奇跡を待っている

七竈 雨音

奇跡を待っている

 水曜日の二限、わたしのいるB組は数Aで中林卓馬のいるC組はD組と合同で体育だ。今の時期、男子はグラウンドでサッカーをやって、女子は体育館でバレーボールをやっている。わたしが黒板から目をそらして外を見やると、中林卓馬は別の色のユニフォームを着た男子生徒からボールを奪って器用にパスを決めたところだった。うまいな、と思う。中林卓馬は中学からずっと吹奏楽部でチューバを吹いていて、運動部に所属したことはない。どこでああいう技術を身につけるのだろう。

 ボールの行方は追っていなかったが、中林卓馬が小さく飛び上がってガッツポーズをしたので、あのボールが無事にゴールに吸い込まれたのだということがわかる。中林卓馬が近くにいたチームメイトと笑いあいながら両手を打ち合わせるのを、わたしは窓から見つめている。最近眼鏡を新調したので、わたしは中林卓馬を見失わない。没個性的な黒髪の頭がグラウンドを駆け回るのを、わたしはじっと見ている。

 中林卓馬と話したことはない。中学も別だったし、合同授業はA組となので、中林卓馬はわたしという人間が隣のクラスにいることすら知らないだろう。ついでに言えば中林卓馬は理系コースの志望だし、わたしは文系コースの志望なので、わたしが突然ものすごく数学ができるようになるか、中林卓馬が突然猛烈に古文に魅せられるかしない限り、来年以降に同じクラスになることもない。家もまるっきり逆方向だし、そもそも通学方法すら違う。中林卓馬とわたしはたぶんこの先一生言葉を交わさない。

 中林卓馬がグラウンドから校舎を見上げて、わたしと目が合ったらどうなるだろう、と考えているうちにチャイムが鳴って授業が終わった。今日も中林卓馬はわたしの視線に気がつかなかった。


「告白とかしないの?」

 弁当箱の中身を食べ尽くしたらしく、はなはこの席に座ってから初めてそう口を聞いた。山口はなはわたしの同じクラスの友人で、食事をしている間は一切口を聞かないように躾けられている。はなが弁当を食べ終わるまで、わたしたちの間に一切会話はない。はなは悪い意味で人形のような容姿をしているので、わたしは中林卓馬が風邪などで休んだ日はまじまじと向かいのはなを見て、こいつ気持ち悪いなと思うことがある。

「ないでしょ。告白は」

 わたしは小柄なはなの頭越しに中林卓馬を見ている。はなもそれを承知の上でわたしの向かいに座っている。

 中林卓馬は数人の友人と一緒に学食の日替わり丼を食べていた。水曜日はいつも日替わり丼だ。わたしはサンドイッチをかじりながら中林卓馬が日替わり丼を口に入れて、噛んで、飲み込むのを見つめている。

「でも好きなんでしょ」

「知らない女に告白されても気持ち悪いじゃん」

「だからってずっと見てるだけなの。話しかけてみればいいのに」

 簡単に言ってくれる。はなはわたしと友人になったうえ、傍から見ればストーキング行為にしか見えないわたしの行為に黙々と協力するような人間であるわりに、恋愛というものに対するフワフワとした好感情を持ち合わせている。わたしと中林卓馬がつきあえばいいのにと思っているのだ。

 中林卓馬は日替わり丼を食べ終えたようだったが、まだ席を占領したまま友人たちと笑い合っている。

「あのね、待っててもなんも起きないよ。人間関係だと特にそう」

 はなはしたり顔でそう言ってちゅうちゅうと紙パックのココアを吸った。そうだろうか、とわたしは思う。入学式の日にはなが話しかけてこなかったらわたしは今ごろ誰も友達がいなかっただろうけど、こうして向かいにははなが座っている。わたしがなにもしなくてもなにかが起きることはあるのだ。だからわたしはいつも待っている。

 中林卓馬が立ち上がったので、わたしはちまちまとかじり続けていたサンドイッチの残りをひと口で食べた。


 中林卓馬を初めて見たのは合格発表の日だった。中林卓馬はたまたまわたしの隣に立って自分の受験番号を探していて、藪から棒に「やった!」と大声をあげたのでわたしは驚いて隣を見た。そして中林卓馬の横顔を見た。冬のぬるい日差しを受けて茶色の瞳がすきとおっているのを見た。白い頬の表面でうぶ毛がきらきらと輝いているのを見た。寒さでうす赤く染まった耳たぶを見た。胸に「3-B 中林」と名札があるのを見た。

 わたしは中林卓馬を見た。これをもっと見たいと思った。

 はなには彼女が勘違いするに任せているが、わたしはこれを恋愛感情だとは思っていない。わたしは中林卓馬になにも期待していない。わたしを知ってほしいとも感じていない。距離を縮めたいとも思っていない。

 わたしは中林卓馬を見ながらいつも考えている。

 突然空がきらりと光って、なにかがグラウンドめがけて落ちてくる。それはごく小さな隕石で、大気圏で燃え尽きかけているもののまだ小石程度の質量を備えている。そして宇宙から飛来するそれはそのくらいの大きさでも人間の命を奪うには充分なのだ。それはサッカーボールを追いかける中林卓馬の頭に直撃して、頭蓋骨を突き破り脳を破壊する。中林卓馬が死ぬのをわたしは教室から見ている。

 学食の水曜日の日替わり丼の具になにかの手違いで毒茸が紛れている。茸が好物の中林卓馬は大喜びでそれを食べる。しばらくはなんともないがやがて強烈な嘔吐感がこみ上げてきて中林卓馬は学食の机にゲロをぶちまける。中林卓馬が自分の嘔吐物にまみれて学食の机に突っ伏して死ぬのを、わたしははなの頭越しに見ている。

 吹奏楽部の練習で遅くなった日、バス停まで早足で歩く中林卓馬の背後から怪しい男が近づく。男は今しがた自分の家族を皆殺しにしてきたところで、逮捕されるまでの間にひとりでも多く人間を殺したいと思っている。自分がこれから殺されるなんて考えてもいない中林卓馬は気配に注意を払わない。血まみれの出刃包丁が中林卓馬の背中に突き刺さり心臓を貫く。中林卓馬が滅多刺しにされて冷たい路上に倒れ、苦悶の呻きをあげながら死んでいくのをわたしは物陰から見ている。

 わたしは中林卓馬が死ぬのを待っている。

 わたしはまだ人が死ぬところを見たことがない。祖父母は健在だし、目の前で奇禍があったこともない。だが、人間が死ぬということくらいわたしだって知っている。人間は死ぬのだ。わたしがまだ見たことがなくたって人間は死ぬ。こうしている間にもわたしの視界の外で誰かが死んでいる。もしかしたら突然目の前でものすごいことが起こって、いきなり目の前で人が死ぬかもしれない。その確率はゼロではない。それが中林卓馬の身に起こればいいと、わたしは願っている。

 それは中林卓馬が突然わたしの存在に気がついて、「君、俺のこといつも見てるよね? 気になってたんだ。よかったら次の日曜日に映画でも行かない?」と話しかけてくるよりも、よっぽど現実的に起こり得る出来事ではないだろうか? たとえそれが、奇跡としか呼びようのないほど低い確率でしか起こらないものだとしても……。

 わたしは中林卓馬のことを見ていたい。中林卓馬が死ぬところまで見ていたい。だから、中林卓馬にはわたしが見ているときに死んでほしいのだ。


 翌日の放課後、わたしは石膏像を抱えて四階の渡り廊下を歩いていた。美術部から演劇部に貸し出されたものを引き取ってきたのである。借りたのは向こうなのだから向こうが持ってくるのが筋ではないか、と思ったが押し切られた。一年生の女子がひとりで持つには重い。なめられているのだろうな、と思いながら休憩しようと壁にもたれかかって、あ、と思う。手すり越しの眼下に中林卓馬がいた。あの頭、間違いない。わたしが中林卓馬を間違えるはずがない。ぞく、と喉のあたりに奇妙な感覚が走った。

 隕石。

 わたしは、いま、隕石になれる。

 この石膏像をあの頭めがけて投げ落とす……いや、わたし自身が手すりを乗り越えて落下するのでもいい。そうだ。奇跡なんか待たなくてもよかった。わたしは中林卓馬をいつでも殺せるのだった。だって、中林卓馬はわたしのことなんか知らないのだから、警戒しようがないではないか。

 わたしは中林卓馬の頭を見つめたまま手すりをつかんでそろそろと身を乗り出す。このまま落ちる。わたしの頭蓋骨と中林卓馬の頭蓋骨が激突する。わたしは死ぬ。中林卓馬も死ぬ。中林卓馬は二度と動かなくなる。わたしは。わたしは、もう。中林卓馬を、見なくてもいい。

 もっと重心を宙に預けようとしたところで、不意に中林卓馬が動いた。どこかに行くのか。じゃあ急がないと、いや、違う。中林卓馬は顎を上げて、階上を振りあおいで、わたしを、わたしを、見たのだった。四階と地上は何メートル離れているだろう。正確にはわからない、だが中林卓馬はわたしを見ていた。

「……あ」

 眼鏡が落ちる。中林卓馬めがけてわたしの眼鏡が落ちていく。中林卓馬もわたしと同じく「あ」の形に口を開けて、目をつぶった。かしゃん、と中林卓馬の顔面にわたしの眼鏡がぶつかった。

 中林卓馬の唇がなにごとか言葉のかたちに動こうとするのを見て取って、慌てて上半身を引く。石膏像を抱え上げる。逃げるように美術室へ向かう。いや、違う、わたしは逃げている。わたしは逃げた。中林卓馬から逃げた。

 中林卓馬はわたしの存在を認識した。視力は裸眼でも良いはずだ。わたしの顔くらいあの距離からでも見えただろう。中林卓馬は善人と言っていいくらいには性格がいい。きっとわたしを見かけたら眼鏡を返してくれようとするだろう。中林卓馬がわたしに話しかける。そんなこと。そんなこと。あっていいはずがないのだ。

 わたしはどうしていいかわからなくなり、入学して以来初めて若林卓馬の帰宅を尾行するのをやめた。

 結論から言えばその日わたしがどうしたらいいか考えていたことはすべて無駄になった。わたしが見ていない間に中林卓馬が車に撥ねられて死んだからである。


 C組の生徒は中林卓馬の葬式に参列したという。わたしは行かなかった。葬祭場がどこで焼き場がどこかも知っていたけど、そこに中林卓馬はもういないからだ。

 わたしは一言も喋らないはなと一緒に教室で昼食を食べる。もう弁当があるのにわざわざ学食の席を使うためにサンドイッチを買わなくてもよくなった。

 水曜日のグラウンドに隕石のまぼろしも墜落するヘリコプターのまぼろしももう見えない。

 ただ、彼のものではない眼鏡がどうなったかと、あのとき彼が言おうとしていたのはなんだったのか、ずっと気になっている。それだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奇跡を待っている 七竈 雨音 @rainyrowan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る