ガラスの言葉
フカイ
掌編(読み切り)
笑ってるよ白いワンピースの
長い髪に落ちてゆく影
それはだれですか
ふと止まる鉛筆の中から
真更な日記帳に落ちてゆく影
それはだれですか
ガラスの言葉が眠ってる
遠いあの日の遠いあの街
今晩はどこへゆく風
ミルキーウェイに花が ほら
あんなに一杯ほら
揺てる よ
(ガラスの言葉/吉田拓郎)
郊外のスーパーマーケット。水曜、11月。午後3時。
雨の降る大きな駐車場で、カセットテープを入れ替えて、ハンナはいまの気分に見合った音楽を選択する。
大昔の、この国のロックンローラーが、肩の力を抜いて歌ったスロウ・ナンバー。
抽象的な歌詞。
安易な
しかしこの音楽の芯にある何かが、彼女をひきつけてやまない。
間欠的に作動するワイパーが、このステーションワゴンのフロントグラスから雨粒を拭い去る。
きれいに拭かれたそのクリアなガラス面にまた、雨のしずくが降る。
あるものはとどまり、そしてまたあるものはガラスの斜面を駆け下りてゆく。そんなに慌てることもないのに、とハンナは思う。
やがて雨滴同士がよりあい、くっつきあい、大きな水の粒となって斜面にすがりつく。こうしてその様子をガラスの内側から見ているのが好きだ。表面張力を超えて、水の塊が斜面をこぼれ落ちようとしたまさにその時、ワイパーが作動してすべてを拭い去ってゆく。
あの歌がリフレインする。
ガラスの言葉が眠ってる
遠いあの日の遠いあの街
今晩はどこへゆく風
ミルキーウェイに花が ほら
あんなに一杯ほら
揺てる よ
「あなたは強いのね」と、昨日、カフェで友人に言われた。
勤務先の大学のカフェテリアで、同僚の研究員と午後のお茶を楽しんでいたときだ。ハンナはここで漢詩の学術研究を行っている。
その女性は、配偶者の浮気に悩んでいた。確信はないが、おそらく恋人がいるのだろう、と。
「確かめればいいのに」とハンナは言った。
「それができれば、」と彼女は答え、顔を曇らせた。もし、自分の思い過ごしなら、無実の彼を疑ったことになる。予感が的中した場合は、彼も、そして彼女も相応の傷を負うことになる、と。
「大変なのね」とハンナは答えた。素直な感想だった。
「あなたに相談するのではなかったわ」と、彼女は笑った。笑って、ハンナのその無邪気さを賞賛し、その強さを羨ましがった。
強さか、とハンナは思う。
雨の降る駐車場で、フロントグラスに落ちる雨粒が、間欠的にワイパーに拭い去られるのを見ながら、彼女は思う。
強いのではなく、自分には、感情の一部が欠如しているのだ、と。
メロドラマを見ても、うまく感情移入ができない。ラブストーリーに心を動かされることはごく稀だ。
こんな自分が、離婚してしまったとはいえ、一度は誰かを愛し、子どもにも恵まれるとは。神様の皮肉を思わざるを得ない。
幸い手のかからない子に育っている。
彼には、本で見るような母親らしいことはできていないかもしれない。友達のような、姉弟のような、奇妙な関係だ。しかし彼女のその本質的なズレを、息子は見事に受け継いだ。
彼もまた、時々遠い目をしては、自分ひとりの空想の世界に生きている。楽しげに。充ち足りた表情をして。
強いのではない、と、成長しても成長しても、こぼれ落ちることなく拭い去られる雨粒を見ながら、ハンナは思う。強さではない、と。
こういう風にしか生きられないのだ。
こういう風にしか、生きていけないのだ、と。
漢詩の世界はすばらしい。
簡潔にして深い想像の余地を残して。
まるでお茶のように、香りの余韻を味わう文学だ。
自分も見えるもの、手に取れるものだけをやり取りして一喜一憂するのではなく、目に見えないもの、手に取れないものこそを、こころに留めておきたい、とハンナは思う。
多少世間からはズレた自分を、意識しないことはない。
しかし、世間と足並みを合わせるよりも、自分が心地よいと思えるリズムで歩けばよい。
息子にも、同じような価値観を与えたい。ブレのない自分自身を持つこと。そうすれば、他人とどのような距離を持てばよいのかが、自ずと見えてくるはずだ。それは強さなどではない。
たとえばこの、拭い去られる運命にある雨粒のように。
カセットテープから流れる、ガラスの言葉たちのように。
それはもろい。この手から滑り落ちたら、すぐにも粉々になってしまうだろう。
けれど、はかなくも美しい輝きを放てるはずだ。
秋の長雨は、街を煙らせ、街路を濡らし続ける。
海がみたい、とハンナは思った。
晴れた秋の海を。
ガラスの言葉 フカイ @fukai
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