先生の遺産
立花
先生の遺産
ひどく暑い日だ。
アスファルトが反射する太陽は、出かけに塗った日焼け止めごと肌をジリジリ焼いた。麦わら帽子もほとんど意味を成しているように思えず、日傘を持ってくるべきであった、と後悔する。緩やかにカーブを描く坂の斜面はさして急ではないが、こんな熱気のなかを延々と歩かされるよりはいっそ真っ直ぐに駆け上がってしまった方がまだ良い気がした。意識が遠のき始めるのを感じながら、どんどん重くなる足をなんとか踏み出して歩みを進める。
カーブミラーの向こう側には海が広がっていた。
特にビーチがあるわけでもなく観光的にマイナーな場所ではあったが、そのぶん静かで別荘を持つには良い場所だ。
ミラーを超えると丁度そこからは坂がさらに緩やかになって、目的地が数十メートル先に見えた。
聞いていたよりはだいぶ立派な家だった。
豪邸かと言われるとそういったわけではないが、ちょっとした小屋だというのはどうやら随分と謙遜した表現だったらしい。築二十数年にしてはとても綺麗だ。
木でできた白い二階建ての家の前には広い庭。人の手が入っていない緑は無秩序に茂ってはいるが、その色は光をはらんで水彩で描いたように淡く柔らかい。中央には上品な白いテーブルと二人分の椅子がある。きちんと手入れをすれば絵画のような庭になるだろう。
白砂利の敷きつめられたアプローチを抜け入口へ向かう。
ペンキが少しはがれていたが、植物をかたどった模様が繊細に刻み込まれた扉は テーブルや椅子同様上品なセンスが窺われた。
大きく息を吸う。
日差しに光る銀色の鍵を差し込むと少し力を入れてゆっくりと回す。カチャ、という音がやけに耳に残った。
鍵を開けて中に入ると少し埃っぽさを感じる。
(一年も使ってなかったなら当然か)
一階の全ての窓を開け、さらに二階も換気をするため階段を上る。
水道や電気諸々の手続きは少し前に行ったので大丈夫なはずだが、一応あとで使えるか確認しなくては。
ここは先生の別荘だった。
そして先生が私に遺してくれた唯一のものだ。
木造の廊下はやはり薄く埃が積もっていたが、時々閉め忘れられているドアや少し欠けた壁に確かに人の息遣いがあった。
不思議だ。自分が昔毎日暮らしていた場所よりも、年に数日使っていただけのこの家の方が誰かを感じる。
幼子のように様々な場所に目を配っていれば、歩みは自然とゆったりとしたものになった。
二階にはベッドルームと書斎、客室。それとベランダがある。
書斎は書庫と言ったほうがいいくらいの広さだ。
小説や実用書、そしてその数倍の専門書が並んだ光景は、研究室を思い出させた。
「なぜそんな石ばかり集めているんですか?」
先生は鉱物学者のくせに、研究室にエメラルドやルビーといった希少なものではなく、ほとんどガラクタのような石ばかり置いていた。
「わたしの趣味だよ。」
不躾な物言いに気を害したふうもなく悪戯っぽく笑うと、棚から石の一つをつまみ上げた。
「この石だって物質的にはほとんど宝石と変わらないだろう。特別な石とそれ以外の石の違いなんて些細なものだ。であれば宝石を集めるのとこういった石を集めるのとはそう変わることじゃない。」
後から考えれば随分な屁理屈だったが、先生の穏やかな口調で言いきられるとなんだかそんなような気もしてしまうから、ずるい。
私が言葉を咀嚼し終わるのを待って、先生は続ける。
「人だってそうだ。特別な人間なんてそういない。皆ね、ほんの少し、ほんの僅かな違いがあるだけなんだ。だから君も、そういったものに固執する必要はないんだよ。」
突然言葉は私に向けられた。
咄嗟にその意味を飲み込めず前を見つめたまま動けなくなれば、そのうちにわかるさと軽やかに笑われる。
そして先生は、灰色の石に視線をうつしてゆっくりと目を細めた。
先生が亡くなったのは先月のことだ。
先生は遺言で私にこの家を譲り渡すつもりだったようだが、先生の遺族たちは遺留分などといった理由をつけてはそれを渋った。一般的に考えればあたりまえの問題なのだが、そういった計算をしていなかったあたり先生らしいと言えば先生らしい。
結局、先生がいなくなって数日も経たないうちに遺産について騒ぎ立てられることに嫌気がさした私は、この別荘を全て買い取ってしまった。
法的にみれば私のものだとはいえずっと手をつけてこなかった金を使うのは少し気が咎めたが、無利子の借金だとでも考えて少しずつ返せばいいかと結局は思い直した。
私は先生の願い通り家を譲り受け、願い通りこの日にこの場所を訪れた。
そして私は今、先生の願い通り誰かを待っている。
我ながら従順すぎるとも思うが、私は先生が遺そうとしてくれたものがなんだったのか知りたかった。
いや、それ以上に、日に日に薄れていく先生とのつながりをひとつでも多く繋ぎ止めたいのだ。
鞄はとりあえず客室に運び込むことにした。
埃が薄く積もった机や椅子を一通り布巾で拭いて、ひとまず休憩する。
水もガスも電気も問題なく使えることを確認し、持ってきていた紅茶を淹れた。
ここには簡単な調理器具やコーヒーはあったが、紅茶はなかった。先生はコーヒーばかり飲むから、紅茶は置いていないのだ。当然予想していたことなので、今住んでいるところからしっかり茶葉を持参している。
紅茶が好きな私は、だからずっと湯を沸かすたびにわざわざコーヒーと紅茶をどちらも淹れなければならなかったのだ。
そのせいで、今も私のそばには一人分のお湯が残ったポットとコーヒーの粉末が入った缶が並んでいる。
明日は書庫の整理をしないと。それから庭も時間があったら整えよう。
やることを一つひとつ頭の中で整理しながら休憩をすると、早速掃除機と雑巾で床の汚れを落とし始めた。
先生が毎年ここに来ていたことは知っていたけれど、同時にこの場所が先生にとって大切な場所であることにも気付いていたから、私はなんとなく着いていくことができなかった。
先生は、ここで会っていた誰かの連絡先を知らなかった。ただ、決まって初夏のこの時期にその人は先生に会いに来るのだという。
私は、その誰かに先生の訃報を伝えるためにここにいる。
一階の掃除があらかた終わり、二階に取り掛かかろうとしたとき、チャイムが鳴った。
急いで階段を降りる。
息が上がるのとは別に、心臓が大きく鳴っているのが分かった。
また止まりかける足をなんとか動かして、鍵を開ける。すると向こうから扉が開いた。
「先生?」
慣れた様子で顔を覗かせた彼は、私を見とめると目をしばたかせた。
年齢は、高校生くらいだろうか。スポーツでもやっていそうなくらい大柄ではあるが、まだ僅かにあどけなさの残る顔立ちや整髪料をつけていないさらりとした短髪が幼さを感じさせる。
先生の知り合いだというからてっきり年上だろうと想像していた私は、驚きですっかり口を開くタイミングを逸してしまった。
彼が戸惑ったように表札を確認しに行こうとしたことで、ようやく我に返り慌てて呼びとめる。
私が待っていたのは彼なのだろう。
それはわかるのに喉に声が張り付いていて、言葉が出てこない。話そうとすればするほど、引き攣るような痛みが増した。耳障りな蝉の音だけが間を埋めている状況に焦りが募る。
「先生は、先月亡くなったんです。せっかく訪ねてくださったのにすみません。」
私がなんとかそれだけ絞り出すと、彼もそうですか、とだけ小さく答えた。
これ以上伝えることは、返すことは私にも彼にもない。彼は小さく頭を下げて踵を返す。
「あの。」
咄嗟に呼びとめていた。
その顔に悲しさのような寂しさのような、なんともいえない色が滲んでいたのは気付いていた。けれど彼に同情したわけではない。
私もどうしようもなく持て余しているその感情を、わかったふりなどできるはずがない。
それとは関係なしにただ、ひとりでいるにはこの家はなんとなく居心地が悪かったから、誰かに一緒にいてほしかったのだ。
招き入れると、彼は慣れたように靴を脱いで家に上がった。しかし途中で思い出したようにこちらの顔色を窺い始めたので、私は少し笑いながら客間へと促した。
「紅茶でいい?」
「ありがとうございます。……お姉さん。」
気まずそうに呼ばれてようやく、私と彼はお互い名前もろくに知らかったことを思い出した。そういえば先生の遺書には場所と日にちの指定以外何も書いていなかったのだ。
自分のうかつさに苦笑いしながら彼に名を告げる。彼も視線を少し落としながらもぽつりと返してくれた。
「今まではここで何をしてたの?」
「本を読ませてもらったり……あとたまに勉強を教えてもらったりとか。」
「そっか。それじゃ先に二階に行って読んでていいよ。あとで紅茶持っていくね。」
彼は少し緊張を解くと、私に頭を下げて二階へ上がっていった。
規則正しい足音が遠ざかってからしばらくして、私は沸いたお湯で紅茶を淹れると彼を追って二階に上がった。
彼は窓辺に腰かけて本を読んでいた。
一応書斎には一人掛けのソファがひとつあるのだが、きっとそこが彼の定位置なのだろう。
大柄な彼が全身を収めるには小さすぎるだろう幅しかないが、猫のように器用に体を縮めて座っている。
「ここに置いておくね。」
陽の注ぐ書斎は厳かな空気が満ちていて自然と小さな声になる。ありがとうございます、と呟く彼の声もやはり空気に溶けるほど小さかった。
カップをできるだけ彼の近くに置くと私はソファに腰掛けた。きっと、今までは先生がここに座っていたのだ。
窓辺に座った彼の言葉に、ソファにもたれながら穏やかに応える先生の姿が目に浮かぶ。沈み込んだソファには先生の体温があった。
静かな時間だ。先ほどはけたたましく鳴いていた蝉の声は遠くなり、今は時折どちらかが身じろぐ衣擦れの音やページをめくる音が柔らかく聞こえる。
その沈黙を破ったのは彼だった。
「お姉さん、先生とどういう関係だったの。」
いつしまったのだろうか。彼の手元には先ほどまであった本はなかった。
私はみじろぐようにしてソファからそっと体を起こす。身体に触れていた暖かさが遠くなった。ひどくまっすぐな視線を感じて思わずうつむく。
何度も反芻した答えは逡巡する間もなく口から滑り落ちた。
「……わからない。」
先生と私の関係はいろいろな形で形容された。
養子、内縁の妻、それから愛人。
養子というのは違うだろう。私は先生を父親のようには思わなかったし、先生も私を生徒として扱うことはあっても子供と接するようにすることはなかった。
内縁の妻、というのも私としては違和感がある。先生は随分昔に奥様と死別していたから一般的に見れば一番近い表現ではあるけれど、先生の心の中にはずっと奥様がいたし、私もそれでいいと思っていた。
だからといって明確な言葉も、態度もなかった私と先生の間に愛人などという関係が成立するのだろうか。
私と先生はお互いに惹かれていたが、その感情を言葉で表すのは難しい。
恋慕であったような気も、親愛であったような、憐憫であったような気もする。
先生がいなくなった今となってはどれだけ名前を付けようとしても形容しがたくて、考えるのはやめてしまった。
確かなのは、私は先生と六年間共に暮らして、そしてその最期を看取ったということだ。
彼は表情を動かさず、そう、とだけ呟いて何かを思案するように目を伏せた。
「……お姉さんは先生のこと好きだった?」
「多分ね。」
「そう。俺も。」
「でもひどいひとだった。」
先生は先生なのに、結局大切なことは何ひとつ答えを教えてくれないまま、突然いなくなってしまった。
残された私や彼は何もわからないまま、それでも先生を置き去りにして進まなくてはならない。先生の影を追い続けることは、縋り続けることは、きっといつか許されなくなる。
けれど、だから私たちが歩けなくなったりしないように、先生はこの遺産を遺したのだろう。
彼はそうだね、と小さく言うと窓にもたれてゆっくりと目を閉じた。
私もまた、ゆっくりと後ろに重心を戻す。
つい先ほどまであったはずの温度はもう、そこにはなかった。
どれくらい時間が経ったのか。気づけば日が暮れようとしている。
私はあれ以降本を読むこともなくぼんやりと背もたれに寄り掛かっていた。その間のことはうまく思い出せない。ただ身体にも心にも、思いきり泣いた後のような気怠さが残っている。
彼がそろそろ帰ります、と立ち上がった。
「見送るよ。」
玄関を開けると窓越しに見るより鮮烈な赤色が胸を刺した。
「今日は、ありがとうございました。」
光に眉を寄せていた彼がこちらを向いて丁寧に頭を下げる。
顔を伏せた彼の表情は私からは見えない。
「俺、ここが父方の実家なんで毎年この時期に来るんですけど、家族との折り合いが悪くて家に居づらいんです。それで家出てふらふらしてるとこを先生に拾ってもらって、毎年ずっと世話を焼いてもらってました。」
少し声が詰まった。言葉の端も濡れているような気がする。
それでも彼は続けた。
「多分、先生は俺の居場所が他になかったから心配してくれたんだと思います。でもそのせいでお姉さんにまで迷惑をかけてしまってすみませんでした。」
言葉を懸命に吐きながら、更に深く頭を下げながら、徐々に身体がこわばっていく。
彼が何を覚悟しようとしているのか、私には痛いほど分かった。
「明日はね。」
わざと大きく張り上げた私の声に、彼は不意をつかれて顔を上げる。
ようやく目が合った。
不安と驚きと、それからいくつかの感情が混ざっては渦巻いている。きっとそれは私だって同じだ。
「午前中に草むしりと、午後に書庫の整理をする予定なの。手伝ってくれたら昼食の提供に加えて勉強も見てあげるけど、どう?」
めいっぱい口の端を上げる。久々に使った筋肉はかなりぎこちない動きをしているに違いない。
私がなんとか笑いかけてみせると、彼は徐々に全身から力を抜いて、もう一度頭を下げる。
そして顔を上げた彼は、先生がよくやっていたように、ゆっくりと目を細めた。
先生の遺産 立花 @suono421
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます