海馬戦記外伝-----淀どのの乳のみ子のいくさ船-----

夜間飛行

小田原城の夏に舞う花

 あかつき淀どのは胸苦しさに目を覚ました。

 「ああ、乳が張る」

 寝所の障子の外はまだ暗く鳥のさえずりもない。天正18年(1590)4月、小田原城を包囲する関白秀吉は本陣を箱根湯本の早雲寺に置き、その僧房の一角が今淀どのの寝所に与えられている。

  

 暗がりの中で淀どのは搾乳をはじめた。痛みをおさえるには日に数回の搾乳が欠かせない。昨年5月27日に生まれた一子棄丸すてまるは間もなく1歳になる。棄丸は今北の政所に預けられ聚楽第にいるが、本当は淀城においたままこの乳をふくませているべきではなかったか。淀どのは納得がいかなかった。離乳も間近いこの微妙な時期になぜ関白は、わざわざ戦場に母たる私を呼び寄せるのか。


 むろん淀どのが自ら母乳育児することに、家中の抵抗がないわけではなかった。第一にこの時代、高貴の家柄であれば当主の子供の育児は乳母めのとにゆだねるのが一般的だった。第二に側室の生んだ子は、はじめから正室の管理にゆだねられるのが常だった。だから、他家の側室なら産後1年目であっても、とっくに「母」としての役目は終えていて、当主の好みのまま「伽」に呼び寄せられるのも理不尽とは言えない。


 だが淀どのは違った。棄丸を我が手で育てることにこだわっていた。そのこだわりは母お市の方譲りだった。


 お市の方は織田信長の妹だった。織田家は先代信秀の没後、家督を巡って嫡男信長を推戴する家臣団と、弟信勝を推戴する家臣団に分裂し、血みどろの抗争が続いた。ついに信長は自らの手で弟信勝を謀殺しなければならなかった。お市の方はその近親相食む抗争を渦中で見て育っていた。


 「わが子はわが手で育てます。家臣どもそれぞれの旗にかつがれ、弟妹仲たがいすることのないように」母お市の方は四人の子どもを自らの乳で育てた。長女茶々、次女初、三女江、長男万寿丸。


 浅井家滅亡の天正元年(1573)に淀どのは4歳だった。生まれたばかりの弟万寿丸に母が授乳している姿をかすかに覚えている。異母兄の万福丸は小谷城落城のあと潜伏先でとらえられ、10歳の身で羽柴秀吉の手で串刺しの刑に処せられた。だが万寿丸はお市の方の奔走で助命され、剃髪して姉たちの庇護で今もこの空の下のどこかで生きている。4人きょうだいの強い絆は、あの母の胸の中ではぐくまれたのだ。私と乳のみ児もそうありたい。


 とは言え棄丸を生んだとき20歳の小娘だった淀どのがいくら強情を張っても、普通なら側近の同調圧力に屈していただろう。ところが他ならぬ秀吉の実母・大政所なかが淀どのに味方した。


 「藤吉郎めは2歳になるまでわが乳を吸わせて育てたでよ」大政所は言った。「羽柴が高貴の家になりあがったで、わざわざ乳母をあてがわにゃならんきゃ?見栄ではにゃあか」


 秀吉の正室・北政所おねも無理強いはしなかった。

「お世継ぎを生む手柄は、私にはとうとうかなわなんだ夢。淀どのがそこまで望むなら、お手元で育てるのもよろしかろう」こうして淀どの手ずからの育児は羽柴家公認のものとなった。

 

 天正18年(1590)3月1日 関白豊臣秀吉は小田原の北条氏を討伐するために3万2千の大軍を率いて京都から出陣した。留守居の淀どのは7か月になったばかりの棄丸を抱いて、行軍の隊列を三条橋詰に設けられた高台の上で見送った。


 腕の中の捨丸はすこやかに育ち体重は2貫目(8kg)を越えていた。首もすわり最近は目に触れたものには何でも手を伸ばす。行進する大軍の馬上に変わり兜の武将を見つけると手を叩いてはしゃぎ、「ンマ」とか「アジャ」とか喃語を発する。母と目を合わせて「カァカ」と呼んでくれる日は遠くないだろう、と淀どのは思った。しかし母子の濃密な日々は突然終わることになる。


 4月2日関白秀吉は箱根湯本まで進出して野陣を敷いた。4月6日北条家の菩提寺である早雲寺を接収して本陣を置き、北条氏政・北条氏直ら約6万人が籠城する小田原城を包囲した。ただちに、小田原城を見下ろす早川対岸の笠懸山に高石垣の城郭を築き始めた。同時にこれまでどの戦国大名にも例のない奇妙な命令を下した。自らの側室の幾人かに参陣を求め、配下の諸将には残らず正室を呼び寄せるよう通達したのだ。


 「女戦めいくさじゃ」秀吉は浮かれた口調で諸将に告げて回った。それが「小田原調略」の最強の「決め手」になるのだと。真意を測りかねた諸将は困惑を取り繕うのに難渋した。


 4月13日付の秀吉から北政所に宛てた手紙が、高台寺文書として残されている。

「若君(棄丸)が恋しいが天下静謐を申し付けるため我慢している。各大名どもに女房を呼ばせた。長陣のため淀の者(淀どの)を呼ぶことをそなたから申し伝えてほしい。そなたの次に淀の者は我の気に合うように細かに仕えるので、安心して来させるように」


 4月末に北政所を通じて下命があり、淀どのは棄丸を預けて小田原に向かった。世評では関白の色欲浅からず、戦地にあっても夜ごとの「伽」を所望されているのであろうと噂されたが、本陣の一角に寝所を設けられたというのに、秀吉が訪れたのは最初の数日に過ぎず、あとは日々広大な戦場を督戦して休む間もない。無聊をかこちながら搾乳に明け暮れる日々。何のためにここまで来たのか、淀どのには意味がわからなかった。

 

 6月になった。久しぶりに寝所を訪れた秀吉に、淀どのは不満をぶつけた。

「このような日々はまことに心苦しく、一刻も早く若君の元に帰りとうございます」


 「女戦めいくさじゃ」秀吉はいたずら小僧のような表情で快活に答えた。「ここしばらく多忙極まり、そちの元に通えなかったことは、許せ。だがその多忙で余が成し遂げたことを見れば、そちの心も晴れるであろう。明日は余自ら、石垣山城を案内してつかわす」


 「石垣山城?」淀どのはいぶかしんだ。近くにそのような山の名を聞いたことがない。


 「地の者は笠懸山と呼んでおる。後の世はその名を忘れ、関白の石垣山と呼びならわすであろう」


 翌日淀どのは輿に乗って笠懸山の山頂に向かった。秀吉とその護衛の母衣武者が20騎随行した。早雲寺のそばを流れる早川の流れに沿って下っていくと、突然視界が広がり、川の右岸におびただしい人足の群れが、地肌むき出しの小山に蟻のようにたかる工事現場が現れた。山頂にはめくるめくような高石垣がめぐらされている。 


 多くの牛馬が棺桶ほどの大きさの石材を荷車に積んで、石曳道を登っていく。淀どのの輿も随行の騎馬もそれをぬうように登っていく。道脇では石垣を積む作業が終盤を迎えていた。三の曲輪、二の曲輪を経て、本丸曲輪に至ると急に視界が広がり遠くに海が見えた。相模湾である。足元には早川の流れが見え、流れの上流をたどるとはるか西方に箱根の山がそびえている。


 曲輪の中央に天守台の高石垣があり、その上にまだ木組みだけの天守閣がそびえていた。周囲には壁を塗り瓦を張るための材料が所狭しと積み上げられており、淀どのを迎えるため、作事がしばし中断されたばかりと見えた。木組みの階段には赤いもうせんが敷きつめられ淀どのを最上階にいざなっていた。


 もうせんに足をかけたところで一息入れ、周囲を一望した。東西の斜面の木々は伐採されて目を遮るものは何もない。しかし北の小田原城方面だけがうっそうとした森が手つかずのまま残されていて、眺望は悪い。


「案ずるな」秀吉が言った。「木組みのてっぺんまで上がれば四方どこなりと見晴らせる」


 最上階には秀吉と淀どのの二人で立った。この高さなら北方の森越しに相模平野の眺望がきく。そこには驚くべき異形の構造物が広がっていた。淀どのは息を呑んだ。


 「あれこそ」秀吉が言った。「天下に並ぶもののない小田原城の総構えよ」


 小田原城の本丸が手のとどくほどの距離に見える。二の丸、三の丸を囲む空堀と矢倉が見える。驚くのは更にその外側に、田畑や農村や町屋を丸ごと囲い込んで全長9.5kmに及ぶ土塁と空堀がめぐらされていることだ。


 土塁の内側に北条方ののぼり旗が林立し、おびただしい兵卒が旗の下にうごめいていた。伝令だろうか母衣武者が数騎、本丸から総構えの前線に疾駆する姿が見えた。駆けても駆けてもなかなか前線に届かない。それくらい広いのだ。


 総構えに囲まれた城域は大雑把にいえば一辺2km前後の不等辺四角形である。東の一辺は相模湾の袖が浜に沿って南北に直線をなし、南の一辺は早川の流れに沿ってこれも東西の直線に近い。北と西の二辺は山並みの地形を利用してやや複雑な走行をしていて、たてよこの直線が直角に交わる形ではなく、斜めに交わる「への字型」をなしている。このおおよそ500ヘクタールに及ぶ面積に6万人の兵力が籠っているのだ。


 「城攻めは、籠城側のおよそ3倍の兵力がないと力攻めはかなわぬ」秀吉は言った。「さりとて兵糧攻めは時間がかかる。播州三木城攻めにどれほどの月日が要ったか知っておるか」

 三木合戦のおり淀どのはまだ9歳だった。そんな昔の事を知っているわけがない。


「22ヶ月じゃ」秀吉は言った。「骨と皮になっても戦意があればそれぐらい耐えるもんじゃ。じゃが、それでは攻める方も守る方もたまったもんではないわ。そこで戦意を砕く調略じゃ」


 ここで秀吉は諸将の女房をこぞって呼び寄せることの「攻城効果」をとうとうと語った。籠城側には食料・弾薬の備蓄に限りがある。しかし攻城側にも、大軍に食料・弾薬をまかないながら長陣を続けるのには限界がある。北条はかって上杉謙信の10万の攻囲を籠城でしりぞけた成功体験がある。秀吉に備えこの広大な城域に兵糧の備蓄に備蓄を重ねておれば、城の兵糧が尽きる前に攻囲軍の兵糧が尽きて大軍は去る、と見切っているに違いない。


 「そこで見せつけてやるのよ。わが陣営の酒池肉林」秀吉は言った。「関白の兵糧は底なしで、諸将は日ごと夜ごと女房どのと乳繰り合って、長陣の憂さなどありようがない、とな」


 下品な「作戦」に淀どのはあきれはてて少しだけ眉をひそめた。棄丸はこんなことのためにわが乳を呑めぬはめになったのか。秀吉に話を合わせるのも業腹で、ふと海側に視線をそらすと、相模湾の沖合はるか伊豆半島の方面から、数知れぬほどの大型の船の群れがこちらに向かって航行して来るのが見えた。先頭の船団は真紅の帆があざやかで、中央に白い二つの円が交差するうよに染め抜かれていた。


 「あれは輪違い紋」淀どのはつぶやいた。「あれは確か脇坂中務少輔の家紋ですね」


 「脇坂甚内を知っておったか」秀吉が訊いた。「左様、輪違い紋は余が甚内めに授けたものだが」


 「脇坂殿は、ほら、若君の誕生祝いに船の玩具を下さった方ではありませんか」淀どのは言った。「あの玩具船に輪違い紋の帆が張られていたので、覚えたのです」


 「そうじゃ、そちはことのほかあの玩具を気に入っておったな」秀吉は1年前のあの狂騒を懐かしんで目を細めた。「余は蒲生氏郷の祝いの品にぞっこんであったが」

 

 昨年5月27日棄丸が誕生すると、秀吉は狂喜して貴賤へだてなく大盤振る舞いの「かねくばり」を行った。イエズス会日本年報によるとその額は13万クルサード(1両小判三千枚弱)に及んだという。


 返礼として貴賤こぞって誕生祝を若君に贈った。まず翌日に天皇が太刀を下賜し、准后・女御が産着を贈った。公家たちが淀城を次々に訪れ、徳川家康も本願寺門跡も金銀を贈った。やがて陪臣や町人に至るまで、貴賤それぞれが様々な祝賀・進物を競い合い、お祭り騒ぎになった。


 なかでも蒲生氏郷の進物は語り草になった。彼はは祖先のたわらの藤太(藤原秀郷)が大百足おおむかで退治に使ったと言い伝えられていた家宝の矢の根(鏃)を惜しげもなく鋳つぶし、子供用の太刀に仕立てて贈り、秀吉を喜ばせたのだ。


 一方、淀どのに印象深かったのは脇坂安治から贈られた玩具船である。長さ2m、幅68㎝の軍船・安宅船の模型で、敷板に車輪が付いていて、殿中を曳き遊ぶことが出来た。


 船の前部と後部にそれぞれ瓦ぶきの屋形がありこれは本物の安宅船のデザインをそっくりまねている。一方前後の屋形の間に台座があり、これは本物のまねではなく、幼児をそこに乗せるための座席である。船の周りに勾欄が付くがこれも本物の写実ではなく幼児の転落防止の安全柵だろう。要するに乗って遊べる玩具になっている。


 淀どのがこれを気に入ったのは他の諸侯の進物が、幼児より秀吉その人に気に入られる目的で選ばれていたのに対し、この進物は幼児を喜ばせたいと贈り主が知恵を絞った形跡がうかがえたのだ。


 淀どのがその仕掛けに気づいたのは棄丸のおすわりが安定して出来るようになった8か月のころだった。それまで飾りものとして寝所に置いていた玩具船に、棄丸を乗せて曳いてみた。すると船はまるで波を切るように上下に揺れ、棄丸は大喜びで「ウキー、ウキー」と歓声を上げた。


 調べると仕掛けはとても良く工夫されていた。通常は車輪の車軸は、車となる木の円盤の中心に通される。ところがこの玩具の車輪は、車軸をわざと中心から何寸か外れたところに通している。車軸と接地面の距離が回転とともに刻々変わるので、進むに従って、どんぶらこ、どんぶらこ、と揺れるのである。  


 あの船に脇坂安治が乗っているなら、一度会ってみたいものだ、と淀どのはふと思った。「あの船団は何のためにこちらに向かっているのでしょう」淀どのは聞いた。

「小田原攻めの第一段階が終わった」秀吉は言った。「脇坂、長宗我部、九鬼の水軍は北条の水軍の掃討に駆け回っておった。それが済んだのだ。あとは相模湾に錨をおろし、じっくりと海路を封鎖すればいい」


 「もし水軍が小田原沖に長逗留するようなら」淀どのは言った。「せっかくの機会、本物の安宅船を見学させていただけますまいか」

 「よいとも」秀吉はあっさり許可した。「日取りは追って沙汰する。甚内には余から粗相なきよう申し渡しておくわ」


 6月5日、淀どのは艦隊の旗艦となる大安宅船の上で、脇坂安治と対面した。棄丸が玩具船に興じたいきさつを述べて礼を言うと、脇坂は嬉しそうに笑った。15歳年上の37歳、淡路3万石を拝領し水軍を統括して5年になるという。丸顔で眉は太く目は大きく、水軍働きで黒々と日に焼け、淀どのは栗の実に似ているとこっそり思った。


 「見れば、相模湾を埋め尽くすような船の数ですね」淀どのは言った。「これほどの船が城を囲む姿は、大げさにも思えますが」


 海から見わたすと、早川河口の右側の岡には壮大な小田原城の総構えが広がり、河口の左側には伐採で裸になった笠懸山がその頂上に高石垣と天守閣を頂いて屹立している。あれから数日で天守に瓦をふき壁をぬったようだが、なぜか山頂の北側の森は刈り残されたままで、見苦しい。


 「お袋さま、海路の封鎖にやり過ぎはございません」脇坂が言った。「三木合戦で籠城が何か月続いたかご存じですか」

「22ヶ月であろう」得たばかりの知識で淀どのが答えた。「よくご存じで。では石山本願寺の籠城は何年かかったかご存じですか」

 「たしか10年」これには淀どのは即答できた。

 

 あのとき淀どのは11歳だったが、子供心にも大事件と解り、大人の会話に聞き耳をたてたものだ。みかどの調停で本願寺が石山の要害を退去し、織田政権こぞっての祝賀となったのはいいが、攻略に手間取った佐久間信盛が信長に問責され所領没収の上、追放処分になったのだった。


 「本願寺の包囲は完璧でした。ただ一つ、村上水軍の制する大阪湾を除いては」脇坂安治は言った。「海からの兵糧入れを頼りに、本願寺は織田軍の猛攻を10年間耐えたのです。これに佐久間様は無策でした」


 脇坂の説明によれば、北条の籠城戦略は、奥州の覇者・伊達政宗の動向を抜きには語れない。伊達政宗は関白秀吉の小田原参陣の要請に態度を明らかにせず、奥州で形勢を観望している。豊臣につくのか、北条につくのか。


 秀吉が小田原攻めに動員した総兵力は22万人に及ぶ。小田原城を包囲するだけなら簡単だ。しかしもしも伊達政宗が北条方に味方し奥州諸将を率いて小田原城兵糧入れを試みたらどうなるのか。とりわけ北条水軍が相模湾を制し、房総半島から外洋を経由して奥州との糧道を確保すれば、石山本願寺攻めの二の舞いにならないだろうか。


 そうなれば包囲は10年では済まないだろう。22万人分の兵糧をそれだけの期間維持することはさすがに苦しいのではないか。そこで秀吉は二の舞を避けるために、22万の軍勢を方面軍に分け、北条方の陸海の支城をしらみつぶしに叩くことからいくさを始めた。奥州から小田原への兵糧の道をあらかじめ封鎖するのだ。


 秀吉率いる主力は東海道を進み小田原への道を阻む山中城、韮山城を強行突破する。山中城攻めは豊臣秀次、韮山城攻めは織田信雄にまかせた。


 一方前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの率いる別働隊の北国勢は3万5千で中山道から北関東に侵入し、奥州とのつたいの城となりうる城を一つ一つ攻略する。


 他方で石田三成や浅野長政らは江戸湾沿いに北進し南関東の支城をことごとく落とす。


 その一方脇坂安治・九鬼義隆・長宗我部元親の豊臣水軍は伊豆半島を周って北条水軍の拠点・下田城を攻め落とし、相模湾と江戸湾の浦々の海城うみじろを掃討する。


 「我ら水軍は一足先に任務を終えました」脇坂は言った。「陸ももうすぐです。関東平野の支城でまだ落城に至らないのはおし城など5城のみ。伊達政宗もあてがはずれてきもをつぶしているでしょう。おのれが描いた後詰の絵はもはやかなわぬ」

  

 「では伊達殿の去就によれば」淀どのは言った。「小田原は開城するのでしょうか」そうなれば棄丸の元に飛んで帰れるのに。

 「囲碁なら投了です」脇坂は言った。「一対一の勝負なら20手先を読んで、負けました、と言える。しかし6万人の将兵が籠る城です。貴賤上下それぞれに、負けました、と観念させるには大掛かりな仕掛けが要ります。その第一幕が、ほらもうすぐ始まりますよ」


 脇坂が指さした小田原城総構えの南面の空堀沿いの街道に、右手江戸方面から武者行列が行軍してきた。のぼり旗には「竹に雀」の「仙台笹」の紋が染抜かれている。伊達家の紋だ。


 隊列の装束の異様さに淀どのは目を奪われた。200は居ると思われる将卒が、全員甲冑の上から白い湯かたびらをまとっているのだ。白づくめの行軍はまるで葬列のように陰気に見えた。軍勢は粛々と街道の西、湯本早雲寺の関白本陣に向かって進んで行った。総構えの物見の矢倉の上では、北条の兵士たちが呆然として立ちすくんでいた。頼みの綱の奥州勢は、6万人の目の前で関白に白旗を掲げたのだ。


 「お袋様、殿下はこれをお見せするため」脇坂が言った。「今日の日をわざわざ選ばれたのでございましょう」


 淀どのはその日から、脇坂に頼んで書いてもらった、関東平野の略図を搾乳の時のひまつぶしに眺めるようになった。北条の五つの支城の位置と、それを攻囲する諸将の名を書いた絵図だ。支城の攻略は順調に進み、落城した城はバツをつけて日付を書きこんだ。6月14日鉢形城、6月20日岩槻城、6月23日八王子城。全部消えたとき私は淀城に帰れるだろう。


 6月25日津久井城が落城し、残る支城がおし城ただ一つとなった日に、関白豊臣秀吉はついに本陣を笠懸山、のちの石垣山に移した。淀殿の屋敷も諸将の正室たちの宿舎も、石垣山城の北曲輪に用意されあわただしく転居した。淀どのの屋敷は、あいさつに訪れる女房たちであふれかえった。細川忠興の妻ガラシャがいた。山内一豊の妻千代がいた。前田利家の妻まつがいた。真田信之の妻こまつがいた。立花宗茂の妻誾千代ぎんちよがいた。全部で50人はいるだろうか。


 女だけの気安さで座がにぎわい、うちとけ合ったそのとき、前触れもなく秀吉がずかずかと座敷に踏み込んできた。一同はあわてて平伏した。


 「明日は女戦めいくさじゃ」秀吉が大声を上げた。「この20日間訓練してきたことを忘れるでない。指揮は淀の者にまかせる。方々、思う存分働き、北条のものどものきもをひしげ」


 6月26日の朝になった。北曲輪の馬場に、淀どのを先頭にして、諸将の妻たちが50騎の馬に真紅の袴で騎乗し北に向かい整列していた。1騎の周囲に10人の侍女が配されたので総勢は五百を超える。目の前に手つかずの森が視界を塞いでいたが、その彼方には小田原城の総構えが広がっているはずだ。


 第一のほら貝の音が高々と鳴り響いた。それを合図に、目の前の樹木が、一斉に山裾に向けて倒れはじめた。あらかじめ根元に切り込みを入れ、仕掛けをほどこしていたのであろう、たちまち北側の斜面は倒木で覆われ、一気に眺望を遮るものが無くなった。


 見はるかす小田原城総構えの内外にのぼり旗が林立するのが見えた。空堀の内側に北条方6万、外側に豊臣方20万が展開している。森の消滅とともに彼我26万人の視線がのぼり旗の狭間から一斉にこの山頂に集中した。


 北条方が仰天して右往左往する様が、蟻のように見えた。彼らから見れば、関東で初めて見る石垣と天守閣の城が、一夜にして天から舞い降りたように見えたであろう。


 第二のほら貝の音が高々と鳴り響いた。沖合にひしめき合って停泊している水軍の安宅船が、一斉に帆を上げた。錨をおろしているから船は留まったまま、帆はかぜをはらんでちぎれんばかりに膨らんだ。赤地に白の「輪違い紋」は脇坂安治の淡路水軍、白地に黒の「七曜紋」は九鬼義隆の志摩水軍、黒地に白の「丸に七つ方喰かたばみ紋」は長宗我部元親の土佐水軍だ。相模湾は家紋に覆われて海が見えない。


 水軍衆はそれぞれの船上で総計千挺の鉄砲を45度の仰角で構え、一斉に発射した。弾丸は10町(1km)の距離を飛んで本丸御殿の檜皮葺ひわだぶきの屋根に落下した。この距離では殺傷力は無く、単に自然落下する金属のあられに過ぎないが、屋根を叩くすざまじい音に御殿の女房たちは悲鳴を上げた。


 第三のほら貝の音が高々と鳴り響いた。

「つづけや、ものども」淀どのは声を張り上げ馬を駆った。女ばかりの騎馬と徒歩かちの隊列は、城から北に向かって緩やかに斜面を下る「関白道」を小走りに行進した。行く手の早川河口のすぐ向こうに小田原城総構えの土塁と矢倉がそびえていた。


 早川の右岸に河原にせり出すように巨大な木製の大舞台が建造されていた。高さも広さも清水寺の舞台にせまるべしと秀吉が命じたその舞台の上に、五百の女人の隊列が散開した。舞台は色とりどりの衣装に埋まり、妍を競うあでやかな花畑のようだ。川向こうの北条の陣営とは1町(100m)の距離しかない。


 舞台から見下ろすと、河原には何十もの大釜が備え付けられ、雑炊が煮立てられ

周囲に蝟集する雑兵にふるまわれていた。沖合から安宅船の隙間を塗って、何百艘もの輪違い紋をたなびかせた小早舟が兵糧を山積みし、早川を遡って河原に米俵を積み上げていた。淀どのは脇坂安治の言葉を思い出した。

「わが水軍のあるかぎり、関白の兵糧がとぎれることはありません」


 川向こう1町の敵陣から北条方が呆然と眺めている。淀どのは声を張り上げた。


「北条の方々。お聞きください。我らは上方よりはるばる陣中見舞いに参った、諸将の妻どもにございます。我ら日ごと夜ごと長陣の憂さ無きよう、わが君をお慰めし、楽しき日々を送っています。毎日が酒池肉林、関白の兵糧は底なしです」


 居並ぶ北条方の将卒の表情が見える。目が点になり、口は締まりなく広がり、ひたいにはスダレがかかっている。

「北条の方々も長陣お疲れでございましょう。石垣山城の落成を祝って、今日は方々の無聊もお慰めいたしたく、我らの舞を献じましょう」淀どのの合図で、侍女たちが一斉に舞い始めた。馬上の女房たちはきらびやかな小袖のたもとに手を入れ中身を手に握った。


 それは和紙で桜の花びらをかたどった造花の花弁だった。1枚1枚を桜色に塗り、香を炊き込めた模造の桜花だ。


 ♪ひさかたの~光のどけき~春の日に~しづごころなく~花の散るらむ~♪  


 五百の侍女たちが古今集の秀歌を歌って舞うと、50騎の女房たちがが馬上で空中に花弁を巻いた。浜からの風が花弁を巻き上げ、桜吹雪のように総構えの彼方に運んだ。 


♪ひさかたの~光のどけき~春の日に~しづごころなく~花の散るらむ~♪  


小田原よ、散れ!散れ!そしてこの私を、早く乳呑み児の元に帰してくれ。

花を撒きながら淀どのは祈った。(完) 


(参考資料)

(1)隣華院

https://kyotofukoh.jp/report839.html

(2)秀吉長男「棄丸」の玩具船

http://kodensyo.blog98.fc2.com/blog-entry-499.html

 



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