高3男子と女教師の放課後の二重奏曲

南雲 千歳(なぐも ちとせ)

第1話

 無事に放課後の部活動を終えた俺は、校舎の外を見ると日没までにはまだ時間がありそうだったので、それぞれの昇降口へと向かう他の推理小説研究部の部員と別れ、職員室へと向かった。

 我が推小研の顧問である上田先生に、来週の水曜日にある特別授業で発表する予定の、グループ・ワークの研究課題であるアンケートを実施する為である。

 上田先生は社会科を担当している若い女の先生なのだが、その受け持ちの学年は1年生で、3年6組に所属する俺達のグループが先生から直接に授業を受ける事は無い。

 今日、その上田先生に会う目的と言うのは、部室での会話で実施の決まったアンケートに回答して頂いた上で、あわよくば、そうした聞き取り調査で得られた結果を上手くレポートにまとめる為のアドヴァイスなども頂戴ちょうだいして仕舞おうなどと言う、我ながら実に意地汚い魂胆こんたんである。


 「クリスマスと縁遠いもの」に付いてレポートすると言う、今回のグループ・ワーク活動の課題に付いて、俺の所属グループの各面子の持っている能力を検討するならば、少なくとも調査と言う分野に掛けてはプロフェッショナル級の実力を持っており、それは学校の授業の上でも必要十分な程度には発揮してくれるであろう有栖川ありすがわの奴はともかく、他、残り2人のメンバーである阿部と奈々美ななみに付いては、研究課題を調査してまとめる何て言う複雑で頭を使う作業には、全く向いているとは言え無い連中である。

 野球部のサウスポーに女子バレー部の部長とか──。

 それはまあ、確かに……そうだな、この後の夏休み直前に控えている体育祭とか、秋の文化祭直前にもよおされる球技大会とかでなら、間違い無くエース級の活躍が期待出来ると言えるだろう。

 しかし、そんな身体的な運動能力や大会などの出場経歴──。

 これはどう考えても、普段の通常授業のみならず、今回の特別授業の課題として出された研究テーマをこなす上でも、もはや殆どと言って良い程、全く役に立た無い能力だ。

 変化球の投げ方とか、トスの仕方とか、そんなものが特別授業の一環として出された社会科の研究活動で行う、アンケート調査やらその結果を分析する上で、一体何の役に立つと言うんだ?

 正直、この俺としては、中学時代からの親友であり、他ならぬ実の妹の香織の彼氏でもある阿部や、往年の幼馴染の奈々美の事をそんな風に言うのは、内心、実に心苦しい事ではあるのだが──今回、殆ど頭を使わ無い体育方面のエキスパートとか、そんなのは全くの論外、戦力外である。

 まだ阿部にこの今回のグループ・ワーク活動の話はしてい無いが、少なくともその意見は、先程、推小研の部室でどうでも良い無駄話で時間を潰した挙句、頓珍漢とんちんかんな私見を開陳かいちんした奈々美ななみ並みに使え無いに違い無い。

 よって、来週の水曜日6時限目に予定している特別授業での発表に備えて、今すぐにでもその課題に取り組みたい俺は、調査研究とかそう言う方面にうといお前達では無く、本職の学校の先生に助言をう事で、およそ人数分を満たしているとは呼べ無いその空いて仕舞った戦力を、おぎなわせて貰うぞ。

 と言うか、今回のグループ・ワークで研究活動をしなければならない課題の科目は社会科なのだから、前回と同様、今回も勝ちに行く積もり(?)の俺達のグループにとっては、担当学年は違うとは言え、課題を出した先生と同じく、担当教科が社会である上田先生にその教えをうと言うのは、使い物にならない面子を2人も抱えている俺の所属グループの戦力の無さを埋める上で、それは渡りに船と言うか、好都合と言うか、実におあつらえ向きで丁度ちょうどいのだった。


 放課後の校舎内を職員室へと向かっている今の俺は、授業と部活を終えて疲れている。

 少なくとも俺のコンディションはそんなだと言うのに、極度の学究肌がっきゅうはだでしかも話好きと言える上田先生のその性格から、今日も何だか小難しい話をされて、その内容の理解に付いての戸惑いと、更なる疲労を背負って仕舞う予感がし無いでも無いのは、やや不安要素だ。

 だが、放課後の職員室に先生が残っているであろう今日の内に研究課題である「クリスマスと縁遠いもの」に付いてのアンケートを実施し、かつ、これから週末に掛けて実施する本格的な調査・分析に備えて、そのご指導ご鞭撻べんたつ頂戴ちょうだいして置か無ければ、次にそれを聞けるのはいつになるのか分から無い。

 余りぐずぐずしていると、推小研の活動報告をする本日さえも、そんなアドヴァイスを聞くタイミングを逃して仕舞うかも知れ無い。

 もしそうなれば、決して勉強と言う方面で有能な奴ばかりが集まっている訳では無い俺達の課題グループが、「クリスマスと縁遠いもの」と言う捉えどころの無い難しいテーマで行った研究活動のレポートで、今回もクラスで1番を取ろうと言う俺の目論見は、水泡すいほうして仕舞う事だろう。

 そんな具合なので、普段の俺ならばそんな危ない橋は渡ら無い所なのだが、今回は時間が押している事もあり、心身の疲労にも関わらず、今日はえてそんな虎穴こけつに入り、虎児こじんとする事にした。


 陽が傾き、すっかり薄暗くなった廊下を歩いて来た俺は、職員室の前まで来ると、一度ノックをしてからそのドアを開けた。

 やんちゃだったいつかの頃とは違い、すっかり自他共に認めるいっぱしの優等生になって仕舞った俺は、高校に上がってからと言うもの、学校の内外で何か不始末をしでかして職員室に呼び出しを食った事など、一度も無い。

 なので、俺はおくせず、周囲には聞こえるが迷惑にならない程の大きさの声で「失礼します」と言ってから、その中へと入る。


 蛍光灯に照らされた明るい職員室内を眺め回すと、そこに存在している数名の先生方にじり、くつろいだ姿勢で椅子に座って資料などを読んでいる上田先生の姿を発見した。

 先生は、お茶の入っているらしいカップを手に持ち、書類などが乗っている自分の机の椅子に座り、その手に持つ資料をじっと眺めて、ゆっくりしている。

 幸運な事に、どうやら先生は今、お暇な様だ。

 気を良くした俺は、早速、活動日誌を提出するついでに、そんな上田先生を相手にアンケート調査を試みる事にした──。


「これが、今日の活動日誌です」

 先生に声を掛けた俺は、今日の放課後に行った推小研の活動を口頭で簡単に報告し、既にその詳しい内容を記録済みの活動日誌を、該当のページを開いて渡した。

「ああ、ありがとう」

 上田先生は、俺から手渡された日誌を持ち、その本日の欄に書かれた内容を、まるで山と積まれた小テストの採点でもするかの様に、素早く目を通し始めた。

 日誌の内容は、今日、部室で活動していた出席者の名前と、各自で行った活動内容の簡単な報告である。

 いつもよりも人数が多かったので、分量もそれなりだ。

 もっとも、部活と称してその実、特別授業の宿題をやっていた事はおおっぴらに公言こうげんする様な事でも無いので、流石さすがせてある。

 先生がその活動日誌を読んでいる間、俺は何も言わず、静かに待った。

 ──数十秒の後、ようやく先生は顔を上げ、読み終えた日誌をパタンと閉じて、机の上に置いた。

「なるほど。今日は各自がそれぞれ、自由に活動していたのね」

「はい、部誌の編集など、特に全員でしなければならない様な事も無かったので、本日は読書をして素養を高めたり、各自の執筆中の作品に付いて簡単な議論をするなど、それぞれに必要と思われる活動をしました」

「そう。もう今日は、全員とも家に帰ったのね」

「はい」

 先生の様子を見ると、何か考え込んでいる様子である。

「あの……。何か、問題だったでしょうか?」

「あ、いえっ、別に、そんな事は無いわよ」

 と、上田先生はそこで一旦いったん言葉を切り、それから繋ぐ様に述べた。

「ただ、青春してるな、と、しみじみ思っていただけ」

「そうでしたか」

 ……何だ、深く考えている様に見えたのは、そんな事か。

 部長を務める高梨の為に、一応、顧問の先生の希望などを、ついでにうかがってみる。

「今日の活動に付いては日誌の通りですが、今後の推小研の活動に付いて、上田先生の方から、何か、ご要望などはございますか?」

 すると先生は、推小研の顧問である自分の立場に付いて述べた。

「うーん、希望……。そうね、今の所は、特にこれと言って無いけれど」

「左様ですか」

「ええ……。まっ、あなた達推小研の部活顧問をしている私としては、特に大きな問題を起こしさえし無ければ、実際の活動の内容とかその辺りの事は、特に決まった目的も無く自由に過ごしていても、取り立てて注文は無いと言うか、全然構わ無いのよ。余り部の名目と掛け離れた事をしていない限り、この部を創設した、あなた達の自由に過ごしなさい」

「ありがとうございます」

「後は……そうね、とりわけ活動熱心で無く、活動日なのに顔も出さ無い様な幽霊部員とかが何人かいたりしても、その事自体が部内でのごとの様なトラブルにまで発展していないのならば、それはそれで結構よ。公式的な名目や部員の名簿がどうであれ、それが現実の公立学校で行われている部活動って言うものだものね」

「あ、そうですか」

 まあ、確かに、美術部や女子バレー部と言った他所よその部の部長までしている桧藤や奈々美が、推小研の部室に姿を見せる事は殆ど無いな。

 奈々美は兎も角、桧藤が部室に来る事何て、これまで3、4回ぐらいしか無かったかも知れない。

 先生は言葉を続ける。

「そう言う訳で、顧問をしている私が困る事と言うのは、あなた達が何か危険な事をやって誰かに怪我をさせたり、学校の備品を壊して仕舞うたぐいの事なのよ。管理を任されている以上、私はあなた達が迷惑を掛けたその方面に、謝りに行かないといけ無いし。特に、学校外の人に危害を加えて仕舞うなどの事は、言語道断ね」

 最後に、先生はそう力説した。

「そうですか。分かりました」

「ええ。後は……いたずらにコンセントの差込口をいじって停電や漏電を発生させたりとか、そんな事は案外と毎年の様に起こるものなのよ。ああ……一番最悪なのは、ボヤ程度では済ま無いレベルの火事を起こして仕舞うパターンかしら。これは失火の罪と言って、犯罪になる事もあるから注意して頂戴。もっとも、それは部活動に付いての事だけでは無くて、普段の学校での生活全般に言える事ではあるんだけど……。あなた達も、火の元の管理には気を付けなさいね」

「はい。では、今後もそれらの事に留意して活動して行きたいと思います」

「そう言ってくれると助かるわ。一週間とか一ヶ月とか、それぐらいの期間で考えて見れば……学校内でのトラブル何て日常茶飯の事で、発生し無い事の方が不自然だけど。それでも、あなた達推理小説研究部の活動で、この学校に来てまだ一年くらいのまだ新任とも言える私の経歴に、後々まで残る様な大きなきずをこさえ無いで頂戴ね?」

 先生が冗談めかしてそう言うので、俺も苦笑する。

 部の活動報告のやりとりが一通り済んだので、俺はそろそろ本題を切り出す事にした。

 「クリスマスと縁遠いもの」と言うテーマに付いて研究活動をする為の、アンケート質問とその指導要請である。

「所で、少し、お聞きしたい事があるのですが……」

 そんな風に俺は子細を話し始めた。

「えっ? クリスマス!?」

 話の途中でそう聞くなり、上田先生は何やら度肝を抜かれた様な表情をする。

「はい。その縁遠いものに付いて、何か、ご意見を頂きたいと思いまして」

 そう畳み掛けると、先生の表情は、次第に気だるげなものへと変わって行った。 

「ああ、そう……」

 先生の様子が変なので、俺は質問する。

「ん? 先生……どうか、されましたか?」

 そう聞くと、先生は小さな溜息を一つ吐き、疲れた表情でこう言う。

「もう、成海君。幾ら特別授業の研究課題のテーマとは言え、クリスマスがどうだとか……そう言うロマンチックな話は、私みたいに結婚もしておらず恋人もい無い、妙齢の女性に対してするもんじゃあ無いわよ?」

「あ、クリスマスって、そんなに、ロマンチックなものでしたか」

「そうね。私自身はともかく、少なくとも私くらいの年齢、二十代半ばの女性に取っては、クリスマスと言うのは、恋人と打ち合わせてレストランに行ったりする計画を立てる事も無い高校生のあなた達よりかは……それはそれはいささか現実離れしたロマンの対象なのよ」

 どうやら、今の上田先生にとってクリスマスとかその手の話題は、余り楽しい気分にはなれないたぐいの話題の様だ。

 俺は姿勢を正して、一応、謝る。

「ああ、これは済いません……。つい、うっかりしてまして。先生が独身だとはお聞きしていましたが、てっきり、恋人がいらっしゃるものかと」

「まっ。成海君は、お世辞せじが上手いのねっ。でも、例え私の様にまだ20代であっても、結婚とか恋人作りとか、そう言った華やかな世界の話と縁遠いと、クリスマスに関する話題も、かなり心に迫るものがあると言うか……その辺の所は、割と切実よ?」

「そ、そうですか。それはそれは……」

 そう返されて、俺は何と返答して良いやら迷って仕舞い、言葉を濁す。

「まあ、研究課題を仕上げるのに、そんなに私の考えが聞きたければ、丁度いま時間に余裕のある所だし、少しでいのなら、その研究テーマについての意見や、アンケート調査の様なフィールド・ワークを実施するに当たっての助言らしきものを話してあげても良いけど」

「そうですか。これは、かさがさね申し訳ありません。では、お願いします」

「クリスマス……。うーん、そうね。クリスマスって言うのは、一般的には、職場の人とか、或いは友達とか恋人、家族と言った親しい存在……。或いは、そうで無くても、少なくとも全くの赤の他人では無い顔見知りと過ごすものよね?」

「はい」

「それと関連して、少し話は変わるのだけど……私の出身は雪国である長野県の方のだから、クリスマスやその近くのお正月の季節を思い浮かべると、どうしても、その辺の道路だとか山で行う、雪遊びのイメージがあるのよね」

 長野県と言えば、川端かわばた康成やすなりの名著、「雪国」で知られる新潟県と隣接しているな。

 長野県に近い新潟県の事なら、俺もそれなりに知っている。

「そうですか。自分も、父の実家が新潟の方なので、お話は分かります」

「あら、そうなの? それなら、大体、近い感じでイメージ出来るでしょう? あの雪深い山奥の方……。全く、そこであった冬の楽しい記憶と言えば、雪合戦や雪だるまを作ったり、後はスキー場に行ってスキーやスノーボードで遊んだとか、そんな事ぐらいしか無いわ。それで無ければ、後は、教師になる前の大学生時代に、女友達と借りていた自分のアパートで、鍋を囲んで飲み会をしたくらいかしら」

 これはやはり、マズい事を聞いて仕舞ったか?

「そ、それは……楽しい思い出ですね……」

 俺は内心の苦笑をおくびにも出さず、そう言う。

 すると、先生は残念そうに首を振った。

「もう。ホラ、言ったじゃ無いの……。こう言う話を始めると、その会話の行き先は、辺り一面、どこに地雷が埋められているか分から無い様な、大変突破困難な広大な地雷源になるのよ。これにりたら、クリスマス・パーティだとか、そう言うきらびやかな話は、あなたと同年代の仲間か、特に意中の女の子に対してする事ね」

 確かに、そんな独裁者の忘れ物を延々と撤去する様な作業に、俺は従事したく無いな。

「はい、済みません。ご指導有難う御座います」

「まっ、女性も18歳くらいになれば、呼び方は女の子じゃ無くて女だと言う意見もあるけど」

 これは……有栖川ありすがわの奴、上田先生との会話で、前に俺とした話の内容を喋ったな?

 まあ、それに付いては良い。

 今大事なのは、与えられた課題をこなす事だ。

 暗い沈痛ムードからやや明るさを取り戻した先生は、話し始める。

「私が何を言いたいかと言うと、あなたの言うクリスマスも含めて、一般的な行事や流行には、この私の様にむにまれぬ事情によって、そんな大衆のイメージする概念からは掛け離れた特殊ケースに該当する人々、マジョリティに対するマイノリティがしばしば存在していて、その手の話題に敏感な人もいるのだから、気を付け無くては駄目だと言う事よ。こんな事は学校の教科書に詳しく載っている様な事では無いけど、実際に使う事の出来る大事な社会の勉強と言うのは、そう言うものなのよ」

「はい、分かりました。では、今度からはその辺りの事も配慮してお話しする様に気を付けます」

 兎に角、既に結婚している人を相手にその話をするのでも無ければ、やはりクリスマスの話題には、地雷が多いのだろう。

 少なくとも、その事だけは分かった。

「なら、良いけど……」

 そこで先生は目を閉じ、再び溜息をく。

「──ああ、済いません。先生にお聞きしたかったのは、クリスマスその物では無くて、クリスマスと縁遠いものの方でした。何だか追い打ちを掛ける様で恐縮なのですが、そちらに付いてもご意見をお願いします」

「ああ、そう。……そう言えば、そうだったわね。そうね、私はクリスマスと縁遠い……」

 途端、上田先生は目を泳がせて、天井とその顔との間にある虚空を仰ぐ。

「あ、いえ! そうじゃ無くてですね、今回、研究活動でクリスマスと縁遠い事物じぶつ全般に付いて、アンケートを実施して調べてる事にしましたので、何か、思い付く様なものは無いかと」

「そうねえ……。こんな春を過ぎた真夏も間近の季節に、冬場に行うクリスマスと言う事柄自体が、季節的に縁遠いものの様にも思えるけど……。でも、それは単なるこの現在の時節の問題に過ぎ無いし……」

 そこで先生は、しばらくの間考えると、ようやくこう言った。

「あっ、そうだわ。例えキリスト教徒で無くても、通常ならば、家族や友人・恋人と過ごす。現代社会の日本におけるそんなクリスマスの様相ようそうを端的に言葉で表した場合、それは『出会い』とか、『つどい』と言えるのでは無いかと思うわ」

「はい、一般的には、おっしゃる通りだと思います」

「そうね。そうすると、この日本社会や学校の様な、普通の社会集団に所属している一方で、そこで想起されるクリスマスの一般的なイメージとは掛け離れた孤独なカテゴリ・グループにも同時に所属している私の様な境界人きょうかいじん、つまりマージナル・マンは、一方の所属グループにおいて浸透しているならわしや文化背景から関係的な距離が離れているとも言える訳だから、そうしたものをより冷静に見つめ、分析する事が期待出来る存在であるとも言え、その点、この私はクリスマスと縁遠いものに付いて実に適任とも言える訳ね」

 先生はストレスと動揺のあまり、頭が変な方向に働いて仕舞った様で、何やら焦点の合わ無い目で薄笑いを浮かべながら、えらく小難しい事をのべつまくなしに喋る。

「それは、そ、そうかも知れませんね」

「そう。そうよ。そうに決まってるわ」

「は、はい」

「ええと……。さて、クリスマスにまつわる一般的な概念が『出会い』と『つどい』──そうすると、そんな暖かな概念とは縁遠い、対極にある物と言えば……。それは、『別れ』とか、『離散りさん』とも言えるのでは無いかしら?」

「なるほど、『出会い』や『つどい』とは相反あいはんする意味を持つ対義語として一言で言うなら、それは『離別りべつ』、と言う事ですね。すると……それを具体的な事柄で言い表すと、それは例えば、どんな事でしょうか?」

「そうねえ……。うーん、つまり、あなた達3年生の場合には、それはこの学校からの卒業に当たるとするのが、一番妥当な答えじゃ無いかしら。成海君、あなたは優等生だから覚えてる事もあるんじゃ無いかと思うけど、社会科の授業で、アメリカの学者であるデイヴィッド・リースマンの『孤独こどく群衆ぐんしゅう』の話は、聞いた事あるかしら?」

「はい、1年生の時に、倫理の授業で習いました」

「そう。流石さすがね。なら、分かるでしょうけど、人は高校を卒業するぐらいの歳になれば、る程度の差こそあれど、学校や親の指示に従属する存在では無くて、自立した1人の人間として扱われるようになるのよ。それでも、20歳はたち未満であれば、まだ本当の大人では無いけれど、それでも、高校生よりは子供では無いのよ。それは、言うなれば、『プチ社会人』って所ね。そうして、人は保護され監視される子供から、自ら働いてお金を稼いだり、大学などに学びに行く、1人1人が独立した社会の構成員になるのよ。そう言う日が来れば、もうあなた達が何をしていようと、それが犯罪や自分の不利益になる事でも無い限り、それをとがめる者は殆どい無くなるの。まあ、20歳はたちになるまでは、今の法律では、お酒や煙草も飲め無いし、知識量や判断力の未熟な制限行為能力者として、売買契約も取り消す事が出来るから、高校を卒業したからと言って、ただちに完全な独立性を認められる訳では無いけれど……。この現代社会では、人はそんな『プチ社会人』の時代を経て、許された全ての法律行為を単独で行える、完全に独立した社会人になるわ。社会人、それは、『プチ社会人』までの時代にあった親や学校と行った束縛から解き放たれた、完全に自由な存在になる訳だけど、それは同時に、誰からもかえりみられ無い、放っておかれる孤独な存在でもあると言う事なのよ。そうして大人が得た自由は、その裏側で同じだけの責任が発生する自由だと心得なさい。ひょっとすると、これはまるで禅問答ぜんもんどうの様に聞こえるかも知れ無いけど……つまり、『自由は不自由』と言う事でもあるのよ。それがどう言う事かと言うと──。自由で独立が認められる社会人、そう言う年齢になると、つい勢いで買い込んで仕舞った物も、その契約を取り消してお金を取り戻す事は出来無いものねえ。はぁ、不自由で不便だわ……」

 先生は、何か買った後で取り消ししたくなる様な、高価な物でも衝動買いした経験があるのだろうか。

「……つまり、社会的自立によって得る自由とは、そう言う側面から見ると、保護や見守りから離れた、一種の孤独でもあるって事ね。『自由≒孤独ニアリー・イコール』とも言って良いわ。そこで大事なのは、他人がどう思うのかと言う事よりも、自分はどうしたいのか、と言う事よ。そうで無ければ、人はいつか他人の評価に寄り添っている内に自分を見失い、やがてはそんな他人に隷属れいぞくした存在になって仕舞うわ。もっとも、多くの人は、学校や職場に所属している存在だから、そこでの評価基準に或る程度寄り添った行動を取り、その決まりやルールを守るのは社会人として当然の事だけれど。でも、そんな社会や組織の束縛から解き放たれる余暇よかの時間には、その目と耳で、この世界にある様々な物を見聞きし、それらへの自分の反応を知覚する事で、本当の自分と言う物を日々発見して行か無ければね。あなた達も、ゲームやら色々な遊びをするも良いけれど、この世の中を知り、更に新しい自分を発見する為に、本を読んだり、動画を見たり、後は美術館などに行くのも良いでしょう。そうで無いと、ただ親しい人の基準や他愛たあいも無い流行に流されて消費行動をするだけの、無知で主体性の無い、つまら無い大人になって仕舞うわよ? 隷属れいぞくの中に幸せを見出すのなら、それはそれで結構だけれど、折角、社会人には独立性が認められているのだから、何が自分にとって幸せかは、自分で努力して見付けなさい。どこまで他人に寄り添っても、生まれ持った個性ある限り、人は一つの存在になる事は出来無いのよ。独立した個を認め無い全体主義に対抗する為の個人主義が、いつの間にか全体主義になって仕舞っている何て事は、歴史の教科書の中だけで無く、この現代の日本でも、ちらほら見えるものね。さて、現代社会の様相ようそうがそんな感じである中、あなた達、高等学校の生徒にとっての別れの日とは、子供がプチ社会人になるまでの猶予期間、つまりモラトリアムからの別れと言う事になるわ。それを象徴するものは、この学校の卒業式と言う事になるわね」

「なるほど、そうですか。流石さすが、上田先生ですね──」

 俺は今の先生の話にいたく感銘を受け、そして思った。

 来週からは7月、そして夏休みを迎え、高校生活も残り半年くらいだが、俺はその時、一体、どんな気分で卒業式を迎えるのだろう──?


 それにしても、話し上手な上田先生には、何だか俺の聞きたかった質問を上手くかわされて仕舞った感じだ。

 だが、先生、俺は諦め無いぞ!

「卒業式が大事なのは分かりますが、もっと、他に何かありませんか?」

「うーん、もっと考え付くかも知れ無いけど、今の会話で、私はこの社会に生きている人間の、その集合と離散の構造に興味を覚えて仕舞ったのよね。ヨーロッパなどの西欧社会と、中東のアラブ社会、そして多くは家父長制と年長者を敬うと言う、儒教じゅきょう思想に基いているこのアジア社会では、それらはどんな風に構造化されているのかしら? ああっ、気になる……!」

 はぁ?

 卒業式の話が、一体どうしてそんな高校生には理解しがたいレベルの社会学的民俗学的歴史学的な話になるのだろう。

 俺が聞きたかったのは、クリスマスの話では無くて、クリスマスと縁遠いものの話なのだ。

 て言うか、今の話、レポートにする時に、どうやってまとめりゃ良いんだ?

 折角、研究課題の科目と同じ社会科の先生に話を聞くのだから、レポートのボリュームとして、今の卒業の他に何か無いかと思ったが、この際、もうその話でも良い。

 俺は何としてでも、提出するレポートと発表の時に点を稼げる様な、そんな話題を引き出す為、自分の興味ある事に頭を切り替えようとする先生に食い下がる。

「えっ。じゃあ、先生は、これからご自分の研究に没頭するお積もり何ですか? クリスマスと縁遠いものに付いて、もう少し詳しく、卒業だとかのお話をお聞きしたいのですが」

「ええ、そうね。でも、私はこれから家に帰って、早速さっそく、その研究をしたいのよ。私は興味ある物を見付けると、それに付いてとことんまで調べ尽くさ無い事には、居ても立ってもいられ無い性質たちなの」

「それは、大変ですね」

「ええ。成海君、今日は良い研究テーマを見付けてくれて、ありがとう。それにしても、あれこれと調べて自分なりの学説を立てるって、本当に楽しい時間よね? あなたのしている特別授業の課題のアンケートに付いては、その研究が一段落したら、その後にまた追加で意見を考えてあげるから、来週の月曜日にでも、またここに来て頂戴」

「え? あ、はい。ありがとうございます。あの、その時に、アンケートの調査結果のまとめ方などもお聞きして宜しいでしょうか?」

「ええ、良いわよ。統計的なデータの扱い何て、高校の数学でも扱ってるけど、それはあなた達のクラスで習う範囲とは限ら無いものね。……あっ、いけない、もうこんな時間じゃ無いの! 夏場は日が長いから、仕事が終わると、つい、職員室でダラダラして仕舞うわ……」

 そんな事をこぼしながら、上田先生は机の上の物を掻き集めて、自分の鞄に仕舞い始める。

「それじゃあ、遅くなると行け無いし、私はこれで帰るから、成海君も、もう帰りなさいね?」

「は、はい、分かりました。ありがとうございました。これで、失礼致します」

「ええ。ああ……今の時間、この辺りの図書館は開いているかしら……」

 俺は職員室から出て、自分の靴が置いてある3年生用の昇降口の方へと歩きながら、思った。

 先程のやりとりから、それなりに美人な上田先生にどうして今の今まで男っ気が無いのか──何と無くではあるが、俺には分かった気がする。

 そう言えば、上田先生のご両親のどちらかは、どこかの大学の先生だとか聞いた記憶がある。

 これは、先生と同じ様に、興味を覚えるとまっしぐらな研究肌の男性で無いと、肌が合わ無いと言うか、付いて行け無い所があるかも知れない。

 そんな先生の研究の虫とも言える性格が、これまで男性を遠ざける元になっているのだろう。

 まあ、この俺には、全く関係無い話だが──。

 それじゃあ早速、今からうちに帰って、上田先生の話を少し膨らませてレポートを書き始めよう。

 生徒は誰もいない夕暮れの校舎を、俺は闘志に燃えながら歩いて行った。

(了)

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