第3話
「どうして紫ちゃんは生きてるの?」
先の見えない暗闇の中であの子の輪郭だけがはっきりと見える。私を責めるように、静かに、ゆっくりと紡がれる言葉は私の心を抉るには十分だった。
これは夢だ。何度も見ている夢だ。きっと私が知っている『本物の彼女』は、こんな風に私を責めたりはしないだろう。けれどこうして夢に現れるのは私自身が私を責めているからで。自分が一番自分を追い詰める方法は彼女の顔と言葉だということを分かっていて、だからこそそれは何度も何度も彼女の姿を借りて夢に現れる。私が私を許さない限りこの夢が終わることは絶対にない。けれど、私が私を許すことも絶対にない。堂々巡りの夢は今日も延々と続いて、『偽物の彼女』の言葉に耳を傾け、受け止め、その夢が終わるのを待つ。
自然に意識が浮上したのはベッドに入った三時間後のことだった。ベッドの枕元に置いてある時計の針は夜中の四時を指している。あと一時間もすれば夜は明けるが、起きるにはまだ早い時間だった。こうして早く目が覚めてしまった日はもう一度眠りにつくことが出来ないと最近学んでしまっている。なら、と、夏の熱さのせいで汗を沢山含んだ服を脱ぎ、箪笥の中に入っていた服に着替え、ちらっと机の上の写真立てを見てから、スマホだけを手にとって家を飛び出した。写真立てには幼い頃の親友と私が笑顔で写っていた。
ぽつぽつと街灯があるだけの暗がりの道を真っ直ぐ走り抜ける。酷くなる息切れを無視しながら走り続けた先にあったのは街で唯一の墓地だった。私はどうしても眠れないとき、夢を見ることすら許されないときはここにきて、親友の名前が刻まれたお墓に手を当てる。そうすることで、あの子を身近に感じられた。
「私が死ねばよかったのにね」
あの子が私の呟きを聞いていたらきっと怒るだろう。怒鳴ったりはしない。けれど冷静に真剣に怒る。そんな風に言わないで、私の勇姿を無駄にしないで、って。その言葉とは裏腹に込められているのは、純粋な、生きてほしいという願いだと私もきっと悟るのだろう。けれど、そう言ってくれる人は、いない。
「こんなところで何をしておるのじゃ? もうすぐ夜が明けるとはいえ、こんな時間に女子が一人とは感心せんのう」
自称神様の柔らかな声は私の耳に届いたけれど、振り向くことはしなかった。彼が私の願いを叶えるために付け回しているのは分かっている。なのに肝心な願い事には突っ込んで来る様子がない。彼は分かっているのだ。私が望んでいることを。
「……半年前にね、親友が亡くなったの」
私が自称神様の言葉を無視して話し出したのにも関わらず、彼は何も言わずに私の言葉に耳を傾けた。手に触れている墓石がひんやりとしていて、亡くなった彼女の冷たさを思い出す。
忘れもしない、半年前の辛い記憶。私が一番信頼していた親友を失った、あの日の事故のことだった。
それは本当に一瞬だった。摩擦を起こしたブレーキ音が耳に届いたと思ったら、後ろで金属がぐしゃっとなった音がして、そこにいたはずの親友がいなくなっていた。細い歩道を自転車にまたがって走るときは、あの子が前に行って私が後ろに行く癖があった。それは阿吽の呼吸で、何も言わずにやっていた行動だった。けれどその日に限って、彼女は私の後ろに行った。
自動車道から道を逸れて歩道に突っ込んできた車から、運転手が頭を抱えて降りてきた。割と若めな男性だった。よろよろとその人が歩いて行った先に、タイヤが回った倒れた自転車があり、その隣にあの子は横たわっていた。既に自転車から降りていた私は、その場に立ち尽くしていた。倒れているあの子に男性が声をかけるも、返答はない。それを薄暗い中見て、ようやく頭が動いた。事故に合ったのだと。
考えるよりも先に手が動いてスマホを取り出して消防に電話をした。警察には消防から連絡してくれたらしく、数分もしないうちに救急車とパトカーが来た。独特の音が街に鳴り響く中、私はあの子の側には近づけなかった。もしかしたら死んでいるかもしれない、と近づいてしまえばその可能性が可能性ですらなくなる気がして、近づけなかった。
付き添いで乗った救急車が病院に着くと、あの子は直ぐに手術室に運ばれ、私はただ待つしかなかった。静まり返った病院の椅子に座って手術室から先生が出てくるのを、嫌な鼓動を体で感じながら待った。あの時、私が後ろにいれば引かれたのはあの子じゃなく、私だった。あの子が事故にあったのは私のせいだ。一度思考がそれに染まると、後はそれだけが頭の中でぐるぐると回る。その間に連絡を受けてあの子の両親が来た。けれど、涙を流して待つ二人に私は何も言うことが出来なかった。
「手術室の前でずっと祈ってた。どうか、あの子が助かりますようにって。でもその祈りは誰にも届かなかった」
手術室から出てきた医者に言われた言葉は、あまりにも残酷だった。あの子の両親は泣き崩れて、私はその意味を理解するのに時間がかかった。私がさっきまで聞いていた声はもう聞くことが出来ない。そう彼女の死を実感したのは、彼女の顔の見えないお通夜だったように思う。事故の怪我が酷くて顔は見せてもらえなかった。
自分のどうにもならない悲しみと悔しさをぶつけないよう、淡々と話す。そんな私の言葉を、自称神様は何も言わずに聞いていた。
「私の願いはあの子が生き返ることだよ」
空に陽の光が差して蒼に染まって行く。彼に振り向いて彼の翡翠の瞳を射抜けば、滑稽な自分が映っていた。事故なんかなければ、私が後ろにいれば、私が死んでいれば、あの子の未来がなくなることはなかった。今も元気に大学に行って、私が知らない友達と仲良く喋って、大学生活を謳歌していたはずだったのに。その未来は二度と取り戻せない。あの子の両親に自分を責めないでほしいと言われても、家族に私のせいじゃないと言われても、自分を許せるわけがなかった。
だから私は探していたのかもしれない。誰にでも訪れる死を覆す為に、人では到底実現できない願いを叶えてくれる神様を。いや、神様じゃなくたってよかった。あの子の笑顔をもう一度取り戻せるなら、悪魔であろうが、死神だろうが、きっとなんだって。
幾分かの沈黙の末、彼はふっと目を伏せて形のいい唇を動かした。
「その願い、叶うと言ったらどうするのじゃ?」
「え?」
「お主の親友を生き返らせることが出来るんじゃよ」
本当にお主がそう望むのなら。再び瞼を開き私を真っ直ぐに見据えた自称神様は、凛々しい顔をしていた。どうするかはお前が決めろ、と決断を私に委ねてくる。彼は叶えたい願いの選択肢だけを私に与えて、強制もせず、その場からお得意の瞬間移動で立ち去った。
何でも願いが叶う幸福のチケットを、私は今、手にしている。それを使えばこの世界に親友を取り戻すことが出来る。また、あの日常を取り戻せる。見続けている夢も見なくてすむかもしれない。二人で笑いあって馬鹿なことをすることも出来る。こんなに幸福なことは絶対にないだろう。なのに私は、彼の言葉に即答出来なかった。悪魔や死神に願いを託したいほどあの子が生き返ることを望んでいるのに、それを望んでいない自分がいる。何故か。それはきっと、心の片隅で分かっているからだ。
――それは本当に叶えていい願いなのか、と。
生きとし生けるもの、いつかは死ぬ。だから始まりと終わりは私たちの手ではどうにもならないようになっているはずで、踏み込んではいけない領域のはずだった。だからこそ、使ってはいけないのだ。たとえそれが、巡り合わせで手に入れた幸福のチケットだとしても。
あり得てはいけないのだ。人が、生き返るなんて。
その答えに辿り着いたとき、私は朝日に包まれながら大声で泣いた。墓石にしがみついて涙が止まるまで子どものように泣きじゃくった。親友が戻らない。私の罪も消えない。幸福を選ぶことは、最悪な道を歩むこと。それを自覚してしまえばどうにもならない重みを背負って親友がいない道を歩いて行くしかなかった。逃げ場なんてない。涙が、止まらなかった。
「本当に良かったのかの? こんな願いで」
向かいの椅子に座って問う自称神様は、自分が叶えた願いを若干否定するような発言をした。私はそれを気にせず、夏場だというのにホットコーヒーに口をつけた。舌に酸味と苦味が広がり、やはり得意な味ではないなと思う。しかし、そこに以前には感じなかった僅かな美味しさも見出せるようになり、願い事は本当に叶っているのだと実感する。これからどんどん美味しく感じるようになるだろう。このカフェでミックスジュースを頼むことは、もう、なくなるかもしれない。
「いいの。これであの子を少しでも近くに感じられる気がするから」
これでいい。心底そう思っている。
私は結局、自称神様の提案には乗らなかった。人を生き返らせるなんて、馬鹿げたことを本気で叶えようとするのは、もう人の所業ではないと思ったし、私の為にもあの子の為にもならないと気づいたから。それに私の我儘であの子を生き返らせることになったとしても、あの子に怒られる想像しか出来ない。きっと叱られる。それは御免だった。
その代案として出したのが、ブラックコーヒーを飲めるようになること、だった。私が飲めなくてあの子が飲めたブラックコーヒー。それが飲めれば彼女を近くに感じられるんじゃないか、なんて考えて、願い事をそれにした。生活の中に彼女がしていたことを取り入れる。それは別人を自分の中に引き込むようで新鮮だったけれど、直ぐに自分に馴染んだ。
「それで、神様は過去に帰るの?」
カップをソーサーの上に置き、なんとなくスプーンでコーヒーを掻き混ぜてみる。ぐるぐると回る透き通った漆黒は流れを止めると、その水面に光が浮かんだ。
「願いは叶えたからの。最終試験は合格じゃ」
得意げに話す彼はにこにこしている。神様になることがよっぽど嬉しいみたいだ。その顔に私に親友の生き返りを提案した時の神様的な凛々しさの片鱗は一切なく、同一人物かと疑ってしまう。
けれど全ては見透かされていたのだと思う。私の願いも、その葛藤も。だから彼はわざと提案して私に決めさせた。これから先、悩まぬように、もう二度とあんな考えに至らないように。私が自分自身で向き合うことが一番だと彼は分かっていた。
「さて、出ましょうか」
カップに残っていたコーヒーを全て飲み干し、伝票を持って席を立つ。伝票には客数のところに一人、と明記され、私の後を付いてくる彼は数えられてはいなかった。
会計後、外に出て何の言葉も交わさずに街をぶらぶらと歩く。じわっとする暑さに早く秋にならないものかと思うが、あの子が亡くなった冬に近づくのは嫌だった。けれど季節は回る。いずれくる冬もそのうち笑って過ごせるようになるだろう。
雨も降っていないのに赤い和傘を差し、隣を歩く神様は、歩き方がとても綺麗だった。横目でその姿を捉え、視線を前に戻して考える。彼はこれから私の願いを叶えたのと同じように、多くの人の願いを叶え続けるんだろう。どんな神様に、なるのだろうか。私のときのように、思いに耳を傾けてくれる神様に私はなってほしいと思う。叶えなければいけない願いが多すぎてなかなか難しいかもしれないけれど、私なら、こんな神様に願いを叶えてほしいと思うから。それを伝えようと神様の方に向いてみれば、彼はそこにはいなかった。帰ったのだ、過去に。ううん、彼がいるべき時間に。
学生たちが下校途中なのか、いつもは閑静な住宅街は賑やかだった。彼らの邪魔にならないように進むと前の方からセーラー服を着た女子学生二人が学生鞄を持って歩いてくる。寄り添って歩く姿は過去の親友と自分を彷彿させた。
その学生たちとすれ違うとき、二人が持つ学生鞄のお守りを見て、珍しいなと思った。そのお守りには、小さな赤い和傘のキーホルダーが付いていた。
許されざる願い 朔夜 @mouhitotsunosekai
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