夜汽車

フカイ

掌編(読み切り)





「ひとりで夜汽車に乗って、どこまでも行くのは楽しいものよ


 寝台の硬い夜具に揺られながら目を閉じ、


 気づいたら国境を越えているの


 大連から新京、それからウラディオストークや北京


 この小さな島国では考えられないスケールの


 夜汽車のひとり旅なのよ」


そういって祖母は、静かに微笑んだものだ。




満州で生まれ、終戦後、日本に戻り、


戦後は夫となった人とともに、


外交官婦人として


長くアルゼンチンに住んだ。


サッカーとタンゴの国。


熱情と伝統の国。


幻の理想郷、満州国とはずいぶん違うこの南米の国で、


彼女は成人期の多くの時間を過ごした。


が、諸般の事情で離縁し、


幼子たちの手を引いて彼女は、また久しぶりに故国の土を踏んだ。



故国、というものの、この国の土の上で彼女は生まれたわけではない。


血統としては間違いなく日本人であるもの、


心の底ではこの国は、


彼女にとっての異国であった。


家族によって語られる、


遠く、憧れとともに仰ぎ見る、


見知らぬふるさと。


それが、彼女にとってのこの国だった。




だから高度経済成長期のただなかに、


最後の南米的航路の貨客船でこの国へ戻った時、


まるで浦島太郎のように


彼女の文化は、当時の日本と大きくずれたものとなった。


この国が、成長のただなかで手にしたものは、


軽薄で、手軽で、チャーミングだったけれど、


この国が、その過程で手放してきた多くを、


彼女は、


風呂敷の中にいっぱい詰めて、帰ってきた。


たとえば、重々しく、


たとえば、堅苦しく、


あるいは質素だけれど、長持ちするような、


そんなあれやこれやを、彼女はとても大切にした。




今にして思うと、いつも浮世離れしたように見えた祖母のあの微笑みは、


おそらくその、遠い場所で恋慕すべき対象に、


図らずも再会してしまったやるせなさや切なさがない交ぜとなった、


アンヴィヴァレンスな想いだったのだろうと、推察する。




夜汽車、という言葉遣いが、


この国ではすでに絶滅して久しいが、


その言葉を耳にすると、


行ったことのない中国北東部(旧満州)の広大な遠い地平線が目に浮かぶ。


まだ若かった祖母はしばしば一人で、気まぐれに旅をしたらしい。


世界市民コスモポリタンというイメージが、


その、


果てない大地を行く夜汽車の風景と、いつも重なる。




祖母のことを思うといつも、


山上の透きとおった湖に生まれてしまった、回遊魚を想う。


その身体は、世界の七つの海を旅するように作られたのにもかかわらず、


狭い、ちまちまとした湖のなかで生きざるを得なかった魚。



今であればきっと、彼女はこの国を飛び出して、


どこか遠い空の下で暮らしたろう。


ガタゴトと間断なく揺れる夜汽車の窓枠に、


きっとロシアンティーを置いて、


ストロベリー・ジャムを舐めながら、


長い夜の旅を楽しんだろう。




ぼくに備わる放浪癖は、


あの祖母の血から受け継がれたものに違いない。


今は亡き祖母に思いをはせて、


ぼくはまた、あてどない旅に出る。


真冬の旅先で、


暖められたエンジンフードに座りながら、


どこぞの荒野。


シェラ・カップに入れる一杯の紅茶は、


祖母と同じ、


ロシアン・ティー。


目を閉じれば、満州の、夜汽車のただなかにいるようだ。




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夜汽車 フカイ @fukai

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