良巻祐介

 

 気が付くと、壊れかけた古い自動車の、運転席の上だった。

 そして、ミルク色の霧が包む、大道路の上だった。

 自動車は、いつからか、走っていた。

 罅の入った蛸メータの針が、チタチタチタ…と弱弱しい音を立てて回転し、その下に埋められた念力ラヂオだけが、今の俺の遮二無二な思念波を反映してか、やけに大きな音で、半世紀ほど前のサイケデリック・デュオ「狂い虹泥棒犬団」のヒットナンバーを流し始めた。

 その眩惑的旋律に任せるように、どこかしらが緩んでいるらしいハンドルを握りしめ、俺は乳白色の澱みへ向かって、アクセルをぐいぐい踏み込む。

 ぼう、ぼう、と何か大きな柔らかい塊が、切り裂かれていく音――あるいは感触――がする。

 フロントライトも片方しか生きていない隻眼の車だから、ぼんやりした頼りない光条がひとすじ、霧の中へと闇雲にぶっ刺さっているだけで、ろくに先も見えやしない。

 もし目の前に大穴が空いていたり、極端なカーブがあったり、道そのものが消えていたとしても、全く気が付かずに、そのまま落ちていくだろう。

 それでもいいのだ、と思った。

 幾度もの家族の死、そしてその度重なる感情切除法の果てに、俺の頭の中は、何かしら今までと別の形に変わってしまったらしい。

 何度目かの手術の際、執刀医兼風水家が無数のだるまを棚に並べて説明していた「第五(醍醐・大悟)の感情」というものに近い境地になっているのではないか、と思う。

 何でも醍醐というのはチーズのことらしく、熟成し発酵して穴だらけになり、異様な香気を放つようになったものとしてそういう風に呼ぶのだという話だった。だから、どこかの段階で俺の頭の中はきっとチーズみたいになってしまったのではないか。

 しかしまた、恐らく最後の施術時であろう、赤と黒のまだらの模様に覆われた脳内映像の中で、トオツチカズオと名乗る奇妙な男(多分医者の類だとは思うが)は、昔実家で飼っていた出目金に似た、滑稽なほど大目玉のゴーグルをチカチカ光らせ、俺を凝視して「なんだ、何もないじゃないか…」と確かにそう言っていた。

 とすると、どこかの段階で第五の感情というのもとうに通り過ぎて、六、七、八…と進んでいって、例えば坊主が仙人になって霞のように消え失せるのと同じようなことが頭蓋の中で起こり、そこにはもう何も残っていないのかもしれない。

 出目金のトオツチカズオとは暫く行動を共にしていたような気もするのだが(聴覚記録の中に彼のものとおぼしき罵声や祈祷や祝詞の断片が散らばっている)、その先を考えようとすると赤黒の斑点が脳内のアルカイブス視界を埋め尽くし、何もわからなくなってしまうから、やっぱり俺は諦めていた。

 結局のところ、俺が今一人ぼっちだという事だけが、確かな事実なのだ。

 片目の潰れた車に乗り、念力ラヂオの吐き出す音楽に任せて、目的のない走行を続ける事だけが、俺に残された行為なのだ。

 ♪おい ここはどこだ おい ここはどこだ おい おい おい…

「狂い虹泥棒犬団」の甲高い、人を馬鹿にしたような半機械音声が、ミルク色の霧に包まれて走る俺と車とを扇動する。針の回り切った蛸メータからは、ぬらぬらと濡れた赤黒い触手のイメージが幾つか生えてきて、ハンドルを握る腕に絡みつく。そうして、がたがたになったアクセルが、何度も何度も踏み込まれていく。

 ぼう、ぼう、ぼう、と何か大きな柔らかい塊が、切り裂かれていく音――あるいは感触――がする。

 もう道路は道路としての輪郭すら見えず、左右にあったはずの、閉鎖区画の景色さえ、霧の中に呑まれている。

 そのうち、カーブから落ちるか、崖からでも転落するだろう…と思ったのに、一向にそんな気配もない。

 ただ延々と、ミルクの霧が周囲を縞のように流れゆくばかりだ。

 その中で、想像する。

 少し色あせた、一枚の紙。

 その上に引かれた、始点と終点のない一本の線。

 もしかしたら、その線の上に、載ってしまったのかもしれない。

 だとしたら、どこまで行っても、終わりなどないのかもしれない。

「なんだ、何もないじゃないか」

 トオツチカズオが、頭の中の遠い景色の中で、呟いた。

 ――ああ、その通りだ。

 いつの間にか、車の中にも、乳白色の霧が侵入してきていた。口の中に、鼻の穴に、耳の中に、目の奥に、柔らかなミルク色が、流れ込んでくる。

 もはや、ハンドルを握る手も見えない。

 蛸メータから伸びて絡みつくあの触手たちも、霧の中に溶けてしまった。

 足が、アクセルを踏んでいるのかも、曖昧になってきた。

 あらゆる境界が消え、ただ、道の上を走っているという、その事実だけが、ぽっかりとどこかに浮かんでいた。

 ――そうだとしても、

 ――俺にできることは、

 ――走り続けるだけだろう。

 耳の中に、まだ聞こえるのか、幻聴なのかわからない、歌声が響いている。…

 ♪おい ここはどこだ おい ここはどこだ おい おい おい…

 ♪おい ここはどこだ おい ここはどこだ おい おい おい…

 ♪おい おい おい おい おい おい…

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抱虚の徒・第五天河道路 安良巻祐介 @aramaki88

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