4
「お待ちしておりました」
その日訪れた私に、ギャルソンは深々と頭を下げた。
「この、私をかね?」
「はい。私どもは長年、ありとあらゆる美味を追求してまいりました。そしてついに、最高の食材を手に入れたのでございます」
究極の一品――
今まで食べてきた料理の数々が、頭に甦る。それらの味も、メインディッシュの前の前菜に過ぎないというのか。
期待に胸を震わせつつテーブルにつく。何が出て来ようと、もはや私が臆するはずもなかった。この店の料理を食べるためだけに、私は生きていた。
なにやら透明な液体がスープ皿を満たしている。
「これは?」
「当店自慢の一品でございます。どうぞお召し上がりを」
食べれば判る、という意味なのだろう。促されるままにスプーンを取る。覗きこんだ水面に、微かにさざ波が立った。
息づいている。
白く磨き上げられた皿の中で、そのスープは確かに生きていた。小刻みに揺れ、うねり、妖艶ともいえるリズムを醸し出す。そっと浸した匙が、優しくからめ取られてゆく。その手招きに誘われるように、私はスープを啜りこんだ。
……?
とろりとした食感に続いて、薄い塩味が口腔を満たす。スパイスの刺激もブイヨンの旨みもない、単なる塩味。
このどこが、究極の料理だと言うのだろうか?
スープは舌の奧へと流れ込み、ゆっくりと喉を滑り降りてゆく。その流れが胃に達した瞬間、痺れるような快感が私を襲った。
「ああ……」
味覚とは違う、いや、あらゆる感覚の域を凌駕する最も原始的な快楽。それが神経系をかけめぐり、細胞のひとつひとつを満たしてゆく。
やがてその全てが、スープと同じ波動を刻み始める。体の奥底から立ち上がって来るうねりの中で、私はギャルソンの言葉を思い出していた。 食事とは、命が命を同化する、神聖な儀式。食い、食われることによって繰り返される生命の輪廻。今まさに、このスープと私はひとつになろうとしている。
心臓の鼓動が高まり、熱い火照りと共に汗が吹き出す。空いた左手で額を拭うと、べっとりとした感触があった。その一滴が指を伝い、スープ皿の中へと落ちてゆく。
――血。
色のない液体の中に、真紅の花びらが咲き誇る。
濡れた手のひらを眺め、ようやく私は気づいた。汗と思っていたのは毛穴から滲み出す血液。いや、血を溶かしたスープの色だ。
その光景と共に私を、強烈な食欲が捕らえていた。流れ落ちる滴を、震える舌で追い、舐める。
これが……!
歓喜の叫びが私の喉を貫く。
たった一滴の滴が、無限大の宇宙へと膨れ上がる。鮮烈な爆発の中で、私は奇妙な懐かしさを感じていた。次々に呼び覚まされる、ありとあらゆる味の記憶。この店で食べてきた料理の数々。
これは。究極の味とは、そして最高の食材とは。
「左様でございます」
髭の下でギャルソンが笑った。やっと探し出した同志を迎えるような、そんな笑みだった。
「妖怪を餌とした、人間の肉。あなた様の体を糧として、初めてこのスープは完成するのでございます」
内臓が、血管が、筋肉が、ゆるゆるとほどけ、体内をうねる波の中へと消えてゆく。溢れ出すスープが、絨毯をさらに赤く染め上げる。
「食事は、至福の時であるべきなのです。食べる側にも、そして食べられる側にも。お客様に最高の食事を提供し、最高の敬意をもって調理させていただく。それが私どもの喜びなのでございます」
あと一口。
さらなる愉悦を求め、私は首を伸ばした。肉を奪われた体で床を這い、絨毯に唇を押しつける。
これが、この味こそが、私の生命の全てなのだ。味を感じる舌、神経、そして脳。それら全てが溶けるまで、少しでも長く、この味を。
「私どもはのちほど、ゆっくりといただくことにいたします。それまでお楽しみください、至福の時を」
薄れゆく意識の中、私は舌を動かし続けていた。
妖怪レストラン にしおかゆずる @y_nishioka
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