第37話 条約とシビアな判定
再び水没地帯へとやってきたが、ここを跳び越えなければ、俺たちはチェックポイントへ戻れない。
帰るためにも越えなければならないのは、わかっている。
わかっているんだけど、あの熱烈握手会をどう対処したらいいんだろう? 震える。
「他の調査は水没を理由に断りましょう。あとは、わたしがユウさんを抱えます」
「申し訳ないです……!!」
涙を呑んで、あさひなさんへ頭を下げる。つらい。俺、もっと強くなる……!
淡く微笑んだあさひなさんが、俺に腕を回す。そのままひょいと抱き上げられてしまうのだから、その細腕の筋肉量について切々と問いたい。
……そっか、バーチャルか。俺もいつか、こんな芸当できるようになるかな?
「行きます。しっかり掴まっていてくださいね」
「は、い、うわっ」
ワンステップで隣の屋根へ移り渡ってしまい、ぴょんぴょん、あさひなさんが軽やかに跳躍していく。
とてもではないが、人ひとりを抱えているとは思えない身軽さに、彼の玄人っぷりを実感した。
風を切る音と着地の振動。浮遊感を繰り返している最中、再び橙色の画面が警告音を立てた。
どこだと視線をさ迷わせ、水面から伸びた水柱に絶句する。水飛沫が轟音を上げて飛んできた。
被った水が重力とともにカーテン状に落下する。あさひなさんの息を呑む音が、すぐ間近で聞こえた。
そこにあったのは、白い線が寄り集まった、巨大な手だった。
たった今着地した時計塔なんかよりも太い周囲と、うぞうぞ蠢く白線。
人の胴体はありそうな太さの指が、4本に6本にぶれる。
ゆっくりとこちらへ倒れてきた手に、あさひなさんが俺を抱えて跳び退る。
時計塔を破壊することなく、二股に引き裂かれたそれを見て、瞬時に悟った。
あの白い線、一本一本が手なんだ。最初に見た、半透明のひらひらした手。あれだ。
光を弾いているのは鱗じゃない。爪だ。爪が鱗みたいに並んでいるんだ。
わかった瞬間、気持ち悪くなった。
橙色の画面が警告音を立ててうるさい。振り下ろされた手を、咄嗟に障壁を練り上げて防いだ。一面にひびが走る。
「ユウさん!!」
着地した瞬間から、ずっとあさひなさんが俺を引っ張っているのに、何故だろうか身体が動かない。
揺れる上半身と、固定された足許。
恐る恐る視線を下げると、俺の足首を白い手が掴んでいた。
いくつもいくつも、しっとりと濡れた感触に、ぞっとする。
焦燥に駆られるあさひなさんの後ろに、大きな手が迫った。
「あさひなさん! にげて!!」
彼の手を振り払った瞬間、俺の身体は水中に落ちた。気泡が頭上へのぼる様が、日差しを反射してきらきらしている。
……俺、泳ぐの苦手なんだよな。今更な悪態をついて、固く目を閉じる。
ぐんぐん水中へ引き摺り込まれ、苦しさが増す。
不意に頬へ何かが触れた。
まさか手なんじゃないか。ぞっとしながら薄目を開ける。ごぼり、大切な空気が肺から溢れた。
『 あーそぼ 』
こちらを覗き込んでいたのは、髪の長い
にんまりと笑ったアーモンド型の瞳が、ずいとこちらへ近づけられる。
逆さまに映った彼女は以前の服を着ていて、俺の頭を両手で抱えていた。
『 あなた 鬼 』
あれ? おかしいな。朔月さんはそっくりさんと区別をつけるために、髪を短くした。
服だって黒系統で、無課金の範囲内でだけど見た目を変えた。
それじゃあ、そんなの、この見た目の人物の心当たりなんて、ひとつしかない。
ごぼりっ、益々肺から空気が押し出されて苦しくなる。なのに指一本動かせない。
引き攣る内情に構わず、彼女の顔が近づけられた。
揺らめく水の抵抗など感じられないほど、すぐ傍にある。長い髪が揺蕩う。
固く目を閉じた向こうで、吐息を感じた。
……おかしい、水の中なのに。
触れるほど間近に彼女の顔が、ああ、もう触れる――
ばっしゃああああん!!!!
突然水が裂け、崩れた手が蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
ぎょっとしたと同時に、金縛りが解ける。
苦しさのまま暴れる俺から彼女が手を離し、『 あーあ 』実に人間らしい声で落胆の息をついた。
『 ばいばい 』
額に唇が押し当てられ、彼女が上へと手をかざす。その仕草に合わせて、身体が浮いた。
その後、俺が溺れかけたことをお知らせしよう。
服が絡んで重たくて、あっぷあっぷしていたところを、あさひなさんに助けてもらった。
女の子でなくても惚れる。命の恩人だ。
この間橙色の画面は、『ライフセービングについて』だとか『海難救助とは』の画面を開くだけで、俺の命を守ってくれることはなかった。
八つ当たり気味に画面を叩く俺を、あさひなさんが心配そうな顔で見ていたのだから、なおのことつらい。
俺にしかこの画面見えてないんだったよね……。気でも触れたのかと思われたのかな……。
ぐすぐす泣きじゃくりながら、地面にへたり込む。
俺もあさひなさんも、びしょ濡れだ。時間経過で乾く仕様とはいえ、この不快感はお風呂一直線だと思う。
「ユウさん、大丈夫ですか……?」
困り果てた顔で、あさひなさんが俺の背を撫でる。
「ううっ、あさひなさん、あれ、どうやって倒したんですか……?」
「全力で叩き切ってみました」
「……はい?」
そんな「強火にしてみました」みたいな感じで、水って切れるんだ?
顔を上げた俺に、あさひなさんがにこりと笑みを浮かべる。
とてもきれいな微笑みだった。濡れた髪がいつもと違う色気を連れてきて、かっこよさを乗算させている。
「ユウさんの手を離してしまった自分があまりに情けなく、衝動のままに叩き切りました」
いえ、手を振り払ったのは、俺です。すみません。
「ユウさん、もう二度と無茶はしないでくださいね」
「……はい」
こくこく、何度も首を縦に振る。
あさひなさんの全力が恐ろしい。彼でランキング外なんて、うそだ。絶対うそだ。強さの基準がわからない。
「そうだ! 聞いてください、あさひなさん!」
はたと思い返した、水中での出来事。朔月さんのそっくりさん、恐らく彼女が『 nil 』だ。
俺のど下手くそな説明を、あさひなさんが真摯に聞いてくれる。精一杯彼に何があったかを話した。
「それで、……最後に、……おでこに、……ちゅうを……」
「は?」
口ごもりながら、自分の額を両手で押さえる。俺はこの現象に、どう反応すればいいんだろう?
見た目は朔月さんで、中身は怪現象。
碌に女の子と付き合いのない憐れな男子高生は、突然のキスに怯えればいいのか、喜べばいいのか?
とにかく顔が熱くて仕方がない。恥ずかしくてたまらない。ファーストおでこちゅーが怪現象と……?
あ、やっぱりこわい。心臓が別の意味でどきどきしてきた。
「……そうですか。おでこ。へえ、おでこ。……はい」
何やら不穏な空気を纏って呟いたあさひなさんが、俺のおでこを袖で拭い出す。
いたっ、いたいです、あさひなさん! 摩擦いたいです!
「ユウさんの可憐な額に? いたいけな純情が弄ばれたと?
美少年とのたわむれは、相手の許可が下りて始めて成立するものですよ? それを一方的に? 条約違反では?」
「あさひなさん!? 条約ってなに!? お願いです、正気に戻ってください!」
「それもこれも、あのときわたしが手を離してしまったがばかりに……ッ。次に遭ったときに叩き潰します。
さて、ユウさん。お疲れでしょう。わたしが運びます。じっとしていてくださいね。なにせデートですから。ええ、デート。これはデートです」
「ひえっ」
あんなに恥らっていたデートの単語を淡々と繰り返し、あさひなさんが俺の背中と膝裏に腕を回す。
ひょいっと持ち上げられたそれはいわゆるお姫さま抱っこで、けれども抵抗するには空気が禍々しかった。
それから俺は自力で一歩も歩くことなく、第9サーバーへ帰還した。
俺たちの様子を目の当たりにした一瀬さんが、「こいつめんどくせぇ地雷持ってんなー」といった顔をしていたのが、心に響いた。
深刻なエラーが発生しました ちとせ @hizanoue
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