「お待ちしておりました」

 その日訪れた私に、ギャルソンは深々と頭を下げた。

「この、私をかね?」

「はい。私どもは長年、ありとあらゆる美味を追求してまいりました。そしてついに、最高の食材を手に入れたのでございます」

 究極の一品――

 今まで食べてきた料理の数々が、頭に甦る。それらの味も、メインディッシュの前の前菜に過ぎないというのか。

 期待に胸を震わせつつテーブルにつく。何が出て来ようと、もはや私が臆するはずもなかった。この店の料理を食べるためだけに、私は生きていた。

 なにやら透明な液体がスープ皿を満たしている。

「これは?」

「当店自慢の一品でございます。どうぞお召し上がりを」

 食べれば判る、という意味なのだろう。促されるままにスプーンを取る。覗きこんだ水面に、微かにさざ波が立った。

 息づいている。

 白く磨き上げられた皿の中で、そのスープは確かに生きていた。小刻みに揺れ、うねり、妖艶ともいえるリズムを醸し出す。そっと浸した匙が、優しくからめ取られてゆく。その手招きに誘われるように、私はスープを啜りこんだ。

 ……?

 とろりとした食感に続いて、薄い塩味が口腔を満たす。スパイスの刺激もブイヨンの旨みもない、単なる塩味。

 このどこが、究極の料理だと言うのだろうか?

 スープは舌の奧へと流れ込み、ゆっくりと喉を滑り降りてゆく。その流れが胃に達した瞬間、痺れるような快感が私を襲った。

「ああ……」

 味覚とは違う、いや、あらゆる感覚の域を凌駕する最も原始的な快楽。それが神経系をかけめぐり、細胞のひとつひとつを満たしてゆく。

 やがてその全てが、スープと同じ波動を刻み始める。体の奥底から立ち上がって来るうねりの中で、私はギャルソンの言葉を思い出していた。 食事とは、命が命を同化する、神聖な儀式。食い、食われることによって繰り返される生命の輪廻。今まさに、このスープと私はひとつになろうとしている。

 心臓の鼓動が高まり、熱い火照りと共に汗が吹き出す。空いた左手で額を拭うと、べっとりとした感触があった。その一滴が指を伝い、スープ皿の中へと落ちてゆく。

 ――血。

 色のない液体の中に、真紅の花びらが咲き誇る。

 濡れた手のひらを眺め、ようやく私は気づいた。汗と思っていたのは毛穴から滲み出す血液。いや、血を溶かしたスープの色だ。

 その光景と共に私を、強烈な食欲が捕らえていた。流れ落ちる滴を、震える舌で追い、舐める。

 これが……!

 歓喜の叫びが私の喉を貫く。

 たった一滴の滴が、無限大の宇宙へと膨れ上がる。鮮烈な爆発の中で、私は奇妙な懐かしさを感じていた。次々に呼び覚まされる、ありとあらゆる味の記憶。この店で食べてきた料理の数々。

 これは。究極の味とは、そして最高の食材とは。

「左様でございます」

 髭の下でギャルソンが笑った。やっと探し出した同志を迎えるような、そんな笑みだった。

「妖怪を餌とした、人間の肉。あなた様の体を糧として、初めてこのスープは完成するのでございます」

 内臓が、血管が、筋肉が、ゆるゆるとほどけ、体内をうねる波の中へと消えてゆく。溢れ出すスープが、絨毯をさらに赤く染め上げる。

「食事は、至福の時であるべきなのです。食べる側にも、そして食べられる側にも。お客様に最高の食事を提供し、最高の敬意をもって調理させていただく。それが私どもの喜びなのでございます」

 あと一口。

 さらなる愉悦を求め、私は首を伸ばした。肉を奪われた体で床を這い、絨毯に唇を押しつける。

 これが、この味こそが、私の生命の全てなのだ。味を感じる舌、神経、そして脳。それら全てが溶けるまで、少しでも長く、この味を。

「私どもはのちほど、ゆっくりといただくことにいたします。それまでお楽しみください、至福の時を」

 薄れゆく意識の中、私は舌を動かし続けていた。

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妖怪レストラン にしおかゆずる @y_nishioka

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