不思議の国のシンデレラ

@yoll

不思議の国のシンデレラ

 北の歓楽街の一角。


 その案内所から直ぐ近くのビルの入り口にあるガラスのドアの一枚を、すっかり冷たくなった手で押し開く。私には少し重いガラスのドアの間に出来た隙間に私は滑り込むように体を放り込む。すると先ほどまで聞こえていた耳を突く喧騒がオブラードに包まれたかのようにぼんやりとした物になった。


 手を離したガラス製のドアは、少しだけきぃきぃと言う音を立てながらゆっくりと閉まっていく。それを背後に聞きながら、右手に見える二枚目のガラスのドアを押し開いた。


 二枚目のガラスのドアを抜けた先のそこから地下に続く階段は、アリスが不思議の国へと落ちていく様な感覚を何時も私に教えてくれる。何度このドアをくぐったのかはもう忘れてしまったが、何時だってこのドアを開けたときから私の冒険は始まる。


 螺旋状の地下一階が見える階段を一歩ずつ降りていくと、耳に届く喧騒はもう気にならなくなっている。階段を降り切った私の耳には自分の鼓動の音だけが響いていた。


 コンクリートで覆われたビルの廊下を少しだけ進むと目的の入り口が見えてくる。


 打ちっぱなしのコンクリートの中に現れた、やや暗めの落ち着いた色のウォルナットの板で縁取られた店への出入り口。仄かにオレンジ色の光を灯すダウンライトに照らされながら、その先には非日常的な世界へと私を連れて行ってくれるドアが待っている。


 更に高鳴る心音を聞きながらその入り口まで歩を進めると、その先は入り口を縁取っていたウォルナット材と同じ床板が足元に見えてくる。ほんの少しだけ昇り勾配がついた床板をパンプスの底が叩くと、先ほどまでコンクリートで鳴っていた無機質な音とは違う優しげな音が聞こえてくる。


 それが無性に嬉しくて、行儀が悪いとは分かりつつも一度だけつま先で床を叩いた。


 こん、という音が何処かへ行ってしまった後に私はようやく不思議の国へと続く大きな木製のドアの取っ手に手を掛け、一思いに引いて開ける。


 ドアを開けると少しは聞きなれた音楽と煙草の香りが漏れ出してくる。

 急いで中へと入ると、そこから見える店内は入り口と同じ落ち着いた木目調で統一されている。左手にはカウンター席の端が見え、カウンターへの出入り口付近に置かれているレジスターの前に静かに佇んでいるマスターの姿が見えた。


「いらっしゃいませ。上着をお預かりいたします」


 雪に降られて少しだけ濡れたお気に入りのグレーのロングコートを脱いでいると、いつの間にか音も無く傍に立っていたマスターがその右腕を差し出していた。


 私は小さく頭を下げると脱ぎ終わったコートを手渡す。

 それを受け取ったマスターはクロークのあるほうへと静かに歩いていき、白木のハンガーに優しくコートを通すと、銀色のパイプにハンガーのフックを掛けた。


「今日は奥に他のお客様がいらっしゃいますので、そちらの席で宜しいですか?」


 コートを掛け終えたマスターが振り返り私に話しかけてきた。

 奥の席、とは私がこの店に通い始めてから好んで座るL字型に配置されているカウンターの短い方の直線にある席の事だ。都合、入り口からは一番遠い席だ。


 私のお気に入りのあの席は店の中が良く見える。キッチンでカクテルを作るマスターの手元であったり、ドアを開けてやってくるほかの客であったり。少し覗き見をしているような、ちょっとした優越感が味わえるのだ。


「我が侭を言っても仕方ないですから、そちらに座らせて頂きますね」


 そう言った私にマスターは何も言わずに笑みを浮かべカウンターの中へと戻って行く。それについていくと成る程、私のお気に入りの席にはややご年配のご婦人が一人グラスを傾けていた。


 木製のスツールを少しだけ引き、その上に腰を下ろすと直ぐに目の前に曇り一つないグラスに入れられた水と、暖かいおしぼりが差し出された。

 湯気の出るおしぼりで両手を軽く拭いていると、えも言えぬ幸福感に包まれる。そうしたあとに、一口グラスの水でからからの口の中を潤した。


「今日はいかが致しましょう?」


 そう、マスターが尋ねた。この店にメニューは無い。


 私はマスターの後ろに立ち並ぶボトルをゆっくりと眺めていく。

 色々な形のボトルに、趣向を凝らしたラベルが張られている。ボトルを照らすライトの光を浴びたそれは、先ほどまで見ていたイルミネーションより綺麗だった。


「この前飲んだ奴、美味しかったです」

「ではそれで。飲み方はいかが致しましょう?」

「えと、ロックがいいです」

「畏まりました」


 結局のところ私は、きっと宝物が沢山あるだろうこのウィスキーのことなんて一つもわからない。だから何時もマスターのチョイスに全てを委ねている。


 直ぐに私の前にロックグラスが静かに置かれ、少しその後ろに琥珀色の液体が入ったボトルが遅れて置かれる。ラベルを眺めてみるが一寸洒落たデザインで文字が書かれていて、私には読むことが出来ない。


 いや、正直に言うと読む気がない。

 と、言うのも一度覚えたウィスキーの味を自宅でも味わいたいと思い、某有名電気屋で一本のボトルを購入したのだがどうにも味が違うのだ。それなりのお値段がしたのだが、残念なことに未だに一口だけ飲んで自宅の棚の中に眠っている。


 それからと言うもの、ウィスキーを飲みたくなったときには専らこの店に通うことにしている。やはり、雰囲気も入れてのこの味なのだろう。


 そんなことを考えているとからん、と言う音がした後にとくとくといった感じの音が目の前から聞こえてくる。


 マスターが手にするボトルの口から琥珀色の液体が流れだし、丸氷の角を削り取りながらグラスの底へと少しずつ溜まっていく。

 同時に、琥珀色の液体に閉じ込められていた濃密な香りが私の周りに漂い始めた。それを目を閉じて胸いっぱいに吸い込んでいく。


 高級店で作られたチョコレートのように控えめな、でもしっかりとした味まで想像できるような甘い香りに混じってどこか煙っぽいような、何とも独特な香りがゆっくりと全身に浸透していく。そうしてる間に、しゅるしゅるという何かをまわすような音が聞こえていたが、それも直ぐに止んだ。


 何も言わずグラスを私の前に差し出したマスターに、思わず浮かべていた笑顔のままで軽く頭を下げる。マスターも軽くお辞儀をしてくれた。


 口の中に溜まってしまった唾液を飲み込むと、グラスの表面に水滴が浮かび始めたグラスを右手で優しく持ち上げる。

 口元まで近づけたグラスからは更に香りが強く立ち上ってくるが、これから行う行為の前には多少霞んでしまうだろう。


 右手に持ったグラスに唇をそっと押し当て、傾ける。


 唇から口内に流れ込んだウィスキーの強いアルコールの刺激で先ほど飲み込んだ唾液がもう一度口の中に溢れ、混ざり合う。

 味わうなんて余裕は与えられず、を飲み込むと焼け付くような感覚が食道から胃の辺りまでゆっくりと流れ落ちていった。


 唇から離したグラスをカウンターの上に置いて一息つく。


 その間にも私の体は流れ込んだ強烈なアルコールによって僅かに体温を上げ、口内から鼻にかけて暴力的なまでの非日常的な香りが抜けていく。

 

 私はボトルにいだかれたこの琥珀色を説明する言葉を持たない。一応本屋でそれらしい雑誌を手にとって見たことはあるものの、何処の醸造所で作られた物であるとか、ピートの香りがどうであるとか。そんな物には興味を持つことが出来なかった。


 だけれども、この店でこのマスターが私の前に静かに差し出してくれるこのシングルモルトウィスキーという物は、淡々と日々を送る私にとって飛び切りの非日常感をプレゼントしてくれる。


 でも、一口目は今だ慣れない。


 直ぐにチェイサーを口に含む。

 店に入ってから直ぐに口を潤すために飲んだ時のそれとはまるで違う甘さを感じながら、焼け付く喉を癒すように水の塊が食道から胃まで流れ落ちていく。

 それでも、吐き出す吐息はまだしっかりとした熱量を持っていた。


 そのタイミングでマスターはナッツとストロベリー、有名店の包装紙に包まれたチョコレートが二枚載った四角い白い皿をそっと私の前に差し出す。


 二口目まではもう少し休憩が必要な私にとって最高の相棒であるナッツを指先でつまみ、口の中へと放り込む。

 ちょっぴり塩気が利いたカシューナッツを奥歯で砕きながら、じわりと視界が滲んでいくのが自分でも分かった。


 ああ、ダメだ。この席では、ダメだ。目の前にはマスターが居るではないか。

 段々とぐちゃぐちゃになっていく視界の中、私は必死に涙を堪えようとしては見たもののどうやら無駄な抵抗のようで、出来たことといえば顔を下に向けること位だった。


「マスター」


 ぽたり、と音が聞こえるくらいに大粒の涙がカウンターに落ちたとき、奥の席に掛けるご婦人が声を上げた。穏やかで、品のある素敵な声だと私は思った。

 俯く私の前を、マスターが音も無く歩いていく。


「葉巻が欲しいわ」

「畏まりました。何時もので宜しいでしょうか」

「ええ、宜しく」


 ぽたりぽたりとカウンターに落ちる涙を滲む視界で見つめながら、少し乱暴にグラスを手に取る。随分と冷え切ったグラスの内側で丸氷がからん、と音を立てて回転した。


 まだ飲み込めないカシューナッツに気をつけてグラスを呷ると、ウィスキーの香りとカシューナッツの香りが混ざり合い、何とも言えない味が口の中に広がった。それを、程なく飲み込むともう一滴涙がカウンターの上に落ちる。


 先程まで一緒に居た君のことをどうしようもなく思い出す。

 イルミネーションを見たカップルは別れてしまう。そんな何処にでもあるような話を嘘だと決め付け、一緒に笑ってくれた君は今日もう隣には居ない。


 やっぱり、毎年二人で駅前通のイルミネーションを見ていたのが悪かったのだろうか?


 いや、本当は分かっている。私もそれなりにいい歳にもなってきた。結婚という現実が目の前にちらつき始め、周りから届く結婚式への招待状がどうしようもなく気持ちを焦らせた。

 まだ私よりも年若い君は、ふと漏らしてしまった私のその言葉に答えるだけの気持ちを持ち合わせていなかったと言うだけだ。


 良い潮目でもあったのだろう。君が新しいパートナーを選ぶというのであれば、私は甘んじてこのウィスキーでそれを飲み干してやろう。それが、君より年上の私が最後に見せることが出来る優しさで、プライドだ。


 握ったままのグラスにもう一度唇を近づけようとした時、不意に甘い香りが奥のテーブルから流れ込んできた。

 その甘い香りに釣られて顔を上げてみると、白い煙が奥の席からゆったりとたゆたう様に広がってきている。


 思わずその煙の元を目で追っていくと、私の親指よりもずっと太い葉巻を人差し指と親指で挟み、他の三本の指をそっと添えるようにして口に当てるご婦人の姿が見えた。


 それはまるで一枚の絵の様で、私は暫く呆然とそのご夫人がゆっくりと吐き出す白い煙を眺めていた。ご婦人は私の無遠慮な視線にきっと気付いていらっしゃったとは思うが、時々グラスを傾けては白い煙をぷかりと吐き出すことを繰り返していた。


 その光景を眺めているうちに不思議と心が落ち着いた。


「ごめんなさいね。ちょっと煙が届いてしまったかしら」


 先程と変わらず穏やかで品のある声が聞こえてきた。


「ちょっと、目にしみちゃうかもしれないわね」


 ご婦人はそう言うとまた静かに白い煙を吐き出した。

 私は持ち上げたままのグラスにゆっくりと唇をつけるとウィスキーを口に含む。

 マスターはレジの横で目を閉じて佇んでいた。


 ぽたり、と随分小さくなった涙がカウンターの上に落ちるけど、きっとこれは葉巻の煙が目にしみただけだ。


 少し小さくなってしまった丸氷と大分薄くなったウイスキーがまだ少し残るグラスを静かにカウンターの上に置いた後に、ちらりと店内の時計を眺める。


 短針はもう直ぐ12を指し示そうとしている。

 いつもなら、終電に乗り遅れないようお会計を済ませるところだけど、今日だけはあともう少しだけこの素敵な空間に体を預けていたいと思った。ガラスの靴はもう、何処かへ行ってしまった。


 すっかり冷たくなってしまったおしぼりで目元をそっと拭うと、私はあと少しだけ冒険を続けることにした。


「マスター。もう一杯同じものを頂けますか?」

「畏まりました」


 すっかり、私の涙は止まっていた。

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